いきなりの自己紹介だが、私はジャック。
酔狂な真似ばかりしていることからどこかの詩人がつけた、ジャック・ザ・レイバーロード、
つまり狂乱の君主ジャックというあまりありがたくない二つ名を名乗った方が通りがいいかもしれない。
数え上げるのも馬鹿馬鹿しいくらいにレベルが高い上、ミキサータイプではないソードタイプのカシナートの剣、
君主の象徴でもある聖なる鎧、強力な防護魔法がかけられた支えの楯に、いざという時のための転移の兜、
気品と頑強さを両立させた銀の小手に、聖職者の装身具としてはこれ以上のものはない破邪の指輪を装備し、
私が装備することは決して適わぬもののドレイン回避用に手裏剣まで携帯した、たぶん当代最強の君主だ。
ちなみに、同じ楯でも守りの楯を選ばなかったのは単なる洒落っ気という奴だから気にしないで貰いたい。
私は数年前までは村正を装備した当代屈指の侍だったのだが、ある時、私自身に充分な技倆があれば
別に村正でなくとも、極論すればただの長剣でも相手を斬殺、或いは撲殺する上で何らの不自由もないことに気づいた。
そして私は、私以外の仲間が全滅したことによって過剰な殺傷能力には何の意味もないことを悟った。
必要なのは、守るための力だったのだ。
幸いなことに私は善の戒律を奉じていたため、聖なる鎧が持つ防御力と神の加護、そして瀕死の重傷すらも完治させ、
友の死すら撥ね退ける僧侶系呪文に惹かれて、闘う者たる侍から守る者たる君主へと転職したのだった。
本来ならば私の武勇伝を詳細に語り、ゆくゆくは伝承歌の一節にでもして貰いたいところなのだが、
流石にそれは気が引ける。と言うより、ゆっくりとそんなことをしている暇はない。
最高の騎士であることを自負する私といえども、強大な魔力と身体能力で知られる悪魔族のみが
跳梁跋扈するこの魔城において単身、時を過ごすことが一体どれほどの危険を伴うのかは言うまでもない。



私は観音開きの扉の前に立ち止まった。この扉は精緻極まる装飾がなされていて外面だけは美しいが、
所詮は魔界の建造物の一部だ。美しさの中にもどこか人間の感性を蝕む異質な価値観が反映されている。
これだけでも、悪魔という存在が我々の世界に存在していてはならないものだということがわかる。

私は鞘に収めていたカシナートの柄にかけた手に力を込めつつ、中に潜む者達の気配を感じ取った。
侍としての気を読む能力は喪失する代わりに、君主としての邪悪と不浄に反応する独特の感性を手に入れ、
熟達の戦士として肌で戦場の様子を感じ取る感覚を再び手にした私だ。
扉一枚隔てただけの場所にいる悪魔達の数とそれぞれの実力を看破する程度のことは造作もない。
「ふん、ネザー級、アーク級が一体ずつ、グレーター級が四匹、それからどうでもいい雑魚が十二匹か」
なかなかに骨がありそうな相手だった。
ネザーデーモンによる致死性のブレス。アークデビルによる致死打撃。
グレーターデーモンによる麻痺攻撃。雑魚共による呪文の集中砲火。
対応を誤ったらいかな私と言えども死ぬかもしれない程度には強力な攻撃を繰り出してくる部隊だ。
だが、その程度のことに臆する私ではない。その程度で臆するような私ならば、魔界の者共による人間界侵略の
野望を挫くため、その前線基地と目されるこの魔城に単身乗り込むような無茶としか言い様のない真似は端からしない。
名誉や財宝、自己修練のためならば、もっと他に幾らでも安易な道があるからだ。
私がこの城に単身挑む理由は、この世界を蹂躙する策謀が存在し、
そのすぐ近くにそれを打ち破ることができる私が存在したからという、ただそれだけのことだった。
もっと簡単に言えば、山があるから登るのだというだけのことだ。

私は腰に佩いたカシナートを騎士道物語の英雄の如く勇壮に抜き放ち、正々堂々と名乗りを上げながら扉を蹴破った。
「聞け、悪魔達よ! 我が名はジャック。あるべき世界に還るその手伝いを、この私がしてやろう!」
私はたとえ相手が騎士でなかろうと、もっと具体的に言ってしまえば悪魔であろうとも、決して不意打ちなどしない。
それがかつて奉じた武士道にも、現在奉じる騎士道にも反する行為であるからだ。
「ほう、お前が名高きレイバーロードか。だが、中途半端な神の加護を得て慢心したか聖騎士よ。
 数多の強者と戦いしお前といえども、たった一人ではどうしようもあるまい。
 人間風情がたった一人で我らを相手に戦えると思ってか?」
「かのレイバーロードといえど、戦友達の助けなくして我らに敵うものか。
 簡単に斃れて我らを退屈させるでないぞ、狂乱の君主よ」
広間の中心に佇んで私に嘲笑を向けたのは場の上位者であるネザーデーモンとアークデビルだった。
その他の論評するに値しない有象無象達は聞き苦しい喚き声を上げて騒いでいる。
恐らくは主人達に追従して笑っているのだろう。
傲慢極まる態度だったが、今、私の眼前に佇んでいる悪魔達がどのような存在であるかを考えれば、その態度も納得がいく。
何しろ、ネザーデーモンとアークデビルといえば魔界でも支配層に当たる階級で、そこに属する者は神話にすら登場するほどの存在ばかりだ。
遭遇の機会は滅多にないが、万一を想定して対策を練っておいて損はないほどの実力を持っている。
私のような人間など、彼らからすれば虫けらも同然と断言しても決して過言ではないだろう。
だが、私も常人では有り得ないし、凡百の冒険者でも有り得ない。何と言っても私は当代最高の君主ジャックなのだ。
ネザーデーモン、アークデビル、マイルフィック、ヴァンパイアロード、フラックなど、名だたる怪物達との戦いを経験し、
かつての仲間達が次々と命を落としてきた中で唯一生き残った、人間としては恐らく最強の部類に属するであろう男だ。
余程の失敗をしない限りは、この程度の相手に敗北するものではない。
「その傲慢が命取りになるぞ、大いなる悪魔達よ……」
私はカシナートを構えたまま瞑目し、呪文詠唱の態勢に入った。詠唱速度には自信があるから、割り込まれることはないだろう。
「ふっ、抜かしおるわ」
幸いにして、悪魔達は自身が持つ強大な魔法障壁に過大な信頼を置いているようで、私の詠唱を妨げようとすらしていない。
その機に乗じて、私は大いなるハマンの呪文の詠唱を開始した。
「何だと、その呪文は……!」
「馬鹿な。くだらぬ神に仕える者にその呪文を使えるはずが……ええい、止めよ。者共、奴の詠唱をやめさせるのだ!」
流石に大悪魔だけのことはあり、詠唱の頭の部分を聞いただけでその正体を看破してきたが、もう遅かった。
私の詠唱は、悪魔達が飛びかかってくるよりも、或いは攻撃呪文の詠唱を終えるよりも早く完成した。

「………!」
大いなるハマンは魔物達を岩塊に転移させる奇跡を授けてくれることこそなかったが、蘇生や回復といった無意味な奇跡を私に授けることもなかった。
ハマンを通して神が私に授けたのは、魔物達を沈黙させる奇跡だった。
代償として力の一部が身体から流れ出ていくのがわかったが、私ほどの高位に達すれば一回どころか数十回のハマンであってもさしたる消耗とは感じない。
私にとってハマンとは、侍時代から通して単なる便利な魔法に過ぎなかった。
「呪文の使えぬ悪魔など、最早赤子に等しい。正義の刃を受けてみよ!」
突然に強いられた沈黙に下級の悪魔達どころか大悪魔達ですら驚愕している間隙を利用し、私は剣を振りかざして疾駆した。
私が魔術師だったならば悪魔の魔法障壁ですら無効化不可能なラカニトの呪文を使うところだが、私は剣に生きる騎士だ。
呪文を行使できなくなった相手に対してこれ以上の呪文攻撃を行うことは私の主義に反する。
「これが人間の力というものだ!」
これといって特殊な効果があるわけでもないカシナートも、私の超絶的な技倆と聖なる鎧による加護があれば、
グレーター級の悪魔程度ならば一撃の下に両断してなおあまりある破壊力を発揮する。
また、やはり私の超絶的な体捌きがあれば悪魔達の鈍重な一撃は掠りもせず、万が一直撃を受けたとしても
各種防具の頑強な装甲によって全てを無効化できる。億が一手傷を負ったとしても、聖なる鎧が即座に癒してくれる。
呪文の使えぬ悪魔を相手に行う近接戦闘で私が後れを取る道理がない。
生きている者が私と二体の大悪魔だけになるのに、さして時間はかからなかった。
「大悪魔達よ。傲慢の報いを受け、あるべき場所に還るがいい」
鋼の甲冑をも叩き潰すアークデビルの豪腕を掻い潜ってネザーデーモンに接近し、私は致死の吐息を吐き出そうと
開かれた奇妙に蠱惑的な唇を顎諸共に斬り砕いて未発に終わらせて、返す一撃でその細首を刎ね飛ばした。
豪奢な絨毯の上に首から血を噴き出させた胴体と何が起きたか理解できていないといった表情を浮かべた頭部が転がり、
血が絨毯に沁み込む間もなく塵となって消滅する。

「……!?………!…!」
支配階級にある仲間が容易く葬られたのを見たアークデビルが、声にならない叫びを上げて突撃してくる。
その目にあるのが死への恐怖か仲間の死に対する憤激かそれとも悲嘆かは、残念ながら私にはわからない。
私にわかることはただ一つ、この大悪魔を葬り去るか私が死ぬかのどちらかでしか戦いが終わらないことだけだった。
「魔界に還れ、忌まわしき異邦人よ!」
まともに受ければ流石の私も危うい豪腕を、相手に敬意を表する意味も込めて楯で受け止めた。
衝撃を殺しきれずに腕が痺れたが、怪我というほどのものでもない。
痛みと痺れを気にせずに、全力の一撃を私に受け止められたことによって体勢が崩れたところに、
竜のそれかと錯覚しそうになるほど太く逞しい首に向かって、グレーターデビルと同じく全力の斬撃を見舞った。
一瞬の攻防だった。
その一瞬の交錯でグレーターデビルの首が宙へと舞い上がり、筋骨隆々たる巨躯が首から血を噴き出しながら
重い音を立てて絨毯の上へと倒れこむ。
だが、ネザーデーモンと同じくその屍は血が絨毯に沁み込むほどの時間さえ、現世に存在し続けることができなかった。
頭部が地に落ちる前に塵となって消え、それを追うかのように胴体が崩れ去った。
「……しかし、こいつらも支配階級の端くれには違いない。それを従えるとは、一体どれほどの大物だ?」
通常、山よりも高い矜持を持つ悪魔達は余程の力の差がない限りは他者に従うことがなく、
その傾向は高位の悪魔になるにつれて顕著になっていく。
そのことから、この魔城の城主は想像を絶する力の持ち主だと考えられる。
この広間の位置と城の構造から考えてここを抜けた先には玉座の間があるはずなのだが、さて、進むべきか退くべきか。
各レベルの呪文使用回数はほとんど残っているから問題ないが、私は既に半日以上も魔界の瘴気漂う城内にいた。
体力や魔力の消耗とは別に、精神が自覚しているよりも蝕まれている可能性がある。
集中の途切れかけた戦士の脆さは誰もが知っているところだが、さてどうするか。



「……ふん、迷うとは私らしくもない。私は既に仲間と共に死んだ身。今更、死を恐れる必要などないではないか。
 人間界征服を担うほどの大悪魔と刺し違えるのも、また一興というものよ!」
結論はすぐに出た。いや、最初から出ていたのだ。私はそれを確認しただけだった。
私は痺れが残る左腕にディオスをかけてから、迷いのない足取りで真っ直ぐに広間を抜けた。
広間を抜けた先には豪奢な彫刻がなされた柱が建ち並ぶ大回廊があったが、ここばかりは城主の領域として
認識されているのか、玉座に至るまでの道を妨害する悪魔は存在しなかった。
「……凄まじい、妖気だな。ここか」
大回廊をしばらく行くと、巨人族が出入りできそうなほどの大扉に突き当たった。装飾の豪華さや位置から
考えて、ここが玉座の間に相違なかった。お誂え向きに、内部からはこれまでに私が遭遇した誰よりも禍々しい
妖気が発せられていた。
内部にいるのは一人。種族その他は不明。実力は私と同程度かそれ以上。ただし、今の私とかつての仲間達が
力を合わせれば苦戦はするだろうが間違いなく勝利できる。
「我が名はジャック。故あって貴様の首を貰い受けに来た!」
私は全身全霊を込めて大扉を蹴りつけた。金属が軋む耳障りな音を立てながら、ゆっくりと扉が開いていく。
「女だと!?」
玉座に腰掛けていたのは、私が想像していたものとはまるで違った。
「あらあら。ここまで一人で来るなんて大したものね、ジャック・ザ・レイバーロード」
王侯貴族もかくやと言うばかりの気品と美しさを持ってそこに在ったのは、一人の美女だった。



「貴方の勇名は寝物語に何度も聞いたわ」
女は突然に乱入してきた完全武装の騎士に怯えた様子も驚いた様子も見せず、それどころか忠勇なる騎士を
褒め称える女王のような態度で、莞爾として微笑んだ。
その妖艶さと清純さが絶妙の配分で表れている美貌。天下の名工が「美女」という題で作品を作るにあたって、
最高の道具を使い、最上級の石材を用意し、一生涯をかけて彫り上げたとしても決して及ばないだろうと直観的に
思わせ、男の情欲に訴えかけてくる美麗なるも淫靡なる裸体。
このようなものが人間の美であるはずがなかった。
私は女が持つ底知れぬ実力に微量の恐怖を覚えつつ、カシナートを握る手に力を込めた。
「デーモンクイーンなる階級が存在するとも聞く……なるほどな」
魔王と対を成す魔女王が相手ならば、私が思わず圧倒されかかってしまうほどの妖気を放っていても不思議ではない。
何らの魔力を用いることなく、ただそこに在るだけで男を魅了する美と堕落の極地とも言える肉体にも疑問は湧かない。
「え……? デーモンクイーン? やめてよ。私をあんな年増女と一緒にしないで。ほら、貴方も知っているでしょう?
昔は綺麗だったデーモンクイーンが、今では更年期障害と欲求不満で喚き散らすだけのオバサンだってこと」
女は一瞬だけ不機嫌そうな表情になったが、そのデーモンクイーン本人のことを思い出したのか艶然と笑う。
憂いを孕んだ不機嫌そうな表情も、男を誘い込む妖艶な笑みも、どちらも凄まじく魅力的だった。
だが、そんなことはどうでもよかった。深い疑問が浮かぶ。この女は一体何者なのだ。
「貴様は一体何者なのだ? いずれ名のある悪魔には違いあるまい?」
今初めて、私は底知れぬ恐怖とえも言われぬ快感に襲われた。
私は誰一人として知る者のない大悪魔と相対しているのかもしれない。伝説に語られる勇者の如く。

「ジャック・ザ・レイバーロード。悲しいわ。私は貴方のことなら何でも知っているのに、貴方は私のことなど全く知らない」
女は悲しげに微笑んだ。まるで演劇における恋する乙女役のような芝居がかった口調だったが、不思議と女が
本当に悲しんでいることが理解できた。
もしかして、私に名を知られているというのが悪魔にとって一種のステータスであるというようなことでもあるのだろうか。
「知る由もない。知遇を求めるならば、名乗るがいい」
悪魔の名や階級、種族名などの情報が入れば、それだけ戦術の組み立ての幅が広がる。
実力が拮抗している上に私のことを全て知られているというのなら、私も相手のことをできる限り知らねばならない。
「本当に、私のことを知らないのね……悲しいわ。私はサキュバスよ。名前は……そうね、マリアとでも呼んで貰おうかしら」
サキュバス。悪魔としてはそれほど高等な部類ではないが、とにかく淫蕩と美貌で名高い種族。この圧倒的な色気も納得できる。
だが、なぜサキュバス如きがデーモンクイーンと紛うほどの妖気を放っているのか。私にはそれが疑問であり、恐怖だった。
「ふん……マリアか。ありふれた名だ。私が知っているだけでも十人はいる。聖母を貶めるためだけに名乗っているのか?」
だが、私はそれを表面には出さないように努め、相手を挑発して少しでも冷静さを殺ぐために軽口を叩いた。
傲慢な悪魔達はちょっとした挑発で冷静さを失うから、この艶然と佇む美女も例外ではないだろう。
「自分の名前を棚に上げてそんなことを言うなんて、やっぱり貴方は面白いわね」
肩透かしを食らった気分だった。女は激昂することもなければ不快感を覚えた様子もなく、ただ楽しげに笑みを浮かべただけだった。
どうにも調子が狂う。これ以上の会話は私にとって害毒になりこそすれ、決して有益にはならない。
「……これ以上の会話に最早意味はない。戯言の時間は終わりだ」
私はカシナートを正眼に構え、サキュバス・マリアが動くのを待った。構えてもいない相手、しかも女を斬るのは主義に反する。

しかし、サキュバスは動かなかった。ただ悠然と玉座に背中を預けているのみで、一切の変化がない。
「何をしている。拳を構えろ。呪文を詠唱しろ。なぜ動かない!?」
私は苛立ちを覚え、だがそれでも不意打ちに対応できる程度の冷静さを保ちながらゆっくりと玉座へと近づいていった。
一歩、二歩、三歩。私は徐々に速度を上げながらサキュバスに迫っていく。
サキュバスは動かなかった。私が玉座の前に立ち、鈍い光を放つカシナートの切先を眼前に突きつけても、サキュバスは動かず、笑みを崩さなかった。
「貴方こそ、なぜ剣を構えているのかしら?」
「なぜ……だと?」
質問の意図が今一つ理解できず、私は言葉に詰まった。鸚鵡返しに問い返すくらいしかできなかった。
「貴方は善の戒律を奉じているのでしょう? なぜ、戦う意志を持たない相手に刃を向けるの? 理解に苦しむわ」
サキュバスは本当に理解に苦しんでいるような顔つきで、私のことを真っ直ぐに見上げてきた。カシナートの切先に恐怖も示さずに。
「戦う意志を持たない、だと? 馬鹿なことを言う。貴様ら悪魔が真に人類に友好的であったことなどない」
私を撹乱する意図があるのだとしたら、それは失敗たと言うほかはない。駆け出しの者ならばともかく、私はその程度で揺らがない。
小細工が無意味であることを教えるために、突きつけた剣先を淫蕩な美貌に軽く押し付ける。力は加減しているので、斬れることはない。
「信じられないのならば殺せばいいわ。戦う意志を持たない者を殺したと、貴方の内なる戒律が崩壊してもいいのなら」
押し付けられた剣先に対する恐怖は見せず、しかし悲しげにサキュバスは言う。善の戒律を奉じる者を惑わすための策略ならば
看破された悔しげな表情を浮かべるはずなのに、なぜ信じて貰えなかった者特有の悲しげな表情を見せるのか。
「……話を聞こう」
しばしの葛藤ののち私は剣を引き、静かに鞘に納めた。
もう駄目だ。これが演技なのかそれとも真実なのか、その判断が私にできない。
これが真実であるかもしれないと思う私がいる以上、私にこの剣を振るうことはできない。
もし騙されているのだとしたら、それは私の不敏と戒律ゆえのものと諦め、大人しく死を受け入れよう。

「ジャック・ザ・レイバーロード。話すことなどないと言ったのは貴方よ。責任を取るべきではなくて?」
サキュバスは立ち上がると少し背伸びをするようにして私の首に腕を回し、身体を預けてきた。
聖なる鎧は鎧と言いつつもその実布製なので、密着してきたサキュバスの豊満だが引き締まった肉体が私の身体に触れて変形する感触がしっかりと伝わってくる。
少女のような無垢な肌から抗いがたい官能的な女の匂いが薫ってきて、悪魔を相手に劣情を催してしまう。
私からも行動することだけは辛うじて免れたが、その自制心もどこまで保つものか全く疑問だ。
私の負けだった。サキュバスとの戦いにおいて、密着状態で欲情することは死を意味する。
エナジードレイン抵抗効果がある手裏剣を携帯していようとも、その圧倒的な性的魅力には対抗することができない。
色気に圧倒されている内に嬲り殺しに遭うか、腎虚で死ぬかだ。
「恨みはせん……悪魔を信じた私が愚かだったのだ」
私は静かに目を閉じ、淫蕩なサキュバスが次の行動に移るのを待った。
最期は潔く迎えるということは、ある意味で武士道の集大成とも言えることであって騎士道の集大成ではないが、
負けた上で見苦しく足掻くのが褒められたことではないということだけは確かだ。
「……どうした?」
いつまで待ってもサキュバスは何もしてこない。ただ、静かに私の身体を抱き締めているだけだった。
もしかしたら私を嬲っているつもりなのかもしれないが、それにしてもやりようというものがありそうなので、疑問に思って問いかけてみる。
「ジャック・ザ・レイバーロード。貴方ってとんだ朴念仁ね」
私の当然の疑問に対して、サキュバスは呆れたような溜息をついた。
言っていることの意味がよくわからないのだが、これは私が悪いのだろうか。
「男と女が二人きりで、話す以外にすること。ちょっと考えればわかりそうなものよ。もしかして、私って魅力がないのかしら」
サキュバスがどのような行為について説明しているのか、わからないわけではない。問題なのは、その真意だった。

「それはつまり、私の命を奪おうということなのだろう? それとも、私が自ら堕落するのを待っているのか?」
もしそうなのだとしたら、サキュバスが想定している以上の時間を耐え抜くことでせめて一矢報いてやりたいものだ。
「あら、心外ね。そんなつもりじゃないわ。私はただ、貴方と一夜を共にしたいだけ」
私の胸元に頬擦りしているサキュバスが、綺麗に整った爪と指先で私の首筋を撫でる。
男の身体のどこが弱いのかを知り尽くした手つきで触れられたその快楽のあまり、私は情けなくも吐息を漏らしてしまった。
「ん……取り繕っても、無意味だ。サキュバスとの交わりが死を意味することを知らぬ者などいない」
「大丈夫よ。貴方は手裏剣に守られているもの。私が幾ら精気を吸おうとしても、出てくるのは精液だけ」
サキュバスは淫靡な笑みを浮かべ、その繊手で私の怒張しきった男根を聖なる鎧の上から撫でさすった。
「ふふふ、こんなに大きい……大分溜まっているみたいだから、貴方にとっても好都合ではなくて?」
「こ、こら、触るな……! やめろよせ!」
「あら、触るくらいいいじゃない」
溜まっているというのは事実だった。何しろ、私は君主となって以来、女に触れていないのだから。
そんな状態でサキュバスになど触れられたら、それだけでも凄まじい快感になってしまう。達するのも時間の問題だろう。
流石に服の上から撫でられただけで達してしまうという不名誉は耐え難く、私はその手から逃れようと身を捩ったが、
サキュバスが面白がって余計に触れてくるだけだった。仕方がないので、私はその手を掴んでやめさせた。
「ねぇ……お願いだから私のことを抱いて頂戴……私のことを抱いてくれたら、私のことを好きにしてもいいから……」
手が使えないのなら今度は口だとばかりに、サキュバスは潤んだ瞳で私を見つめてきた。

「ねぇ、私と貴方が戦ったら、どちらが勝つかわからないわよね?
 それなのに戦うなんて、馬鹿馬鹿しいとは思わない?
 それくらいだったら、どちらも死なずに済む上にどちらも楽しめるセックスの方がいいと思わない?
 そうして目一杯楽しんだ後で、貴方は私にこう命令すればいいのよ。今すぐ死ねだとか、魔界に還れだとかね。
 信用できないのなら契約書を書いてもいいわ」
サキュバスは肉感的な身体を擦りつけてきながら、私に懇願している演技をしていた。
目に涙を浮かべ、必死に縋りついてくるその様はともすれば本気で私に抱かれたがっているのだと錯覚してしまいそうになるが、私は必死に自分を抑えていた。
「どうして私のことを抱いてくれないのかしら?
 貴方が侍だった頃、押し売りの娼婦……マリアを抱いたじゃない。それなのに、どうして私は駄目なの?」
私の全てを知っていると豪語するだけあって痛いところを突いてくる。だが、買ってしまった理由はきちんとあった。
まだ幼さの残る顔立ちのその少女は、母親の薬代を稼ぐために自身の処女を競売にかけて売ろうとしていたのだ。
悲痛な面持ちでその場に臨んだ少女を憐れに思った私は他の下種な男共を押し退けて少女を落札し、何もせずに解放しようとした。
だが、少女はそれでは申し訳ないと言い出して、押し問答の末に抱いてくれないのならば命を絶つとまで言ってきた。
丁度、今のサキュバスのような目をして。
そこまでされて無碍にすることなど私にはできなかったし、何よりその少女は命を懸けている者の目をしていた。
断りきることなどできなかったのだ。
「貴様とあのマリアは違う。彼女は親のために涙を呑んであの場に臨んだ。
 だが貴様はただ淫蕩な欲望で私に迫っているに過ぎない」
私の心の中にある美しい思い出が踏み躙られているようで不愉快だった。
 善の戒律さえなければ、と心の底から殺意が湧き上がってくる。
「……わかったわ。その可哀想な子と私を同列に語るのはやめるわ。だからお願い。私を抱いて」
サキュバスの証としてそれ単体でも劣情を刺激できる瞳から涙を零し、マリアは私に縋りついてきた。淫蕩な肉の感触が伝わる。

「くっ……わかった。抱いてやる」
縋りついてくる淫蕩な肉体によって遂に自制心が崩壊してしまったこともあるが、
涙と必死さ以外に共通点のないサキュバスの態度になぜか記憶の中のマリアを連想させられてしまったことも理由としては挙げられる。
「ただし、契約書は書け。私は貴様を信用していない。早くしろ。急げ」
これが私の自制心の限界だった。一旦理性が崩壊を始めると全壊に至るのは想像を絶するほどに早い。
今ならば、悪に染まった歴代の英雄達の精神状態の一端くらいは理解できる。
「ふふふ、私の魅力に気づいてくれたのね。嬉しいわ。もう、急かさないで。間違うちゃうでしょう?」
聞き分けのない子供をなだめるような笑みを浮かべたマリアが、どこからか取り出してきた契約書に
「行為中に攻撃をせず、行為後は命令に従う」
旨を記載する間が物凄くもどかしかった。早く書き終えろと、私は何度も何度も急かした。
「書き終わったわよ。確認して……いいのね? これで契約成立……んむぅふっ……!」
契約書の文面を情欲によって飛躍的に高められた集中力で一瞬の内に確認した私は、艶然と微笑むマリアの言葉を最後まで待たずに口付けた。
口付けた瞬間、サキュバスは驚きで身を強張らせたものの、流石はサキュバスと言うべきか自ら唇を開いて私の舌を受け入れた。
荒い息をついて互いに互いの身体をまさぐりながら、舌と舌を絡め合う。
唇に柔らかく触れてくる唇。舌にねっとりと絡みついてくる弾力に満ちた舌。
舐めることで愛撫を加えているはずなのに、いつの間にか私を愛撫している歯列。
一見無造作なようでいてその実丹念に行われる人外の性技による愛撫に、私は翻弄された。
そして口と口、舌と舌を触れ合わせることによって否応なしに流れ込んでくる、馥郁たる香りと豊潤な味わいの唾液。
爽やかでいて濃厚。濃厚でいて爽やか。甘くありながらも苦い。苦くありながらも甘い。私はたかが唾液に魅了されてしまった。
砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、サキュバスの唾液を味わうことしか考えられない。
自然に流れ込んでくる分だけではとても満足できず、接する角度を変え、舌をより深くに潜り込ませ、啜り上げる力を強め、
積極的にサキュバスの淫らな唾液を口内に取り込んで喉を鳴らして飲んでいく。喉越しも最高である。





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