雪は思った通り硬かった。着地の衝撃が伝わり、体中の骨が軋んだ。
ワンテンポ遅れて、俺は地面を転がった。
「ああああっ!」
痛っえ、ちくしょう、痛え! くっそ、痛くても走れこのやろう!
まだ呪文がきいてる今なら動けるはず。俺は四つん這いになりながら何歩か歩いた。
足のことは今考えるな。足の様子を見たらもう動けなくなる。頭上から宿屋の親父の
奇声が聞こえた。
恐怖で頭がいっぱいになり、俺は両足で立って夢中で駆け出した。
痛いのかどうなのかすらもうわからなくなっていた。幸い人はいなかった。ごみ箱の上に
いつも陣取っている乞食共もいない。サボり魔の見張りの姿もない。神に感謝だ。
俺は何も考えず宿屋の裏口に飛び込んだ。
俺はポコチンおっ勃てたままA Cotの廊下を全力疾走した。目を剥いて短い悲鳴を
上げる同業者共をかき分け、最奥の自室に飛び込んだ。その時になって俺はくノ一の
部屋から錆びた短刀を持ち出していたことに気がついた。投げ捨てるように短刀を
ベッドの下に滑り込ませ、俺はすぐさま忍び装束を脱ぎ捨ててローブの紐を緩め、
大急ぎでマスをかいた。体の痛みよりも、こんな体たらくになりながら
まだ勃起し続けている俺の一物に心底恐怖していたからだ。
猛烈な勢いでしごいてるのに、びくともしない。全然収まらん。性欲なんてとっくに皆無だ。
鈍い感覚だけで俺のブツはおっ勃ったまま一向に収まる気配がない。ああ思いついたぞ。
俺はすぐベッドの下に手を伸ばした。ケース買いした解毒剤の在庫が二箱ある。
俺はすぐに二本分を一気飲みした。足の激痛と吐き気に耐えながら、飛んだりはねたりして
体に解毒剤がまわるようにしたが、何も変わらない。
俺はすぐに汚物用の桶を探した。机の下においてあった汚物桶に急いでかがみ、
指を喉の奥に突っ込んで胃を裏返すようにして咳き込んだ。薬草の悪臭が喉に
せり上がってきた。俺は勢いよく吐いた。胃が空っぽになるまで、なんとか中身を
すべて絞り出した。追加の解毒剤をもう二本飲んだ。一物にも解毒剤を擦り込んでみた。
症状は変わらない。
どうする、俺どうする、いやもう考えてる時間はない。俺は転送屋のベランの部屋に
向かった。俺が依頼できる一番腕のいい治療師はこいつしか居ない。一物おっ立てて
ぎくしゃく歩く俺を、同業者共がやばいやつを見る目で見つめてきたが無視だ無視。
ドワーフの部屋の前ではベランと同室の、呪われた得物を片手に吸い付かせた
“左右コンビ”が薬もビールもやらずにめずらしく廊下でくっちゃべっていた。
ホビットのマイクと、ノームのダーだ。
ダーは俺が近づいてくるのを見ると「おう、ういぃ?」という素っ頓狂な声を上げた。
俺が部屋に入ろうとすると、二人は慌てて俺を止めに入った。
「あ、あんた、今はちょっと、あー取り込み中だぜ」
「うるせえ今それどころじゃない」
「ああ! 旦那だめ、今入っちゃだめ」
血相変えて止めるマイクの静止を振り切って、俺は無理やり転送屋のベランの
部屋に駆け込んだ。
「誰だ!」
すぐさまドワーフの怒号が飛んだ。俺は飛び込んだ部屋の中で固まった。
ベランは裸でベッドの中にいた。それで、その、相手もベッドの中にいた。
二人は真っ最中だった。一瞬たじろいだが、もう破れかぶれになっていた俺は裸で
シーツに包まっている二人の前で身を投げ出しながら叫んだ。
「頼む、たすけてくれ!」
* * *
「あんたふざけないでくれ、時と場合をわきまえろ」
はい。もう仰るとおりです。ベッドの中に二人がいる状態で、俺はローブを
はだけさせ、一物をおっ勃たせたまま顔から出せる汁を全部出しながら、
一方的に症状を訴えた。話していくうちにだんだん冷静になってきた。
やっと全部伝え終えた俺はベソかいたまま床に頭をぶつけて丸まった。
「後ろ向いてくれないか。サーシーに服を着させてやりたい」
顔面鼻水まみれの俺は床に座ったまま後ろを向いた。
転送屋のベランには協力者がいるっていうのはなんとなくわかっていた。
そりゃあそうだ。LOKTOFEITを使った外法解呪をするには金を預かる金庫番と
組まなきゃいけない。相方が誰かなんて、ベランは決して口外にしたことがない。
考えてみりゃサーシーなら金庫番に適任だ。近づいてくる奴はあまりいない
だろうな。二目と見れない御面相だし、昼も夜も延々唱え続ける詠唱は
A Cotにおける環境音楽として悪い意味で評判で、おまけに気が触れている。
あくまで噂だけだったようだが、こういう“噂”はサーシーにとって良い隠れ蓑に
なったんだろう。金を守るにはうってつけの立場だ。
「もういいですよ。着替えました」
俺は二人に向かって振り向いた。奇声も発さず、目の焦点も合っている
サーシーを見たのは二年ぶりだった。顎がぶっ壊れて舌がずるりと垂れだして
いるはずのサーシーの顔はすっかり治っていた。
「え、あえ、え」
馬鹿面さらしている俺に、ベランが言いにくそうな声で説明した。
「サーシーはおれのビジネスパートナーなんだ」
なるほどビジネスだけじゃなくて、あっちのほうでもパートナーなんだな。
ベラン、朴念仁だと思ってたのに……仲間だって信じてたのにこの野郎。
「この前の仕事でやっとまとまった金ができた。良い機会だから、腕利きで
評判の医者になんとかしてもらえたんだ」
「まだ舌がここにあるのが慣れてなくて」
サーシーは舌をペロッと出してはにかみながら答えた。
いかん。性欲は枯れ果てたはずだが、このサーシーの声と顔は良くない。
おかしいなひょっとしてまだいけるのか俺。今はまずいって。ちょっと舌っ足らずに
なっているのもまた余計まずい。ゆるくウェーブしたブルネット、小作りで形の良い
目鼻立ち、琥珀色の瞳に優しそうな声。
ああまずい、なんか出そうになったらどうしよう。
……というかお前らいつの間にそういう中になってんだよ。
「まずは怪我の治療をしよう。あんた体中おかしいぞ」
言われた途端に、足の感覚がまともじゃないことを思い出した。それどころか
全身が痛いことに気がついた。腰から下は普段の倍に膨れ上がっている。
後でわかったが、背骨と骨盤にもヒビが入っていた。耳は遠くなっている。
割れるように頭が痛い。俺は情けない声を出して床に転がった。
俺は自室のベッドに運ばれた。同業者が何人も手を貸してくれた。気がつけば俺の部屋は、
俺の同業者やらご近所やらで信じられないほどすし詰めになっていた。
ベランの呪文の連唱で、俺は一命をとりとめた。もうベッドに一人で座ることもできる。
さすがDIALMAの一本槍だけでなんとか凌いできた元冒険者だけある。
いつだって頼りになるやつだ。
ベランはすぐに解毒の作業を始めた。俺はもう祈るような気持ちだった。
何度LATUMOFISを唱えても一向に変化のない俺の一物をみたベランは険しい顔で俺に言った。
「おい、あんたこれ普通の強壮剤じゃないな? 何に手を出した?」
おねがい。俺の犯した犯罪を聞き出そうとしないで。
「人払いをしてくれないかベラン。あんただけに話すよ」
「人に言えないような話なのか?」
ベランは凄んだ。めちゃくちゃ怒ってる。そりゃお楽しみを邪魔したのは悪かったよ。
でも俺にだって尊厳てものがあるだろ! 鼻くそみたいなもんだけど!
「せめてサーシーだけは部屋から出してくれ」
「サーシーに聞かせられないようなことなのか?」
ドワーフの鼻息は荒くなった。俺は泣きそうな顔で口をすぼめた。
「話してください。今、ここで」
サーシーが膝を屈めて、俺の目を真っ直ぐ見ていった。俺はもう逃げられなくなった。
俺は萎縮したまま、多くの同業者に囲まれて、これまでの経緯と悪事を洗いざらい話した。
俺の話を聞くにつれ、ベランの表情はだんだん厳しくなっていった。
「あんたはせこい手で、自分の雇用主を手籠めにしようとしたんだな?」
「はい」
「それで、得体のしれない怪しい売人から買った薬を使って、あげく無関係な女を
三人も“当てた”んだな?」
「はい」
「しかもロイヤルスイートの窓をぶっ壊して逃げ出した?」
「はい……」
俺は叱られたガキのように頷いた。
「最悪の選択肢を丁寧に選んでいったみたいね」
飲んだくれのエルフのトビーが、毒消し瓶を飲みながら、ヤツにしては珍しく真面目な
口調で言った。わかってるよ、このカマ野郎。俺の人生いつも選択を間違えてるよ。
トビーは「おかわり」と言いながら、自然な手つきで俺のベッド下から毒消し瓶を取り出した。
おい、なに堂々とパクってんだお前。さっきのも俺の毒消しかよ。なんか最近減るの
早いなとか思ってたら、てんめえこの野郎。
ベランが神妙な顔で口を開いた。
「いまの話が本当なら、おれたちはあんたを宿屋の親父に突き出さなきゃいけない」
俺は震え上がった。周囲は急に静まり返った。ベランはあたりを見渡した。
「仮にここで“どん詰まりの畜生野郎”を庇ったとしよう。もし後で宿屋の主人が事実を
知ったらどうなると思う? おれたちは連座制でしょっぴかれる。ここにいる誰か一人でも、
一言だって漏らさない自信はあるのか?」
やめて、ベラン、正論で殴ってくるのはやめて。
トビーが科(しな)を作りながら隣に座ってきて俺の手を握った。
「あたしはあんたの味方よ。レイプぐらいで何よ。尺八で三年間生き抜いてみなさいよ」
トビーは無くなった前歯の隙間からバカでかいゲップを吐き出した。汚えなこのコノヤロ。
でもちょっとだけ救われた。もうさっさとツケ払えアル中金玉エルフとか言わねえよ。
だから早く手を離せ。気色悪いわ。
「あんたいなくなったら、あたしの月々のジュース代どうなるのよ」
こんちくしょう、ちょっとでも感動した俺がバカだ。あとてめえが常飲してんのは
ウイスキーの蒸留酒割りだろうが。
「あんたを助けよう」
俺にいつも鑑定代理を頼んでくるジョブスが気取った声で言った。
ジョブス、お前……良いやつだな。いつも危険物を一律50ゴールドで丸投げしてくるけど。
「その通り」
ボラスがここぞとばかりに叫んだ。
「あんたがいなけりゃオレは次の仕事をどうすりゃいいんだ」
大男のモリスが答えるように言った。
それに続けと、いつも俺に仕事の代理を頼んでくる連中たちが口々に俺の必要性を訴えた。
みんなありがとう……いつも鑑定料金値切ってくるくせに、泣かせてくれるじゃねえか。
ジョブスは気をよくしたように爽やかな声で「我々には君が必要なんだ」と言った。
感激した。今だけはこいつらが格安で危険物処理させてくるクズだってことは忘れといてやろう。
トビーは腕を広げてボケ面で眺めているドワーフに向かっていった。
「みんなもああ言ってるし。あなただって困るわよねぇ、ホリー」
顎の下に兜を引っ付けた痩せこけたドワーフのホリーがボソボソと答えた。
「困る」
「あんたは俺たち鑑定屋一の尊敬すべき稼ぎ頭だ。困った時はお互い様だ。当然だろ」
土気色の顔をしたヒューマンのマズルが、胸に引っ付けたブレストプレートを叩いてみせた。
いつも情けない面で金の無心にくるお前の面が、今日は輝いて見えるぜ。
身体のどこかしらに呪物をひっつけた同業者たちからも、大きく頷いたり賛同を唱える
やつらが現れ、がやがやと話しだしたりした。だいたい俺にツケのある連中ばかりだ。
まぁ、二束三文で俺に鑑定丸投げしてくる連中よりはまだマシだ。こんなナリだが、
まだ、トビーやホリーやマズルは、金が入ったら返しに来る。いつもちょっと足りねえけど。
他の連中も、実入りがあれば返済に来る真面目な奴らだ。だいたい半分くらい返ってこねえけど。
……よく考えたら俺の知り合い碌でもないやつらばっかりじゃねえか。
まあいい。この状況だ。しょうもねえクズどもだが味方は一人でも多いほうがいい。
むしろこいつらクズでよかった。
「これでおれたちは一蓮托生の兄弟姉妹ということになるんだが、良いのか?」
ベランは苦虫を噛み潰したような顔で一同を見渡し、宣言した。モリスが口笛を吹いた。
歓声と拍手が一気に湧き上がった。あれ、なんか泣きそう。普段容赦なくたかって来る
クズどもに感動させられるなんて。
「あのねえ」
拍手が鳴り止まないうちにトビーが言った。
「宿屋の外にでたほうがよくなあい? ここじゃドラゴンの腹の中にいるようなもんよ」
「いや、まだここのほうが安全だ。旅籠ギルドの長を敵に回したんだ。歓楽街は危険だ。
乞食の目もある。今は下手に動かない方が良い。宿屋の親父も情報を集めているところだろう。
それに薬を抜くための治療をするにはここよりまともな設備がある施設がない」
ベランは首を振って、俺に向かって言った。
「あんたには残念だが、一月分の宿賃を残して、有り金全部貰うことになる。
高額なオイルを使うんだ。あんたの冒険は高くついたな。これは呪われた薬だ。
最近出回り始めた薬で、おれのところにも銀行が一人か二人来た。
運良く治療方法は知ってる。調べるのは大変だったんだ。あれには、あんたがよく扱う
指輪や鎧みたいなのと同じ成分が入ってる。こいつは時間との戦いだ。なんとか力は尽くすが、
急がなけりゃならん。前に来た銀行は手遅れになった。間に合えばいいが、
下手すりゃあんたは一生不能になる」
俺は青ざめた。そういうことか。
副作用がないどころか、劇薬中の劇薬じゃねえか。つまり俺はあの禿げにとって
実験用のゴブリンみたいなものだったわけか。あの三人にも、禿げチビの薬を使っち
まったじゃんか!……俺のバカ、クソッタレ!
「サーシー、便所の戸棚の二段目にエネマが隠してあったろ」
ずっと殺気立った目をしてたサーシーは頷いてすぐに部屋を出ていった。
はい? えっ、なに、浣腸器? なんで?
ぽかんとした俺にベランが呆れたように言った。
「あんたは一応司教だろ。上からも下からも入れなきゃこいつはだめなやつだよ。申し訳ないが、
覚悟をしてもらうぞ。大変な治療だ。なあ、ロディ、ハーマス、他の連中みんなも、見てないで
手伝ってくれ」
俺はぎょっとして周りを見渡した。
えっ、ちょっとまって、どういうこと、上からと……下から?
いやちょっとまってよ、いやベラン、なんとか一人でできるだろ。
「勘弁して下さい、すいません、せめてあんただけで」
「あんたは浣腸器見ただけでパニックになって暴れるだろ。前に便所で大騒ぎに
なったじゃないか。アレのせいで便秘患者には悪いが戸棚に隠すことになったんだ」
当たり前だろ! 俺のトラウマだぞ!
まってよ何でみんな協力的なんだよ。
お前らみんな畜生野郎の垂れ流しとか見たくねえだろ、馬鹿野郎お前ら離せやめろたすけて
* * *
* おおっと! *
* * *
あれから二時間がたった。俺はやっと自力でゲロ桶を抱えられるレベルまで生気を取り戻す
ことができた。詳細を語ることは、勘弁してくれ。後生だ。後ろだけじゃなくて、尿道にも注入管で
無理やりオイルを流し込まれた。死ぬかと思った。ケツからは見たことのない量と色のやばい
水便が出た。
何回か血混じりの茶色いゲロを嘔吐したあとで、俺はやっと水を飲むことを許された。
ケツ穴と尿道に詰められた栓も外された。地獄みたいな痛みだった。俺はバカほど水を飲んで、
死ぬほど吐いた。
今は常時吐き気と下痢に襲われているぐらいだ。それから割れるように頭が痛い。
これまでの治療の痛みにくらべりゃなんてことはない。
心置きなく自室でゲロまみれになれるってもんだ。
「レイやラヴィだったら、もっと楽に始末してもらえたんだろうな」
マイクが右手の剣の先に雑巾を引っ掛けて器用に床を拭きながら言った。
俺と目が合うと、マイクは哀れみを込めた目つきで左手で自分の股間を覆ってみせた。
「縮んじまったよ、おれ」
「レイチェルやラヴァーンがいたら、この人殺されてますよ。夜の仕事の人たちがみんな
出払っていて良かった」
ベッドでゲロ桶を抱える俺に、サーシーが背中を擦りながらため息混じりに言った。
サーシーには本当に申し訳ない。尿道へのクレンジングオイルの注入をやってくれたのは
彼女だ。
最初はマズルとホリーがやろうとした。俺が暴れることは想定済みで、猿轡を噛まされ、
股間と首から上だけさらした状態で、シーツとロープで身動き取れないほど固定された。
俺のブツは薬の副作用で徐々に感覚がなくなりかけていたが、地獄の苦しみを味わった。
困ったことに、勃起しすぎて管が全く通らなかったのだ。
当たり前だが、誰もこんな汚れ仕事をやりたがらなかった。そのくせ、ベランは部屋に
集まった連中に指示だけだして、全身ゲロとクソまみれの体で俺の汚物桶を抱えて
行ってしまった。誰も手を挙げない中、陰気なホリーが自分から治療の手伝いを志願した。
せめてもっと器用なやつが名乗り出てくれりゃよかったのに。
ホリーの野郎は無遠慮にガシガシと管を突っ込もうとした。俺の股間は血だらけになった。
あまりの惨状に俺の体を押さえつけていたマズルは目を背けていた。そうじゃないだろお前?
周りの連中も笑ってねえで誰かホリーを止めろよ! 後で覚えとけ!
見るに見かねて、サーシーが代わりを申し出てくれた。呪文こそ使えなかったが、
彼女は訓練場で正規の治療師の講義を受けていたからだ。それに、なんというか、
サーシーにはアレがついていないから、容赦なくできた。
ベランが離席している間で良かった。
サーシーには治療師の才能があったのかも知れない。彼女の施術は手際が良かった。
死ぬほど痛かったが、なんとか管が通った。こんな悲惨な思い出なのに、謝りながら
一生懸命に俺の一物に取り掛かるサーシの姿に何かに目覚めそうとか一瞬思って
しまった……俺はアホだ。これも劇薬の効能のせいだ。そう信じさせてくれ。
俺の背中を擦るサーシーにホリーが、伸びきった小さな声で「申し訳ない」と言った。
「ホリー、あなたがわたしに謝る必要はないんですよ」
そうだよ。まず俺に謝ってくれ、ホリー。
「心ひゃいすんなぁ、おれたひゃあんたの味方だ」
歯抜けで甲高いキーキー声で話すダーが臭い息吹きかけながら俺の横でまくし立てた。
格安ソフトドラッグで常時ラリっている標準的な底辺所得者のノームだ。そうだな、ダー。
お前にいくらタカられたか、もう覚えてねえよ。左手は手袋で隠しているが、こいつの手には
指輪が四つ吸い付いてる。ヤクをキメ続けなきゃやってられないんだろう。俺に金を無心しに
くるリストのナンバーワンだ。しかも一度も金返さねえし。せめてこの前の50ゴールドだけで
いいから今返せ。
「あんちゃんみひゃいな素敵な金蔓がなくなるなんてみへられねぇ。おれに任せろ」
堂々とふざけた宣言してんじゃねえ。これはお前がなにか頑張ってどうにかなる問題じゃないの。
「下らないやらかししたって自覚してるなら、悔い改めなさい」
俺の背中を擦りながらサーシーが言った。子供に向かっていうような口調だ。
すいません。ほんとすいません。生きててごめんなさい。
「まあ素直な感想を言ってもいいなら、『舗装道路』しか歩いたことのないお嬢ちゃんには良い
お灸だったんじゃないですか。その程度で済んだんだし。守ってくれるお姉さんもいて、
強い仲間もいて、恵まれすぎてたんですよ。あなたの女主人の同僚たちなら何とも
思ってないですよ。あなたの女主人のほうは存じ上げませんけど」
彼女なりに気を使って言っているのだろうが、情けなさすぎて俺はサーシーと目が
合わせられなかった。ゲロ桶に突っ伏して、俺は言った。
『ずみばぜん』
口から出た声がひど過ぎて自分でびっくりした。
「謝らないで下さい。みんなあなたに感謝してるんですよ。無関心にゆっくり締め殺される
気持ちは当事者にしかわからないんです。どん底にいたときに、手を差し伸べてくれたのは
あなたぐらいだったんです」
『おでは金をがしただけ――』
「そういうところですよ」
サーシーは微笑んだ。俺はなんとかヘロヘロの笑いを返した。彼女は知らない。
やつらの借金の催促は恐怖だ。ホリーは何時間も俺の部屋のドアの前でひたすら何か
呟き続けるんだぞ、異国の言葉で。トビーはもっと遠慮ない。素面の時は危険だ。
“おれは何のために生まれてきたんだ?”って泣きゲロで騒ぎ続けるんだ。
俺の部屋の中で。おかげでこんなでかい汚物桶が俺の部屋の常備品になった。
ほかの連中も大なり小なりだ。露骨な脅迫はないが、実際脅迫みたいな泣き言ばっかりだ。
なんだか笑えてきたな、くそ。
俺は桶の縁にぐったり顔をつけて言った。
『あなだは命がげの懇願の怖ざがわがっでない、知ってまず?
ドビーは金を借りるどぎだげは男声になるんでずよ』
「そうなんです? 確かにあの人、睾丸も四つありますしね」
『え゛っ』
「二つは“指輪”ですけど。いつも枕をかぶせられてますけど、始める前には見えるんです」
待ってくれ、何の話だ。
『見だっで、どごで?』
「ベッドの上で」
混乱してきた。ベッド? トビーが? タマ吸いが生計の何割かを占めるあいつが?
あいつカマじゃなかったの! 俺の様子を見て、サーシーが付け加えた。
「彼が酷いわけじゃないですよ、仕方ありませんもの。他の人たちも大抵そうします。
ポーやモリスだって。クーポーは気にしてないみたいですね。あの人は顎にシーツも
被させないですよ。終わったら食べ物をくれます。時々金貨も。わたしはルースや
レイチェルみたいにお店に入れないですもの。だからわたしは生きていけたんです。
女が冒険家業をやるというのは、そういうことなんです」
俺は桶にまた吐いた。サーシーはあいかわらず背中をさすり続けてくれている。
彼女は慰めてくれるつもりで言ったのだろうが、俺はショックを受けていた。
「だからそんなに落ち込まないでくださいね。反省はしてほしいですけど」
サーシーは皆に細かい指示をとばすベランをみて目を細めた。
「あの人にはずっと避妊処置をお願いしてました。彼は全部ツケにしてくれてたんです。
ある日計算してみたら、払いきれないと分かって、わたしは謝罪をしました。よっぽど
ひどい嘆き方だったんでしょうね。ベランはわたしに金庫番の仕事をくれたんです。
仕事中は必死になってDIOSを唱えてました。日に日に金貨が増えていって、仕事を
始めたばかりのころは怯えてました。今だって慣れないですよ。ベランがこんな
サプライズしてくれるなんて思ってなかったんです。ダーもマイクも一緒にお祝い
してくれました。二人はわたしの同僚なんですよ。わたしのせいで稼ぎが減ったのに、
二人はワインをプレゼントしてくれたんです。二年ぶりに、何もこぼさずに飲めました。
お酒は苦手ですけど、あんなにおいしいワインを飲んだのは生まれて初めて」
粋なことすんなあいつら。まてよ、この前の50ゴールドはそれか。
用途を言えよあの野郎。あいつに金返せって言えなくなっちまったじゃんか。
ベランが俺の傍に戻ってきた。サーシーは席を離れた。
「諦めるなよ」
ベランが俺の肩をぶっ叩きながら言った。痛え、ショック死するかと思った。
やっぱこいつ怒ってんだろ。
「お前のやったことはどうしようもないことだが、サーシーの身体を治す金の
出どころがあんただったのはわかってる」
ロッティングコープスもどきの鑑定屋が痙攣してるみたいにがくがく頷いた。
何でまだいんのお前。指輪無事に剥がれたんならさっさと故郷に帰れよ、馬鹿野郎。
「サーシーには悪いけど、僕はこの人を助けます」
「だってよ、なあサーシー」
「しょうがないですね」
「最初からそのつもりだろ?」
「ええそうですよベラン、悪いですか?」
ベランはサーシーに微笑み、周りに低い声で号令をかけた。
「さあみんな、手筈はいいな。さっき話した通り、酒をありったけ集めるんだ。
中身があろうがなかろうがいい。とにかく簡易寝台中の酒瓶を残らずだ。
瓶なら何でも良い。水入りだろうが薬瓶だろうが何でもだ」
簡易寝台の住民どもが一斉に部屋をとび出した。
『さがびん?』
俺は言った。
「いいか、お前はなんにも喋るな。この際はっきりいうが、お前さんはクズのくせに誤魔化しが
下手すぎる。誰に何を聞かれてもこの部屋から一歩も出ずにおれたちと飲んだくれてたって
答えるんだ。いいな?」
『わがっだよ』
俺は桶を抱え直してまた吐いた。
* * *
俺が便所と自室を往復している間に、俺の部屋は空瓶でいっぱいになった。
「追加はもう無いのか?」
ベランが部屋を見渡しながらいうと、マイクが首を振った。
「駄目だ。宿屋の出口が封鎖されている。もう出られないし入れない」
下痢と嘔吐が止まらない俺に回復をかけながらベランは首を振った。
「クソ。新しい桶が必要だな」
「捨ててくるわ」
「おれが行く」
マイクが名乗り出ると、ダーが黙って立ち上がり、右手の使えないマイクの
補助をした。俺の吐瀉物でいっぱいの桶を、二人は持ち上げようとしたが、
すぐに床に置いた。
「げえっ、こりゃロープがいるな」
「しゃがしてくる」
ベランが俺の背中を擦りながら言った。
「マズルとホリーはどうした?」
「おれはここにいる」
マズルが手を上げた。
「出口が封鎖されたのはさっきだ。おれとトビーで外の足跡を消しに行った。
見張りのガースがいつも通りサボってくれてよかったよ。うまく誤魔化せたと思う。
ホリーとは少し前にすれ違いになった。裏口からはもう帰ってこられない」
マイクが忙しない口調で会話に入った。
「ホリーなら酒場の友だちの銀行のところに行ったよ。クレンジングオイルの追加が
必要なんだ。金がいる」
ベランが渋い顔で首を振った。
「口の軽いやつに言いふらさんでほしいな」
ダーが代わりに答えた。
「口はかひゃいよ。ホリーのおともひゃひは同期だ」
「ホリーに同期の銀行?」
マズルはそう言いながらしゃがんでゲロ桶の固定を手伝った。
「だったらあいつはもっと羽振りがいいだろ」
「ホリーのごしゅじんしゃまはドワーフだ。桁一つだっちぇ見落としゃない。
しょれでホリーはこうなった」
マズルに向かって、ダーは顎のしたに拳を押し付けて見せた。
「そんなら、あいつは何しに行ったんだ」
「力になりちゃかったんだ、ホリーは必死だよ」
ダーは俺をちらりと横目で見た。
マイクは、成人のホビット特有の酒焼けしたガキの声音で俺に囁いた。
「こいつは大事になってるよ先生」
わかってる。最初に言ったじゃん俺。
小人二人はせかせかと俺の汚物でいっぱいの桶を捨てに部屋を出た。同業者たちはみんな
忙しなく偽造工作に勤しんでいる。廊下の床は拭き直された。俺がくノ一の部屋から持ち帰った
黒装束や短刀は仲間が別々に自分の寝台に預かった。
本当に泣けてきた。生前贈与でこの場の全員になにか奢らなきゃいけないな。
新しい桶を大量に携えた小人二人が、血相変えて帰ってきた。
「まずい、あんたの女主人が来ちまったぜ」
マイクが叫んだ。ダーが神妙に言った。
「しゅうんごい怒ってる」
首を振ったベランは俺の背中を叩いて言った。
「思ったより早く来たな。手筈はできてる。腹くくろうや鑑定屋」
オーケー、わかった、ハハッ、覚悟はできた。
ベランが声を張り周囲に目配せをした。
「よし、さあみんな騒げ! 大芝居の始まりだ」
私は道中ずっと自分の直感が正しいのか考え続けていた。あの部屋で
ドア越しに聞こえた音。気配。どこかで感じた覚えがある。一人の男の可能性が
突然頭にふっと思い浮かんだ。最初はありえないと思い直したが、
時間が立つほどに絶対にあの男だと強意見する頭の何処かの声が、無視できない
ほど大きくなっていった。
彼にそんな力がないことは理解している。でも私は自分の勘を信じてみることにした。
この第六の感覚には今まで何度も助けられてきた。こういう一大事で外れたことがない。
A Cotと書かれた看板が見える所まで来ると、遠目に、手の妙なところに剣が
吸い付いた小人とその介添が、二人で大きな桶をいくつも重ねて歩いている姿が見えた。
二人のうちの一人と目が合った。小人たちは自分を見ると、不自然なほど焦りながら姿を
消したように見えた。それは何の根拠もなかったが、自分の中で予感が確信に変わるのを
感じられた。
怒りに震える感覚は久しぶりだ。それでも頭の中は驚くほど冷静だった。
神経を集中させて、A Cotの看板が掲げられた突き当たりの通路を曲がった。
いつもの廊下は、不思議なほど静かだった。ドアはどこも開けっ放しで、簡易寝台の
どの部屋もベッドは空だった。奥の部屋に近づくにつれて騒がしい音が聞こえてきた。
鑑定屋の男の部屋は、彼の友人たちと思しき人々が集まっていた。こちらの姿を見た
人混みから歓声が上がった。廊下でいつもすれ違う飲んだくれのエルフが、酒瓶片手に
手を振って、艶めかしく手招きした。
「いらっしゃあい、素敵なお嬢さん。パーティへようこそ」
面食らってしまった。彼らの反応は思っていたものとは全く異なる。部屋の奥を見ると、
桶を抱えて体を小刻みに震わせている男の周りを、簡易寝台の住人たちが賑やかに
取り囲んでいる。床には沢山の酒瓶や何某かの薬瓶が散らばっていた。木桶を抱えた
男の背中を、ドワーフの僧侶がずっとさすっていた。
「やあ、どうしたんだ女主人様」
ドワーフは苦笑いをしながら、こちらを見上げた。
「すまないね。こいつに用があるんだろ。こいつがこうなっちまったのは
おれたちのせいなんだ」
右手に呪われたショートソードを握りしめたホビットが、棒きれのように剣ごと手を
振り回しながらお辞儀をして進み出た。
「貧民の祝賀会へようこそ、女王陛下! 悪いな。おれたちが飲ませすぎて旦那は
当分使い物にならんよ」
「天上のいひゃいなるご主人ひゃま、おれらになにか用? ねえ!」
歯のないノームが目を合わせないように、だがはっきりと自分に向けて言った。
ノームはお辞儀をするホビットの頭を叩いてげらげらと笑い出した。自分は場違いな
ところに来てしまったのではないかと後悔し始めた。
桶を抱え込んで俯いていた司教が、手を上げて、周囲に合図した。部屋にいた人々は
一斉に男を見た。男は青ざめた顔でこちらを向いた。男は割れたしゃがれ声で『はい』と
挨拶をした。戸惑いながら、私は男に話しかけた。
普段見慣れない町娘のような格好で、くノ一は俺を見下ろしていた。妹さんとお揃いの服だ。
顔を直視できない。抑えていても、気配から凄まじい怒りを感じる。
「どうして私がここに来たのか、ご存知かしら?」
はい。俺を殺すためですね。わかります。
「今しがた宿屋の警備が厳しくなったのは知ってるかしら。私の部屋に怪しい男が入ったせいよ」
なんて答えたらいいんだよ……程々に元気よく、しかし不審になりすぎない程度の絶妙な
音量によるシンプルな回答が一番だな。
『ばい』
ヤクの過剰摂取とゲロ吐きたての喉で声が出ねえ。
「宿屋の主人が発表した罪状はロイヤルスイートの窓ガラスの破損。彼に言わせれば大事件だそうよ」
『……ばい?』
……はい? 何言ってんのあの親父。馬鹿じゃないの。婦女暴行事件のほうがオオゴトだろがあ?!
「それで」
言葉の途中で、くノ一は両手を組み合わせたまま腕を下ろした。俺の様子をずっと見ている。
どうする俺。どうする俺? どうすんだ俺! またゲロ吐きそう。もう胃の中何も残ってないのに
内臓まで全部吐きそう。薬なんて使うんじゃなかった。
ごめんなさい。なんてことしでかしたんだ俺。どうしよう、俺何回死んだら許される?
だめだ、もう持たん。もう自白するしかない。
* * *
「何かあったのですか?」
ドワーフの横で控えていたヒューマンの女僧侶が、怪訝な顔で尋ねてきた。
声に聞き覚えがあったが、すぐに誰だったのか思い出せなかった。
しばらく相手の顔を見つめて、やっと思い出した。三つ隣の部屋でひたすらDIOSを
唱え続けていた女の声だ。顎が曲がっていたと聞いていたが、見た目が綺麗だ。
顔に少し麻痺が残っているようで、隠そうとしているが発音が舌足らずに聞こえる。
「ごめんなさい、ベランとわたしがお祝いしようってみんなに声をかけたんです。
彼、今誰と話しているのかもわかってないですよ。彼が仕事から帰って来て
ずっと飲ませていました。思ったより人が集まったのもだから」
「彼には世話になったからな」
痩せこけた青白いヒューマンの司教が相槌を打った。
「同業者の転職祝いですよ旦那様。あなたのお陰でおれの恩人が司教に戻れそうなんですよね」
桶を抱えていた男がうめいた。かすれた声で『よしてくれ』と言ったのだとわかった。
肩に入っていた力が急に抜けた。恥ずかしい。ここぞというところで自分の勘が外れるなんて。
もう自分が信じられなくなった。どうして最初にこの男を疑ったのだろう?
この男は、最も尊敬するシーフの元同業者なのだ。彼女に言わせれば、彼女の元いた
頭のいかれたパーティの中で、最もまともな男のはずだ。彼はずっとこの部屋で古馴染み
たちと飲み明かしていたのだろう。
「ええ、お祝いを言いに来たのよ。おめでとうって彼に伝えて」
桶を抱えた司教はまだ呻いていた。代わりに女僧侶が、怪訝そうに聞いてきた。
「その、なにか大事があったのですか?」
「ええ」
もう声に力が入らなくなっていた。
「にゃぁひぃ盗まれひゃんで?」
甲高い声でノームが尋ねた。
「私の宝物、それと、色々。でも、犯人の目星はついてるわ」
女僧侶は息を呑んだ。騒がしくしていた簡易寝台の住民たちも、静まり返った。
私は壁に向かって言った。
「宿の主人が言っていたの。犯人はニンジャよ。腹が立つほどタフな男みたい」
集まった人々がざわめいた。私は振り向いて、もう一度、犯人と目星をつけた男を見た。
タフとは程遠い、くたびれた人間だ。集まった住民たちに
「彼に伝えておいてくれない。一週間後にここで会いましょうって。今はまだ心の整理がついてないの」
とだけ告げると、私は逃げるように男の部屋を去った。
ざわめきが遠のき、頭は呆然としていて足だけが動いていた。
無力感に押しつぶされそうだった。もう自分の勘は頼りにならない。
指はとっくの昔にガラクタだ。自分にはなにもない。
腕っぷしはある方だと思っていたのに、何の役にもたたなかった。
親友も仲間も肉親も、誰も守れなかった。
A Cotの看板を曲がると、そこには宿屋の主人が立っていた。
「やあ、お嬢さん」
主人は口を緩めて言った。笑顔だが、目には殺気がこもっている。
「収穫はあったかい?」
私は小さく首を振った。
「あてが外れちゃった」
言葉と同時に、自分の中から何か大切なものまで抜け落ちるような気がした。
「どいつだ?」
ぎらついた目で主人は言った。
「一番奥の部屋の人」
「へえ」
初老の男は口元をすこしだけ緩めた。
「失礼だが、あなたがあの男を疑った根拠を伺いたいものですな」
「根拠もなにもないわ。でも……あの時、ドアの向こうから音が聞こえたの。
間延びして引きずっているみたいな足音だった。いつも聞いてた音とはちがうけど、
なんとなくあの人の顔が思い浮かんだの」
緩んでいた宿の主人の顔が険しくなった。
「それなら、十二分に謹聴に値する意見だ」
「でも彼、違ったわ。友達みんなでずっとここで飲んでたんだって」
「あれがそう言っているだけだろ?」
「彼が一人でそう言ってただけなら、私は笑顔で彼の首をぶら下げて来ているでしょうね。
この辺りの宿泊者全員に聞いてちょうだい。みんな彼の部屋にいたわ」
「そいつは妙だね」
「お祝いをしていたのよ。彼、随分慕われているみたい。あの人、私のパーティに入ることになったの」
「ほおう」
宿の主人は、意外そうに軽く開いたこぶしを唇の下に当てた。
「あのS.O.B(畜生野郎)をあなたのパーティにか?」
「レベルは低いけど、腕のたつ司教よ。怒鳴らないし、腹のたつ嫌味な言葉も使わないわ。
ちょうど、ものを教えられそうないい人を探していたの」
「あれはもう冒険者としては盛の過ぎた男だよ。あいつがあなたのパーティに
今更何を教えられるんだ?」
「妹のためだったの。だけどもう彼は必要ないわ。一週間後に、彼との契約は打ち切るつもり」
喉からは掠れた音しか出なかった。宿屋の主人は手を打ちならした。
「わかった。あなたがそう言うのなら、きっとそうなんだろう。ビラを刷らないといかんな。
犯人は、また一から探し直しだ」
それだけ言うと、主人は首を振り、踵を返して立ち去った。
* * *
くノ一がもう安全だという距離まで離れるのを確認する間、俺の共謀者たちは
ヤケクソでお祭りの演技を続けていた。彼女が本当に立ち去ったことを斥候役の
マイクが宣言すると、演技じゃない本当の歓声が湧き上がった。
それからなし崩し的に飲めや騒げやの突発的な祝賀会に発展し、やっと静かに
なったのは夜も更けきる頃になってだった。なんやかんや世話を焼こうとする
ご近所をなんとか丁重に追い返して、俺はベッドの上で意識朦朧としながら
相変わらずゲロ桶を抱えてぐったりとしていた。ベランの話では毒が抜けるまで、
とにかくどこからでも良いから出し続けることが治療だそうだ。
部屋には同業者連中の手によって大量の水瓶が届けられた。
深夜に差し掛かる頃に、俺の部屋をノックする音が聞こえた。
もうお見舞いはいいよ……頭痛がひどすぎて眠れない。頼む一人にしてくれ。
二回目のノックで、俺は目をかっぴろげた。A Cotの住民がやるようなノックじゃない。
くノ一でもない。なんとか体を起こして、俺はジジイのような足取りでドアに向かった。
ドアを開けると、そこにいたのは宿屋の主人だった。
俺の思考は完全に停止した。
やばい。ばれてた。今死ぬのか俺。
「ブック」
『ぐえぇあ? ぁばい』
「呪文書を用意しろと言ったんだ。あんた、久しぶりの授業の時間だ。
冒険に行ったんだろ、なあ坊や」
忘れてた。そうだったわ。俺、迷宮に潜ったんだったわ。
『ずいまぜん、ばい、ずぐにごびょういじまず』
「声でないのか?」
『ずびばぜん、飲みずぎで』
「困るねえ、あんた。まあいい。簡易寝台の“お客様”だ」
初老の男は『お客様』という言葉をことさら強調した。
「一週間以内なら構わん。講義の場所は覚えてるか?」
『ぐえぇ、ばい』
「賭けてもいい。あんたはきっと二日酔いじゃ済まされないだろう。
木曜のこの時間に講義堂に来い。いいな」
意外なことに初老の男は笑顔を浮かべていた。
『ばい』
宿屋の主人は扉を閉めた。俺はしばらく扉の前で呆然としていた。
俺は夢遊病患者みたいにベッドに戻った。ゲロ桶をベッドの下にそっと蹴りこみ、
俺はベッドに転がった。今日は眠れるはずがないと思っていたのに、目をつぶった
途端に意識がなくなった。
* * *
それから数日間、俺のまともな記憶は無い。吐いたり下痢したり、
なんだかわからないスープのようなものを飲まされたり、それだけだ。
あの薬が完全に抜けるには、それだけかかった。ベランに言わせれば、
すぐにクレンジングオイルを使わなきゃこんなものじゃ済まなかったそうだ。
頭と金玉と財布がすっからかんになって、俺はようやく本当の正気になる
ことができた。
食事は同業者たちが代わる代わる運んできた。ありがたいより情けない
気持ちでいっぱいだ。二日目になって、俺は運んでくる連中の変化に気がついた。
「マイク?」
俺は一人でスープの盆を運んできたマイクに声をかけた。マイクの手には、
もはや体の一部と化していたあのショートソードがなかった。俺は右手を持ち上げて、
左手の人差しで何度も叩いて見せた。
「おや、今頃気づいたかい旦那」
マイクは自慢げに、指を広げて振ってみせた。掌は一面青黒い痣になっているが、
マイクの右手には何も付いていない。
「あんたのゲロを始末し続けたおかげさ」
マイクは肩に斜めがけに吊るした聖布の包を指さした。間違いない。
布に包まれているがマイクの手に吸い付いていたショートソードだ。
そうか、クレンジングオイルは本来そういう使い方をするもんだった。
「ホリーは感謝していたぜ。トビーやマズルもだ。A Cot中の鑑定士がみんなが
あんたのゲロでじゃぶじゃぶ洗う姿は、変わり種の地獄みたいな絵面だったけど」
俺はその図を想像しようとしたが、脳みそが働かない。むしろ働かなくて良かった。
「ダーは心底喜んでいた。最初に気づいたのはあいつだ。ゲロまみれの手袋をはずしたらずるんって」
マイクは右手で左手の掌をつかんで勢いよく滑らせた。
「気がおかしくなったんじゃないかって心配しちまったぐらいだ。みんなあんたに感謝している」
「俺のおかげじゃない」
「そうだな。あんたは勝手にそう思ってるだけでいい」
「ぐぅ」
急に吐き気が込み上げてきた。すっかり慣れた動きで、俺はベッドの下のゲロ桶を蹴り出して、
かがんだ。マイクは去り際に「返しきれない借りができちまったよ」という言葉を残して、
部屋を出ていった。
スープが冷めきるまで、俺はゲロ桶の前に膝をついて呆然とし続けた。
* * *
彼女との再開日の前夜は眠ることができなかった。
わかっている。おそらく、あの三人のうちの誰かは確実に俺を殺すためにくノ一には
真実を知らせるはずだ。あるいは本人が自らの手で俺にとどめを刺すつもりだろう。
眠れないまま、俺は横にもならずベットに腰掛けていた。
ここ数日間で体中の水分と栄養はほとんどケツとゲロから流れ出た。身体は重だるく、
脳みそは完全にガラクタに成り下がっている。俺は明け方前にうつらうつらしだした。
よりによって今眠気が来やがった。なんとか朝まで粘るために、俺は椅子に座り、
ぼんやりテーブルを眺めていた。
体を揺すられて、俺は目を覚ました。いつの間にか朝だった。
机に突っ伏したまま寝ていたらしい。横を見るとフラウドがいた。
「大丈夫ですか、先生?」
「起きなさい、お寝坊さん。朝食の時間よ」
正面にはくノ一がいる。二人とも笑顔だ。
あれ、なんだこれ、夢?
走馬灯って実際に起ったことだけじゃなくて都合の良い妄想も見ることができんの?
ガシャンという音とともに俺を乗せたまま椅子が引かれた。のけぞった俺の両肩に
ずっしりした何かが乗った。
恐怖にかられて横目で見る。
Gloves of Silver、売値30000ゴールド、オーケイ。
「おはよう」
頭上から柔らかい声が振ってきた。あーそうですよねぇ、世の中そんな都合の良いこと
あるわけ無いっすよね、振り向きたくないがもう仕方がない。三人はくノ一の手を汚させず
自分の手で始末するつもりだ。
両手をなにやらちっこい手とシャイアらしき手に引っ張られ俺は椅子から引き剥がされた。
つんのめりながら、俺はテーブルに突っ伏しそうになりうっかり後ろを振り向いた。
三人ともそこにいた。
シャイアとフローレンスさんは笑顔だった。チビだけは前回見たような迷宮と同じ装備で、
フードを目深に被っているせいでわからんが。シャイアは探索用の服じゃなかったし、
妹さんも小手だけで、街を歩くような服装だ。
「ちゃんとベッドで寝ろよ。体に悪いぞ」
「外、天気いい。空気吸うの、体にとてもいい」
二人がテーブルまで来て俺に言った。にこやかで明るい声だ。
あれ? どういうこと? 俺殺されるんじゃなかったの? ひょっとして、ひょっとしてだが、
もしかすると、あの三人に飲ませた媚薬だけは効果が永続的だったのか?
え、うそぉ?! いいの? 俺生きてて良いの?!
ふと正面をみるとくノ一が俺に笑いかけている。いや、違った。妹さんの顔をみて笑っていた。
つまり、これが最終審判だったってことか。なるほど、三人を俺のところにつれてきて確かめたのか。
ハハッ、まじで今日生き延びて良いのか?
「それじゃあ酒場に行きましょう」
くノ一と妹さんが、二人がかりでテーブルに腹ばいになってる俺を起こしてくれた。
ああ、いい。ずっとこうしていたい。いやしかし、本当に大丈夫なのか?
幸せすぎてだんだん不安になってきた。
「ありがとうございます。その、着替えたいので、少しだけ一人にさせてもらえますか」
頭の整理がつかない。これよりマシな服などないが、とにかく一瞬でも一人にしてもらいたくて、
俺は言った。
「酒場でドレスコードなんて気にしちゃいないよ」
シャイアが俺の手を掴んだ。初めてのことだ。シャイアは手袋をしていなかった。
チビが俺の反対の手を握り、妹さんが俺の肩に手を優しく置いた。シャイアは鼻歌すら歌っている。
後ろからは妹さんのハミングまで聞こえてきた。まさか、本当に、信じられないことだが、
あの媚薬はやはり永続効果があるのか。
くノ一がフラウドと先に俺の部屋から出たタイミングで、俺は自分の浅はかさを思い知った。
俺は歩き出そうとしたが一歩も動けなかった。三人は俺をその場に押さえつけるために
取り囲んでいただけだった。
俺が全てを理解する前に、シャイアは俺の手の甲の肉が千切れんばかりにつねり上げ、
フローレンスさんが銀の小手で肩甲骨に穴が空きそうなぐらい肩を締め上げ、足の甲を貫通する
勢いでグリーブの鋭い踵が降ってきた。
激痛が走った。立っていられない。俺は力のかぎり叫んだ。が、音が出ない。
痛みでしゃがみたいのに妹さんが肩を引き寄せてしゃがませてくれない。
妹さんに支えられた肩から下は、壊れた操り人形みたいにぶら下がっているだけだ。
しまった、シャイアの鼻歌はブラフだ。妹さんがハミングに偽装したMONTINOを唱えていた。
「心配ない。傷あと、のこさない」
悶絶しそうな痛みがいきなり引いた。チビが入口に向かってスタスタ歩きながら
俺の方を見ずに言った。妹さんは素早く俺の肩を持ち、俺の耳に唇がふれんばかりにところで、
息を吹きかけるように呟いた。
「行くぞ。リーダーを待たせるな」
胃が溶け落ちたかもしれん。もうこの部屋から出たくない。
シャイアは俺に向かって指を立て、シーと音を出した。
「殺しゃしないよ。話があるんだ。逃げるなよ」
両脇をシャイアとフローレンスさんにがっちりと捕まえられて、俺はA Cotの廊下を歩いた。
いつも通りの陰気な雑踏が聞こえる。みんな視線を合わせないように俺を見ていた。
すれ違いざま、そっと様子をうかがった。音が出ないように拍手をしてるやつもいる。
笑って見せたたり、親指を立てるやつもいる。
そうじゃない、そうじゃないんだお前ら……助けて。