“ここで重要なお知らせです。
ミニチュアホースに続きシェトランドポニーが
媚薬と“スパム”の過剰摂取で人事不省に陥り、発走除外。
繰り返します。シェトランドポニーが出走の取り消しを表明いたしました!
さあ、日も暮れてまいりました。
レッドターフが映えるこのロイヤルスイートグラウンド、
第“17”レース、オージー特別はサラブレッドの一頭立てという
豪華な顔ぶれでいよいよ出走です!”
* * *
偶発的な現象の連続は、しばしば芝居がかった奇蹟を起こす。あたかも、
最初から仕組まれていたのではないだろうかというほどに。しかし、その事象は、
あくまで偶然であり、人知を超えた力を持つ神が、たおやかにその御手を脆弱なる
人に差し出したもう結果なのだ。
―――――こいつが神サマの仕業なら神なんてウンコ食らえだ!!
* * *
よう、俺だ。残念ながらまだくたばっていないんだ。この通りピンピンしてるぜ。
なんだ、不服か?なに、あれからたった6レースしか走ってないのかって?
ハハハッ、そうじゃないさ。『あれから』16レースを完走したんだぜ!
ゴールに着いた思いきや、すぐさま次のスタートラインという強行軍的地獄の
スケジュールだ。われながら素晴らしいスタミナだよ。新米ジョッキーのこの俺が、
こんな耐久力を示せたのも、ひとえに良馬のおかげだな。
ただし、下になるのは俺のほうだ。手綱を握っているのは俺だが、
俺の手綱も彼女たちの腰のあたりに結び付けられている。
ああ、どっちがジョッキーだかわかったもんじゃない。
――なんだよ、え?こいつはポニープレイじゃなくてパピィプレイだって?
はっはー! 細かいことは気にするなよ!
もうオツムが破裂間近でイカレちまったんだからな!
イカレついでにこの際言っておこうか。ああまったく、実に素晴らしい乗り物だったよ!
一つとして同じ“乗られ心地”じゃないんだからなあ!
ボンデージプレイでの最大の利点は、なんといっても、こちらに選択権がないことだ。
何が起こっても、自分のせいにしなくていいんだからな。いや、まったく、14レースを除き、
11レースから16レースまでの試合は酷いもんだった。10レースの終わりごろから、
初めての試合で小人どもに散々虐められた妹さんが、仕返しを始めてなあ!
パーティ内での喧嘩に部外者を巻き込まないで欲しいよ、まったくハハハッ……
“そう落ち込みなさんな!あれだって、フローレンス女史の御尽力あってのもんだったぜ!”
あー、ありがとうペニス君。君だけが俺の友達だよ。責任とってくたばってくれ。
確かに妹さんは“優秀”だったよ。彼女には素質がある。
迷宮とは大違いの実に見事な連携だった。が、それもさっきのでおしまいだ。
今は個人競技の時間だ。邪魔者がいなくなって清々したと思ったが、いなくなって見ると
少し寂しいもんだな。ハハハッ、俺は何をいってるんだろうな!
順番が逆だが、今さらになって、セックスの意義について深く考えられるようになった
気がするなぁ。種族別の受精確率はどうだったかな?
こんなことなら、もっと真面目に生物学を学んでおくべきだった。
“多種族間での『H』との出生率は概ねアルファベット順”
はっはぁ!こんな時でもちゃんと答えてくれるとはさすが俺の脳味噌だ。
そうだ、アルファベット順だった。他種族が“H”umanと交配したときの出生率は
“D”と“E”が同率、“G”と“H”が接戦で最も低いという並びだ。
あくまで科学的な根拠など一切ない極一部のヒューマンの人類学者が提唱した
俗説だが今こそこの迷信に全力で縋らせてくれ。
“この比率はHumanと婚姻した他種族との比率に比例している。つまりヤッたら
ヤッただけデキた人数をカウントしただけ。本当にただの迷信だ”
土壇場で素敵な事を思い出してくれるなんて、俺の脳味噌は実に素敵な
構造をしているね。
ハハハッ、気休めにもならないよ。ああ畜生、ぶっ殺されてもいい、誰か来てくれ!
THE SPANISH INQUISITIONでもいいから誰か来てくれよ!
頼む、誰か助けてくれ!!
* * *
覗き穴にかじりついている丁稚をどうやってどかそうかと、ホセは思案していた。
肩を叩こうが頭をはたこうが、びくともしない。
「なあもう良いだろ、ここでマスかくのはやめろ。親父に言いつけるぞ」
上気した顔で、Adventurer's Innのルームマンの下っ端の制服を着たホビットは
やっと振り返った。でっぷり太り、蚤をばらまいたようにまだらに禿げた中年男の
ホセの容姿は、ボップの劣情を削ぐのに一役買った。
ホセが紙煙草に火をつけようとすると、ボップは慌てて止めた。
「ここは禁煙ですよ」
「そうだな」
薄暗い部屋の中で、ホセはポケットの中から火種の入った銀ケースを取り出した。
そのまま火をつけ、安煙草の煙をボップに吹きかけた。すくみあがったボップを
覗き穴からどかすと、咥え煙草のまま穴を覗いた。
「勘弁して下さい。壁紙を焦がしたら支配人に殺される」
「わかってるよ、任せとけ」
ホセはポケットから銀細工のケースを取り出すと、蓋を開けて中に灰を落とした。
「痰壺ぐらい置いとけよ。親父にそう言っとけ」
「冗談でしょ」
情けない声ですぐに火を消すよう訴えるボップをよそに、ホセは穴の向こうの
ロイヤルスイートのベッドの様子を伺った。
ここは従業員専用の通用口だ。上等な部屋の壁の隙間には、こうした覗き窓が
いくつも空いている。従業員に金を握らせば、冒険で財を成した成金たちの
私生活が覗ける秘密の部屋だ。
穴の向こうでは、エルフの女が、ヒューマンの男に覆いかぶさり、絡みついていた。
両脇にはぐったりした裸の小人女が二人、それぞれベッドの左右の端でだらしない
痴態をさらして眠り込んでいる。
「ここは禁煙だ」
ホセは突然、肩を捕まれ覗き穴から引き剥がされた。眼の前には、肩に
房のある上等な赤い制服を着込んだ、がっしりした黒髪のドワーフがいた。
「やあ、ホール。久しぶり」
ホセはすぐに銀の灰皿で煙草をもみ消した。ホールは煙草の火が消えると
厳格な顔を崩して笑顔で拳骨を差し出した。
「やあホセ」
ホセも拳骨をつくり、ドワーフのこぶしに軽く打ち合わせた。
「たまには店にも顔を出せよ。さみしいじゃねえか」
「そうしたいところだがね。年末は帳簿の整理で忙しいんだ。
なあ、あんたのところはいつになったらクレジットカードに対応してくれんだ?」
「冗談じゃねえ。現金払いだけだ」
「ボルタックのおやっさんみたいなこと言うねえ。お硬いこって」
「そうさ、悪いか。オヤジは若かった頃に空手形掴まされた。それ以来オヤジは金貨以外は
信用してねえ。おれはそういう風に教わったんだ」
「その話はもう耳にタコができるくらい聞いたよ、おっと」
ホールは床のぬめりに気がつくと、後ろで震えているホビットに恫喝した。
「ボップ! また床を汚したな」
ボップはすくみあがった。
「すみません、すぐに拭きます」
「石灰、おがくず、それから石鹸水と布だ。準備だけして部屋の外で待ってろ。
おれはホセと話がある」
ボップは打たれた犬のような返事をして、音を立てずに通用口に駆け出した。
丁稚が部屋から出るのを見送ったホセは両手を広げて言った。
「すげえなこりゃ、大当たりの部屋じゃないか」
「ああ、この部屋に出入りしてるのはあと二人いるが、どっちも上物だ」
ホールはホセの体をどかして、自分も節穴を覗き込んだ。ホールは舌打ちをした。
「なんだあの男。あんな情けねえ野郎が、あんないっぺんに別嬪とやれるなんてな」
「代わりてえか?」
「あんたの店の薬を使うならごめんだね」
「お前ならどれにする?」
ホセは親しみをこめた笑いとともに言った。
「一人だけか?」
「贅沢だな」
「銀髪と金髪」
「へえ! お目が高い」
「あんたの店に並べたいのはどっちだ?」
「どっちも捨てがたいね。あの銀髪は原石だ。伸びしろは十分、仕込みがいがある。
手つかずのままでもいい。ちょっと鼻につくところがあるじゃじゃ馬で、世間知らず。
あんたみたいな奴はその方がお好きだろ?」
「おれは普段のあのエルフを知ってるんだ」
ホールはニヤつきながら答えた。
「需要は大いにあるね」
ホールは覗き穴を見ながら額に手をかざし、目を細めた。
「できれば二人乗りがいい」
「そりゃ品がないぜ、ホール」
ホセは顎の贅肉を引っ張りながら、首を左右に振った。
「あの金髪を調教したやつの手腕には、正直おれは感動しているよ。
モックチャイルドは巨人に人気の商品だ。あんだけ仕込むにゃ
金も手間暇もかかる。アレが動いているところをあんたに見せて
やりたかったぜ。何もしなくても硝子箱の一等席に上げられる」
「あんたがやるならどっちだい」
「そりゃあ、断然茶髪だね。俺用だ。店になんて上げねえ」
「だろうと思ったよ」
二人は友情を確かめあうように笑いあった。
「それであんたの素晴らしい新商品はいつ売り出すんだい」
「ああ、薬か? ありゃ売りもんじゃねえさ」
ホセは覗き穴を見ながら答えた。
「使い潰したガラクタどもに飲ませる用の試薬だったんだがねえ。
ジッドの旦那のお手製だぜ」
「ほう」
ホールは顔を背けるようにして眉をしかめた。
「効き目はまあまあだな。これなら行けるぜ。オツムはすっかりパアになるが、
最後の稼ぎをさせるにゃ上等だ。それにしてもあんなクソみてえな鑑定屋に
こんな上玉の知り合いがいたとはねえ。あーあ、もったいね」
「あんたが言うなんてよっぽどだな」
少しばかりげんなりした顔でホールは言った。ホセは鋭い舌打ちをして、
覗き穴から離れた。
「くそっ、上物三人も使い潰しやがって、あの畜生野郎が」
* * *
宵の空から太陽が追われ、夕日の残り火も西の彼方に消える頃、城内の戸々では
暖かな火が燈り、窓から色とりどりの明かりが零れ、街は、到来する長い冬の夜への
準備を着々と進めていた。決して上げられることのない跳ね橋では憲兵の簡素な
入城検査を待つ冒険者が列をなし、跳ね橋のすぐ側では、仕事熱心な客引きたちが、
一日の行程を無事終えた冒険者から、彼らの得た幸運の一部を授かろうと躍起に
なっていた。跳ね橋を渡ると、多くの城がそうであるように網目のような複雑な道へ
と出る。迷路のような路地の先には、広大な面積を囲む内堀が出迎える。
普通の城であれば、ここに宮殿や、議会場、寺院など、都市にとって最も重要な
政治の中枢機関があってしかるべきである。だが、この国において、
最も重要な機関というのは、議会でも、寺院でもない。堀の内側にあるのは、
交易都市リルガミンが誇る広大なMarket Place(市場)だ。内堀の中央には
東西にメインストリートが走り、東西いずれの道も、堀の内壁につかないうちに、
大きく二股に分かれ、その四本の道が、巨大な四つのアーチへと繋がっている。
このアーチは、外壁の外にあるTRAINING GROUNDS(訓練場)を除く、
リルガミン“五大施設”の表玄関にもなっている。
城内に無事たどり着いた冒険者たちは、皆、一様にして安堵の息をもらし、
命の尊さを噛みしめ、一日を恙無く過ごせた事を神に感謝し、また、仲間の
機転と自らの武勇を褒め称えながら往来を闊歩する。
マーケットプレイスの入り口では、多くのパーティが、“解散”の儀式を行っている。
生死を共にした兵たちが、隊から個へと還るのだ。
ある者は、仲間と別れた後、寺院の『夕べの集い』へと向かい、ある者は、
自らの命を賭け代にして手に入れた武勇伝を土産に歓楽街へと姿を消し、
またある者は、互いを称え合うために、夜のパーティを組み、酒場へと向かう。
この街を最初に訪れたのならば、まずは“酒場”へ行ってみることだ。
もしも君の運がよければ、そこで永遠の友となり得る仲間を見つけられるだろう。
それだけではない。このGILGAMESH’S TAVERNは、新参者に、
この街のルールを教えるのによい教育の場だ。
この酒場の風景は、この街の風情の縮図そのものなのだ。
他所から初めてこの街に足を踏み入れたものは、この酒場の光景を見て目を
むいてしまうだろう。敵対会派が、共に同じ卓で食事をし、敵国同士を故国に持つ
若者たちが、お国での紛争事もどこ吹く風と親しげに会話を交わす。
訓練場では教えてくれない奇妙な魔術で、酒瓶を浮遊させ、余興を披露する司教の
卓に、新人の魔術師たちが群がりその妙術に目を輝かせて見入っている。その傍らで、
仲間の戦士が胡散臭そうな目を向けてエールを飲み干す。『魔法の世界』ならではの
実に珍妙な光景だ。この酒場でカードをやるには注意をした方がいい。
シーフと金属鎧を着れない輩(スペルユーザー)を相手にすれば、財布の中身を
すっかり抜き取られること請け合いだ。城門を潜り抜けた先で見た光景そのままに、
“最下層民”たちもまた、この酒場に溢れかえっている。ここでは、戸外にいる乞食に
加え、いわゆる冒険者以下乞食以上の、辛うじて“冒険者”と名乗る事を許される者たちが
存在する。訓練場で登録した職業とはまた違った、冒険者の間での
肩書きを持つものたちだ。
夕暮れのGILGAMESH’S TAVERNの厨房は、これから押し寄せる冒険者を
迎え撃つべく準備に忙殺されていた。冒険者にとって、食事は特に重要なイベントだ。
探索から帰ったばかりの冒険者たちは、この酒場で食事を取ることが多い。
この酒場はギルドの集会所もかねているからだ。酒場の食事は、大味で品数も
少ないが、非常につぼを押さえた品揃えだ。一風変わった食生活を営む砂の民や、
砂漠より東の国の出身者の口に合うものは少ないが、西国の者が好むような
脂身の多い料理のレパートリーはそこそこだ。特殊な食事は取り扱っていないが、
一般的な謝肉祭や断食月ぐらいには対応できる。味にこだわらなければ、
我慢できなくはない品質だ。
食事をする客の中には種族ぐるみで偏食家の地族(Gnome)も少なくない。
彼らの大好物であり、街では滅多に手に入らない最も素晴らしい飲み物、
『水』があるからだ。
戦場さながらに立ち回るカウンターの向かいでは、冒険者の帰還後に行われる
点呼を間近に控えた“銀行家”たちが居並んでいる。カウンター席の動く壁たちは、
これより到来する唯一にして最も苦しい仕事――自らが、本来あるべきであった姿を
まざまざと見せ付けられる恐ろしい業務、あるいは、彼らの雇い主の虫の居所が
悪い時に行われる無意味な体罰――を目前にして、運命の女神の冷たさを思い出し、
この先死ぬまで繰り返される静かで暗い拷問に耐えるべく機械に徹するために
絶望的な努力をしている。幾人かの者は、束の間その苦しみから逃れようと気晴らしに
励んでいた。具体的な例を挙げれば、擦り寄ってくる街娼と卓を共にする(“床”では
ない。長年銀行をやっているものほど、娼婦の危険性を承知している)、怪しげな品を
押し付けてくる商人に罵声と唾を浴びせる、主にホビットで構成されている
似非少年少女合唱団に金貨のつぶてを投げつける(もちろん、金貨を受け取るために
帽子を差し出した瞬間を狙い、正確に額目掛けてだ)といったものだ。
ちょっとしたハプニング――
銀行の一人が、飲みすぎてうっかり「なんて惨い仕打ちなんだ! おれがこんなこと
されるいわれは無いのに! これじゃまるで“THE SPANISH INQUISITION”だ!」
と口を滑らせたばかりに、赤服の修道士が乱入した事件――を除けば、
それはいつも通りの冬の夕暮れの光景だった。
「これ、なんだと思います?」
カウンターにほど近いテーブル席にいた褐色の少女が、傍らにいたエルフの女性に
話しかけた。袖口の広い長袖のダルマティカを身に付け、上から短いケープを羽織り、
行儀よく閉じた膝の上にミトラ(司教帽)を置いている少女の格好は、鎧こそ
着ていないが、それを除けば、探索業に向かう司教の装いそのままだ。
正装で酒場にいるということはこれから探索に出かける所か、あるいは
今しがた帰還したばかりか。傍らの女性の装いからして後者だろう。
一見どの種族か迷ってしまう可憐な姿のこの司教は、尊大な山岳部の同族が
最も卑下する砂地のドワーフだ。彼らの血はけっして卑しいものではない。
かつてエルフ族からも『最も美しい小人』と称された流浪のドワーフ(シールドドワーフ)の
血を受け継ぐ一族の末裔だ。山を追われた砂漠のドワーフは、体躯は大柄な者が
多いが、ドワーフとしては非常に体毛が薄く、特に女は、純粋なシールドドワーフと
違い、年長者ですら髭を蓄える文化がなく、贅肉も極端に少ない。この地方出身の
Dwarf女に共通して言えることだが、彼女たちはDwarf族であるにもかかわらず、
しばしばHuman族の男の目を数十秒ほど留めさせることができた。
世慣れしていないこの司教の少女は、それよりもより長い間、凝固の呪術を
かけることができるようだ。
「リーダー、あの」
司教の少女は、彼女にしてみれば精一杯の大きな声で話しかけ、エルフの袖を
軽く引いた。端麗な顔の女性は、頬に手を当てたまま、カーチフからはみ出した
銀髪を揺らして振り向いた。
少女の隣に座るエルフの女性は、冒険者とはとても思えないような、まるで街娘の
ような質素な服を身に着けていた。ひとつなぎのカートルからは刺繍こそほどこされ
ているもののカフスの付いていない袖が伸び、頭に袖と同じく赤と薄い緑の糸で
刺繍されたリンネルのカーチフを被っている。そんな質素な身なりにも関わらず、
エルフは司教同様人目をひいていた。元来、エルフ族は非常に繊細な顔立ちを
している。その中においても、一際目立った容姿のこの女性は、白磁の肌に
輝く生糸のような銀髪を持ち、渓谷の伝承の中にある小神族の末裔のように
神々しい美しさを放っていた。しかし、注意深い人ならば、一見高潔で、貞淑そう
な彼女の藍玉色(緑柱石の色、青緑)の瞳に、悪名高い“沼地のエルフ”のような
死ぬまで男を躍らせることができる魔力が宿っていることに気がついただろう。
「え、なに?」
「これ、なんだと思いますか?聖遺物であることは間違いないんですけど…」
司教は、聖別された絹布に包まれた色の悪い腸詰の切れ端のような物を
エルフに差し出した。
「あら、どこでこんなの拾ったの?」
「赤い服の方々が落として行ったものなんですけど」
「赤服?」
「さっきカウンター席の人を安楽椅子に縛りつけたまま連れ去ったあの……」
「ああ、SPANISH INQU…… あの連中ね。ごめんなさい、全然気が付かなかったわ」
「あんなに大騒ぎだったのに、気付かなかったんですか?」
「ええ」
驚く司教に、気のない返事をしたエルフの女性は、再び火時計に見入った。
もう随分と長い時間、彼女は心ここにあらずといった具合で、酒場の入り口と、
目盛りのついた銅板の上でほの暗い店内をちらちらと照らす火時計とを
交互に見つめ、不安げに顔を曇らせていた。僅かな沈黙の後、司教が
決まり悪そうに声をかけようとしたとき、突然エルフの女性が振り向いた。
「遅すぎるわ。宿屋から往復で一時間もかかるわけないのに」
ほとんど独り言のように呟くと、エルフは椅子に手をかけて立ち上がり、
ストールを羽織った。彼女は、ポカンとしている司教の頭にミトラを乗せ、
まるで男のように顎をしゃくって合図をした。
「いらっしゃいフラウド。あの子たちに、何かあったらしいわ」
* * *
最高のバカ面で、俺は天井を仰いでいた。
たまに意識を失いそうになって、数秒で目が覚める。いつの間にか口の端から
涎が垂れている。腰をくねらせて俺の下半身を愛撫していたフローレンスさんが、
俺の首に手を回し、よだれを舐め取った。俺は横を向いて、彼女の顔を見た。
こうして間近で見ると、やはり似てるだけで彼女とくノ一は違うな。色気は
たっぷりだが、フローレンスさんの方が無邪気で子供っぽく見える。
俺の頬を舐め回していた彼女は俺の口に吸い付いた。
あっ、もうこのまま、ここで生涯を終えても良いんじゃないか。いいだろ。
いや、ちょっとまて、このままで良い訳が無い。そうだろ。おそらくこのままでは
くノ一に八つ裂きにされる。
猛烈に勃起してるが、頭はもう賢者の心得を習得する状況まで来たと断言してもいい。
あっ、フローレンスさん、それはちょっと、あっ、はげしすぎぃ、あっ、あっ、あっ、ううぅっ!
……すまん、何の話だったっけか。とにかくだ、なんとかしてここを出ないと。
自分で蒔いた種だが、俺がどうにかして終わりにするんだ。とにかく考えろ。
シャイアやチビが先に寝ちまった理由は、あの媚薬には時間差で作用する
強力な睡眠作用があるということだ。あの二人が特別寝付きが良いってわけじゃ
ないだろう。お楽しみのあとは、時間差で眠らせるなんてまさにレイプ用の
薬ってわけだな! ちくしょう、もう薬なんてやらない。本当だ。
フローレンスさんが眠ってない理由は、あの二人より明らかに摂取量が
少なすぎるからだ。エルフに薬物耐性があると言ったって、個人差程度に
強いってだけだ。
「ふふっ」
耳元に息が吹きかかった。俺の右腕を枕に寝転んだフローレンスさんが、
うっとりとした眠たげな目で俺の頬を撫で回している。間違いない、彼女はもう意識が
なくなりかけている。
素のままじゃ俺のKATINOは効きゃしないだろうが、今ならなんとかなるかもしれない。
幸い両腕のシーツはとっくにほどけてる。やるしかねえ。
俺の首に腕を回して頬を舐め回し始めた彼女に、小声でKATINOを詠唱した。
閉じかけていた彼女の瞳が開き始めた。あれ、やべえ、やらかした、聞かれたか?
とろりとしたフローレンスさんと目があった。効いてる。大丈夫だ。
俺は死に物狂いで、もう一度KATINOを唱えた。
「くふっ」という短い風が俺の耳をくすぐった。
俺の右腕に頭を預けて、彼女は眠った。俺は左手を彼女の顔の前にかざした。
規則的な柔らかいリズムが伝わる。大丈夫、ちゃんと寝てる。
いよっしゃあ、逃げるぞ。うん逃げるぞ。逃げるんだ俺。
いやでも、あと五秒後……いや三十秒……いや二分後には必ず。
駄目だ彼女の寝顔の可愛さが破壊力ありすぎる。
こうなったら訓練場時代のとっときの起床方法を使うしか無い。
俺は心の中で十秒をカウントダウンした。
じゅーう、きゅーう、はーち、なーな、ろーく
「五秒前、四、三、二、いぃいち」
フンッと勢いをつけて俺は左半身を起こした。起きれた。良かったあぁ……。
これ駄目だったら冒険者廃業だよ、鑑定士も名乗れねえ。
俺はそっとフローレンスさんの頭をどかした。彼女に覆いかぶさるように、
両手で頭を持って静かに枕に、そーっと、そーっと……
なあ、あと一回くらいヤっちゃ駄目か?
バカ、バカ、俺のばあかヤロ! 駄目だっての!
フローレンスさんは薬でこうなってるだけなんだ。正気に戻ったら
素手で俺を解体できるんだぞ。無駄な希望は捨てろ。悲しいけど。
ああぁぁ、ここにいたい。こっから離れたくねえ。
俺には勿体ないレベルの美人なんだ。可憐で、清楚で、おっぱいも大きくて、
柔らかくて、セックスも情熱的で。
彼女は今日が初めてなんだ。
そんな彼女の初めてを俺は……このさい責任取って一緒に……
いや、だめだ。俺じゃ駄目なんだ。俺は鑑定士だ。彼女には全然釣り合わない。
俺はただの生きる計算機で、最底辺のゴミクズなんだ……
うっ……ううっ、うっ……くそぉ。
正直猛烈に後ろ髪を引かれてたが、根性と気合で俺は枕元から離れた。
腰から下の両脇をフローレンスさんとチビどもに固められてるせいで、
ベッドから転がり降りれない。しょうがなく、俺はなるべく振動を与えないように
ケツをゆっくりすべらせて足元に移動した。
シャイアとチビは寝てるな。俺は試しに、シャイアの顔に右手をかざした。
よしよし。よく寝てる。しかしこいつも寝顔だけなら可愛いな。
見てくれだけは本当に良いんだよあコイツ。がきっぽい身なりのくせに色気もあるし。
いかん、寝顔を確認したら、変な気分になってきた。
こいつの性格を思い出せ。そうそう。クソみたいに性悪で、口うるさくて
無駄におせっかいだ。
仕事持ってくるときもやたらと挑発するし、仕事中も喧しく話しかけてくるし、
勝手に俺の部屋のテーブルの下の空き瓶片付けに行くし、対人恐怖症と躁鬱で
誰とも会いたくなかった時期だって無理やり押し入って飯置いくし――
あれ、こいつ俺のこと好きなんじゃね?
――んなわけないだろ。何考えてんだ俺。ありえない。
そもそも俺がこうなったのはこいつのせいだし。
こいつは寝覚めが悪いから俺に世話焼いてるだけの小心者だ。
変な気が起きないうちにさっさと行こう。一応チビの方も確認しとくか。
……やばいなこいつ。フローレンスさんやシャイアとは可愛さのベクトルが違う。
これに手を出したら本当のやベえ奴じゃないか。寝息を確認するのはやめだ。
頭撫でたくなりそう。いやいや、うん、その、あれだ。
道端で日向ぼっこして寝ている子猫みたいなもんだ。
可愛いと思っても当たり前だ。
そうだ、ただの子猫、ただの子猫……寝てる子猫に欲情するとか、
余計やばい奴じゃねえか。なんか死にたくなってきた。
こいつにまた変な気を起こすようなことがあったら、俺はもう自室で首を吊るしか無い。
俺はやっとの思いでベッドから滑り降りた。
名残惜しさで、いっぱいの気持ちになり、俺はベッドを振り向いた。
ああああぁベッドに戻りたいよぉ……枕元に飛び込みたいぃ……。
このまま四人で一緒に寝てるほうが幸せなんじゃないか。
頭の中で、俺の理性が“死にてえのかお前”とどすの利いた怒号をきかせた。
そうだ。取り返しつかないことしたが、まだ死にたくない。
なんとか逃げ出して姿を消すんだ。荷物をまとめて故郷に帰ろう。
俺は冒険者に向いてなかったんだ。
俺は急いで身支度をした。俺の一張羅はベッドの下に丸めて押し込まれてた。
ローブを引っ張り出したときに、ベッドの下にまだなにかあることに俺は気がついた。
浅い籠の中に服が入っている。
こ、これは、まさか、くノ一の黒装束ではないか?!
ちょっとくらい、匂いを嗅いでもいいかな?
俺は無意識に籠を引っ張り出して、籠ごと鼻面を突っ込んだ。
ああ、いい、すごい、とっても、いてっ、なんか固いもんに当たった――
籠の中には黒装束の他に、なにか錆びた短刀のような物が抜き身で入っていた。
錆びきっているせいで、何も切れなさそうな短刀だ。こいつは……
「“がらくた”だ」
そうだ。大抵の鑑定士ならそこで鑑定をやめるだろう。だが俺の頭は
この短刀の元の名前を言い当てようとしていた。こいつの本当の名前は、
「“Dagger of Thieves(盗賊の短刀)”」
よし、答え合わせはできないが多分合ってる。手応えありだ。
……いや、何やってんだ俺。一刻も早く逃げるんだよバカが!
着替えるのは至難の業だった。視界が思ったよりぐらついていることに
今気がついた。まともに歩けるかな俺。下履きの薄いズボンを履くところで
俺はようやく気がついた。勃起しすぎてズボンが入らない。ローブの結び目から
立派な息子が元気に飛び出している。これで表を歩いたら目立ちすぎる。
どう見ても変態にしか見えない。ズボンを履くのは諦めて腰に巻いたら
どうだろうか? それはそれで目立つし変だろ。ああくそっ、早くここを
出ないといけないのに……
たしか、くノ一の黒装束、着物状だったよな、腹も下帯で締めるタイプで
胴も広がってるし、これならなんとか下も隠せるんじゃないか?
ちょっとキツイがなんとか入りそうだ。流石に着物なら女物でもなんとかなるな。
袖はあとから絞れるようになってるし。よし、着れた。やはり着物は良い。
これならズボンを腰に巻いても腰袋にしか見えないし。お、頭巾もついてる。
顔も隠せるしついでに着けとこう。ローブの上から着たからだいぶ着ぶくれしたが
これはいいな。股間も何とか隠せる。歩く時ちょっと痛いけどこれなら良し。
ああ、まるでくノ一に包まれているような気分だ。
……いや、何やってんだ俺! これじゃ変態じゃねえか!
いや、だがこれは不可抗力なんだ。何としても目立たないようにしないといけ
ないだけなんだ。俺は断じて変態じゃない。うん。……うん。
突然、俺は外の扉の異変に気がついた。誰かがドアの眼の前にいる。
着替えに夢中で気が付かなかった。まずい。
* * *
「姉さん、開けて」
くノ一は肩で息をしながら部屋をノックした。道中ずっと悪い予感がしていた。
いつもなら、彼女の同僚は、彼女がドアの前まで来ると、ノックする寸前で
扉を開けて驚かすのが常だった。
「姉さん」
くノ一はもう一度、今度は強めにノックをした。返事なし。彼女の中で、心臓の
鼓動が素早くなっていった。なにかがおかしい。鍵は彼女の同僚に預けてある。
中から開けてもらわなければ部屋には入れない。
「姉さん!」
くノ一はドアのノブを何度も動かしながら、激しくノックした。相変わらず返事なし。
ノックをやめて、くノ一は耳をドアに当てて、神経を集中させた。微かだが、
なにか物音が聞こえる。中に誰かがいる。衣擦れの音、引きずるような足音、
聞き覚えのあるような気がするが、彼女の仲間の出す音ではない。
「ねえ、開けて」
くノ一は再びノックをし始めた。そのうち、壊すのではないかという勢いで
ドアを叩き出した。
「姉さん、ムー、フロー、誰かいるの? ねえ!」
くノ一には確信があった。部屋の中に三人以外の人物がいる。くノ一は
カーチフを外し、内側に隠してあるピックの束を抜き出した。
彼女は神経を集中させ、錠前を覗き込んだ。
『ピンが上下にある。それに多層の再施錠機構ね』
くノ一は絶望的な気持ちになった。
『ディスクの向きが不規則。何枚あるかわからない。こんなの無理よ』
それでも彼女は二本のピックを選び出し、残りは口に加えた。
錠前に跪き、右手で一本のピックを差し込んだ。ピックで錠前のほぞの
位置を丁寧に探る。耳と違って、指先の感覚は鈍い。くノ一は、昔の
感覚を思い出そうと必死になった。鈍い手応えがある。祈るように、
左手に握ったピックを差し入れた。
『お願い、開いて、神様、お願い。開いてちょうだい、お願いです。
あの子は無しにして、あの子だけは無しよ!』
左のピックの先が溝を捉えたと思ったが、つるりと滑るような感覚がして、
錠がおりた。この鍵は開けられない。今の自分の腕では何もできない。
視界がぼやけて見える。知らない間に涙が溢れ出していた。
五大施設の錠前は、ニンジャの彼女には荷が重すぎた。
彼女がシーフだったときですら、開けられたかわからない。
くノ一はピックを引き抜き、カーチフにくるんで放り投げるとドアから離れた。
昔のやり方が無理なら、今の自分のやり方で試すしかない。
宿屋のドアは、巨人や悪魔が徒党を組んで体当りしても壊れないと
評判だった。自分より何倍もレベルの高い冒険者たちですら、
ロイヤルスイートの鍵付きドアを壊せた者の話など聞いたことがない。
それでもくノ一は錠前に挑むときよりもずっと落ち着いた気持ちだった。
体をそらしてはずみをつけると、彼女は思いっきりドアにぶつかった。
* * *
宿屋の入口までくると、リーダーはわたしを置いてけぼりにして、あっという
間に駆けて行きました。道中、わたしが走れる限りの速さで歩いてくれましたが、
わたしはすっかり息を切らしてしまいました。
階段を登る途中から、リーダーの声が聞こえていました。
わたしがやっと三階につくと、リーダーは部屋のドアに、凄い速さで何度も
体当たりをしていました。
「リーダー!」
びっくりして、わたしはとっさに止めに入りました。わたしがリーダーの腰に
しがみついたときは、リーダーは恐ろしい力で扉に向かっているところでした。
ドアに押しつぶされて、死ぬかもしれない。わたしはとっさに思いました。
リーダーはしがみついたわたしにすぐ気がついてくれました。
ドアに肩をぶつけるのを、リーダーはすぐに辞めました。
リーダーの頬には涙が流れていました。人がこんなに取り乱したのを、
わたしは生まれて初めて見ました。息を切らしながら、わたしはリーダーに
言いました。
「フロント、鍵、取ってきます」
「私が行くわ」
リーダーは駆け出そうとして、一瞬わたしと目を合わせました。
わたしを一人でここに残すことが不安だったのだろうと思います。
怖さはあったけど、すぐにわたしは「大丈夫、待ってます」と答えました。
リーダーは風のように走り出しました。
* * *
くノ一の声が聞こえる。まずい。もうドアから出られん。俺のバカ。遅すぎた。
なんとかして、なんとかしてドア以外の場所からでないと。
いっそ部屋の中に隠れるか? いや絶対見つかる。トイレに篭って籠城する
ぐらいしか対抗手段が思い浮かばん。そんなことしたら詰みだ。
俺は部屋の中を駆け回った。トイレは二回見た。ベッドルームの窓も、リビングの
窓も全部調べた。入口以外の出口が見当たらない。そして恐ろしいことに、この部屋の
窓はすべてはめ殺しだった。たとえ出られたとしても、この高さから飛び降りたんじゃ
助からない。
突然入口のドアから爆音が聞こえ始めた。なにかがドアを蹴破ろうとしている。
やばい。どうする、どうする俺?
もうどうしようもない。窓から飛び降りるしか無い。だがはめ殺しだぞ。
こうなったらもう窓をぶち破って飛び降りるしかない。宿屋の物品を壊すのは
重犯罪だが、もうこの際仕方がない。
ベッドの下の浅籠にがらくたの短刀があったはずだ。あれを使おう。
俺は錆びた短刀をベッドからひっぱりだし、目星をつけた窓に思いきり叩きつけた。
窓は割れなかった。不思議なことに、手応えがない。それに音もしなかった。
なにかの間違いかもしれない。俺は今度は思い切りよく、短刀をぶつけた。
窓はびくともしない。こんなに思いきりぶつけたのに何の音もしない。
俺は絶望した。窓に近づいて、薄暗くなりかけた太陽の光を透かして見た。
「まずいぞ」
光の反射のしかたがおかしい。ただの屈折じゃない。
この窓、なんらかの魔術が込められている。訓練場の窓と同じ技法だ。
力を込めてぶつかっても、魔力に衝撃が殺されてしまう。
俺は必死に錆びた短刀で窓の四隅やら真ん中やら、あちこちを叩いてみた。
窓枠を叩いたところで、初めて「ゴン」という大きな音がした。
わかったぞ、これならいける。
窓は強いが、窓を支えている窓枠は何の魔力も込められていない。ただの木製だ。
木枠には四隅の金具で硝子窓が取り付けられている。隙間は木材とただの漆喰だ。
宿屋の親父、ケチったな。金具はでかくて頑丈そうだが、まだなんとかなりそうだ。
これなら、木枠を壊すか、金具を壊すだけでいい。いやもっと良いものがある。
なにか魔力の込められたアイテムを使うんだ。それなら、魔法の硝子が逆に
力を増幅して反射する。楽に窓枠の金具を壊せるはずだ。
この元盗賊の短刀じゃ無理だ。魔力が何も残ってない。なんかないか、
この部屋になんか、マジックアイテム。俺は急いでベッドルームを探した。
ドアからフラウドの声が聞こえた。やばい、急げ。
ベッドの下にまだ何かないかと覗き込んで、俺はぎょっとした。得体のしれない
白いものが動き回っている。動物の鳴き声のような奇妙なくぐもった声が聞こえた。
そいつは跳ねるような動きでベッドの下から飛び出してきた。俺は思い切って
そいつを掴み上げた。白い袋だ。端を掴んで引っ張ると、中からゴロンと大きな
何かが転がり出てきた。赤と青のケープを身にまとった、カエルの彫像だ。
全身が金属でできているくせに、生きているように這い回った。
これだ。まさに僥倖。俺は素早くカエルを捕まえた。こういうとき、地元で
培ったスキルが活かされるってもんだ。
俺はリビングに駆け出した。なるべく入口から遠い窓のほうがいい。
ちょうどよく、カエルの口には猿轡が噛まされていた。これはいい、このカエル、
うるさくてかなわんからな。俺は暴れるカエルの足を引っ掴んで思いきり振り回し、
全力で窓にぶつけた。派手な衝撃があった。金属音とともに窓枠が軋んだ。
いいぞ、これならやれる。
俺はめちゃくちゃに窓にカエルを叩きつけた。最初に窓枠の右上の金具が飛んだ。
続いて右下と左上の金具が外れた。もうちょっとだ。窓はもうぐらついている。
猿轡が外れてカエルが騒ぎ出した。俺は構わず窓にカエルをぶつけた。
最後の金具が外れた。同時にカエルが俺の手からすっぽ抜けて窓の外に落ちて
いった。「のーぉぉぉぉ……」という間の抜けた悲鳴がリビングに木霊した。
俺はすぐに部屋のテーブルを椅子ごと窓に近づけて、よじ登って身を乗り出した。
寒い。思ったより、高い。相変わらず勃起が収まらないのに、金玉だけが縮み上がった。
下には雪が積もっている。これなら行けるか? いや、多分無理だ。カチカチに
押し固められて、氷みたいになってるだろう。
明日酒場の掲示板には『速報! 破壊行為を行ったレイプ魔 勃起したまま転落死!』
のニュースが貼られるかもしれない。
バカなこと考えてる場合じゃない。俺はここから生きて帰るんだ。
ああ、すっかり忘れていたが俺はBISHOPだった。
俺は使える限りの呪文を唱えた。PORFICやSOPIC、MOGREFにMATU。
準備は万端だ。地面についたから必ず転がれ。両足で着地したら歩けなくなる。
着地して横に転がる、着地して横に転がる。よし、シミュレーションはオーケー。
あとは飛ぶだけ、あとは飛ぶだけだぞ、おい。
……早く飛べよ俺、呪文切れちまうぞ。落ち着いて、呼吸を整えて―――
突然、入口のドアがガチャリと音を立てて開いた。
俺は振り返った。ドアから宿屋の主人が飛び込んできた。あとに続いて、
くノ一の姿も。
俺は意を決して飛び降りた。
* * *
部屋に飛び込んだくノ一の目に、ベッドの上の仲間たちと肉親の姿が映った。
視界の端の隅で、なにか黒い影がふっと動いたのが見えた気がした。
くノ一は凝固の呪文をかけられたように静止した。悲鳴を上げる前に、
宿屋の主人が奇声をあげた。
「いいいいいいいいぃぃ!」
主人は、壊された窓枠に駆け寄った。テーブルと椅子を押しのけて、
窓枠の破片で手を切るのも構わず、主人は身を乗り出した。
窓の真下には死骸はない。主人は素早く見回した。黒装束の男が建屋の角を
曲がるのが見えた。
「ぎいいいいいいいいぃぃ!」
主人は再び奇声をあげた。
くノ一は悲鳴をあげなかった。代わりに、ドアの外にいるフラウドの所まで行き、
声をかけた。
「入っちゃだめよ」
そう言って、くノ一は廊下にぺたりと座り込んでしまった。くノ一は両手で口を押さえて
嗚咽した。泣きながら、なんとかフラウドに「そこにいて」とだけ言うと、彼女はベッドの
肉親のところに行こうとした。腰が抜けてしまったようで四つ足で歩み寄った。
ベッドの上には仲間たちが酷い有様で転がされている。枕元でうつ伏せになっている
裸の妹の所まで這い寄ると、彼女は妹の頭を抱きしめた。
「ああ、生きてる」
くノ一は、妹の頭を撫でながら呟いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
顔は綺麗だったが、体は酷い有様だ。
「おい、あんた!」
鋭い声がくノ一の背中からかけられた。彼女は妹の頭を抱えて泣き腫らしたまま、
ゆっくり振り向いた。宿屋の主人が恐ろしい剣幕で言った。
「あいつは誰だ?」
くノ一は泣きながら首を振った。
「わからない。私が知りたいわ。絶対に殺してやる」
宿屋の主人は小さく両腕を放り投げる仕草をしてぐるりと視界を回した。
「ホォオル!」
宿屋の主人は、副支配人の名前を大音声で叫んだ。駆け足でやってきた
副支配人のホールに、主人は命令した。
「このレディたちに別室を用意しろ。彼女たちを介抱してやれ。それと修理屋を
呼べ。部屋を片付けろ。今すぐだ」
「はい、総支配人」
ホールは緊張した顔で、すぐに仕事に取り掛かった。
「お嬢さん、申し訳ないが話がある」
宿屋の主人は先ほどとは打って変わって紳士らしい柔らかな声で、くノ一に話しかけた。
「ええ」
「あいつを殺したいんだろ」
「もちろん」
くノ一はえづきながら答えた。
「あなたの力が必要だ。一緒に犯人を探そうじゃないか。
知ってることを教えてくれ」
「ええ、ええ、何でも協力するわ。お願い、あのくそ野郎を捕まえて」
「ようし、ギブアンドテイクだ。犯人は黒装束の男。詳しくは別室で話そう」
ホールが主人に駆け寄った。
「右隣が空きました」
「左は?」
「夜の九時にチェックイン予定です」
「二時間だけ使う。間に合わなかったときに備えてひと部屋用意しとけ」
「はい」
ホールは引き下がった。
「あなたのご友人たちは我々に任せてくれ。お嬢さん、立てるかい?
隣に移動しよう。外で待っている司教の娘さんも一緒に来ると良い」
くノ一はすすり泣きながら頷いた。