あのかたは本当に女王なのだろうか。時どき、グリューエラントはその思いにとらわれる。
そのひと、リルガミンの女王アイラスは即位から歳を経て、今も、いかにも女王らしくない女王だ。
アイラスは慈悲深く優しい。聡明で、人々の声に耳を傾け、公正な治世との世の評判だ。
聡明で公正なら、女王の聡明さと公正さに不満を抱く人々も多い。利害関係のある世の中では。
争いを好まぬアイラスの性格には、もともと女王として決断に欠くところがあって、
貴族たちはたえず引っきりなしに彼女を利用し、派閥ごとにアイラスを操ろうと考えている。
城塞都市の住民たちは住民たちで、無責任に女王を褒めそやし、誹謗したりしている。
巷では、女王の足の爪の垢や、毛髪の一本でも薬になるという話だ。実際にそう信じられている。
庶民の目にアイラス女王は柔和で優しく、親しみやすい。美女は美女として、偉大や荘重らしくない。
だからアイラスは苦労している。悩ましい眉を寄せて。
あなたがもう少し、美しくなければよかった。
女王陛下に仕える騎士であれば、それは大変失礼な物思いであるが、
グリューエラントはリルガミンの女王の臣下ではなく、王宮に出入りはしても、爵位はなかった。
亡き王女の像は庭園に佇み、緑の木陰の落ちる池の端、その水面に向かい立っている。
像は二十歳の若さで亡くなった不幸な王女の、生前の姿を白亜の彫刻に写している。
浅い水辺の、ちょうど岬に立つような王女の横顔は、凛然として整い、
長い御髪は束ねることもなく、今しも風になびくままに留まる。
ゆったりと落ちる袖から軽く両掌を広げ、風に向かい今にも語り出しそうな姿は、
ありし日の愛らしい姫君というより、若くして哲学者の風貌を思わせる。
きまじめで、ひたむきな学究とも見えるその面差しは、現女王アイラスに生き写しである。
亡き王女の名は、彫像のどこにも刻まれていなかった。
それがソークス姫という名であることは、知らなければ誰も知ることがない。
その像はソークス姫がみまかった時、現女王アイラスが思い出に残したもので、
公には、ソークス姫を厚く弔うこともできなかったので、人知れずつくって離宮に置かれた。
ソークスが反逆者として世を去り、いまだ幾年。人々の記憶にある生前の姫は、書を好み、議論を事とし、
常日頃、貴人として着飾ることを好まず、学徒として質素なローブ姿でいることが多かった。
凍るような美貌の王女、人の見るまえでは微笑ひとつ零したことはまれという。
ソークス亡き後に立てられた像は、そのような飾らないソークスの姿を保存していたが、
しかし、人の知らない事実では、その顔貌は御妹であるアイラス姫、つまり現女王アイラスの面わを、
芸術家が模してつくったものだ。
ソークス姫の死後、ソークス自身については肖像画ひとつ残っていなかったゆえ、それはやむないことだが、
アイラスとソークスとは双子の姉妹だったのだから、余人には区別のつくところではない。
でも、庭園にあるその像に写すソークスの似姿は、本当のところは、その日のアイラスその人なのだった。
そして、今現在のアイラス女王より、像はすでに二、三歳は若い。
モデルになったアイラス女王が齢を重ねても、この離宮に留められた姉姫ソークスの姿は、
静謐な水を湛える池の縁にあって、永久に若々しく美しいまま、あるだろう。
今では誰も口にしない、そうした複雑な感慨がこの場所にはあった。
グリューエラントはその感慨を確かめにここへ来る。
失せにしソークス、亡き王女の像は離宮にあり、めだたない庭園の陰にごく内密に記念されてあって、
その像がここにあること自体、王家にごく近い、わずかな者しか知らない。
おそらく女王自身が年に一度くらい、ここへ来て姉の面影を偲ぶのだろう。
グリューエラントは、その像がそこにあることを知っている。
人気のないその庭に、人目を盗むように時おり訪れては、ひとり午後を過ごしている。
孤独を楽しんでいるつもりなのだが、その彼のうしろに、芝草を踏んで立つ気配があった。
庭園の水辺に腰をおろし、木陰の静けさにひたっていると、グリューエラントは彼女が背に立つのが分かった。
その気配なら、むろんグリューエラントには眠っていてもわかる。
彼女は好きなときに好きな場所に現れることができる。
身分証の指輪があれば、このような王家の離宮にも勝手に入っても咎められないが、
グリューエラントの背後に現われることは、彼女のほかにはなかなかできないことだ。
〈瞬き移動〉の魔法で現われたとしか思えない。エルフ娘には、実際にそういう力もあった。
座っている彼の背中を、エルフの少女はつくねんと立って、しばらく、じっと見ていたが、
いつまで待ってもグリューエラントが振り返ろうとしないので、自分からしゃべりだした。ねえ、
「あの盗賊のこと覚えてる。あんたもよく知ってる、ほら、あいつのことよ」
グリューエラントは振り向いた。
「どうかしたのか」
「死んだわ。裏町のうわさで……。やくざ者のもめ事に絡んで刺されたそうよ」
「そうだったのか」
「馬鹿なやつ。町場の盗賊ギルドのしがらみなんて、口を開けば嫌っていたくせに」
顔をしかめないわけにいかなかった。明るい日差しの庭に、いっとき、寒々しい沈黙が落ちた。
グリューエラントにとって友人というほど、その男と親しいわけではなかったし、
仕事の後に酒を飲む以上、私的な付き合いがあったわけではなかった。
だが、この場の二人にとって、一度は生死を共にしたことのある人物だった。
エルフの少女はグリューエラントを立って見つめながら、その前髪には木漏れ日が落ちて揺らした。
きらきらと移ろう瞳の色も、蒼とみどりとの間で、その間にひとつ瞬きした。
彼女の考えていることは表情から全くうかがえなかったが、おそらく、彼には想像できた。
今日死んだというその男と……もう一人の友人、グリューエラントにとっては友人であったが、
その友人については覚えている。彼は僧侶だった。
聖職者の本務は魔物退治《エクソシズム》ではないのだと、その男は常々口にしていた。
彼の言うところによると、そうだ。
僧門に入っても出世するのは簡単ではない。ここリルガミンにおいて信仰とか宗教は名ばかりにすぎず、
金と、縁故と、女の思惑と、権謀術数が支配していることは寺院とて世俗の社会と変わりない。
金も縁故もない、おれなど神学生はこのさき一生うだつのあがらないのは見えている。
そこでは良心は恥ずべきもの、一般社会同様に、敬虔さや献身などはまっさきに笑いものとされる。
「寺院にあっては、僧侶たるべき属性は中立とされる。つまり、王や貴族、世俗の権力から独立というのだな。
寺院の独立・中立を掲げて、その代わりに彼らの信奉しているのはカドルトの神ではなく、
善悪の判断をも放棄した高位聖職者の価値観を占めているのは、彼ら自身の欲望、私利なのだ。
紫の法衣をまとった大僧正も俗物にすぎない。思うさま利殖を欲しいままにする悪知恵に長けていなければ、
善でも悪でも、立派な僧侶にはなれないのだ。おれは、神かけていうが、狭い城塞都市であくせくと稼ぎ、
信徒の心を縛るための偽善の権杖より、無名の辺境で怪物相手に揮う命がけの剣のほうがましだ」
同じ敵として戦うなら悪魔にこそ罪がない――むしろ、死に場所なら軍陣でも、地下迷宮でもいい。
そうした過激な信仰を胸に戦地を求めた若い僧は、その後、念願かなって寺院の正司祭になったが、
先年のある日、グリューエラントは突然に彼の死の知らせを聞いた。寺院の鐘楼に登って転落死したとか。
なんでその日、そんなところに登ったのか、不慮の事故というが、不明瞭な状況の死と、
生前の男の記憶がどうしても結びつかず、グリューエラントは他人事のようにしか思えなかった。
共通の知人が、立て続けに死んだ。だからといって、今の二人には関係のないことではあった。
ドワーフ族の二人の戦士のことなら、それも、グリューエラントは伝え聞いている。
故郷の山の坑道で、落盤に呑まれたそうだ。これこそ可笑しげな話で、仮にもドワーフ族が鉱山事故で死ぬとは。
彼の知るかぎり、連中は殺しても死なない屈強の人種で、そんなことでくたばる矮人どもではなかった。
結局のところ、昔の六人の仲間が、わずか三年後の今、グリューエラントとエルフと、二人しか残っていない。
グリューエラントはリルガミンの女王の臣下の身分でなく、家爵も領地もない曖昧な地位にあった。
当今、誰一人認めぬものはない高名な剣士でありながら、彼自身は城塞都市の騎士団の一員でさえなかった。
彼は「女王の友人」という奇妙な称号を持ち、時には女王から個人的に相談を受けることもあった。
宮廷に近く、政事にはまるで係わりのない彼を選んで、女王アイラスはたびたび、親密な悩みを打ち明けた。
親密に相談されるグリューエラントに言わせれば、
アイラス、あなたが美しくさえなければ……。そればかりが女王に対する思いだった。
「率直にいうと、女王陛下。あなたが美しいからいけないのだ」
「わたしが。なにが。どうして」
若い女王は困惑し、やや首を傾げるようにした。その何気ないしぐさにも魅力があった。
チャーミングというか、どこかしら彼の気を誘うふしがある。
女王陛下アイラスのその日もこぼす欲求不満、尽きぬ悩みは、どうして貴族達は飽きもせず、いがみ合うのか。
わたしは利益調整に奔走し、御璽御名、はんことサインに費す日々を送っているのはなぜ。女王のわたしが。
「それ、そのように。ご自分の影響力を自覚しておられぬ。それが困る。人を迷わせるから」
「わたしが今、なにかしましたか」
「天然自然の御方というのは、ほんとに罪だな。それが女王の天性であるから、お恨みもできぬ」
「わたくしがなにを? どうしろというのです」
女王はグリューエラントを責めるようににらんだ。この午後、お茶に来いと呼び付けたのは女王だった。
アイラス、あなたがそんなに美しくさえなければ……とグリューエラントは心中嘆いた。
愚痴をいうために自室に招き寄せて愚痴をいう、彼の立場で身勝手とは言えない。
女王になるまえ、幼い彼女の教育係であった賢人達もそんな彼女には手を焼いたに違いない。
手を焼き、そして愛したにちがいない。誰にも愛されるべく育つ王女を。
グリューエラントは成り行きで陥ってしまったわが身を呪い、こんな自分の居処を嘆いた。
「もう二、三年。せめて四、五年ばかり、齢を取られるといいんだ。お仕事に没頭なさってくれ」
「わたしにはまだ、貫禄が足りないというのね」
はあ……と溜息をつき、アイラスは小卓に肘を置いて、少女のように慎みなく唇を尖らせた。
「苦労ばかり続くこと。気の休まる日もないのだから」
「ほら、それ。その鬱憤を俺に言うのはいいが、人前で女王がそんな顔をしていいのか」
「今だけです。わたくしは人前で弱音を吐いたりはしません」
「美しいことをやめられなければ、女王をやめればいい」
肘をついた、しどけない姿勢のまま、アイラスは彼に冷たい目をくれた。その目線は凍りつくようだった。
見知らぬものを見るような、一切の親しみの失せたアイラスの冷視は恐ろしく、
その流し目は劇場の女優より凄絶で、淫蕩なまでに毒があった。
「あなたが女王でなければ、俺は忠誠ではなく、愛を誓っていたよ」
女王は無言で身を起こした。真面目な顔で、顔を近づけた。冒険者の瞳を瞳で覗き込んだ。
怒ったり、咎めてはいない。ただ彼の瞳をまっすぐに見つめる、彼女の瞳が大きくなって近づいた。
何を言おうとしているのか……何を告げるでもなく、
曖昧に問いかけた唇が開いて、吐息がもれる。
目をそらすことは許されない。
グリューエラントは近い距離で、一点瑕のないアイラスの美貌を隅々まで見つめなければならなかった。
ひとみも、睫毛も、鼻梁も、やや丸びてきた頬とあごの線も、
なだらかな、露わな肩に落ちる髪の先まで。視界がアイラスでいっぱいになり、
彼女の体臭や、髪の香りさえ感じられるようだった。
引き寄せられる、抗いがたい魅惑と戦いながら、
心臓は締めつけられ、鼓動をやめてしまい、この瞬間がこのまま続けば死んでしまうと彼は思った。
アイラスは悪戯っぽく微笑すると、
「冒険者グリューエラントは、女王では、愛してはくださらないのか」
「陛下の友人として、俺の誠意は変わらない。そのときには命を捨てよう」
「どうしておまえは市城を去らぬのだ、フェー」
フェーと呼ばれて、イールヴァは胡乱な目つきを向けた。
「森に帰ればいいではないか。せっかくの金貨の使い途もないのだろう」
「あんたの知ったこと、狼の尻尾よ。あたしにだって最近の都合というものがあります」
「なさそうに見える。エルフは気楽そうだ」
庭園を渡っていく初夏の風は池にさざなみを立て、水面に落ちる梢の影を白くかき立てる。
そのとき、向こうの岸に建つ離宮は、つかの間、ざわざわと形を乱し、消えてなくなり、
しばらくの後にゆっくりと再び水面に立ち現われてくる。
それだ……その瞬間が良いのだ。
グリューエラントは、それは幻想の雲の中に出たり入ったりする天上の伽藍のようだと思いながら、
彼のそうした美術観を共有する友人は居たことがなかったので、ひとりでそれを眺めていた。
エルフの少女は景色に頓着なく隣にくると、グリューエラントの傍に腰を降ろし、
草にあぐらをかいて座った。衣の裾の短いのを気にせず。
「あんたはこのまま宮仕えに収まっちゃうつもりなの、立ち枯れの柳よ。似合わないわ」
「出世が夢で上京したのだ。今の俺はグリューエラント卿であるぞ。何がわるいか」
「仕事してないじゃない」
「知るまいが、俺とて日々、色々と忙しい」
「どこが」
口調とは裏腹に、イールヴァの瞳は揺れて頼りなく見上げた。そんな顔をされると気の毒になるくらいだ。
何が不安なのだ、エルフの娘……。おまえがそんな顔するのこそ、似合わない。
蓮っ葉な口をきいても整った顔、憎まれ口を叩いても憎らしくない彼女を、愛おしいと思う気持ちは変わらずにある。
昔変わらない仲間、グリューエラントのその思いは、可愛いものをみて可愛いな、と思うもので、それ以上でない。
グリューエラントに友人は多くない。王宮にあっても友人は少ない。少ない同士の、友人なのだ。
家柄や門閥に関係なく女王に遠慮なく直言できる「友人」なる称号をもち、
剣を取っては、武芸は当代並びないものを持ちながら、その剣とて、平和な時世には役に立たず
たまに練兵場に顔を出しても、グリューエラントのすることといえば、尻で道場の床を磨くくらいのもの――
若くて高名は為したものの、実質は日々、空を見上げては欠伸して暮らしている、
直参退屈戦士というものがいればグリューエラント卿のことという。
女王も女王だ、あの方は綺麗な顔をして人を迷わす。ふわふわした友情をもてあそびながら。
もちろん、グリューエラントは女王に対しては女王の幸せだけを願っている。言うまでもなく、彼自身のよりも。
しずかで人気のない、この庭園にグリューエラントが来るのは、自分ひとりの物思いに引きこもるためだ。
エルフもそれは知っているが、居ても決して邪険にはされないので、寄り添うように近くにいて、
何をするでもなく、草をいじっている。
そうさせておけば何時間でも彼の傍で草むしりをしていた。その無心なこと、何もしなさはエルフ特有と思う。
エルフが彼につき合うのは、エルフが優しいからではなく、本当にここに居たいから、彼のそばに居たいから居るので、
飽きればどこかへ行くだろう。そうしているだけでいつまでも飽きないのは、いつまでもそうして居たいからだ。
そんな彼女が、そばにいる事実だけで彼は幸運だと思う。
エルフとは、生まれながらに、愛されるために在るような種族だ。グリューエラントはそう思う。
生まれつき知力と魔力に恵まれ、美形が多く、長生きする。
身体的な頑健さに欠けるというが、腕力がものをいう原始人の間ならともかく、
この文明社会では、彼女のように知能が高くて魅力が高ければ、それだけでだいたい何でも成功する。
そのくせ自然生活者で、彼女らには欲がない。よその種族からみれば、悩みがなくて能天気にみえる。
そうエルフに言うとエルフは怒る。プライドも高いのだ。エルフと呼ばれることさえエルフは嫌う。
たしか彼女らの言い分によると、他種族からは『高貴な一族』とか『善良な人びと』といわれないと承服しない。
それが正式な呼び方とかで自己主張はやたら誇らしい。
グリューエラントがエルフを見るとき、彼の目にはいつも、エルフ族への率直な称賛がある。
エルフを羨ましいとも、なりたいとも思ったことはないが、彼女らの機転の良さなり、魔法の手際なり、
好ましい容姿なり、素敵だなと思えるものはみな、イールヴァの備えている天性の美質だ。
それを褒めてやらないとイールヴァは不満だ。そんなエルフがグリューエラントは好きだ。
暑いな、とグリューエラントは呟き、立ち上がった。池の水辺をいちど爪先で蹴ってみて水飛沫をたてる。
そこで靴を脱いで左右に放り、頭からシャツを脱ぐと、彫像のソークス姫の肩に脱いだそれを投げかけた。
イールヴァはきょとんとしたまま、唐突に目にした彼の精悍な上半身に見とれた。
「俺につき合って泳ぐか、イールヴァ。放埒なヴィリスよ。それともそこで見ているか」
「あんたの裸なんか見たいものか」
妖精の乙女は立って、サンダルをとんとんとし、木立ちのほうへ行った。
腰を振って行く後ろ姿に、好ましい目線を送っているグリューエラントも、今でこそ卿と呼ばれる身分ながら、
けっして人の憎めない、まだまだ若者らしい若者だった。
水は大して深くもなく、ざばざばと膝まで水に浸かってから、グリューエラントはふと、彼の指にあるものを見た。
かつての功業の報酬であり、現在の身分の証でもある、指輪の宝石はけっこう大きなもので、
宮廷に上がる用でもなければ、剣術の訓練にはしばしば邪魔で外す。
水に落としたり、失くしたりするとは思わないが、裸になって、それだけ身につけているのは変な思いがした。
指輪を抜いて岸に上がるところで、彼は、彼を見つめる視線を感じた。
水際にたつ、彫像のソークス姫は池のほうに向いているので、普段、水に入ってみなければ正面から顔は見ない。
意外なことに、この場所に何度もたびたび訪れていても、
グリューエラントは彫像のソークスと正面から目を合わせたことがなかった。
こう見ればすばらしい美人だと思う。それは彼の日頃知っている女王アイラスと同じ顔なのだけれど、
現在の女王よりは二つ三つ、若いので、姉なのに、今はアイラスの妹かと見紛う。なんて愛らしい、と。
弁論家のように、堂々と両手をひろげ、語らうのは天地の神か、精霊か――もっとも
今、まっすぐ視線の先に立っているのは、裸のグリューエラントになるのだが、
彼は初めて好意をもって彼女に微笑み返した。
水から上がって、ソークス姫の指に指輪を通すと、彼は池にもぐり、しばらくのあいだ水浴びに興じた。
ややあって、存分に水泳に飽きたグリューエラントは、シャツと靴のある岸辺に戻った。
ぐしゃぐしゃの髪を拭き散らしてから、傍らの像から指輪を取ろうとしたが、そこで手をとめ、首をかしげた。
像の差し出す左手は薬指をやや折り曲げ、どうしたことか、そのままでは指輪が抜けなかった。
水に入るまえ、指輪をはめたときには、確かに指は伸びていたはずだ。でなければ指輪も通らない。
彼は、戸惑い、ソークス姫の横顔を見たが、彫像は彫像として何も答えはしない。
風に向かい語ろうとする姿のまま、学者めいた表情はどこか誇らしげにさえ見えた。
奇妙には思えど、グリューエラントはもう一度、彼女の手をとって撫でた。
どうしても、像の指を壊しでもしなければ、指輪は抜けそうになかった。それは忍びない。
「イールヴァ、来てくれ。どこだ」
声が届くとエルフは木立の間から顔を出した。やはり近くにいたらしい。
彼女を招き寄せて、あらためて像の手を見たグリューエラントは、
「指輪がない。消えてしまった」
「なんのこと」
のんびりやって来たエルフに、彼は手短に事情を説明した。
泳いでいるあいだ、指輪を像の手にはめていたこと。折り曲げていた指は元通り、伸ばされて、
怪しいことが起こった痕跡はどこにもなく、ちょっと目を離したすきに指輪だけが消えた。
イールヴァは疑念たっぷりに彼のほうを見た。信じないのは無理もない。
彼にもわけがわからない。何食わぬように風を見つめるソークス姫の像が無性に憎らしく、腹がたった。
グリューエラントは途方にくれてしまった。
「困った。あれが無いと王宮に入れない」
「そういう問題じゃないでしょ。あんた、ソークス……様の指に、指輪なんてはめて、一体なんのつもり」
「どんなつもりもない。不慮のことだ。まさかこんな奇怪な」
そういえば、そういう昔話があるな、とグリューエラントは思い当たった。
無考えに、女神像に指輪を与えたせいで、女神に愛を誓ってしまったという騎士の話だ。
何世紀もまえの古い神殿に、昔の神々の像が立ち並んで残る。そこで暇つぶしをする若い騎士達のひとりが、
球戯の合間に、女神像の指に指輪をはめてやった。ちょうど今のグリューエラントのように。
そのあとで彫像の手から指輪は消え失せてしまい、
それ以来騎士は、夜ごと、夢ごとに訪れる美しいヴェヌス神の訴えを聞くはめになった。
毎晩、ヴェヌス神は寝床に来ては、指輪をくれた以上、これは正式な婚約なのだから、
責任をとって結婚してくださいと訴え、
さもなければ、人間の男に約束を反故にされた女神は、耐えがたい恥をこうむるのだから……と、
哀願を続ける女神に悩まされ、その若い男は日に日に病み衰えていくのだった。
呆然自失しているグリューエラントをエルフは冷たい目で見ていたが、
「あんた、まさか女王様のことを……」
「くだらんことを言うな。これは造り物だ。ソークス姫はとうに亡くなってこの世におらぬ」
それはもちろん、俺たちが……グリューエラントは言いかけて、
イールヴァの顔が引きつり、恐怖に染まるのを見て口をつぐんだ。
エルフを落ち着かせるために、グリューエラントは今思いついた、騎士と女神像の昔話をした。
「その、おとぎ話では、終わりはどうなるの」
「普通、男は死ぬのではないか。徳の高い高僧がいて、悪霊を追い払ってくれる話もあるが、その場合には高僧が死ぬ」
僧侶ならすでに死んでいた。当時の仲間の六人中、四人が死んでいるのは偶然だろうか。
運命《フェイト》にしてはまだ二人生きており、偶然《チャンス》にしては確率より高いと言わざるをえない。
イールヴァは疑わしげに、
「それ、本当なの?」
と言った。彼にしても、なんとも言えなかった。思いつきを話しただけで、自分でも現実のことと思えない。
グリューエラントはひとまず落ち着いて、客観的にものごとを考えてみた。
まず、ソークスは神話の神々と交感できるほどの稀代の魔術師だった方なのだから、
亡くなったあとも、冥府から手を下して復讐するくらい、できるのかもしれない。できなさるだろう。
仮にそんな不思議なことがあったとして、不思議とはいえまい。が一方、グリューエラントは、
ソークス姫自身のお気持ちとして、そんなにまで自分達が恨まれているとは意外だった。
だって、ソークス姫の反逆と死について、当時無名の冒険者であった彼らに責任があるとは思わない。
そして、他人事のように、あくまで無責任と考えている自分に気づき、彼は赤面した。
ソークス姫がどのような方であろうと、姫自身のお気持ちは、姫自身に聞くしかないことだ。
それを何の気なしに、彼女の指に指輪をはめてしまったのは……この際、弁解の余地なく彼の責任だ。
グリューエラントは彫像の手をずっと握っているのに気づいた。それを離した。
「ソークス姫を捜さなければ」
「指輪を取り戻すの。でも、どうやって」
「黄泉の国まで求めなければならないか…」
「Oops! You are in rock! ...」
エルフは「お手上げ」のしぐさをし、がっくりと肩から力を落とした。
「かわいそうなソークス様。でもあたし達が悪くないじゃないか!」
その仕草が大げさなので、グリューエラントはかえって気楽になった。
「元気出せ、金髪の悪戯娘。厄介事を負ったのは俺であって、おまえではない」
「そんなの分からない――」
恨めしく口走ったものの、錯乱したエルフはとっさに新しい呼び名を思いつかず、台詞につまった。
「グレー、グリュー、灰色犬の耳。あんたがどうなっても構わないけど、呪いや祟りなら、次に死ぬのはあたし」
「エルフェよ、おまえの指先は真珠みたいな爪をしてるな。いつか触れてみたいと思っていた」
少女が青い目を見はり、固まっている隙に、グリューエラントは彼女の手をとって頬に押し当てた。
「おまえの手に触れたぞ。これで、俺は死んでも心残りは一つなくなったようだ」
「馬鹿、あんたはやくざ者のすすき星だ」
「おまえを愛しているが、今そんな場合ではないな。助けてくれ、イールヴァ。おまえの魔法使いの腕が必要だ」
階段を上がるとそこは質素な書斎になっていた。彼等の前に女王とそっくりの女性が現われた。
この異次元空間において人の姿を見ることさえ奇怪。ましてこのような――ぎょっとしてすくむ彼等をみても、
彼女の方ではそのような反応は予想のうちというように、軽く諒解と、侮蔑の視線を投げてから、
前置きなく次のように言った。
’そなた達がどう思おうが、この世界はいったん破壊する必要があります。
’わたくしの邪魔をせぬように。
それだけ言うとあとは無関心に、衣の裾を曳いて彼女は奥に消えた。当然ながら彼等は後を追うが、
そのまえに怪物が立ちはだかった!
戦闘を経て追跡した彼等は、迷宮の未知の領域に踏み込んでいった。彼等は追い続けていった。
いつしか、洞穴の石壁はごつごつした木の根に覆われ、その根は互いに絡み合い、無数の網の目を作っていた。
行くてを塞ぎ、這い回り、邪魔をする木の根を彼等は押し分け、踏み越えて進むうち、
気づけばふと、彼等自身が厚く積もった腐土を踏んで、高く低く葉を茂らす梢の下、
数多い太い樹幹の根もと、見知らぬ森の中にいるのを知って驚嘆した。
そこで目にする樹々の名も、這いつく蔦草や花々の名も、彼等は一つとして挙げることはできなかった。
葉ずえを透かせば、見上げる天上には二つも三つも月が浮かび、見たことのない星座が散らばっていた。
それが夜なのか昼なのか、彼等は目覚めているのか、現実に夢のあいだにいるのか、彼等には判別がつかない。
空と森とは、ともに異様な妖しい色合いをおびて紫に揺らめいていたし、そこで見た生き物は何ひとつ、
這うものも飛ぶものも、語れば現実のものとは思われないものばかりだったからだ。
ただ、木立ちを裂いて女の甲高い声が聞こえた。それは歌や音楽というには耳に心地よい調子を伴わず、
法廷で読み上げる訴状や弁論にちかい。内容は哀訴とも、悲歌ともつかぬ言葉で、聞き取れるかぎりでは、
ヴォータンよ! フライアよ!
死にゆく神々
太古の霊たち ここに訴える
わたしの声をきけ!
異形の森
七つの月の下で
去りゆく青春
人類の黄金の時代を
懐かしく思うものは、きけ!
愛することも
愛されることもなく
生きるかぎり、かぎりなく絶望する
わたしの絶望を、受けよ!
声は痛切なソプラノで訴える、断片的に意味のわかる言葉はそのような叫びだった。あとは意味不明の言語だった。
彼等のまえに樹々が途切れ、大きく開けた広場が目に飛び込んでくると、そこに群集している大勢の者たちは、
角のある者、背に翼をもつ者、
尻尾をもつ者、大きすぎる者や小さすぎる者ばかりで、
ひとりとして【まとも】な姿をしている者がいないところを見ると、
この異次元空間の住民がこぞって集う集会場がその広場だとわかった。その、
禍々しい化け物のまん中に、ソークスはいた!
彼等を見るや、彼女は朗唱をやめて沈黙した。彼女のいう「七つもある月」を一身に受けて立つローブ姿は、
清らかに、青白く燃えるように輝いて壇上にあった。その神々しいくらいの眩さに感じいって、
四囲に集まっている異形の住民は、ひれ伏し拝み、四列の歌唱隊《コロス》が称賛した。
彼等を見るや、彼女はきっと眉を吊り上げ、目を怒らせ、
やはり分かってはもらえないようですね。ならば、この場で私が始末しましょう――と、言った!
その台詞がおそらく、彼女が最後に発した意味のある言葉だった。
見た目はたおやかな麗人といえ、ソークス姫はリルガミンの賢人達に直に学んだ魔法の修行者であり、
博覧強記は師を越えて当代随一といわれた碩学でもある。
魂を離脱して霊の旅のあいだに、冥界に秘匿された知恵の蜜酒を口にしたため、
古代の魔法語《ルーネ》を流暢にしゃべることができ、それを現代の日常語と、宮廷雅語をまじえて話しているせいで、
感情の昂ぶった彼女の言葉を理解できるものは彼等の中に全然いなかった。
彼女はその後も狂女のように金切り声でまくし立てていたが、剣を持って近づく者たちはもはや聞く耳もたなかった。
彼女はだから、異形の住民たちに命じて彼等を殺すように頼んだ。すると、住民たちは快く彼等の殺害を受けあった。
そこで凄惨な殺し合いが行なわれ、虐殺が始まった。
彼等はたった六人を数える敵でしかなかったが、六人に対して無数を誇るはずの住民たちは、
不甲斐なくも打ちかかるたびに斬り倒され、飛びかかれば叩き潰され、蹴散らされ、焼き殺される有り様だった。
やがて住民たちはみっともなく逃げまどい、一人が逃げ出すと、雪崩をついて森の奥へ走った。
悲しくも、いちばん勇敢に戦ったのが彼女、ソークス姫自身で、手ずから振るう剣の技とまやかしの魔術は
彼等に舌を巻かせるほどの強かな腕前ではあった。しかし、やがては戦いに長けた彼等の手玉に取られると、
彼女の美しさも、聡明さも、魔法の祝福も、王家に生まれ、幸福を保証された将来もすべて御破算になった結果、
血に濡らされてしまった彼女はもう、無力になって横たわる屍でしかなかった。
彼女が頼みにした異界の住民たちといえば、早々に逃げ散って、あとは彼女が最後に殺されるところを、
森の樹々の間から覗き見、臆病に盗み見、彼女がどのように死んでしまうか、しきりに噂しあっていた。
彼女の死んだとき、誰も悲しんで泣くものはおらず、中には手をたたいて喜ぶ者さえいた。
そのようにおぞましい取り巻きを従え、邪悪な儀式を熱心に実行していても、もし彼女に褒められる点があれば、
「それでも彼女は美しかった」ということだけだ。
どんなに才能にすぐれていても、美貌に恵まれても、しょせん邪悪な意図に囚われた者にはすべて無駄に終わり、
破滅のもとであるとは、カドルトの寺僧たちが好んで口にすることなので、ここでくり返さない。
才能といえば、そもそも、王女ソークスに生まれつきそれほどの才能を有していたのは、不思議だった。
絶大な魔力と才知、それと王家の生まれの尊さとに関係があるかというと、
血を分けた双子の女王アイラスにそれが見られないことを思えば、なお不思議なことだ。
知恵や学識は研鑽を経て長年築かれるもので、若くして、天才的に身につくのはやはり普通でない。
魔法の力も、普通には、ただで棚から降ってくるものではない。それを求めて、
自分の手足や、体の一部を切って捧げるもの、近しい家族の生命を捧げて魔界と契約する者もある。
かけがえない魂を売り払って魔力を欲しがる者もいるのに、それでさえ、異界や、神々の世界には届かない。
それを思うと、ソークス姫が生まれつき持っていたのは何なのか、容易には理解のできないことであった。
とにかく、彼女を追う者も、相応の何事かを犠牲にしなければ、現在の彼女の域には近づくことができず、
師として彼女を教えたリルガミンの賢人たちも、今となっては彼女を理解できなくなった。
彼女の見ていた世界を同じレベルで眺めることは常人には無理なことだ。誰にも。
彼等は、すでに弱りきった彼女を遠巻きにし、呪文封じと恐怖の結界に閉じ込めたが、
それでも強力な剣の反抗を警戒し、不用意に間合いに近づき、最後の止めをなかなか与えなかった。
重ねがさね呪詛によって弱められた彼女の気力は、しまいに戦意を保つことさえ難しくなった。
たびたび膝は折れ、剣を支えに、瞳に意思を燃やして、絶望と諦めが心に侵入するのを必死に防ごうとした。
そこに、遠間から槍が突き入れられた。
刺し通した槍の柄を握り、彼女は一声、古代語を呟いて絶命した。意味は解らなかった。
死ぬまでに烈しく抵抗したため、ソークス姫は致命傷以外に無傷では死ななかった。
大事に育てられてきた乙女の肢体に幾つも太刀傷を負わされ、ローブはずたずたの血染めになっていた。
それを見れば芸術家は嘆くだろう、天工の繊細な腕は骨折し砕けてしまっており、
誰にも見せたことはなかったはずの、はだけて無垢の胸乳の合間には、刃物が刺さって台無しにしてしまった。
王家の正統として屈辱であろう、槍先を身体に突っ込まれる死に方をしたソークス姫の末期は、
決して安らかな、綺麗な死に顔でもなかった。苦悶と、無念さに流した涙と、吐血と嘔吐に汚れた彼女の顔は、
そんなに汚れてもまだ美しさを完全に損なうことができず、
そんな悲惨な死に顔さえ、崇拝する女王アイラスの顔とそっくりだったために、彼等を動揺させた。
裏切られ、捨てられた童女のように泣き顔をして死んでいる、女王の姉姫の死に姿を見て
殺害者たちは後悔し、われわれは取り返しのつかぬことをした。無残なことをしてしまった、と囁きあった。
彼等は王姉ソークス姫を弑した。だがそれは、ソークス姫が反逆の魔女だったからに他ならない。
そんなにも彼等が呆然としていなければ、彼等の周囲に、いつの間にか植物の蔓とうごめく根が伸びてきて、
横たわる王女の手足にまで這い寄っていることに気づいただろう。
気づいたときには、蔓と根とは泥棒のように王女の遺骸を掠め取り、蔦で編んだ輿に抱えあげて運ぶと、
あっけに取られて彼等の見る間に、幹と枝のなかに遺骸を仕舞い込んでしまい、
その後は、異界の樹々は何事もなかったよう、元通り口をつぐんだ。
それを見た彼等は、ソークス姫の遺骸は世界樹《イーグドラシル》の幹に埋もれ、呑まれたと知った。
王女の亡骸は異郷の土となりぬべし――と、そうなっては奪回を断念せざるを得なかった。
いまは姫の形見とて、ただソークスの剣を持ち去らん。そうして、姫の佩剣を地上に持ち帰ったのだった。
異次元を去り地上に戻る彼等の、帰城する一行の先を行って、知らせはすでに城塞都市に知れ渡ったが、
王城への道は、賑々しい凱旋というわけにいかなかった。そこには英雄を称える鳴りものも、弦の音もなく、
戦勝を告げる喇叭のかわり、葬送に似て憂鬱な、人々の口ずさむ哀歌《ラメント》が聞かれた。
次の間にて謁見を待つあいだ、彼等はまるで裁きを待つ罪人のように怯えた。
現われた女王その人の麗姿に、亡くなったソークス姫の姿を重ね合わせ、今もまた彼等は震えた。
そして女王アイラスは、姉ソークスの形見を受け取り、彼等の悲しい報告を聞いた。
長い沈黙の後で、女王は静かに話し始めた。
「あなた方の働きにより、このリルガミンに平穏がもたらされました。まずは、御礼を言わせてください。
そう、なんとなく分かってはいました。このような日が来るのを……。
姉は姉なりの理想を追い、あのようなことをしたのでしょう。私は、大切な人を失いました」
女王アイラスその方にも、袂を分かった実の姉の心、姉姫の理念や、欲求、感情も、
結局は何一つ理解できなかったことを、悲しくくり返し、女王もまた沈鬱な物思いに顔を伏せた。
やがて彼女は顔を上げた。女王として、女王たるべく。
この受難と試練をこえ、儚くも美しく、微笑を浮かべて――
「でも、かけがえのない友を得ました」
愛すべき微笑。
イールヴァよ何をする!
グリューエラントは片目を押えて膝を突く。不覚であった。
形見の剣を手にしたとき、魔法使いのエルフ娘の目が、ぐるんと回り、色を変え、赤々と燃え始めたのを
不覚にも見落としていたのだった。
イールヴァは血に濡れた剣先をうっとりと眺め、負傷したグリューエラントにもうっとりと眺め入った。
「傷をつけてあげたわ。あんたはあたしのものよ。本当、人間って見ていないとすぐ死んでしまうから」
あたしのグリュー、エ、ラン。微笑して口許に呟いている。
その呟き声こそ彼女のものとは思われない。悪意にみちて、
――片目になったな、片輪が似合うこと。おまえだからそうしてやったのよ。
おまえにそうなって欲しかったのよ。
その目でわたしを見るがいい。
世界を半ばに見るがいい。半欠けの目に見えるのは、
よきは半欠け、悪しきも半欠け、
真実はうそ、美しいはみにくい、この世のものはこの世にない。
一振りで血を跳ね、エルフは刀身を爪でなぞった。
胸元のアミュレットがひとりでに落ち、腰から膝を伝っていって、しゃららんと鈴の音を立てた。
わたしを知るものはどこにいよう。この世の誰がわたしを知るだろう、
この世にないものをどこに求めよう。この道に先達は多いものの、この汚れた末世では、
獅子髪のヴァル、砂漠の王サフィヤーン、誰よりわが父祖のあだ、ウェールドーナ、
東方にてはジンニスタン、彼の地にあってはアヴァルンの、麗しの魔術の王たちは、今はどこに行ってしまったやら。
わたくしを知ってくれるものは。
魔剣に魅入られ、その傀儡となったか、イールヴァ!
仲間の呼び声にエルフ娘は、一瞥をやって、ふふんと憫笑をくれた。剣の傀儡、わたしが?
――さりとも異時空を徘徊するうち――思い出す、あるとき、
かの妖刀なる村正を手にした侍をみたことがあるが、その侍は、妖刀の無類の切れ味に魅せられ、
みずからが自動機械のように化生の魔物を斬って斬って倒していた、あれこそ、まさしく村正の傀儡であった。
とりとめなく笑って、少女は目を細め、戦友らを見くだした。
浅ましやな刺客たち。いくばくの金貨と引きかえに、そなたら大事な一つきりの命、この場に捨てに来たか。
陽の下の女王アイラス殿に尽くす忠節はどれほどか。そういって冷蔑した。
ドワーフの二人がいきなり打ちかかった。少女のしなやかな手に持たれた、華奢な細工の剣は、
戦士の打ち振る直身の両刃をがっきと受け、軋むほど刃を食い合わせた。金属音が異次元空間に鳴り響いた。
鉄塊のようなドワーフの筋力を、エルフの細腕が軽々と止める。信じられぬ膂力だった。つぎの瞬間、
返す刃は二人のドワーフの首を並べて切り飛ばした。
グリューエラントには信じられない光景だった。イールヴァよ何をする!
冷然と耳のないように、エルフはグリューエラントに斬りかかった。そのまえに盗賊と司祭を斬った。
動揺しつつも、グリューエラントは剣と剣を合わせ、その一瞬にイールヴァを殺す覚悟をきめた。
殺らなければ殺られる、しかない。魔剣に意識を奪われたエルフ娘を救うことは諦めた。
だが次には、組み打ちを試み、抵抗するエルフを盾と鎧の下に押し伏し、手首を捉え、剣をもぎ取ろうとした。
グリューエラントの思うより先に、一連の動作は機械的で、彼女には剣を使わせなかった。
押し倒された体の下でエルフの目だけがぎらぎら輝いて憎悪を燃やした。
組み敷かれて剣は振るえなかった。しかし唇が動いた。次のように。ティーラ・ターザンヌ・ウィーアラウフ、
『はやき風と、光よともに――』
そこまでで止んだ。呪文は完成しなかった。
顔と顔の間近で、グリューエラントは危険きわまる呪唱を最後まで終わらせなかった。
彼自身の唇が、古代言語でしゃべるエルフ娘の唇を塞いで言わせなかった。
身体はぴったり重なったまま、重なり合う二人の間、重なった唇のあいだからは、
むっ、とか、んん、とか、喉音で呻く声が洩れたが、それは到底、おそるべき破壊の効果を発しはしなかった。
鼻をつまんで口を塞がれ、エルフは窒息しそうになって死にものぐるいにもがいたが、
だからといって、グリューエラントはすぐに唇を離すわけにいかなかった。
そのうえ、自分の甲冑でエルフ娘の体を押し潰さないようにしているので、決して楽な芸当ではなかった。
ふっと抵抗が消え、少女の身体が脱力した。そうなってようやく、グリューエラントは彼女を解放した。
力を失った手のひらから、魔剣は簡単に離れ、グリューエラントはそれを遠くに蹴りやった。
失神した少女の半開きの口の端に涎が伝った。
気絶してはいるものの、彼女は生きていた。その短い戦いで、二人を残してパーティは全滅し、
グリューエラントも剣さばきに体中切り刻まれ、片目から血を流していた。
膝を立てて起き上がろうとすれば疲労と失血でふらついたが、
かろうじて殺さずに済んだエルフを、いま死なすわけにはいかない。
彼女を抱き起こそうとして、初めて、グリューエラントはそれがエルフ娘ではないことに気づいた。
抱けば折れるほど華奢なエルフより、肩幅と臀に肉体的な重みがあって、衣服には薫香が香った。
荒々しい接吻のあとに自分の腕で気を失っている女性が誰なのか、グリューエラントにはわからなくなり、
まじまじと彼女の顔から爪先から見回したが、やはりわからなかった。
乱れて額にかかる髪を払えば、美しいリルガミンの女王、面影はアイラスその人と酷似しながら、
理性では、こんなところで、こんなになっている、その女性が女王アイラスであるはずはなかった。
アイラスであってはならなかった。
それは生き身のソークス姫だった。
『やはり分かってはもらえない。分かっては』
『なにを彼女は犠牲にしてそれほどの魔力と才を得たのか。妹にあって、姉が失ったもの』
それを名残りに、彼は夢の記憶から覚めた。
目を開き、気づいたときはテントの下だ。
見回すと隣の寝袋にエルフ娘が休んでいる。妖精が眠っている。
彼の夢から覚めるのを待っていたように、周囲で一斉に虫たちが鳴き出した。
夜、周囲を包む虫の声は寄せ返す海の波のようだ。そのただ中に彼と、眠っているイールヴァと、
大海の小舟のようなテントに二人。二人きりの旅だった。
都を遠ざかれば、森と湖水の間を行く旅だった。荒野の夜はわびしいものだ。
女王の友人たる身分を証す、証の指輪は手にないのだから、
現在の彼、グリューエラント卿にも、卿と呼ぶべき称号はない。彼らは無名の流浪者にすぎない。
汗が冷えて肌寒かった。夢に、この手に抱いたはずの温もりは、まだ手のなかにあるように思えた。
グリューエラントは身を起こし、エルフの寝顔を見つめた。
長いことそうして見つめていた。
かつての仲間の生き残りである、少女の寝顔は平和で、穏やかだった。あれから何か月が経ったろう。
見つめる彼といえば、彼の頬はこけ、憔悴していた。恋にやつれた若者のように。
闇のなかで見つめていると、冒険者グリューエラントの片眼は緑色に光った。
ダバルプスの穴が塞がれたあとも、その眼なら、どこにもない異次元への入口はどこにでも見いだせる。
その眼にはあの世が見えた。その眼があれば、荒野をさすらっても目的地を見うしなわないのだった。
グリューエラントとイールヴァは宮廷を辞してリルガミンを去った。今も旅を続けている。
城塞都市を遠く離れるほど、かつての王宮の記憶は遠く、おぼろに薄れる。
リルガミンの女王と過ごした時間も。称号も地位も、友情も忠誠も、今はすべて幻のように去った。
ひとつの思いだけが確かだ。彼はかんがえる。この世にはひとつのクエストしかない。
人の世の誰がなんと思おうと、果たされなければならない、ひとつの思い。
そのような思いがあれば、それはなんだろう。
この旅は果てしない旅だろう。いくつもの次元を渡り、夢を越えて行くだろう。
なぜなら、夢で聞いた叫びが今も耳に谺している。その叫びが胸にあるかぎり、
冥府に落ちても悔いはない。その先に彼女がいるなら。
そのために世界はひとたび滅び、幾たびも破壊されねばならない――
グリューエラントは幽鬼の笑みを浮かべる。だからソークス、魔女王よ、
俺はきっとあなたの思いを解き明かし、あなたの心を見つけ出してみせるぞ。