辺りには死臭が立ち込めていた。
時折衣擦れや水気を帯びたものがつぶれるような音が聞こえるも、生の息吹が感じられる気配は何一つなかった。
地面には今しがたついたばかりなのだろう赤黒い血が広範囲にわたって染みを広げている。
血だまりの中には何かが横たわっており、そこに群がるように人影が集まっていた。
3、4人はいるだろうか。横たわっているそれに手を伸ばし強引に引きちぎっては貪るように口に運んでいる。
つけている衣類といえば腰巻くらいで、全身に斑点が浮かび不気味なほど変色した緑色の皮膚からは異臭を放つ体液が滴り落ちていた。
キャリアー。アンデッドである。
今しがた命を奪った冒険者の新鮮な内臓を我先にと奪い合い、決して満たされることのない飢えを紛らわすべく喰い荒らしていたのだ。
背後には巨大な影が2つ、その様を楽しむかの如く静観していた。
一人は重心がうまくとれないのか時折体を揺らし、その都度ぼろぼろに破れた衣服から濁った腐液と皮膚までもがもげて落ちる。
ジャイアントゾンビ。この地下迷宮から発せられる呪力によって蘇ったこの巨人もまたアンデッドである。その瞳には生気の欠片もない。
もう一人は片足を失っているらしく、失った断面を地に着けもう片方の膝を立てて重心をとり、さながらそこにいないかの如く静止している。
顔には無機質な表情を浮かべ、衣類は一切羽織っておらず、背には巨大な4枚の鳥の翼が広がっていた。
邪神マイルフィックである。
ダバルプスの呪い穴と呼ばれるこの地下迷宮で、彼らと遭遇した冒険者たちは不運にも全滅という結末を迎えたようだ。
マイルフィックは目を細めた。
先刻彼の肉体(左足)に傷を負わせた冒険者たちは幾度かの攻防の後に撤退したのだが(テレポート呪文マロールによるようだ)、
新たに訪れた者たちは術師が先に屠られたこともあり、キャリアーたちに喰われているあの一人を残し完全に消滅していた。
わずかながら口の端を吊り上げ彼は笑みを漏らした。(今回の主はすこぶるご機嫌がよいようだ)
だがまだ血が足りない。神々の封印を破る(少なくとも障壁を弱める)にはより強大な魔力の礎となる供物が必要、目指すべくは地上にある。
とはいえ今はまだこの喜悦に酔いしれるとしよう。
彼は改めてキャリアーたちに食い荒らされている最後の一人を見やった。そのままキャリアーに仲間入りさせるのも悪くはないと思い至る。
ふと自らの左足に視線を移した。わずかに残っていた傷痕は再生能力により完全に消えてなくなっていた。
そういえばおかしな尖兵に会った。
会うや否やこの傷を手当てするという。こんなもの、少し経てばすぐに戻るものを、それでもと熱心に訴えてきたのだ。
無駄な作業をあえてするという愚かさに半ば呆れ果て、それでいて興味をそそられたために行為を許可した。
思えば戦闘以外でこの肉体に触れさせたのは初めてだったかもしれない。
見返りが狙いだったのだろう、案の定我が魔力を奪い取った愚かな尖兵共、生死の確認もろくにしてはこなかったが気晴らしにはなった。
気まぐれでもぎ取った右手の人差し指の爪と引き換えに尖兵……夢魔サキュバスたちの肉体を奪うだけでなく心をも虜にさせたことなど
彼の記憶からはとうに薄れ去っていた。
つと、視線の先で何かがうごめいた。人間ほどの大きさを持つ物体が地を這ってきたのだ。それは2体いるようだった。
人間が地を這いずるにはあまりに無駄のない動きと、手足を持ちながらもその背後に伸びた蛇の如く長い尾を確認するにあたり
マイルフィックは大よそその正体を把握した。
トカゲ……メデューサリザードかゲイズハウンドあたりだろう。血の匂いに釣られてきたか。
距離は遠く離れていたが向こうもこちらの気配を察したらしく、いったん動きを止めた。2匹ともこちらを凝視しているようだ。
ジャイアントゾンビとキャリアーたちはトカゲの存在に気づいていないらしく、未だ目の前の憐れな冒険者に執着していた。
「ありがとう。もういいわ」
ふとこの玄室内の淀み切った空気を振り払うかの如く澄んだ女性の声がした。滑らかな響きに辺りが一瞬静まり返る。
その声に反応してか、トカゲたちは数歩引き下がり全身を地に伏せた。(よほど飼い慣らされているようだ)
そして後ろから声の主……澄んだ声音に相応しい美貌をたたえた女性が一糸まとわぬ姿で現れた。白い肌が惜しげもなく周囲に晒される。
長いブラウンの髪で隠れてはいるがわずか乳当てだけは身に着けているようで、背には暗緑色のコウモリの翼が広がっていた。
その姿にマイルフィックはしばし視線を奪われた。見覚えのある女性だったからか、無表情ながらじっと彼女を見つめている。
彼女もまた熱いまなざしで彼を見つめ返した。艶やかな紅い唇に笑みが宿る。その唇からやはり聞き覚えのある台詞が紡ぎ出された。
「マイルフィック様、捜しておりました」
女性は恭しく一礼をした。その姿に合点がいったのだろう、マイルフィックは再び目を細めた。
彼女は先ほど相対した尖兵、夢魔サキュバス(Aのほう)だったのだ。彼女に釣られてか本心からか、彼もまた口の端を吊り上げた。
それは彼女が生きていたことに対する称賛とも、もう一人(B)が見当たらないことに対する嘲笑ともとれた。
いずれにせよ彼にとってはどうでもいいことだったのか、次の瞬間には一切の感情が読み取れない無機質な表情に戻っていた。
「この度、主に生贄を捧げにまいりました」
予想だにしなかった次の言葉に、一度は視線を宙に戻したマイルフィックは再びサキュバスを見ることになった。
射抜くような視線を彼女に向ける。その無言の問いかけに答えるかの如く、サキュバスは凛として言葉を続けた。
「主のお心を惑わせて離れぬ、人間族の血にございます」
瞬間マイルフィックから言い知れぬ怒りと興奮が走った。発せられた妖気が地を震わせチリチリと音を立てる。
その事態に戸惑うことなくサキュバスは主を見つめ続けた。主は一度彼女を睨みつけたが視線はそのまま後方に向かう。
果たしてそこには人間がいた。
冒険者の一人を捕らえてきたのだろうか、胸当てをつけ全身をプロテクターで固めた女性がメイスと盾を構えその場に佇んでいた。
その装具からマイルフィックは彼女が尼層……かつて自らを魔界に縛りつけた忌々しい神々を信奉する聖職者であることを理解した。
怒りと興奮が新たなる喜悦に変わる。
主の気の乱れに示唆されてか新たな獲物の出現に歓喜してか、思い思いに彷徨わせていたゾンビたちの濁ったまなざしがいっせいに
彼女に向けられた。
遠い古の時代、その当時は地上に君臨していた神々と、異界(特に魔界を指す)の神々との間で争いが起こった。
邪神マイルフィックは他の神と一時の提携を結び(今でもその存在を確認できるのはカマキリとムカデの合成体サイデルである)
地上の神々に戦いを挑むもこれに破れ、共々魔界の奥底に封印されることとなる。
彼にとって地上の神々(後に天界に移動するも精霊神グニルダだけは永く地上に残ったなど諸説があるが定かではない)はもちろん、
その現し身である人類もまた等しく憎悪の対象であった。
今より約1000年前、強大な魔法文明が築かれていた時代において、その膨大なエネルギーの流出により次第に歪められた次元空間。
神々の施した封印は破れずとも、弱められた次元障壁より自ら思念体を具現化させることに成功し(このときは五体満足だったようだ)、
地上に数百日に及ぶ暴風雨を巻き起こし、数多の配下を率いて世界を破滅に導いた。
その際、人類に強大な魔法を多用させ次元障壁をさらに弱らせるべく、魔法都市のみ侵攻を遅らせ追い詰めていったのだ。
ついに人類は禁忌と呼ばれる破壊呪文を用い、地上と魔界とが限りなく近づく絶好の瞬間を得た。
だが、奇しくも彼は撤退を余儀なくされる。
およそ人類に与するなど考えもしなかった不死王(後のバンパイアロードである)との一戦で手傷を負い、
人類の施した山をも消し飛ばすほどの破壊力を持つ呪文の直撃を受けたのである。
その威力は魔界に縛られた本体にも少なからず衝撃を与え、態勢を整えたときにはすでに次元障壁はその効力を戻していた。
地上におけるあらゆる魔法技術が一瞬にして消え去った……そう悟った瞬間だった。
それから約1000年もの間、唯一暴風雨の中で生き残った古都リルガミン付近を中心に再び侵攻を試みるも地上に姿を現すことは叶わず、
ただただ神々と不死王含む人類への憎悪をのみ募らせていったのである。
マイルフィックは値踏みするかの如く眼下の生贄……尼僧を眺め見た。
整った目鼻立ち、形よく尖った顎、色づきのよい唇はきゅっと結ばれ、少し癖のある長いコバルトブルーの髪がその白い肌を際立たせている。
サキュバスを妖艶な美と呼ぶなら彼女は清楚な美と呼べるだろう。神々しい(彼にとっては忌々しい)ほどの美貌であった。
ただ一つ違和感だったのは、そのまなざしには恐怖や憎悪は感じられず、近しい言葉で表現するなら憂いや悲しみを帯びていたことだった。
吐き気を催すほど腐臭が蔓延し、ゾンビたちの食い入るような視線の中でも彼女は平静を……慈悲の心を保っているように見えたのだ。
その健気とも言える姿にマイルフィックはよりぞくぞくと興奮が駆け抜けた。
この偽善者をどう醜く変貌させてやろうか…!
彼にとって地上の神を信奉する聖職者をその手にかけるということは、憎き神々と人類双方への見せしめに等しい行為だったのだ。
体の奥が熱く疼く。
「何ガ 望ミダ?夢魔サキュバスヨ…」
尼僧に目を向けたまま、主はその手前にいる尖兵、夢魔に名指しで問いかけた。
今まで一度も呼ばれたことのなかった名を口にされ、夢魔は歓喜に胸を躍らせた。
「いえ、望みなど……私はただ、絶対なる主に祈りと供え物を捧げに参っただけにございます」
あくまで慎ましやかに言葉を返す。
その言葉に主は目を細め、初めてのどの奥から低くくぐもった笑みを漏らした。視線を尼僧から夢魔に滑らせ再び短く言葉を紡ぐ。
「ソウ易々ト 我ガ魔力ヲ 奪エルトハ 思ウナ」
夢魔は妖艶に微笑んだ。
さながら何を当然のことを仰るのかと言わんばかりに紅い唇をわずかに持ち上げ、小さく首を横に振る。
「とんでもないことでございます。私が主に強く心惹かれたのは魔力ではなくそのお人柄。
……先ほど望みはないと申し上げましたが、もしたった一つわがままをお許しいただけますなら……」
少しだけ間を置き、マイルフィックの視線が注がれる中、夢魔サキュバスはかねてより渇望していた願いを口にした。
「今一度、主とそのお肌を触れ合わせたく存じます。今度は指ではなく…」
言いながら自らの肉体をまさぐり始め、艶かしい視線をマイルフィックの下半身に向けた。
「その熱いおからだで」
瞬間彼の右手が反応し、視線を下(恐らくは自身の下半身)に滑らせたのをサキュバスは見逃さなかった。
一度は視線を彼女に戻すもまたすぐに外し、しばし宙に彷徨わせる。口も固く閉じられ、ぽつりと言を発した。
「何ヲ 馬鹿ナコトヲ…。引キ裂カレタイノカ?」
サキュバスは再び視線を主に戻し、甘えるような声音で答えた。
「その熱く狂おしい殿方のおからだに貫かれるなら本望にございます」
マイルフィックからそれ以上返答はなかった。
先ほど彼女たちに左足の手当てを受けた後、ほんの気まぐれで二人の肉体を弄んでいたが(よほど気をよくしたのだろう)、
自らもまた彼女たちの手で絶頂に導かれ、思わず腰をよじらせるほどに全身を駆け巡った淫らな快感が思い出されたのだろう、
耳の近くまで裂けた口を奇妙に歪ませ、何度も開いては閉じ直している。
生唾を呑み込んでいらっしゃるんだわ。
サキュバスは容易にその心理を察した。彼女は殿方の見せるこの戸惑った表情や仕草を見るのがたまらなく好きだった。
ああ、もっと主のお心を翻弄してみたい…!
「この望みはこちらの生贄にも同じにございます」
サキュバスはさながら計算通りと言わんばかりに微笑んだまま言葉を続けた。
あまりに想定外の連続にマイルフィックは再び彼女に目を向けざるを得なかった。
「主よ…。
同じ生贄でも主よ、彼女はあなた様を崇拝しあなた様にすべてを捧げた尼僧プリーステスにございます」
驚愕のまなざしが生贄に向けられる。
プリーステスと呼ばれた生贄は一歩前に進み出た。ゾンビたちが唸り声を上げるも主の妖気に威圧され再びその動きを止める。
その一連の流れすら気に留めず、彼女は恭しく膝をつき、メイスと盾を置き、両の手を組んでマイルフィックに祈りを捧げた。
「主よ、生涯のうちにその御姿を拝見することが叶うなど、私は何と幸運の下に生まれ出たのでしょうか…!」
その清く澄み切った声音は疑いようもなく歓喜に満ちていた。
本来聖職者とは神への信仰を力の源として人々に癒しと安らぎを与える者たちである。
他者の心を受け入れることで前へ進む勇気を与える者(善)や自身の意志を貫くことで他者の自立や成長を促す者(悪)など
戒律や宗派によって違いはあれど、その役割にさしたる違いはない。
だが、神の道から外れた者たちは得てして邪な神への信仰に身を投じ、その能力を生贄を捧げるための殺戮にのみ行使するのである。
(特に地上に生命が誕生したときから存在するとされる死神王デスは不死を望む者たちの間で密やかに信仰されているようだ)
プリーステス。総称してそう呼ばれる尼僧たちもまた例外ではない。
なぜかくも若く美しい人間の女性が邪教に身を委ね、地下迷宮を訪れる冒険者たちに敵意を抱き襲いかかってくるのか。
その寿命の短さから欲望のままに生きることで勢力を広げ、次第に信仰の心が薄れていった人間という種族の悲しい性ゆえか。
あるいは志高くこの地下迷宮を訪れるも、闇の呪詛や狂気に精神を侵され、あるいは支配され、自我を手放してしまったのだろうか。
多くの冒険者は彼女たちを敵とは見なしておらず、接触を避けることも多いため真実を突き止めた者はいない。
今ここに生贄として捧げられた彼女もまた、いかなる事情があったのだろうか、かつて地上に君臨していた光の神々から目を背け、
異界より現れた破壊と混沌の神マイルフィックにその生涯を捧げたのである。
プリーステスは無心に祈りを捧げている。その表情は穏やかで至福に満ちており、およそこれから捧げられる生贄とは思えない姿であった。
これからこの憐れな尼僧は引き裂かれ、四肢をもがれ、すべての生体エネルギーを奪われ消滅という最期を遂げるのである。
生贄の真の意味がわかっていないのか、それすらも受け入れた上で至福を感じているのか、マイルフィックは即座に判断できなかった。
あの狂信者共の中にこんな小娘がいたか…?
主は方々で密やかに自身を崇拝している邪教徒たちを一人一人思い返してみた。
だがいかなる記憶力を以てしても、生贄を捧げることはあっても自ら進んで生贄になるなどという馬鹿げたことをする者はいなかった。
そのほとんどは地上の神々の加護の足りなさ、人類の醜さに絶望し、破壊と混沌の先に訪れる新世界に生きようとする者たちであった。
主を信仰し、生贄を捧げ続けることで自らは難を逃れ、さながらノアの方舟に選ばれた者の如く主と共に生きていけると信じているのである。
信じる者は救われる?愚かなり、信じようが信じまいが神は確かに存在し、万人に等しく恩恵と裁きを与えるのだ。
ただそれらのどれを恩恵と呼びどれを裁きと呼ぶか、神と人類との価値観に相違があるだけのこと。
マイルフィックが再び地上に降臨した暁には、熱と風の祭りの再開に向け彼を崇拝する信者たちを利用するだけ利用した挙句、
最後にはエナジードレインを施し自らの糧とするかもしれない。
だとしても彼らに与えられるのは、万人とは違う特別に与えられる「名誉ある死」である。果たして彼らはそれを恩恵と呼ぶのだろうか。
今目の前にいるこの尼僧は何と呼ぶだろうか。
やはり彼女の姿は記憶になかった。洗礼を受けたのがつい最近なのか、あるいは集団に身を置かぬ単独の信者だったのか。
だとしてもやはりこんな小娘には覚えがない。だが身分を偽っているようにも見えぬ。
いずれにせよ所詮は供物。すぐに殺すのは惜しい、その至福が絶望に変わってゆく様を存分に楽しませてもらおう。
マイルフィックは気を取り直し、改めてプリーステスを眺め見た。彼女もまた形式的な祈りを終えたのか、顔を上げまっすぐ彼を見つめた。
その瞳はやはり穏やかで、恐らくは生涯をかけて崇拝する主に生身で出会えた喜びと、それでいて一抹の悲しみをたたえていた。
「主よ…」
色づきのよい唇が小さく彼を呼ぶ。彼は返事をするでもなく無視するでもなく、黙って彼女を見下ろした。
それは次の言葉を待っているようにも見えた。少なからず彼女に興味を示しているのだろう。
「あなた様と、一つになりとうございます…」
彼女は戸惑いがちに、それでいてはっきりと想いを告げた。
その告白は果たして生贄としてか、女としてか、いずれにせよ彼に衝撃を与えたのは事実だった。
彼は微動だにせずじっと彼女を見つめる。
「あなた様にこの身のすべてを捧げるため、今日まで純潔を守ってまいりました」
彼女はぽつりぽつりと告白を続ける。
「どうかこの卑しいプリーステスめにご慈悲を……」
両の手を強く組み、潤んだ瞳を主に向けた。
「この命を捧げる前に、どうかその腕に抱いて下さいませ…」
それは紛れもなく先ほどの夢魔と同じ、女としての願いであった。聖職者にあるまじき告白にマイルフィックは再び口元を歪める。
だがその澄んだ瞳は彼女が決して虚偽を口にしているわけではないことを証明していた。
彼女は今日で終わる生を受け入れた上で、主との出会いを喜び、自らその命を捧げ、その上で最期の願いを告白したのである。
「…我ガ 肉体ヲ 求ムルカ…」
ずっと黙っていた主が低く重い声を発した。そこには少なからず戸惑いが感じられた。
プリーステスとサキュバスはまっすぐ彼を見つめる。その潤った瞳は彼の胸元や下半身にも向けられた。
熱い視線が自身の肉体に注がれていることに気づき、主はますます表情を歪めた。
行為を求めている雌たちを前にしての雄の本能か、下半身は疼き、熱を帯び、やけに唾液が分泌される。彼は何度も生唾を呑み下した。
「ドイツモ コイツモ…」
あの尖兵が肉欲に走るのは今に始まったことではない。それが職業と言っても過言ではないほど夢魔とは性に乱れた下級悪魔共だ。
ただその相手に自身を選ぶ神経は理解しかねるが(物理的に考えて合体など不可能でありふざけているとしか思えぬ)、
およそ先刻殺されかけたことに対し何をか企んでいるのだろう、さしたることではない。
だがあの尼僧だけは解せぬ。自身のために貞操を守ってきた?抱いてくれだと?尖兵によけいなことでも吹き込まれたか。
聖職者が神に身を捧げ純潔の誓いで縛るのは、邪念を振り払うことで得られる悟りや自然の理、本質を身につけんがため、
具体的に神に抱かれるとかそういう問題ではない。
いや、神に身を、肉体を捧げるのだからその神に抱擁や合体を求めるのは自然でもある。理屈で考えれば至極道理の通った言動なのか。
待て待て、今我(われ)が一番苦にしているのは死を前にしながら我を崇拝するだけでなくなぜ性的対象にまで見るのかということだ!
「……」
「……」
「……」
しばし沈黙が続く。その時間すら愛おしいと言わんばかりに美女たちは主を見つめ続けた。
主は雑念を振り払えないのか視線が一点に定まらないようで、少しだけ立てている膝が内側に揺れた。
お体が疼いていらっしゃるんだわ。
サキュバスは容易にその心理を察する。
言葉攻めだけであの狂おしい男性器を取り出すことができるかしら?きっともっと感じさせてさしあげれば…。
自身を狂わせた主の熱い男根を思い、彼女も等しく体が疼き出したようだ。
「…支配ニ 必要ナノハ 力ダ」
突如主から発せられる妖気が強まった。とっさにトカゲたちが二人を庇うが如く前に進み出る。
「我ニ 触レタクバ…」
主はトカゲには目もくれず、低く重い声を響かせながら美女二人を見下ろした。
「力ヲ 示セ」
主の妖気から解放されたのか、今まで動きを止めていたゾンビたちがいっせいにこちらに歩き出した。
両の腕を力なく落としふらふらと近づいてくるキャリアーの後ろから獲物をつかもうとするが如く腕を前に出したジャイアントゾンビが続く。
「あんもう、マイルフィック様ったら照れ屋さんなんだからっ」
サキュバスの陽気な突っ込みが玄室内に響いた。
この地下迷宮最下層では、邪神マイルフィックはもちろん、不死王にしてかの大魔術師ワードナの朋友であるバンパイアロードや
地獄の道化師の異名を持つ妖魔フラック、上級魔族のアークデーモンやライカーガス、他にも巨人族や不死生物など、
数多の異質で強大な魔物たちが彷徨っている。
だが不思議なことに、相容れぬ関係でありながら彼らが互いに攻撃、干渉しあうことはない。(一部例外を除いては)
無秩序と思われるこの最下層で統制がとれていることから、彼らにすら忠誠を誓わせ、ダバルプス亡き後の迷宮を実質的に支配する
陰のダンジョンマスターが存在するのではないかと囁かれている。
そんな中、統制を大きく乱し時に魔物同士の諍いを起こすのが先述のマイルフィックである。(特に因縁のあるバンパイアロードとは
すこぶる仲が悪いようだ)
今回もまた、本来冒険者たちに襲いかかるはずの不死生物たちに新たな呪詛を施しその方向を転換させ、
配下でなくとも同族であるはずのサキュバスたちにけしかけたのである。(ダンジョンマスターにとって恐らく彼は一番厄介な存在だろう)
次第に近づいてくるゾンビたちを一瞥し、サキュバスはプリーステスに問いかけた。
「これは神からの試練よ。耐えられるわね?」
「はい!」
プリーステスの凛とした返事に満足げな笑みを浮かべ、サキュバスは再びゾンビたちに向き直る。
彼らを睨みつけ、自身もまた戦闘態勢に入るべく妖気を高ぶらせた。
「1ターンで済ませるわよ」
言うが早いか、プリーステスはすでに前へ進み出て詠唱を始めていた。キャリアーを見つめ祈りを捧げる。
次の瞬間、キャリアー二人がうなり声を上げ何かにつまづいたかの如く前のめりに倒れた。
すでに腐敗、変色しきった肉体からはどす黒い妖気が湧き上がり、そのまま上方へゆらゆらと立ち昇っては消える。
解呪。
プリーステスは彼らにかけられていた呪いを解いたのである。奇跡とも言える成功率であった。
倒れたキャリアーたちを見つめプリーステスは再び祈りを捧げる。
どうか、どうか安らかに……。
ダバルプスの闇の呪詛が渦巻くこの地下迷宮ではあまりに空しい願いであった。
肉体を完全に消滅させない限り、彼らは再び動き出すだろう。
残ったキャリアー二人は何かを感じ取ったのだろうか、二人ともプリーステスに襲いかかった。
それは再び解呪されることへの怖れとも、自らもまた同じように安息へと導いてほしい願いともとれた。
だが彼らがプリーステスに触れる間もなく、一人はトカゲの尻尾に振り払われもう一人はその鋭い牙に咬まれることとなる。
そのままキャリアーたちは動かなくなった。
咬んだほうのトカゲが口を放すと、キャリアーは不自然な体勢のまま固まっていた。皮膚は灰色に変わっている。
石化。
このトカゲは蛇に手足を生やしたような細身の胴体に長い尾を持つ爬虫類で、迷宮内では小型の部類に入るようだが(人間大ほど)、
接触した相手を石化する魔力を秘めている。
メデューサリザード。攻撃力自体はさしたるものではないが、迂闊には近寄れない魔獣である。
プリーステスは先ほどキャリアーたちが喰い荒らしていた冒険者の下へ駆け寄った。膝をつき被害者を見つめる。
恐らくは豪華な皮鎧だったのだろう、引き裂かれたその下からは抉り出された臓物とわずかに膨らみを帯びた乳房が見えた。
どうやら盗賊の女性だったようだ。
彼女はすでにキャリアーの体液にまみれウィルスに侵されていたらしく、濁った眼球は見開かれ宙を睨みつけていた。
今にも動き出さんばかりの形相にプリーステスは悲痛な表情を浮かべ、再び一心に祈りを捧げる。
しかし二度も奇跡は起こらないのだろう、開かれた眼球は変わらず、わずかに発していた妖気はさらに強くなっていった。
それでもプリーステスは祈り続けた。
すぐにでも救助隊を呼び、解呪及び治療と蘇生を同時に行えば彼女はまだ助かるかもしれない。
また、消滅したであろう他の冒険者たちも、この最下層に眠る神秘のアイテムを用いることでその肉体を現世に取り戻せるかもしれない。
彼らが再び地に足をつくことができるかどうかは、彼らの運次第である。
マイルフィックは一連の流れをじっと静観していた。しかし口元は引きつり、禍々しい眼球には明らかに怒りが見て取れる。
我を、崇拝しているだと?
彼はことさらにプリーステスを睨みつけた。彼女の為した行為のすべてが彼にとっては苛立ちを掻き立てるものでしかなかった。
邪教に身を置く者にしては、あまりにその身にまとう気は光で溢れていたのである。
ふとプリーステスの背後に閃光が走った。それはバシバシと音を立てて火花を散らし、四方八方に飛び散る。
彼女が振り返るとジャイアントゾンビがふらふらとよろめき大きな音を立てて仰向けに倒れる瞬間が見えた。
「あなた方、先に倒すべきはあちらでしょう」
女性とも男性ともつかない中性的な声が玄室内に響く。声の先には淡い緑色の衣を羽織っただけのおぼろな姿があった。
それは人の姿のようで、肩ほどまで伸びた癖のある金の髪と背には何枚もの翼が揺らめいているのが見える。
肌は白く透き通り、一見した限りでは善の化身、天使と見紛う姿であった。
セラフ。
熾天使とも呼ばれ、本来なら天使のヒエラルキーの最高位に位置する6枚の翼を持つ美しい天使であったが、
この地下迷宮に現れるそれは神の不興を買い、力のほとんどを失った最下位の天使と成り果てている。
この天使も例外ではなく、姿こそ善の化身のようではあるが、その暗くよどんだ瞳にはもはや誇りも希望も感じられない。
かつて天界において多くの反逆者を輩出してしまった報いなのだろうか。
かの堕天使にして後の悪魔王サタンであるルシファーや蝿の王たる大悪魔ベルゼバブなどもかつてはこのセラフであったと言われている。
上級魔族アークデーモンもまたそうであったらしく、天界を追放された後に闇へと身を投じ、自ら悪魔へと姿を変えていってしまったのだろう。
彼らが再び天界に招かれる日はもう来ないのかもしれない。
ジャイアントゾンビが倒れている間にプリーステスは急いで後退した。
被害者である盗賊の女性に気を取られていた隙にこの巨大なゾンビは攻撃をしかけようとしていたのである。
間一髪であった。
ジャイアントゾンビは何度かもがいていたが立ち上がり、再び濁った眼球をプリーステスたちに向け近づいてくる。
「邪魔された…!バディアルが効いてない」
「一撃で仕留めるわ」
戦闘の様子をうかがっていたサキュバスはすでに自分の役割を心得ていたのか、呪文の詠唱に入っていた。
だがジャイアントゾンビもまた開いたままの口をさらに大きく開けた。
「待て、ブレスが来る!」
とっさにメデューサリザード2匹がサキュバスたちの前に躍り出た。ブレスに備えるべく身構える。
サキュバスたちもまた身構え防衛体勢に入った。
何かが強引に引きちぎれるような、つぶれるような、嫌な音が玄室内に響いた。
一瞬何が起こったのかわからなかった。気がついたときにはジャイアントゾンビの頭部が半分つぶれかかっていた。
しばしふらふらと歩いたものの、さすがのゾンビも頭部が不満足では動けないのか、大きな音を立ててうつ伏せに倒れた。
サキュバスたちは呆然と立ち尽くし、動かなくなったジャイアントゾンビを見つめる。
ふと翼の羽ばたく音が聞こえたかと思うと、次の瞬間目の前にはこの戦闘の当事者であるマイルフィックが立っていた。
ジャイアントゾンビの頭部をつぶしたのは他ならぬ彼だったのである。
マイルフィックは嘲りの表情を浮かべながらサキュバスたちを見下ろした。右手を伸ばしプリーステスを鷲づかみにする。
突然のできごとに彼女は少なからず怯えを見せた。サキュバスたちも身動きがとれずにいる。
その様がたまらなく楽しいと言わんばかりに主は彼女たちを嘲笑い、自ら顔をプリーステスに近づけた。
先ほどまで自らの意志で操っていた兵をいともたやすく蹴散らしておきながら、何事もなかったかのような振る舞いである。
彼にとってゾンビたちは気晴らしの道具に過ぎないのか、彼らも元は人間であるということにやはり憎悪を抱いているのか……
恐らくジャイアントゾンビは頭部が損傷したために動けなかったのでなく、彼によって麻痺させられたか、かけられた呪詛を
操作されたかしたのだろう。気が変われば再びこの邪神の遊び道具として、消滅するまで憐れな姿を晒すことになるのだろう。
主は目を細めながらプリーステスに問いかけた。
「愚カナ人間ヨ、我ガ 力ヲ 求ムルカ。破壊ト混沌ノ先ニ 何ヲ望ム?」
「……醜く愚かな人間たちの滅びを……。崇高なる主のお創りになる楽園を……」
プリーステスはさながら教本を朗読するが如く、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
主はなおも目を細め、低くくぐもった笑みを漏らした。
「ククク、狂気ニ駆ラレタカ、愚カナ人間ヨ。
破壊ト混沌ノ先ニ 訪レル世界ガ 楽園デアルト 本気デ 信ジテイルノカ?」
挑発するかの如く問いかける主に、プリーステスは唇を震わせながらもまっすぐ彼を見つめ言葉を返した。
「主のお創りになる世界そのものが楽園でございます」
「……」
何を当然のことをお聞きになるのかと言わんばかりに何の躊躇いもなく答える彼女を前に、主は言葉を切った。
この娘の脳裏には一体どんな世界が広がっているというのか。
ふと気がつくと彼女は両手を胸元に構え何かを囁いていた。その視線の先には主の人差し指がある。
前回サキュバスたちと相対した際ほんの気まぐれで爪をもぎ取った指である。
「ダールイ、ザンメシーン……生命に、力を……」
人差し指が温もりに包まれた。彼女は主の人差し指に治療魔法ディオスをかけたのである。
実際のところ、人差し指の傷は再生能力によりすでにふさがっており、彼女の行為はまったくもって無駄なことであった。
鉤爪までは再生されていなかったために負傷していると勘違いしたのだろう。(鉤爪は自然に伸びるのを待つしかないようだ)
治療を終えてもなおプリーステスは憂いを帯びたまなざしを主の人差し指に向け優しくさすっている。
初めて彼女を見たときに見せていたこのもどかしいまなざしは、自身のこの人差し指に向けられていたのだろうか……。
マイルフィックは興味をそそられた。
彼女が望んだからではなく、自ら彼女を抱きたいという衝動に駆られたのだ。
所詮は愚かで脆弱な人間だ、一度痛覚と恐怖を呼び覚ましてやればすぐにでも音を上げて命乞いをしてくるだろう。
彼には確信があった。
「コノ腕ニ 抱クニハ 余リアル。シバシ待テ」
主は一度プリーステスを下ろし、立ち上がった。
プリーステスは何を言われたのかわからなかったらしく、きょとんとした表情で主を見上げている。
主は不機嫌な表情を浮かべ、プリーステスを睨みつけた。
「貴様ヲ 抱イテヤロウト イウノダ。二度モ 言ワセルナ」
「あ…」
彼女は驚きの表情を見せたが、すぐに喜びと恥じらいに変わった。
頬は高潮し、両の手で口元や胸元を押さえ、これから行われるであろう初めての行為に期待と緊張を募らせる。
サキュバスもまた思惑通りに事が進んだと言わんばかりに妖艶な笑みを浮かべ、二人のやりとりを眺めた。
主は一歩後退し、妖気を体内に凝縮させているのか全身に力を込めている。
つと、砂漠に吹く熱風のような非生物的な咆哮が空間を震わせた。主が咆えたのである。その無機質な響きの呼気はしばし続いた。
同時に主の肉体がビキッベキッと音を立てて変形し、レッサーデーモン並みの身の丈(3mほど)にまで収縮して止まった。
「サア、小娘ヨ…」
突然のできごとに自身を見つめるプリーステスをよそに、主は片手を上げ彼女を呼んだ。
「来イ」