シーフが迷宮の出口で検査を終え、小人を腕に抱いたまま退避場の扉をく
ぐったころは宵の口というにはまだ早い時刻だった。それでも陽射しは強くな
く、城壁の堀に沿うようにつくられた道を歩く間も、心地よい風が肌に感じられ
た。空には薄暮の訪れを早めるような羊雲がかかり、昼前まで降りつづけた
雨で道の端にはぬかるみができていた。
 城内へ通じる跳ね橋の前では、入場の検査を待つ者たちが人だまりをつ
くっていた。検査を行う憲兵たちはいずれも熟練の兵士だったが、城内へ流
れ込む人々の列は途絶えがちで、冒険者の一団や昼前の便に間に合った馬
車の乗客たちが時折くわわり、人だまりは大きくなる一方だった。
 シーフは小人のために、ドワーフやノームたちのために作られた薄暗い退
避場の中でしばらく一緒に過ごした。にもかかわらず、シーフの腕の中にいる
小人は、陽射し目をやられたように、閉じた目蓋の隙間から大粒の涙をこぼ
し続けていた。城壁が間近にせまるころには、小人の上気していた頬はすっ
かり白くなり、腕の隙間から見える表情は今にも眠りにおちそうな幼子のよう
に見えた。しかし、相変わらず抱き上げた時から重さは変わっていない。シー
フの腕は疲労とだるさで痺れていたが、荷物の目方を間違えるほど感覚は
鈍ってはいない。抱き上げた荷物からはずっしりした重さは感じられなかっ
た。小人は泣き疲れて眠っているわけではない。その証拠に、逃走を企てよう
と薄目をあけて隙をうかがっている。小人の緊張した早い鼓動は、服越しにシ
ーフの肌にも伝わっていた。
 手負いのシーフは帰路を辿る間も小人を監視しつづけ、なおかつ注意すべ
き冒険者の目を避け、相方にも見つからないよう気を使わなければならなか
った。危険なのはたれこみ屋の目のほうだが、それ以上にエルフの相方には
逢いたくなかった。退避場で必要以上にねばったのもそのためだ。
 迷宮から続く細い砂利道は、やがて城壁の外堀をぐるりと囲む側道にでた。
戸外の香りは夏の訪れを感じさせていたが、舗装された地面の冷ややかさは
シーフの裸の足にも染み入った。居住区からだろうか、子どもの歌声が城壁
を乗り越え城の外にも漏れ出し、彼女の耳にも届いた。
「ティスケット、タスケット、赤や黄色のバスケット」
 ハンカチ落としの唄だ。主だった声の主はヒューマンの子どもたちものだ。
聞こえてくる声の色は様々だ。多彩な声音は、子どもたちの肌の色の多彩さ
をうかがわせていた。奔放な歌声に時折混じる調子のとれた旋律は、エルフ
の童子のものだろうか。
 シーフは歌声の響く壁の前で足を止めた。彼女自身も知らぬ間に、城壁の
内側を睨みつけていた。
『やつらが似ているのが悪いんだ』
『あたしたちがデカブツどもの子どもに似ているんじゃない』
「デカブツのくそったれな子どものほうが、たまたまこっちに似ていただけだな
んだ」
 ふと視線に気がつき、シーフは目を落とした。小人が顔を上げてシーフの顔
を見つめていた。小人はぽかんとした表情のない、まるで本物の子どものよう
な目でシーフを見つめている。目も鼻も赤く腫れているが、白んだ頬にできて
いた涙の筋はいつの間にか乾いていた。
「“くしょっちゃれ”、わゆいことば。おんなのこ、つかっちゃだめ」
 あれほど激しく暴れていたのが嘘のような悪意のない声だ。小人の言葉で、
自分が声を出していたことに初めて気がついたシーフはまごついてしまってい
た。腕はもう感覚がなくなっていたが、シーフは力をしぼって小人を片腕で支
え、小さな頭を撫でた。
「もう言わないよ」
 小人は逃げ出す素振りも見せずにシーフの肩に頭をあずけた。そのまま、
小人は独り言のようにつぶやいた。
「おっちゃん、らいじょうぶらよね?」
 声は小さいが、小人の言葉はシーフの耳に深く突き刺さった。シーフは答え
ずに、腕の中の小人を必要以上にきつく抱きなおした。
 跳ね橋が間近にまで迫ってきた。シーフは運良く、ドワーフのキャラバンが
固まっている一角に入り込むことができた。過酷な行路は我慢できても、乞食
の自家製香水は我慢できない親切なドワーフたちは、悪態とともに彼女たち
に席を譲ってくれた。やっと一息とばかりに、シーフは大きく息を吐いた。ここ
にいれば、当分は相方と顔をあわせずにすみそうだ。

 山から吹き降ろされた一陣の風が、森をざわめかせ草をなびかせ、麦畑を
横切り、城門の人だまりの間を吹き抜けていった。
 シーフの後ろにいたドワーフの商人たちが鷲鼻を上に向け、風の香りを鉱
石に喩えて批評した。陽を拝むために早めに探索を切り上げたエルフたち
は、風の運んだ香りに木々の名前を見つけて初夏の訪れを祝福し、何人か
は風に混じった耕地の匂いに不平を言った。
 しかし、その場にいたホビットたちが嗅ぎわけることができたのは、耕地から
流れた麦の香りだけだった。
 風は、シーフに望郷の念を呼び起こした。カラスムギの香り、休耕地に生え
るハヤガネソウの草いきれ、ウマゴヤシを掘り返す兄たちの背中、根無し草
の蔓延る井戸の周りでパイプをやる大人たちに混じって体を揺する父の姿、
バタをかき回す母の手、ハーフリングやホビットと呼ばれず、ただ一人の人間
としてあつかわれていた懐かしい故郷。
 つかの間、シーフは腕のしびれも、脚の痛みも忘れた。
 懐郷の念が心を過ぎ去った後で、口々に畑の不平を言うエルフたちへの憤
懣が湧きあがった。
 いったい、この連中には何の権利があって、生きる糧を与えてくれる耕地を
貶すことができるというのだろう? 彼らに何が解るというのだ? 自分た
ち――平野に暮らすホビットたち――にとっては、彼らの崇拝する森こそ、材
木以外の用途にはろくな益にもならない唾棄すべき存在だというのに、この
“ろくでなしのドルイド”どもは――
 シーフの考えは、目の前にいる“ドルイドども”から彼女の相方のことへと
移った。いつもならば、この相方のことを考えるのは、エルフに対する怒りを
静めてくれる効果があった。しかしシーフの脳裏に浮かんだのは、相方がこの
小人に対して向けた冷たい眼差しだけだった。シーフの思考の一部は、後ろ
暗いことを考えていることに気がつき、なんとか思いとどまるよう声を荒げた。
『あいつはエルフだよ、でもここにいるお高く留まった連中とは違う。何の理由
もなく、背丈で人を見下すような人間じゃあないだろ? あいつが、生きて帰り
し物語に出てくるような森の守人だと思ったことが一度でもあったかい? あ
の本に出てくるエルフみたいに、化け物じみた力はあったけど、あの物語の
エルフみたいな英雄じゃあなかった。平気で嘘もつくし、下品だし、破廉恥で、
とても英雄伝なんかにゃ書けたもんじゃない。でもシーフギルドの連中が好き
な冒険談の主人公にはなれる。そりゃあ、聖女みたいなヤツじゃあないけど、
たった一年間でどれほど楽しかったことか!』
“所詮はエルフさ”
 静かだが力強い声が彼女の中で響いた。その一言で、相方から離れる決
心を揺さぶり、自分を“騙そう”としていた事なかれ主義の声はやんでしまっ
た。

 彼女の考えが、完全に意識の底にまで落ち込んでしまう前に、誰かか彼女
の背中を叩いた。シーフははっとして後ろを振り返った。反射的に、相方への
文句が口をついたが、背後にいたのは銀髪のエルフではなかった。咄嗟にで
かかった文句をひっこめようとしたが、「あん」という間抜けた言葉が口からで
てしまった。
「ああ、スコット」
 目をぱちくりさせているホビットの男に、シーフはほっとしたような声を出し
た。スコットは彼女の同業者だ。知り合いを見ればすぐにちょっかいを出して
挨拶をする気さくな性格で、ビアとシチューと煙草があれば、おおかた環境に
文句を言わない典型的なホビットの壮年だ。左側の前歯が欠けているのは、
彼がシーフでありながら長年、レフトポジション(六人隊列の三番目)で戦って
きた証だ。左手の指は二本しか残っていない。小指は地下の化け物に、中指
と薬指はチェストの火薬に千切られた。
 シーフの最初の声に、ただならぬ雰囲気を感じていたスコットだったが、振り
向いた彼女の顔をみて安心したように言った。
「“ああ、スコット”、それだけ? 三日ぶりの再会なのに?」
 まだ目が慣れきっていないのだろう、スコットは眼帯をずりあげて左目をしき
りに揉んでいる。反対の手には、掌のくぼみに台紙を広げて、フレークを乾か
していた。
「どうしたよ、おじょうちゃん。またあのあばずれが何かやらかしたか?」
 スコットはシーフに目線を合わせるように、腰を屈めてシーフの顔を覗き込
んだ。いつもなら不愉快そうな元気のいい返事が聞こえてくるはずだったが、
シーフは目を落として黙り込んでしまった。スコットは片眉をぴくりとあげた。風
でフレークが散らばらないよう注意しながら、腰の物入れに手を伸ばし、パイ
プを取り出す。吸い口を一息空吹きしてから、神妙な声でシーフに言った。
「火ぃ貸してくれるかい?」
 シーフは小さく笑って首を振った。彼女は、スコットがどれだけパイプを愛し
ているのかを知っていたし、自前の火種でしか煙草をやらないことも知ってい
た。スコットのほうでも、彼女が煙草をのまないことも、パイプ用の火種を持っ
ていないことも知っていた。もし仮に彼女が火を貸すことがあれば、それは決
まって彼の嫌いな粗悪品の油の臭いのするランプ用の火種だった。これは
愛煙家と嫌煙家の間で交わされるホビット式のジョークだ。
「もう火種も火口も残ってないんだよ。昨日の夕べから潜ってたから」
「レスターが探してたぜ」
 スコットは掌のフレークを潰しながら言った。シーフの顎がかすかに持ち上
がった。スコットが真鍮の義指を使いパイプの縁までフレークを押し詰める間
も、シーフは黙っていた。
「あいつはどうしようもない愚図のうすらバカだが、執念深さにかけちゃスメア
ゴル並だぜ。あと半日は潜って、それから一週間は裏道に引っ込んでいな
きゃあな」
 スコットは慣れた手つきでパイプに火をつけた。一瞬甘い香りの白い靄が立
ち込め、次の瞬間には風が煙を吹き払った。近くにいたエルフが咳き込み、
手で空気を追い払いながら彼らの言葉で聞こえよがしに悪態をついた。スコッ
トは鼻で軽く笑い、パイプを咥えたまま、そのエルフに向かって自分たちの田
舎言葉で言い返した。

「だめよ、できないわ」
「なんで?」
 シーフは体を半身にして、腕に抱いた小人を見せた。
「なんだいこりゃ?」
 音量は小さいが、スコットはくノ一がこの小人を初めて見つけたときと同じよ
うな、驚きの混じった声を上げた。スコットの声で、シーフの胸に鼻面を押し付
けていた小人が、スコットに顔を見られないように向きを変えた。
「拾ったの」
 冗談めいた口調でシーフは答えた。言った後で、シーフは自分の言葉に嫌
悪を覚えた。まるでそのあたりに落ちていた珍しい物を拾ったような口ぶりで
はないか。スコットの言葉にも腹立ちを覚えた。いったい自分たちは、どうして
この小人を、アイテムかなにかのように扱っているのだろうか。
「でっけえ赤んぼだな、じょうちゃんの隠し子?」
 シーフは突然、雷に打たれたようになった。腕の中の小人が唸り声を上げて
シーフの胸を拳骨で叩いたが、気にならなかった。同族のスコットがこの小人
を子ども扱いしたことやくだらない冗談を言ったことにではなく、あることに気
付かされショックを受けていた。
“赤んぼ”
『通過儀礼だ』
 この小人の腹の中につまっていた“お荷物”はどこにいってしまったのだろう
か? ひょっとしたら、そのお荷物はキースの所にあるのではないだろうか?
それとも、もうこの世には存在しないのだろうか? あるいは――
『おう、だいぶきれいになったじゃないか』
『うん。おっちゃんのおかげ』
 あの迷宮の集落に置き去りにしてきてしまったのではないだろうか? もし
そうならば――

 逡巡から我に帰ったシーフは、スコットが真剣な顔でこちらを見つめているこ
とに気がついた。スコットはパイプを口から外し、火が消えるのも構わずに彼
女の顔を凝視している。
「いまのは分別がなかったかな」
「ちがうの」
 シーフはかぶりを振った。

 ――もしそうならば、この小人がなぜやたらと迷宮に帰りたがっているのか
合点がいく。そうでもない限り、あんな仕打ちを受けた場所に帰りたがるわけ
がない。だがここでシーフは考えた。
『あたしならそう思う。でもこの子ならどう?』
 同じホビットでも生国が違えば思想にも相違がある。これが別の人種間とも
なると、思考の組み立て方どころか、人を構成する材料まで異なってくる。
『あたしならそう思う。でもこの子ならどう?』
 シーフはその問いに蓋をするように答えた。この子はあたしと同じ小人で、
あたしと同じ女なのだ。そう思うに決まっている。
「そのチビはどうした? あの馬鹿アマが一枚かんでるのか?」
 シーフは答えなかった。うつむいたシーフの顔に、甘い香の煙が風に乗って
ふわりと吹きかかった。
「シャイア、一つだけ忠告しておくぞ」
 スコットは下を向いて、消えかけていた煙草の火を熾した。
「あの女とは手を切れ」
 シーフはスコットの顔を見つめた。素面にせよ泥酔しているにせよ、スコット
が自分を名前で呼ぶ時は身を入れて話を聞かなければならない。スコットの
目には、故郷の父親や兄のような力があった。シーフはじっと次の言葉を待っ
た。人だまりが動き、二人は跳ね橋に向かって前進した。
「もう潮時だ、お前はあの女から離れるべきだ。おれは、お前があの女とつる
む前の頃からあの女のことは知っている。ああ、お前とは違うぜ。あの女を部
外者として見知ったことがあるってだけだ」
 スコットは言葉を切って、目を前に向けたままパイプの表面を軽く均した。
「蓋につくほどみっちり火薬の詰まったチェストみたいな女だった。下手に開け
たら片手どころか体ごとふっとばされるような危険な、な」
 鼻先で、スコットは半欠けの人差し指と親指しか残っていない左手をひらひ
らさせた。
「この世に誰にも解くことのできないチェストは存在しないが、今の自分じゃ解
けないチェストはあるだろう? あの女はそれだよ。今の自分の腕じゃ太刀打
ちできない、だが神サンが百万遍も機会を与えてくれるなら、一度か二度は
開けられるかもしれない、そんなチェストだ。悪いことに、お前はそのチェスト
を運悪く開けちまった。それで、中には何が入っていた? 教会一個吹き飛ば
せるような火薬樽に、得体のしれないアイテムだ。アイテムの正体は知れない
が、そいつをもっていると次々と面白いことがおこるし、そいつを手放したくな
いとも思っちまう。ところが、そのアイテムと火薬樽は頑丈な鎖で繋がれてい
る、それこそ本当に解体不可能な鎖でな。お前はアイテムを手放せないか
ら、背中に火薬樽を背負ったまま歩いているんだよ。わかるか、シャイア?」
 シーフは険しい表情でスコットの言葉を聞いていた。不意に、スコットに向
かってこの十数時間のうちに起こった出来事を洗いざらい離してしまいたい衝
動がこみ上げてきた。彼女は口を開きかけたが、スコットは手を振ってか彼女
を黙らせた。
「あの女が腕のいいシーフだったことは知っている。今は腕のいいニンジャ
だ。だが、お前はあいつとは縁を切るべきだ。シーフの教訓は憶えてるか? 
『箱を開けたらシーフは用無し、あとは糞坊主に任せろ、それができなきゃ捨
てちまえ』ってね。まあ、お前が不幸だったのは信用できる目利きのビショップ
がいなかったってこったよ」
「それならいたよ」
 詰まったシーフの掠れ声は、突風と雑踏にかき消された。言ってしまった後
で、シーフは内心なぜ自分がそんなことを言ったのかと妙に気恥ずかしくなっ
てしまった。しかし運良くスコットには聞こえていなかったらしい。
「おれの話はわかったかい?」
 シーフは首を大きく縦に動かした。
「なら、おれの言うことはきけるよな?」
 今度はシーフの首は動かない。
「おい、何が詰まってんだよこの石頭にゃ」
 スコットは右手の指先でシーフの頭を軽く叩いた。
 短い指がシーフの肩から延び、スコットの指を払った。スコットは目を丸くし
て、手を引いた。
「ちゃいあ、いじめるな!」
 シーフは膝を軽く曲げて小人を抱きなおしてからスコットの顔を恐る恐るの
ぞき見た。彼の目は、睨みつけている小人の様子をじっと見詰めている。素
早く小人の足に目を走らせ、スコットは口を開いた。
「そのチビはノームだろ」
「わかるの?」
 驚いた顔のシーフに、スコットは小さく咳払いをして答えた。
「あー、こういった話をお前の前でするのもなんなんだがね。俺の知り合いに
若干特殊な仕事をしているロックノームの娘がいてな」
「マーサでしょ?」
 間を置かずにシーフが言った。スコットはそれには答えなかったが、困った
ような顔で黄ばんだ歯を見せ、頭の後ろを掻いた。
「今年は飢饉年だったんだと……その、娘の田舎がね。去年の大雪で大水が
でたそうだ。あいつの村は畑を広げるために森を削っといたもんで、他所より
酷かったそうだよ。ケシ畑が全滅したって、あいつ笑ってたぜ。『木を引っこ抜
いて、そんなもの植えるからだ。人まで間引きやがって、罰が当たった』って
よ。ほいで、おとつい郷から催促がきたんだと。『税金が払えねえ、もっと金よ
こせ』とな。あいつ言ってたよ。『今年は新人が多くて、禿親父が涎垂らして喜
んでる』ってさ……あいつも、お前と同じ四半期だったな? あの年は酷かっ
た」
 シーフはこの街に来る前の年を思い出した。
 彼女の故郷では雪の降らない冬が数年続き、その翌年に猛烈な寒波に襲
われた。家畜小屋の多くは雪につぶされ、僅かに残った小屋も、多くの家畜
を失った。耕作をあきらめ、酪農に切り替えた農場が多かっただけに被害は
甚大だった。凶作続きの耕作人たちは恵みの雪だと喜んだが、寒波の勢い
は収まらず、長引きすぎた冬のために麦はみな萎れた。
 その年の天変地異は、シーフの故郷だけでなく、“四半期”にこの街を訪れ
たおおくの者たちの故郷でも起こっていた。以前にマーサがシーフに話したこ
とだが、マーサが乗った兵舎行きの“荷馬車”には、鍬もろくに握れないほど
やせ衰えた女と、病人しかいなかったそうだ。
 いつの間にか、シーフの腕の中の小人は向きを変えていた。覗き込むス
コットの顔を見つめていた。小人はまるで、大人たちの難しい話を聞く子ども
の表情でじっと聞き入っている。
「『知り合い』が“競り”でつけられた値段は三万だったそうだ。最近までレコー
ドだった。自慢してたよ」
「三万二千じゃなかった?」
 眉間に皺を作ったまま笑いながらスコットは頷いた。
「ああ、マーサは三万二千と百十だったな。三月前に来た新人が四万だった
そうだ。あいつ悔しがってたぜ」
 自分の売価にまで気にするするとは、女の考えていることは全く気が知れな
いというように、スコットは首を振って見せた。
「このチビちゃんなら五万はいくね。だが一月で回収できるだろう。最高価格
のレコードも数年は持つだろうよ、来年以降豊作が続いて、これ以上税金が
重くならなければの話だがね。チビちゃんは東の出身だな? 湾の西側の
ロックノームには、この目と髪の色は珍しいからな。ここまでは遠かったろう? 
チビちゃんは運がいいぞ。このおじょうちゃんに助けてもらわなかったら、お前
さんすぐ売られちまうところだったんだぞ」
 煙に鼻をくすぐられた小人は、鼻面を二の腕に押し付けてくしゃみをした。立
て続けに二度くしゃみをした小人は、再びスコットから顔を背けた。
「ロックノームのブロンドは値が張るからな。目が青けりゃなおさらだ。ドルイド
どもには特に人気がある。東側にはごろごろしているらしいが、輸送費のほう
が高くつくんで連れ込めねえそうだよ。ホセの話じゃな。自力でこっちまで来て
もらうしかねえ。たいていは山越え前に力尽きるか、途中でとっつかまっちまう
かして、こっちまではなかなか流れてこないからな」
「もうやめて」
 たまらなくなったシーフが声を上げた。が、スコットの顔を見て、すぐに申し訳
なさそうな顔になった。スコットには悪気があったわけではない。彼の話し振り
は、この街に暮らす冒険者としては言葉を選び、刺激させないような配慮が見
らていた。スコットはあくまで事実を述べていただけだ。

 リルガミン周辺地域で発生した急激な人口減少は、MadOverlordによって引
き起こされた人災の一つだ。この現象は最終的に大陸各地にまで広がり、各
国の人口の下降は戦争が終わるまで続いた。
 ワードナによって巨大な実験場を与えられたトレボーは、数多の戦を経て多
くの富と資源を手に入れ、その代価を多くの兵士たちの命で支払った。周辺
諸国も手もこまねいているばかりではない。遅れは取ったが兵士の育成に力
を注ぎ、戦線は激化する一方だった。その結果、四期目にトレボーが召集で
きた若者の数は、最盛期の半数にも満たなくなっていた。
 トレボーの対応は素早かった。新兵の年齢の下限を十八歳から十四歳にま
で引き下げ、同時に法律も改正した。それまで満十八歳以上の男子一人頭
に課していた税を、満十四歳にまで引き下げた。ここまでなら他国でも行われ
る戦時の特例と同じだが、トレボーはさらに課税の対象に男女の別をなくし、
同時に課税を減免する抜け道を作った。
 彼の発令した新たな税制の対象は『職業組合(ギルド)あるいは軍隊に属さ
ない満十四歳から満二十五歳までの者、及びその者が属する世帯全員』だ。
逆に言えば、この条件さえ満たさなければ、これまでに課せられていた税が
免除されるのだ。
 この法律の制定で、若者をもつ家は並みの作の年でやっと支払える額の重
税を納めなければならなくなった。だが税金を納めた国民は多くは無かった。
トレボーはこの法律の制定でまっ先に“間引かれる”のが、ろくな稼ぎ手にもな
らない少年や少女であることを分かっていた。彼の城下の歓楽街が慢性的な
人手不足に喘いでいたことも知っていた。
 部下たちのための無償の情婦の獲得だけが彼の狙いではなかった。彼は
付け焼刃の訓練しか受けていない民兵の弱さを知っていた。武勇に長けた英
雄であろうと、ひとりでは戦争などできないことも知っていた。戦火の中で身に
沁みて理解させられていた。
 彼は組織化された精鋭が欲しかったのだ。長年平凡な生活を営んできた平
民が、一朝一夕の訓練ごときで武人になどなれるはずがない。優秀な兵隊を
作るには、まだ『人』としての足場が固まっていない若いうちから訓練する必要
がある。それに、トレボーは生活の足場を固めた市民が、市民としてごく普通
の生活を営むことが、何にも勝る国力の増強であるとも考えていた。
 遠征にも出さずに生かしておいた例のニンジャとそのパーティの面々も、ト
レボーの新兵獲得に一役買う形となった。彼らは広告塔としての役を、彼らの
君主が望む形で上手く演じてくれていた――表の世界に向けた英雄という役
割をだ。見世物にされているという思いはあるが、自分たちよりはるかにレベ
ルの高い者が次々戦線に送り込まれ、そのいずれもが例外なく片道旅行だっ
たことを考えれば、この境遇を甘んじて受けるしかなかったのだろう。彼らと
て、かつては一命を掛けて地下の大迷宮に挑んだ冒険者だったのだ。僅かで
も安全な道を選ぶことのできる強かさがなければ冒険者など務まらない。勇
敢と無鉄砲とを履き違えるような者が生き残れるほど、地下迷宮は甘くない。
 この国では冒険者として登録する時に、自らの生国へ侵攻する場合もトレ
ボーの兵士として行動することを誓う証書にサインさせられる。兵士として故
国に赴いた者のいくらかは、その誓いを守れず自軍に刃を向けた。このこと
が、戦線の激化の一因を担った。しかし、同時に多くの冒険者たちが自らの
生国で、トレボーの兵士として任務を全うした。トレボーが、山を追われたド
ワーフを受け入れ、森を焼かれたエルフを受け入れ、蔑まされていたされてい
たノームを受け入れたのはこのためだ。彼らは自らの生国で、文字通り新た
な英雄の広告塔としての役割を果たした。
 かくして志願兵は各地から続々と集まった。トレボーの目論見は当たり、当
人も思っても見なかったような大成功を収めた。その年の冬、兵舎は若者で
満ち溢れた。歓楽街は隆盛を極め、奴隷商たちは嬉しい悲鳴をあげた。

 交易都市が押し並べてそうであるように、リルガミンでは学術にしても思想
にしても前衛的で自由な気質が見受けられる。だが、一般に女性冒険者とい
うのは多くない。訓練場の門をくぐった少女の多くは、歓楽街へ向かった。
 シーフは、その四半期にこの街を訪れた者だ。彼女と同じ船でこの街を訪
れた同期の娘たちの多くが、迷宮ではなく街路で日々の糧を得ている。

「ごめんなさい」
「いや、いい。聞けた話じゃなかったな。おれも街に毒されちまった。悪かった
なチビちゃん」
 スコットはブロンドの後頭部に向かって叫んだ。小人からの返事は一切な
かった。「嫌われちまったなぁ」と残念そうに首を振って、スコットはパイプを吹
かした。

「シャイア、お前はそのチビちゃんをどうするつもりなんだ」
 数秒間、遠くを見つめていたスコットが、出し抜けにシーフに訊いた。
「お前は、そのチビちゃんをどうしたいんだ。面倒をみるつもりなのか」
 シーフは射すくめられたように身を固くした。肩に寄りかかる小さな頭に目を
移し、それからゆっくりとスコットに視線を戻した。
 シーフは無言のままだったが、彼女の表情をみたスコットは言葉を続けた。
「他人の面倒を見るっていうのがどういう意味なのか、お前はわかってるの
か」
 シーフの耳の中で、酒焼けしたスコットの声に、澄んだ高い声が重なった。
『最後まで面倒見切れないなら、最初から助けないほうがましよ』

 下腹の辺りに重だるさを感じながら、シーフは二つの声に答えた。
「わかってるよ」


(この話は未完結です)