三人の人間がいれば身分制度ができ、十人集まれば立派な社会が作られ
る。この地に住まうアミュレットの守人の間でも、先史時代から半歩進んだば
かりのお粗末なものではあったが、規則をともなった原始的な社会が形成さ
れていた。
 どんな小さな村にもお節介な老人や親爺が一人二人いるように、この集落
にも近所づきあいの決まりごとを新参者に教えようとする世話好きが何人か
いる。集落に来たばかりの彼の面倒を買って出たのは、ガヴェインと名乗る
ヒューマンの男だった。もっとも、この男よりももっと誠実で、親切なホビットが
先に彼に声をかけていたのだが、彼はここに閉じ込められてなお、あらゆる
小人族を下位種族とみなし、相手にしていなかった。

「タバコはいらんかね?」
 迷宮で迎えた最初の夜、慣れない石床のベッドでようやくまどろみに入り
かけた彼は、このしゃがれた声に起こされた。泣きはらした重い目蓋をあげ
て、やっと視界を取り戻した彼の前に、骸骨のような男が小箱をさしだして
いた。
「それとも酒がいいかい? 肉を一切れ恵んでくれりゃ、口いっぱいにつめ
てやるぜ」
 目前にいるアンデッドのなり損ないは、薄い口ひげの隙間から粒の揃った
黄色い歯を見せて笑った。彼も笑い返した。
『ははっ、迷宮での最初の夢が巨大化したアンデッドコボルドの物売りか。
この分じゃ、三日後にはワードナとミスカ酒をひっかけながら政治論をやら
かすことになるぞ』
「あっちにいってくれ、アンデッドコボルドの旦那。おれは眠いんだ」
 アンデッドコボルドの旦那は、肺も無いのに大声をだして彼を揺すぶった。
「おい、もっと目ん玉ばっちりあけろよ。おれが三フィートしかないような骨ク
ズにみえるのかい?」
 骸骨の声に薄気味悪くなった彼は目を大きく見開いた。彼は尻を床に付け
て座っていたが、目の前の骸骨の身長が三フィートどころか、その倍以上もあ
る“大男”――仮に人間だったとすれば、の話だが――だということはすぐに
わかった。昔、旅回りの芸人で『断食芸』という出し物が流行った時期があっ
たが、彼が子どもの頃に見た、見るからに哀れな芸人よりも、この男のほうが
はるかに痩せて、哀れに見えた。背丈は彼より五インチほど大きいくせに、体
重は彼の目方の三分の二もないだろう。とても人間には見えない。
 彼は腫れた目蓋をこすり、眼球が変形するほど目蓋を閉じて、ゆっくりと開
いた。目の前にいる骸骨はまだ消えない。こんな骸骨とは関わりあいたくな
かったし、彼は心底眠りたいと思っていた。しかし、骸骨を無視して眠れるほ
ど、彼は図太い人間ではなかった。枕代わりにしている荷物袋には二週間分
の食料が入っている。これを奪われれば、最低でも二週間はこの見知らぬ土
地で断食を強いられることになる。彼は荷物を隠すように、背中に回した。
「行ってくれ」
 言いながら彼は後ろ手に荷物袋を探り、最初に手に触れたものをつかみ
出した。油紙につつまれた、一塊の豚肉の燻製だった。彼は肉を骸骨に投
げつけて叫んだ。
「こいつをもってとっとと失せろ」
 燻製を投げられた骸骨はさも意外そうな顔をした。
「こりゃ、気前のいい旦那様、あなたのご恩は一生忘れません」
「いっちまえ。豚の足を持ってとっとと失せろ」
 骸骨は薄い唇を引き攣らせ、燻製を自分の頭陀袋にしまうと、横にいたド
ワーフを突っついてどかし、彼の横に座り込んだ。
「お前さん、メイジかい?」
 彼は黙って左の手のひらを返して見せた。骸骨は彼の手にさわろうと腕を
伸ばした。彼は骸骨の腕を避け、左手を持ち上げると、追い払うように手首
を振って見せた。
「あっちへいっちまえってんだ。化け物め」
「へえっ、たった半日でもう人間と化け物の区別もつかなくなっちまったの
か。音を上げるのがはやすぎだぜ。ああ、あんたは悲惨だよ、哀れな新米
魔法使いさんよ! まだまだ苦しむぜ!」
 骸骨は、目を合わそうとしない彼の顔を覗き込んだ。
「はっ、まだほんの子どもじゃないか。なあ坊や、こんなに気前良くしちゃ、
三日後にはすってんてんになっちまうぜ」
 彼は呆けたように骸骨をみあげた。
「やるかい?」
 骸骨は煙草入れの蓋を開けて差し出した。骨ばった手の中にある小箱は、
巧緻な細工が施されており、蓋の裏には微細な風景画が描かれている。糸目
もほつれた借着同然の身形の男の持ち物として、どうにも不釣合いだ。彼は
ふらふらと首を振って言った。
「いい。それより薄荷を持ってないか? 頭痛が酷いんだ」
 骸骨は笑って、箱から小包を取り出して口に含んだ。
「そういう時はお前さんの首にぶら下がっているブツを使うんだ。効果は一
時的だが、なあに、ホンモンの薬だって同じようなもんさ。ところで坊や、最
近街にきたんだろ? 旦那はお偉いさんかい? どこのキーパーだい? 
どっからきた? 故郷はどこだい?」
 彼は焦点の合わない目で男の胸の辺りを見つめていた。骸骨男の良く通っ
た声は遠くから聞こえる木霊のように頭の中で反響した。故郷という言葉が聞
こえたような気がして、鼻梁がじんと痛んだ。頭は水につけたように重だるい。
「おれ、四期生さ。くそったれ大統領の旧制度最後のスクール生だ」
 骸骨が左手を差し出してきた。彼は魂の抜けたような目で、つきだされた
骨ばった手を見つめた。骸骨はシーフのような素早さで彼の手をつかんだ。
「よろしくな、新米魔術師の坊や。君の先輩の名前はガヴェインだ」
 ガヴェインはぐにゃりとした彼の手を勢い良く振った。
「ところで後輩よ、名前はなんてえんだ?」

 * * *

 キーパーたちの身分がお仕えする旦那の力で決まること、排便をするときは
フロア外周の規定の場所まで出向くこと、冒険者様への配慮の仕方、これら
迷宮で快適に生活するためにかかせない規則のほとんどはガヴェインが教
えてくれた。彼はこの骸骨のような薄気味悪い先輩を当てにはしていなかった
が、親切な先輩はまめに彼に教示しては、授業料といって彼の荷物袋から食
料を失敬していった。彼はトゥルーニュートラルの人間が狂人であることは
知っていたが、カオティックニュートラルの連中がどれほど目障りで狂っている
のか、ガヴェインと付き合いだしてはじめて身にしみて理解した。
 彼がこの地に移住して十日目(と彼の先輩は言っていた)の朝、いつもの
ように嗜好品の行商を終えたガヴェインが彼のもとにやってきた。
「よう、坊や。いい朝だな、素晴らしいお日和だと思わないかい」
「ああ」
 彼はできるだけいつも通りに見えるようぶっきらぼうに答えた。先日、旦那
からあたらしい荷物を頂いたばかりだった。目ざとい先輩から隠すように、毛
布の中に荷物をたくしこんで、何食わぬ顔で受け答えをした。
「時に兄弟、今日はビッグなイベントがあることを知ってたかい?」
「いや」
 少しでも質問の形をとれば、ガヴェインは嬉々として答え、遠慮容赦なく彼
の荷物を漁っていく。ガヴェインはこの街でも屈指の組合の専属キーパー
だった。ガヴェインはにやにやし顔のまま一瞬、彼の膝の下にある毛布に
目を向けた。生きた心地がしなかった。が、ガヴェインは彼の顔に目線を戻
し、腕を彼の肩に乗せた。
「兄弟、ここだけの話だぞ、いいか? 実はな、カポーティのキーパーから聞
いたんだが、なんでもカポーティのところの雇われメイジがやらかしたんだ。
あのドロウさ。あの女、天の声に逆らって呪文を誤射しやがったんだと。今
日あたり“落とされる”らしいぜ。おれは白いほうが好みだが、黒いのだって
捨てたモンじゃねえ」
 ガヴェインは舌なめずりをしてみせた。彼には先輩のいっていたことが全く
理解できなかったが、詳しく聞こうとはしなかった。
「そうか、そいつはいいな」
 短い彼の返事に、ガヴェインは呆れた声をあげた。
「お利口な坊やだぜ、お前さんはよう」

 * * *

 その日の昼下がり、午睡を貪っていた彼は鎧と石床がつくる金属音を聞
いて飛び起きた。一昨日、うっかり寝過ごして冒険者様の道を塞いでしま
い、しこたま背中を蹴られたばかりの彼は、冒険者様が通りやすいよう、後
ろでいびきをかく同業者を尻で押し出して道を空けた。
 冒険者様は人垣の裂け目を通り、彼のすぐ近くで立ち止まった。呻き声が
聞こえ、何かが突き倒されて彼の前に転がった。彼はうつむかせた顔をす
こしだけあげて、自分の爪先のほうをみた。目の前に倒れていたのはドロ
ウ(ダークエルフ)の女だった。身動きが取れないよう縄で縛りあげられてい
る。縄が食い込んでいるせいで、豊かな乳房やほっそりしたくびれがローブ
の上からでもはっきりわかる。猿轡をされた女は彼の見えない冒険者様の
ほうを上目遣いに睨めあげていた。
「そこのガキ」
 どすの利いた声に彼は思わず目を上げた。目を上げた途端「しまった」と
思った。冒険者様と目を合わせるという冒涜的な行為をやらかしてしまった
と。
 視線のさきには二人の冒険者がいた。聖衣をまとったロードとおぼしき人
物と、フルプレートを着込んだおそらく前衛職の男。フルプレートの男が、先
ほどの声の主らしい。
「坊や、どこのキーパーだ?」
 聖衣をまとったロードは表情を変えずに質問をした。彼の頭はすっかりパ
ニックになっていた。いまさらになって、ガヴェインにパンをケチったことを後
悔していた。冒険者様との会話は、彼らキーパーにとって物見櫓の屋根を目
隠しで歩き回るような行為だ。うっかりしたことで命取りになりかねない。
「キ、キースの旦那の……」
 彼は干上がった喉からやっと声をしぼった。
「あのぺド野郎のか!」
 ロードの背後にいた鎧武者が手を打ちならした。鎧武者は、床に転がる
女の背中にずしりと膝をのせ、彼に目線を合わせた。詰まった悲鳴が足元
から聞こえた。
「ならブレットを間近で拝んでるわけだ。へっへへ、そりゃお気の毒に。たま
んねぇだろあの女?」
「ガフ」
 ロードが鋭い声を出した。鎧武者は「そうカリカリすんなよ、リーダー」とい
うと、女の髪をつかんでぐいとひきあげさせた。「あんただって、こいつの処
罰の見学に来たんだろう?」
 ドロウ特有の濃紺で浅黒い肌をした女は横目で鎧武者を睨み、ついで彼
のほうに目を移した。彫りの深い顔立ちだが、彼と差して変わらないほど若
い。目つきは鋭いが、瞳は潤みはじめている。
 鎧武者は服の上から、女の乳房を鷲づかんだ。女の口から押し殺した吐
息が漏れる。ドロウ特有の肉感的でなまめかしい体が仰け反り、腰を折っ
て身をくねらせた。緊迫した状況であるにもかかわらず、身をよじった女の
動きに、彼はしばらく排泄にしか使っていなかった器官が、久しぶりに充血
しはじめるのを感じ、思わず喉が鳴った。
「へへへ、そうとう溜まってんだろうなあ坊主。特別に最初の一発をお前に
奢ってやるよ。使い古しで悪いが、あそこの具合はおれが保障するぜ」
 鎧武者は女の乳房を激しく揉みしだきながら、縄をつかんで、女を立てひ
ざのまま固定させると、凄まじい力でローブを引きちぎった。甲高い、悲鳴に
も似た呻きがあがった。胸を覆う布地が破れ、彼の前に生の乳房がこぼれ
でた。
 鎧武者はじかに乳房を揉み、彼の前に女をつきだした。筋肉質な手の動
きにあわせて、大振りな、しかし張りのある柔肉が形を変える。執拗な乳房
への攻めに猿轡を嵌められた女の口からは喘ぎが漏れた。
 彼は激しく勃起していた。勃起しながらも、どうしていいかわからず、息を
荒げて、ただ、豪傑の手にこね回される乳房を呆然と眺めていた。
「けっ、甲斐性のねえやつだな、坊主、童貞か? なら、最初の一口は別の
奴にくれてやるぜ」
 息を呑んで見守っていた周囲のキーパーたちからどよめきが上がった。ぎ
らついた目をした連中が、犬のように這い寄ってくるのが彼の眼に入った。
「まってくれ」
 彼は細い声をあげて目前の乳房に突進した。鎧武者は下卑た笑いをもら
し、ロープを放した。支えを失った女の体がずしりと彼の腕に飛び込んでき
た。彼はそのまま、女を石床の上に押し倒した。女は猿轡をかまされたまま
悲鳴をあげ、のしかかった彼をはねのけようと身をよじった。あがく女の額
に、ブレードの鋭い刃が突きつけられた。
「思っていたより数が多いな」
 握りのスイッチに指を掛けながら、周囲を一巡して、独り言のようにロードは
言った。
「お前も大変だろう。穴を一つ増やしてやろうか」
 女は嗚咽をもらし、おとなしくなった。
 彼は目の前に放り出された温かみのある生肉にむしゃぶりついていた。
両手でこね回し、乳首を舐め、噛みつき、激しく吸いたてる。乳房を通して、
女の乱れた息とすすり泣きが彼に伝わった。しこりはじめた乳首を舌先でち
ろちろと舐めまわしながら、女の太股に手を伸ばし、ローブの布地をつかん
でそろそろと捲り上げる。迷宮の薄暗がりのなかに、徐々に、肉付きの良い
ドロウの脚があらわになった。
 涎まみれになった乳房から顔を離した彼は、息を荒げて、むっちりした太
股に手をかけた。女はこの期に及んで抵抗しようとしたが、頭上に構えられ
たブレードと、情欲に駆り立てられた彼の力になすすべも無く、太股は左右
に割り開かれた。女はローブの下に何も身に着けていなかった。濃い、しか
し控えめな面積の、髪と同じ色の白いデルタ地帯に、周囲から感嘆の息がも
れた。
 彼は獣のように濃い恥毛の生えた地肌に指を滑らせた。ぷっくりと膨らんだ
肉を両の親指で挟みくいくいと持ち上げる。女は何も見まいと目を逸らしてい
たが、恥部を弄る彼の指が動くたびに、押し殺した熱い吐息が口から漏れ、
堪えていても、女の入り口はじわじわと湿り気を帯び始める。
 彼はじれったそうにズボンを脱ぎ捨て、かつてないほど凄まく怒張った分身
を剥き出しにして、女の膝の間に割り入った。ローブは臍の上まで捲り上げら
れ、女の下半身は完全に丸裸にされていた。
 彼は女の割れ目に手を置き、ゆっくりと開いた。にちゃっという音をたて
て、女自身があらわになる。青黒いドロウの肌も、そこだけは色が赤く、充
血し、熟れていた。合わさっていた肉の花弁は、とろりとした露にぬれてぱっ
くりと花開いている。
 膝を曲げさせ、手で固定した彼は、花弁を己でこすり、先端に、溢れでた
蜜をたっぷりと塗りこませた。焦らすように、わずかに花弁の内側に滑り込
むかどうかのぎりぎりの位置で踏みとどまり、上下運動をくりかえす。女は震
えたまま、断続的に嗚咽をもらし続けた。しかし、苦悶の表情を浮かべる上
半身とは裏腹に、貪欲な下半身の彼女はすでに男を迎え入れる手はずを
整えつつあり、上半身の口からですら、猿轡を伝って涎が滲みこぼれてい
る。
 焦らされ、とろけきった女の内部に彼が侵入した。彼の性器が女の性器に
嵌りこんだと同時に、女が腰を仰け反らせた。女はそれ以上の侵入を防ご
うとしたが、力が入らない。牡を求め、牡を受け入れる器と化した彼女の膣
は、彼の勃起を深々と飲み込んでいった。彼は激しい抽送を開始した。艶
めかしいドロウの体は彼の突きを受けるたびに激しく悶え、女の意思とは関
係なく男を求め、激しく出入りする勃起を貪った。
「ふっはあ! やるじゃねえか坊主! どうだ、その牝ドロウはなかなかの名
器だろう?」
 彼は答えなかった。旦那方に対する敬意も恐怖も忘れ、無我夢中で腰を
振り続けた。貪欲なドロウの膣は射精をするよう彼を攻め立て、しかし彼は
より強い快楽を与えるよう膣を攻め立てた続けた。女の内部で硬い岩のよう
になるまで勃起した彼は、吸い付くような女の膣に可能な限り己を埋め、結
合部の上の恥毛に指を這わせた。愛液でぺったりとした陰毛を掻き分け、こ
りこりとした肉の蕾を探り当てた彼は、すり潰すように指で弄んだ。女の体が
跳ね上がった。恥骨と恥骨がふれあい、彼がより深く女につき刺さる。結合部
を押し付けたまま、彼は女の肉芽を引っ張り、爪を立て、すり潰し、攻め立て
た。彼の指が女のふっくらとした恥丘と彼の恥部との間に埋まり、それでもな
お、女の体は悶え続け、膣は狂おしげにわなないた。
 絶頂を迎えた女の腰が大きく持ち上がった。せり上がった女の腰が最高
地点に達したとき、彼は女の中に熱い精を吐き出した。女の胴が徐々に降
下し、その間、彼は自分でも驚くほどの量の精液を、どくどくと女の内に流し
込み続けた。一滴余さず全てを注ぎ込んだ彼は、萎えた肉棒を女から引き
抜いた。陵辱を受けた女の陰門はひくひくと引き攣り、肉唇の隙間から愛液
で薄まった白濁液がとろとろと流れだしている。
 ふと、眼下にいる女と目が合った。女は目を赤く腫らし、今にも殺しそうな
鋭い目で彼を睨んでいた。彼は、肺病みのバンクの目を思い出した。保身と
いう名の卑屈さに包まれた憎悪の目、何もかもかなぐり捨てて狂気に走る
寸前のあのぞっとする目。
 屈強な手が、彼の体を跳ね飛ばした。弾き飛ばされた彼は、呆然として、
彼を押しやった旦那の顔を見つめた。
「よくやったぜ坊主、さあとっとと失せな。後がつかえてるんだからよ。おう、
お次は誰の番だ?」
 呆然とする彼の前で、周囲の男たちが一斉に女に群がった。

 * * *

「ちきしょう、お前は運のいい奴だよ。いい場所に“贈り物”が落ちてきたもん
だなあ」
 その日の夜、ガヴェインがやってきて彼の肩を叩いた。
 ガヴェインはこういった旦那方の気まぐれな好意を、贈り物と呼んでいた。
ガヴェインによると、こうした旦那方からの贈り物は週に一度あるかないか
だそうだ。彼はその頻度の多さに驚いた。どうして旦那方からのご好意がこ
うも度々あるのか、彼はガヴェインに質問をした。
「妙な事を気にするなあ、お前も」
 ガヴェインはごく自然に、彼の荷物袋から切り出した浮き輪パンの塊を取り
出し、かじりながら説明した。
「だが、目の付け所は中々いいぞ、坊や。こういう贈り物がいつ始まったの
かっていうのはおれも知らない(そもそも、キーパーなんて制度を作ったカス
がどんな野郎なのかも知らないしな)。まぁ、最初は、さっきみたいに、女に
処罰するためにやったんだろう。だがね、旦那方の狙いはそれだけじゃない」
 ガヴェインは口いっぱいに頬張ったパンを飲み込むと、どんどんと胸を叩
いた。「喉が渇いた」といいながら彼の荷物袋をかき回し、やがて液体の入
った小さな瓶を見つけた。
「いいかい?」
 彼はうなづいた。ガヴェインはコルクを引き抜き、一口飲んですぐに咳き込
んだ。
「なんだこりゃ! 馬のケツよりひでえ味だぞ」
「くそったれノームが作ってくれた栄養剤だ。おれたちヒューマンは日の光を
浴びなきゃ、じきに爺みたいに干からびておっちんじまうだと」
「そんなら今頃、ワードナのクソ野郎はミイラになってるな」
 彼は肩をすくめて、ガヴェインから瓶を取り返すと、一息に半分まで飲み
干して見せた。
「飲みなれりゃ、なかなか悪くない。クソの出も遅くなる」
「おれは遠慮しとく」
 ガヴェインはパンをかじって、再び彼の荷物を引っかき回した。彼は溜息
をついて、膝の裏に隠していた小瓶を取り出し、ガヴェインに差し出した。ガ
ヴェインは生まれて初めて手品師の興行をみた田舎の年寄りのように目を剥
いて、彼から小瓶を受け取った。栓を抜いたガヴェインは、慎重にコルクの匂
いをかいだ。
「ラムか?」
「ああ」
 ガヴェインは一口だけ口に入れてコックのように細かい舌打ちをした。
「割ってないのか。水は?」
 彼は掌を上に向けて、何もないと示して見せた。ガヴェインは肩をすくめて
言った。
「できればホットで飲みたかった」
「おれもだ」
 ガヴェインはちびちびやらずに一気に瓶をあおった。半分を残して飲み干す
と、彼の方を向いて瓶を指差した。
「くれてやるよ。だから続きを話してくれ」
「どこまで話したっけ?」
「旦那方が贈り物をするには、違う狙いがあるってところからだ」
 ガヴェインは骨ばった尻が痛くならないよう坐りなおし、片手にパン、もう一
方の手に瓶と、ピクニックで弁当を広げているような格好で喋り始めた。
「そうだったな。で、旦那方の違う狙いってのはだな、おれたちがここから逃
げられないようにするためよ」
 彼は笑った。笑いながら、ガヴェインからラム酒の瓶を取り返そうとした。
「ハッ! これ以上どうしてそんな必要がある? そんなことをしなくたって、
上にも下にも見張りがうようよいる。どうやっても逃げられねえよ。一生な!」
 ガヴェインは迫ってくる手を器用に避けて、手のひらを彼に向けた。
「ま、ま、落ち着け、最後まで聞けよ。おれの親父は医者だったんだ。おれも
人体の仕組みについてもちょっとはかじってるのよ。でだ、人体のスペシャリ
ストとしての見解からすると――笑うなよクソ! あのな、良く聞け、お前は
ここを出ることは絶対に不可能だとかほざいていたが、おれはここをでたや
つを何人も見てきたんだ」
「死体でだろ?」彼は口を挟んだ。「それか完全に狂っちまっているか」
「どっこい、そうじゃない奴だって何人かいた」
「どういうことだ?」
 彼は身を乗り出した。
「その話嘘じゃないだろうな。冗談ならただじゃおかないぜ」
 ガヴェインは口の中のパンをごくりと飲み込んだ。
「それじゃ聞くが、なんでおれたちはここに閉じ込められている?」
 彼は無言で首にぶら下がったアミュレットをはじいて見せた。ガヴェインは
うなづくと、自分も首にぶら下がったアミュレットを持ち上げて見せた。
「そう、こいつだ。ところでお前、不思議に思ったことないか。旦那方は、迷
宮で探索を終えた後どうやってアミュレットを外しているのか」
「そりゃあ……」
 彼は言葉に詰まった。そのあまりに単純なことに、なぜ今まで気がつかな
かったのかと驚愕し、ガヴェインに言った。
「知らん……わからない……どうやってだ?」
 ガヴェインはニヤリと笑って彼に言った。
「それが旦那たちの策略さ。人間ってのは、業が深い生き物なんだ。地位で
も金でも女でもなんでもいい、今の持ち物の中から何かを取り上げられる
と、人間ってのは必死になって知恵をしぼろうとする。じゃあ逆に、そいつら
を無条件で与えてやりゃ人はどうなるか」
 ガヴェインは骸骨のような指を立てて彼を指した。
「こうなる」
 彼は眉をしかめた。もうすこし元気があったのならば、ガヴェインに殴りか
かっていたところだ。
「そう渋い顔するなよ。何にもしなくても旦那方から施し物を貰え、糞の時以
外では一歩も動く必要のない住居を与えられ、そのうえ女まで宛がわれたら
どうなる? 競争もない、争いもない、自分の実力など一切関係無しに、た
だ虎の威を借る狐のごとく、旦那の強さで身分が決まる世界に放り込まれて
みろ。考える力などなくなっちまう。生きようとする気力も無くなり、逃げようと
する心意気まで消えうせる。人間らしさが一切ない、ただの木偶に成り下が
っちまう。快楽への欲求は人を賢くするが、無条件に与えられる快楽は人を
腐らせるのさ」
 ガヴェインは階段の下に眠る片輪の夫婦を指差した。
「あの女をみろよ。あいつは長持ちするぜ。亭主のほうは危ういが、あの女
は大丈夫だ。亭主っていう気苦労を抱えているからな。気苦労ってのは生き
がいなんだ」
「だからあんたは行商をするのか?」
「もちろん、そうさ。旦那にはタバコと安い酒だけを頼む。家んところの旦那は
親切だからな。食い物も時々くれるが、貰ったときに全部周りの連中にくれて
やる。食い物は自分で手に入れるんだ。おれは無神論者だが、「神は自ら助
くる者をば助く」という言葉は信じている。おれは助かりたいんだ。救われたい
んじゃない。そのためには、こいつをまともに動かせるようにしておくことが肝
心なんだ」
 やせこけた指で、ガヴェインは頭を指した。
「骨と皮だけになってもか?」
「坊や、人はパンのみにて生くるにあらずだよ」
「説教臭くなってきたな」
 彼は退屈そうに足を伸ばした。
「それより、旦那方のアミュレットを外す方法ってのが気になる」
 ガヴェインは残ったラムで口を濯いで、たっぷりと彼を焦らしてから、やっと
話し始めた。
「アミュレットを外す方法は、おれが知っている限りで三つある」
 瓶の底に残ったしずくをすすって、ガヴェインは指を一つ立てた。
「ひとつ、プリーストスペルの第六階位にあるリコール、つまりLOKTOFEITを
使う。おれの知る限り三人がこの方法を使ってここから脱出した。知っての
通り、こいつは人の体とわずかな金貨だけを運ぶ転移呪文だが、ボルタック
の金屑ドワーフの世話にならずに、呪われたアイテムを強制解呪するという
裏の使用法もある。上じゃこれを専門にした商売まであるくらいだ。で、世の
中には、危ない橋を渡ってくれる“善良”なご僧侶もいらっしゃるつうわけよ。
人が良さそうで、暇そうなプリーストに泣きついて逃げ出した奴が、おれがここ
にきてから三人いた。ところが、この逃げた三人目が要領の悪い奴で、うっか
り上で旦那様に出くわしたあげく、その親切なご僧侶の名前まで吐いちまった
んだ。おかげで、今じゃおれたちを運ぶことは、冒険者様の間じゃタブーに
なっちまった」
 ガヴェインは言葉を切って指を二本立てた。
「ふたつ、ボルタックで解呪してもらう」
 彼は笑ったが、ガヴェインは真面目な顔で続けた。
「冗談で言ってないぜ。ただし、この方法を使うには神の力が必要だ――お
っと、笑うなよ! 神っつったってカドルトみたいなまやかしのことじゃない」
 ガヴェインはあざけり笑いをした彼に釘を刺した。
「ボルタックの強欲ドワーフの解呪技術はホンモンだぜ。金さえ払えりゃ、あ
の爺が解呪できないブツはない」
「だが、どうやってこの体をボルタックまで運ぶ? まさか入り口を通らずに
城の中に入れってんじゃないだろうな」
「そのまさかだよ」
 あっけらかんとガヴェインは言った。
「といっても、組合に加入している冒険者限定だがね。それも旧制度の時代
から存在している組合に限る。酒場で見張り役を買って出ているビショップ
どもがいるだろう? あいつらは、旧制度時代からある組合の兵隊だよ。あ
の時代からいる雇用主には何か神秘的な力があるんだ。旧制度の時期は、
トレボー閣下が、組合の元締め連中に特別な魔法を教えていたのさ。とにか
く不思議な魔法をわんさか使う。迷宮の中で迷子になった兵隊を、空間を越え
て呼び戻したりな。原理は解らない。とにかく神の力としか言いようがねえ」
 ガヴェインの言葉に、彼は肩を落とし、両手を組んで頭の後ろにのせた。
「なんだ。さっきから、高僧の呪文だの神の力だの、今のおれたちじゃ絶対
に不可能な方法ばかりじゃないか」
 ガヴェインは指を振って身を乗り出した。
「こっから良く聞けよ。みっつ、スペイン製の軟膏を使う」
「ハッハァ! 今までの中で一番ふざけている。なんだそいつは、スペインの
宗教裁判の連中が拷問で飲ませるひまし油か?」
「さあね。だが、あの赤服のおふざけ連中は持っていないだろうよ。噂では、
アミュレットを首にぶら下げたままガードにつかまると、ボルタックの手では
なく、そいつを使ってひっぺがされるらしいぜ」
 彼はまだ半信半疑だ。ガヴェインは、自分の荷物入れの中にある麻袋を
とりだした。
「しかし、妙だと思わんかね? 旦那方から返されるアミュレットが、いつだっ
て油をさしたように、やけにベトベトしていることを」
 ガヴェインは麻袋から旦那用のアミュレットを取り出して眺めた。彼は黙っ
て、ガヴェインと同じように自分の荷物袋から旦那用のを取り出し、しげしげ
と眺めた。
 ガヴェインの言う通りだ。旦那たちのアミュレットの幾つかは、彼が首にぶ
ら下げているのと違い、薄い油膜で包まれ、つるつるしている。
「“スペイン製の軟膏”ってのは通り名で、正式名称は“クレンジングオイル”
というそうだ。その油には、どんな呪われたアイテムですら外すことができる
力があるらしい」
 彼はアミュレットを見つめていた目をガヴェインに向けた。
「そいつで逃げ出せたやつは何人いる?」
「いない」
「は?」
 聞き返した彼に、ガヴェインは繰り返した。
「いない」
「ひとりも?」
「ひとりも」
 彼は首を振った。
「じゃあなんで……」
「旦那から直接聞いた」
「なんだって?」
「あっさり答えてくれたよ。“そこそこ金に余裕のある連中はどいつもそれを
使ってる”ってね。噂じゃ、アナルファックの時のローションに使っている連中
もいるらしいぜ。まさに“浄化油”だな」
 彼は口を閉じてガヴェインの顔を見つめた。ガヴェインは彼に構わず独り
言のように続けた。
「使い方も教えてくれたよ。それによれば、たとえオイルが手に入ったところ
で、おれたちだけじゃどうしようもねえそうだ。“装飾品”を身に着けていないや
つにしか使うことができないんだ。そいつに、油を注いでもらうしか方法がない
んだと。ここにいる連中で、首からアミュレットをぶら下げていない奴がひとり
でもいるかい?」
 彼は鼻先からいきおいよく息を噴きだした。
「はん、装飾品をつけているやつが自分で油を注いでも効果がないのか?」
「ああ」
「ふざけてる」
「ああ、ふざけてる。だが、ここじゃそのふざけたことがまかり通るんだよ。こ
のWizardry(魔法)の世界じゃね」
 ガヴェインは息を吸いこんで貧相な肩肘を張った。
「魔術は未開拓分野だ。それを行うことによる結果はわかっているが、過程
を証明する数式がまだ発見されてないだけなんだ。今の文明のレベルじゃ、
おれたちは魔術に関しては野人同然なんだよ」
「あんたの話はキーパーの創った夢物語だ」
「こいつだって夢物語だったんだ」
 ガヴェインは首にぶら下がるアミュレットを揺らした。彼はガヴェインから自
分の首にあるアミュレットに目を移し、ぽつりと尋ねた。
「あんたは旦那の言ったことを信じているのか?」
「ああ、信じてるとも」
 ガヴェインはしっかりした口調で答えた。
「いつか絶対に手に入れてやる。おれはここを出ていくんだ」

 * * *

 白い影が実体を成すまでの数十秒の間、キーパーたちは息を殺して、これ
から目の前に出現する冒険者様が、無害な“善玉”の冒険者様か、それとも
自分の旦那方なのか、あるいは虫の居所が悪いからといって自分たちに危
害を加えるような危険な冒険者様であるかどうかを見極めようとしていた。
 彼も隣人のキーパーたちと同じように、どこの旦那であるかを見極めよう
と、しょっぱい布を口にいれたまま、耳に全神経を集中させていた。
 水を打ったように静まり返った集落に、激しい警鐘がこだました。
 “警戒警報! 警戒警報! 大変危険なご一行がご来場!”
 情報は人伝いに瞬く間に広がった。人垣が波のようにうねり二つに割れ
た。寝ていた者も隣人がたたき起こし、寝ぼけ眼の汚い尻を隅に追い立て
た。
 人垣はちょうど彼の目前で割れた。彼は背嚢を担いだまま必死に後じさっ
た。じわじわ腰を這い登る痛みをアミュレットでごまかし、こっそりと遠目で冒
険者様の顔を確認した彼はさっと顔色を変えた。
『ちくしょう、レスターだ、あの化け物ドワーフだ、くそっ』
 とんでもない場所に陣取ってしまったと自分の不運を呪い、脚をぎゅっと腹
に押し付け、膝に顔を埋めた。

「……あのくされまんこどもめ……あばずれのクソエルフが」
 彼の目の前を、兜を手に、血塗れの赤毛をさらしたドワーフが通り過ぎた。
三人の男が後に続いた。黒人の司教が、後歩きをしながらしきりに侍と話し
込んでいた。
「……が……あの石頭は一……」
「……とだ……でここの……落としてやればいい……」
 四人の冒険者の一団は、まるで、ここには彼ら以外いないかのような素振
りで広く空けられた道を通り抜け、階上へと姿を消していった。
 嵐は過ぎ去った。息を詰めていたキーパーたちが体を伸ばし、緊張をほぐ
した。彼も、抑えていた呻きを存分にあげて、ゆっくりと脚を曲げ伸ばした。
押し固められていた人の山は、ざわめきながら、蜘蛛の子をちらしたように
拡散していった。最前列に陣取らされたキーパーたちが、今のパーティの会
話を村の広報のように言いふらして回った。彼らの話の内容が、近々旦那
方から贈り物(それも一度に二つ以上)が落とされることを予兆していたから
だ。
 色めき立つ周囲の喧騒を無視して、彼はよろよろと立ち上がり、再び移動
を開始した。以前の彼ならば、このニュースは彼の日常において非常に重
要な位置を占めるものになっただろう(まぁ、現在でもそこそこ重要な位置は
占めてはいる)が、今の彼は、それよりも重要な用事を抱えていた。

 北の端では一人の小男が周囲より一段飛び出した場所でキャンプを張り、
ざわめく周囲の喧騒には無頓着に、闇につながる通路の先を見据えていた。
男はいつものように、三つの胡桃を掌の上で忙しなく回していた。
「やあ、ハーマン」
 彼は男の背後から声をかけた。ハーマンと呼ばれた男はゆっくり振り向き、
横目で彼の顔を確認できるところまで動かすと、またゆっくりと正面に向き
直った。胡桃を回す手は相変わらず止めない。
 ハーマンは彼より一足先にキーパーになったドワーフだ。地下の愉快な仲
間たちの一員になって早々逃亡をもくろみ、その大それた事業の代償として
声と睾丸を潰された。
 虫が食ったようにまだらに白いハーマンの髪は長く、山すそのように肩に掛
かっていて、さらに長衣を着て座っているせいで灰色の小山のように見えた。
地肌は浅黒いが、着古した長衣からのぞく腕には、染色に失敗したコットンの
シャツのように白斑が広がっている。口は常に半分開けっ放しで、成人のドワ
ーフらしい堂々としたあご髭はなく、水草のような細い柔毛が数本だらしなく垂
れさががっていた。首には元々は外套だったリンネルのボロ布が巻かれ、顎
とボロ布との境目から、コボルドに食い破られた無残な古傷を覗かせている。
ハーマンの座る目の前には、ハンドベルがひとつ置かれ、右膝の下には、酒
場の給仕が使う角盆より一回り小さいオーク材の黒無地のホーンボードが敷
かれていた。この去勢された唖(おし)のドワーフは、冒険者様の一行が通り
過ぎる以外では、伝言用のホーンボードに右足を乗せて座るこの姿勢のま
ま、根が張ったように動かなかった。
 彼はドワーフの隣にならんで坐った。ハーマンは手を止めて、ホーンボード
に胡桃を打ちつけた。
“ コッ ”
 ハーマンが灰色の目を向けて、彼に“挨拶”をした。
「何か見えるかい?」
 彼の問いかけが聞こえているのかいないのか、ハーマンはしばらく遠くを見
続けていた。彼は根気良く待った。百を数えるほどの時間がたってから、ハー
マンがようやく返事を返した。
“ コッ コッ ”
『ノー』。
 彼は背嚢から緑色の酒瓶を取り出した。
「やるかい?」
“ コッ ”
『イエス』。
 ハーマンは即座に答えた。手渡した酒瓶をハーマンが傾けている間に、彼
は訊いた。
「チビを見かけなかったかい?」
 酒瓶から口を離し、さも美味そうに舌打ちをしてからハーマンが答えた。
“ コッ コッ ”
『ノー』。
 彼が口を開く前に、ハーマンが懐からチョークを取り出し、角張った字でホー
ンボードに書き付け、彼に渡した。
『ハンクの時報が正しいなら、あんたの小間使いがフォークナーたちと、この
通路を歩いていってから三日と二十時間経つ。フォークナーたちは三日と十
五時間前に帰ってきた。あんたの召使は一緒じゃなかった』
 彼はハーマンの伝言を黙って読んでいた。ハーマン素早く二回、胡桃を床に
打ちつけた。顔を上げた彼に向かって顎をしゃくり、彼からボードを取り返す
と、綿を包んだ布で字を消して、新たに大きな字で書き込んだ。
『探しにいくのかね?』
 ハーマンが掲げたボードを見つめ、しばらく沈黙したあと「いや」と彼は答え
た。「おれが行ってもどうしようもないだろう」
 ハーマンは意外そうに首を傾げて見せた。彼にボードを向けたまま、逆手に
持ったチョークで小さく書き込んだ。
『それはどうかね。ガヴェインなら行くかもしれん』
「誰だい、そりゃ」
 彼の答えに、ハーマンは短い息を吹きだした。ボードを膝に乗せたまま、覆
いかぶさるようにして次の伝言を書き付けた。
『あんたはガヴェインの真似事をしてるんじゃないのかね?』
 彼はそれに答えず、ハーマンに訊いた。
「となりで待たせてもらってもいいかい?」
“ コン ”
 ハーマンは素手でボードを叩き、酒瓶を彼に返した。彼は酒瓶を押し返して
言った。
「何か見えたら教えてくれ。ヒューマンの目じゃ何も見えない」
 ハーマンは酒瓶からもう一口だけ飲んで、コルクごと彼に渡した。彼は瓶を
受け取った。ハーマンは再びチョークを手に取った。
『あんたの小間使いは逃げだしたかな』
 ドワーフは愉快そうに口の端をつりあげた。
「いや、違うと思う」
 酒瓶から一口飲み、喉を湿らせて彼は言った。
「あいつがおれから逃げるわけがない。あの可愛げのある憐れなチビは犬並
みのオツムしかないんだよ。ムクイヌみたいにおれになついている。何かあっ
て、帰りが遅くなっただけだ」
 “道順を覚えることにかけちゃ犬以下だがな”とまでは、さすがに言わなかっ
た。それでも、ハーマンは表情を硬くして、叩きつけるようにチョークで殴り書
きをして、ボードを彼に手渡した。
『だがあんたはあの子の腹を踏みつけて中身を押し出したじゃないか』
 ハーマンがよこしたボードを、彼はしばらくの間しげしげと眺めていた。
「暗くて見えないな」
 彼はそう言うと、ボードをハーマンに返して酒瓶をあおった。酒瓶を傾ける間
中も、鈍い光を放つハーマンの目がひりひりと彼を刺してた。ハーマンは袖口
でボードをぬぐい、書き付けた言葉を彼に突き出した。
『心配なのかね?』
 喋る代わりに、彼はハーマンのボードを一回だけノックした。
“心配だとも。なにせあのガキがおれの生命線だからな”
“おれは絶対に、ここから脱出してやる。そのためには、なんとしてもあのガ
キに生きていてもらわなきゃ困るんだ”
“上に出られた暁には、あのクソガキに、焦らされたお返しをたっぷりしてや
る”

 * * *