ファーストパーティでの思い出というものは多くの冒険者にとって、とかく重
要なものだ。くノ一やシーフの二人にとって、最初の仲間たちと過ごした一
年は――その後の顛末はどうあれ――彼女たちの一生において何物にも
変えがたい時間だった。
 もちろん、そうでない者もたくさんいる。たとえばこの迷宮地下一階南西の
隅在住の彼、名前は“アミュレット”とでもしておこうか。夜昼となくうたた寝を
している彼にとって、ファーストパーティとの思い出というものはさして重要で
はなかった。が、ファーストパーティの仲間たちそのものは、彼の人生にお
いて、重要な位置を占めていた。彼はかつて、現住所に程近い玄室で命を
失いかけた。この迷宮での最初の戦闘で全滅し損なったのだ。
 初めてこの迷宮に降り立ったとき、彼は入り口にたむろするここの住人に
酷い嫌悪感を覚えた。生き残った盗賊と二人、ズボンの中に大便をひった
まま仲間の死体を引っ張りながら連絡口へと向かったとき、遠くの絵でもみ
るような無関心な彼らの眼に激しい怒りを感じた。今となっては、彼自身が
その無関心な眼で、命からがら足を引きずるあの日の彼の影法師たちを見
つめている。
 うとうとしていた彼は、隣人が定期的に出す調子はずれの歌声で眼を覚ま
した。現在の彼の席――常に人が出入りするせいで、ここでは固定席という
ものがない――は階段から程よい遠さの壁際の隅、ここでは一等地だ。背
もたれもあるし――人口密度の非常に高いここではそれはとても重要なこ
とだ――連絡口から冒険者が降りてくる度に引越しをしないでもすむ。
 耳障りな異国の福音を聞きながら、彼はまたまどろみに入った。夢の中で、
彼はここに来る羽目になったその事件の時に立ち戻っていた。

 * * *

 ローグの集団から命からがら逃げおおせた彼と、彼の仲間の盗賊が属し
ているアライメント(戒律)はイービル(悪)であったが、だからといって仲間
をやすやすと見捨てるわけにはいかなかった。心情的なものではなく、契約
上、体裁上、そうならざるをえなかったのだ。イービルの人間は個人主義だ
が、だからこそ他人を信用していない。警戒心の強いイービルの者同士で
パーティを組むときには、大仰な契約書にサインする必要に迫られる。精神
論で動くグッドの人間とは違い、書類に残された約束事を破棄することは、
物質的な動機で動くイービルの人間にとって、自分で自分の首を絞めること
になる。一般市民や別のパーティの冒険者を虐殺することは単なる愉快な
行為だが、仲間を見捨てるということだけは、彼らにとって決して許されない
行為なのだ。
 馬小屋から酒場へ通いつめた約一月の間に、彼と生き残りの仲間の盗
賊はこの街の冷たさと異常さを再認識させられた。生きるだけでとにかく金
がかかる。他所とは物価の桁が違う。ゼロが二つ三つ違うといった生易しい
ものではない。目の前で行われる取引はすべて純度の高い金貨が使われ、
高レベルのパーティの卓では、一般人の給金の数年分の金が、なんでもない
カードの一回の賭け代として何気なく張られている。物乞いでもすればすぐに
蘇生費用など貯まるのではないかと考えたが、この都市では乞食にさえも厳
格な序列と縄張りがあり、彼らのような新参者が入り込める余地など無かっ
た。
 酒場のコルクボードに貼られた丁稚見習いの募集は論外だった。蘇生費
用一人分を稼ぐのに、一年の稼ぎをまるまる貯金しなくてはならない。短期
間に大金を稼ぐなら、やはり冒険者として働くに限る。彼らは一ヶ月の間、
訓練場を出たてのメイジとシーフを臨時で雇ってくれるパーティを探した。
が、何処へ行っても結果は同じ、低レベルの募集枠はきわめて小さい。いく
つものパーティから首を横に振られ続ける日が続いた。何件かの組合にも
顔を出したが門前払いを食らわされた。
 イービルの人間の例に漏れず、彼は真っ先に仲間を見捨てるという選択
肢が頭に思い浮かんだ。しかし、その魅力的な考えが頭よぎるたびに訓練
場で聞かされた数々の寓話――決まって、彼らのように最初の戦闘に失敗
した生き残りの悲惨な物語だ――が思い出され、顔すら見たくない相方を
なだめすかしながら、また次のパーティの卓に出向き、首を振られるという
作業を繰り返した。
 彼らのレベルの低さも、雇用を難しくしている一因だった。パーティによっ
て、加入の際に書面に残る契約をされない場合がある。レギュラーではなく、
傭兵として一時的にパーティに参加する場合などだ。こういったケースでは簡
単な口約束だけで、パーティを組むときも、訓練場の書面にさえ残らないよう
迷宮の中で行われることが多い。しかし、このような後腐れない臨時要員とし
て自由にパーティを渡り歩くにはそれ相応の戦闘能力と技術を習得している
ことが条件となる。傭兵を雇う側のパーティが求めるのは人格者ではなく、高
い能力を持った戦闘員だ。極端なことを言ってしまえば、『Yes』と『No』という
言葉が使え、最低限の動きさえできれば極度の人格障害でも一向に構わな
いのだ。彼らのような俄か冒険者ができる芸当ではない。『何ができる?』と
訊かれるたびに、二人は水を掛けられた犬のようにしおしおと引き下がるし
かなかった。
 個別に雇用先を探せば、幾分かは楽に仕事にありつけただろう。しかし、
互いに軽蔑しあいながらも、彼らは単独で行動をとれるほどの勇気を持ち
合わせていなかった。後になって、彼は、当時の自分が、イービルの戒律を
持つ同業者たちが作った太い轍の一つを通っていたことを知った。彼ら二人
は完全に、悪人式の“情に流されて落ちぶれたやつ”の定石に則ってしまって
いた。

 * * *

 “最後の冒険に出てから一ヶ月”というのは、宿屋の馬小屋の使用期限
だ。これを過ぎると、国から認可された組合に所属していない限り、一般の
冒険者は鑑札を見せても宿屋の主人に門前払いを食らわされ、以後は再
び冒険に出かけない限り、有料の施設を強制的に使用させられる。
 Adventurer's Inn(冒険者の宿)は大君主から正式な営業委託を受けた国
の重要施設だ。冒険者の誰もが宿屋の主人を“イカレ頭”だと認識していた
が、彼は冒険者の五大施設の管理人のなかでも、きっての商売熱心な男だ
った。
 Gilgamesh's TavernやTemple of Cantと同じく、Adventurer's Innは国家の
勅命を盾に、城内でのロッジ業務を独占していた。城内で公に営業を許さ
れたのはこの宿屋一軒のみだ。もちろん、他所の独占業者同様、袖の下を
通せば、宿屋の主人から法の目をかいくぐる方法を伝授してもらえる。Innの
主人はこの城内における全ての宿屋の元締めでもあるのだ。宿屋の裏通り
に広がる赤線地帯を見れば、無料施設を経営する主人の懐がいかに潤っ
ているのかがよく理解できるだろう。
 副業に専念すれば、僻地の国一つ二つ買える財力もあったのだが、宿屋
の主人は自分の君主に誠実な男だった。主人にとって旅館業のギルド長と
いう仕事は副業に過ぎない。彼は自分の本職に誇りをもっていた。大君主
様から委託された任務を、いかなるときも忠実に遂行し続けていた。冒険者
として登録している膨大な数の人間をすべて把握し、訓練場でも取り扱って
いない細かな情報まで握っている。この男の目をごまかすのはまず不可能
だ。

 仲間を失ってから丁度一ヶ月目を明日に控えた前夜、組合から正式に不
採用を言い渡されたアミュレット氏は友と二人、酒場の席で、束の間、傷つ
いた心の痛みを和らげようと心も腹も空いた身に安酒を流し込んでいた。
言いようのない絶望感、閉塞感、倦怠感、この一ヶ月間で、二人の若者の
精神は、冷たく無関心な俗世に倦み疲れきっていた。財布の金貨はつきか
けていたが杯を重ねるのを止められなかった。どちらも、久方ぶりの酒に酷
く酔っていた。腹にたまった鬱憤を互いにぶちまけあっていた。
「おれぁあ思うにぃだなぁ、ここでの強さなんて運がいいかぁうぇあるいかっ
て、ただそれだけなんだよぉ」
 もう何度となく繰り返した文句を口にしながら、盗賊が杯をあおった。酒臭
い息を吹きかける盗賊に、彼は大げさな身振りで同意してみせた。盗賊は
満足そうにげっぷをして、次のジョッキに手を出した。
 彼は、仲間から目をそむけてぼんやりとカウンターを眺めた。カウンター
の席では魂の抜け殻のような男たちが浴びるように酒を飲んでいた。少し
離れたテーブル席から豪快に笑う冒険者の声が響いていた。どちらも、こ
の国の登録簿では『冒険者』という同じ人種として扱われてる。だが、一体
誰が、この動く亡骸のような男たちと、快活に笑う屈強な男たちとを同じ人
種だとみるだろうか。
 盗賊は舌打ちをして、笑い声のするほうを一睨みし、すぐ目をそむけた。
「けっ、あいつらだって、たぁまたまぁ強くなるまで、生きてて、仲間が死なな
かったってだけのぉこったぁ、おれたちと違ってよぉ……ちくしょお」
 いつものように、彼は、なぜ自分がこんな人間と寝食を共にしなければなら
ないのかと運命を呪い、やるせない気持ちで盗賊の言葉を聞き流した。

 リルガミンに集まる外国人の大半の目的は、この国での永住権の取得だ。
大君主が他の国家の人民を引き寄せる餌としてぶら下げたのは金銭だけで
はない。有能な軍人である大君主は、有能な人こそが最も優れた資源である
ことを重々承知していた。軍事に重点を置く政権でありながら、資本主義を
モットーとするこの国では、才能と運さえあれば、出生を問わず自由と金と
権力が手に入る。この国で成功した帰化人たちの話は、彼らの生国で伝説
として語り継がれているほどだ。その魅力的な話しのどれもが大君主の撒い
た餌であることは冒険者たちにとって公然の秘密だが、近年の国勢調査で
は異常ともいえる値をたたき出し続けている。大量の人員と兵器を投じた侵
略を繰り返すおかげで土地と人口の調整も万全だ。まさに、飛ぶ鳥も落とす
勢いだ。
 肌の色を同じくするこの二人も、この大君主の仕掛けた甘い罠に引き寄せ
られてきた者たちだが、故国を知らずにこの国で生まれた彼は、大君主の言
葉を鵜呑みにするほど政治家を信用していなかった。それでも、両親の生国
に戻るよりはこの国に永住するほうが、開けた人生が待っているとは信じてい
た。彼は噂話をすぐに信じて短絡的な行動に走る相方に、ほとほと嫌気がさし
ていた。盗賊はまだ何かぶつぶつ続けていたが、彼は適当な相槌でごまか
し、頭の中で相方への不平をぶちまけていた。
 “こいつもおれの親父と同類だな”
 “たいした力も無いくせに、大酒をかっくらってどこでも政治論をやらかすブ
 ルーワーカー、人生の落伍者、怒鳴り散らすことしか能の無い老いぼれ、そ
 れも、酒が入らなきゃそれすらできない”

 『おまえ自身はどうなんだ?』
 頭から湧き上がった突然の声に、彼は胸騒ぎに襲われた。この声には聞
き覚えがある。喉の潰れかかった男の声、赤子の時分おしゃぶり変わりに
パイプを咥えていたホビット族特有の深みのある訛声――訓練場で死体の
正しい引きずり方を彼に仕込んだ教官の声だ。
 『人のこと言えたお義理じゃないだろう、坊や』
 かつて何度も彼の前でそうしたように、オーガに食い千切られた頬を引き
攣らせ、半分しかない唇から黄ばんだ犬歯をちらりとみせる教官の姿が彼の
脳裏にありありと浮かんだ。官吏には向いていなかったが目から鼻に抜ける
ような切れ者で、アドバイスは適切だった。故郷を離れて以来、彼にとっては
父親に等しい脅威の一つだった。
 だが彼はもう訓練生では無い。従順な模範生にはあるまじき口調で彼は頭
の中の声に反駁した。
 “おれは違うさ。おれなら何処でもやっていける。こいつと違って、訓練場
 を出る前には組合にだって誘われていたんだ”

 訓練場での成績優秀者には、組合からお誘いが来ることがある。ここでい
う組合とは、単なる同業者団体などではなく、王政からの移行と同時に導入
された新しい制度で、君主様から認可を受けた個人が、将来戦場で使い物
になりそうな連中を集め、国にかわって育成の代行を行うというものだ。雇
用主には、雇用する人数に応じて国への納金の義務が発生するが、彼らに
より得た収益の多くは雇用主の懐に入り、またある程度までならば私兵とし
ての活用を許されているため、リルガミンには数多の組合が存在する。後
ろ盾もなく、自の身一つで新天地に乗り込んだ冒険者たちにとっては、この
組合に加入することが出世への近道だ。しかし、数多くの組合が存在して
いるにもかかわらず、一般の冒険者が組合に加入できる門は限りなく狭い。
一つの組合で抱えることができる最大人数が二十人と決められているため
に――このような上限を設けなければ、逆に国家にとって大きな脅威となり
かねないからだ――事業主の大半は、稼ぎの見込めそうな者しか雇おうと
しない。優秀な人材というのは極まれにしか現れない。雇い主とて慈善事業
でやっているわけではない。中には、お世辞にも才能があるとは言い難い
新参者をあえて雇おうとする雇用主もいるが、そのような組合にはスリング
の弾のように人を使い捨てにするという悪い噂が付きまとっている。しかし
ながら、どんなに怪しい組合であろうとも、組合に加入している限り、公共施
設での待遇は並の冒険者より遥かに良くなる。馬小屋に何日いようと宿屋
の主人に嫌な顔をされることは無いし、酒場で揉め事を起こしても組合に
未加入の冒険者相手ならばこちらの非にはならない。
 これだけみれば、組合に加入すること事態は損より益が多いように思わ
れるが、いかに待遇のよい組合とて益を上回る大きなデメリットがあった。
組合に加入したが最後、加入者は雇用主の“所有物”にならなければなら
ない。たとえ目の前が断崖絶壁だろうと、前進しろと言われれば主人の望
むままにしなければならない。どんなに待遇がよかろうと、彼らは所詮、雇
い主にとってチェスの駒程度の存在なのだ。それゆえ、冒険者の間では雇
用主のことを“プレイヤー”と、皮肉を込めた愛称で呼ぶことがある。組合の
冒険者にとって、プライバシーなど無きに等しい。迷宮での探索も、まるでそ
の場にいたかのように逐一主人の耳に届いているのだ。どのような技術で
もってそれを行っているのか、冒険者にとっては永遠の謎だが、酒の席でこ
の話題があがったときなど、たいていはこの結論に落ちついた。

『クレジットカードの電信システムがあるこのご時世で、それが大して不思議
なことだろうか? なにせここは“Wizardry(魔法)”の世界なのだから』

 “おれはやつらにも優秀だと認めれたんだ。だが、おれは組合への誘いを
 蹴ってやった。出世のためなら自尊心ぐらいどうってことない。売春小屋
 のポン引きだろうが、豚のケツを舐めるのだろうが出世のためならなんだ
 ってやってやる。組合に入らなかったのは、行き先が地獄だとわかってい
 たからだ。魔術師狩が終わったら、その次は旧王城に送られ、最後は戦
 場にかり出され、国のために殉死した良き英雄の見本として祭り上げられ
 る。名誉のために野垂れ死ぬのはごめんだ。探索業は出世のためのた
 だの足がかりだ。この街を出たって、おれには行き先が腐るほどある”
 教官の声は、彼の反論を笑い飛ばした。
 『屁理屈こねてろよ。今のお前をみて、どうしてそんな大口が叩ける?』
 『職は無い、金は無い、ただの惨めで哀れな青二才じゃないか』
 『最初の戦闘は重要だ。おれは口をすっぱくして教えたはずだぜ。お前
 は、その最初の試験に落第したんだよ』
 『ここはそういう街なんだよ、坊や。他所でやりなおすと言ったって、先立つ
 ものがなけりゃ、どこにいっても、お前の立場は永遠に変わらない』

 このホビットの教官は、組合という後ろ盾にも頼らず身一つでのし上がっ
た古強者らしく、新参者を怯えさせるための作り話を嬉々として話す男だっ
た。もっとも、その大先輩の予言は今もって当たり続けている。最初の戦闘
に失敗した奴は、九割方詰んでいる。最初こそ、見ず知らずの連中どうし気
安くパーティを組んでくれるが、それも訓練場を出るまでのほんの一時期だ
けだ。一度訓練場を出てしまったが最後、再びパーティを見つけるのは困難
を極める。時節によって、前後衛の需要は変動する。後衛職は基本、前衛
に比べて食いっぱぐれ無いといわれているが、今は後衛職が供給過多だ。
 彼らは、準備を怠っていたわけではない。自分の命が万象よりも重いイー
ビルの人間だ。時間も金も労力も惜しまず使った。にもかかわらず、彼らは
最初の戦闘で死に掛け、今もって失業中だ。何せこの街では――
 『運がすべてだからさ、坊や。お前はついてなかったんだよ。もう巻き返し
 は無理なんだ。これからずううううっとな』

 カウンターから激しく咳き込むようなごぼごぼという音が聞こえた。彼は顔
を横に向けて、咳き込む乞食の背中を見つめた。薄ら寒さを首筋に感じた
彼は、寒気を振り払うように杯を一気に呷った。安酒は、冷えた身に異様に
沁みた。

 * * *

 ごぼごぼという激しい空気の振動が彼のまどろみを妨げた。ぎょっとした
彼は顔を上げて音のする方向を見た。起きたてで視界はぼやけ、水底の影
のような色のない輪郭だけが見える。彼は、目の端に溜まった目脂をほじっ
た。まだ夢の続きを――あの酒場の肺病み男が、カウンターで今にも血を
吐きそうな咳をしているあの場面を――見ているのではないかと疑ったから
だ。眼球を目蓋のうえから指で押し転がしている間、彼の鼻腔に、乞食の体
臭と、閉鎖空間特有のこもった香りが流れ込んできた。耳に響くのは、ギル
ガメッシュの雑踏が奏でる活気に満ちた潮騒ではない。衣擦れと溜息が織
り成す、陰気に満ちた小川の旋律だ。彼は薄目を開けて指先の上にのった
目脂の塊に焦点を合わせた。ここは“あの日”の酒場ではない、迷宮の一
角、運命の女神の尻から振り落とされた落伍者の集まる牢獄だ。視界が冴
えた彼は、指についた目脂を爪ではじき、絶え間なくごぼごぼと音を立てる
ほうを見やった。咳き込んでいた声の主は、彼の二年後輩の痩せたヒュー
マンの男だった。
 しばしぼんやりと天井を見つめた後、夢から醒めた本当の原因を彼は察
した。口の端にこびりついた乾いた涎を、すり切れた袖で擦りおとし、クッシ
ョンがわりに尻に敷いている荷物袋の中を探った。袋から間口の広い空っ
ぽの水筒を取り出した彼は、膨らんだ股間の布地からホースを引き出すと、
水筒の間口に密着させた。水筒の底が下に向いていることを確かめ、目を
細めて、じょろじょろと内部の液体を外に発射した。自分の膀胱から羊の膀
胱に温水を移しかえる間、彼の耳に再びあの喧しい咳の発作が聞こえた。
彼はもう、一瞥もしなかった。
 始末が終わり水筒の口をしっかりと縛って股ぐらのすぐ前に置いたあと、
彼は半分意識を失った。朦朧としていた彼は、口から垂れた涎が手に届い
た拍子に目を醒まし、身震いをして、出掛かっていた精神を体の中に引き
戻した。
 何の気なしに、右手の人差し指と親指で水筒の端をつまみあげ、ほんの
少し前まで自分の体内にあった水を水筒の皮ごしにもてあそんだ。水筒の
水は、まだ温かみがあった。暫く手の平で揉んだ後、手首のしなりで水筒
の重さを計り、人垣のきれるフロアの境を見据えた。立とうか立つまいかし
ばし悩んだ挙句、意を決した彼は座った姿勢のまま丸くなった水筒を思い
切り遠くへと投げた。詰め物をされた皮の水筒は、結び目の緩んだ場所か
らわずかな聖水を滴らせ、美しい放物線を描いて人垣の上に落ちた。バ
シャリという着地音の変わりに低い罵声が聞こえ、かすれた笑いがあがっ
た。水筒が再び放物線を描いた。彼は身構えていたが、どうやら罵声の主
は怒りに任せて飛来した落下物を落とし主に返すよりも、この集落のルー
ルに従うことを選んだようだ。丸い袋は連絡口とは反対の側へ飛んでいっ
た。彼は笑う代わりに、胃袋の中で数珠繋ぎになった空気をげろげろと吐
いた。じきに自分の水筒は、伝令の小僧によって配達される重要書簡のよ
うに、人から人へ、罵声とともに受け継がれ人垣の外へ押し出されるだろう。
 彼の周囲は人でうずもれていたが、誰一人として彼の仕業に非難の目を
向けるものはいなかった。何のことは無い、ただの日常風景だ。この場所で
延々と繰り返されている当たり前の光景なのだ。彼の水筒が弧を描いたの
を合図にいくつかの水筒が宙を舞った。
 彼は、尿意が伝染し拡散する様を見届ける前に再び目を閉じた。目を瞑
ったまま、耳の後ろにできた脂肪の瘤を無意識に指で弄った。爪先で湿った
肉をぎゅっとつまむ。首筋にむず痒い痛みが走った。じくじくしていた瘤が破
れて、牛脂のような白い塊がにゅるにゅると飛び出した。血が出るまで瘤を
しぼって、搾り出した脂と膿の塊を指にのせ、鼻先まで持ってきた。大蒜に
似た刺激的な芳香が彼の鼻腔をくすぐった。
『夢じゃない』
 しぼりたての脂の香りを嗅いだ彼は、そのまま脂ごと指をしゃぶった。脂に
包まれた苦味と塩気が舌の上にひろがった。
『これは夢じゃないんだな』
 どっと疲れが押し寄せてきた。意識が飛ぶ前に、彼は身をふるって体を起
こした。
『もう十分眠ったじゃないか』
 しかし、軽く目を瞑っただけで、彼の精神は、さっそく肉体から離れる準備
をしはじめた。げっぷの長さから久しぶりに熟睡したことはわかっていたし、
夢の続きはもう見たくなかった。しかし、彼は心身ともに疲れきっていた。次
に壁に背をあずけて眠るのは何週間も先になる。
 つかのま意識を取り戻した彼は、短い祈りの文句を口にして手を腹の上
に組み、再びまどろみに入った。彼のささやかな願いは叶えられなかった。
夢は再び、あの場面の続きからはじまった。

 * * *

 一ヶ月目の朝、一番鳥の時の声とともに藁床から追い出された彼は、仲
間と連れ立って酒場へ向かった。コルクボードの求人欄が更新される時間
まで、まだ大分余裕があるが、宿屋の主人にとって彼らの都合など関係な
い。出立の手続きを済ませるときに、馬小屋の規約に関する説明をうけ、
『以後の使用は最低でも、迷宮で一戦以上の戦闘をしたのちで』というあり
がたい言葉を頂いた。主人はおざなりに、有料施設の使用を勧めたが、彼
らがもはや無一文に等しいこと――“簡易寝台”の宿泊料すら払えないこと
――を既に承知していた。

 不夜城とはいえ、早朝のメインストリートは人がまばらだった。見張り塔の目
前にある北西のアーチにさしかかろうとした時、彼の眼に、彼らを暖かな厩か
ら追い出した声の主が、搭の止り木で朝日を浴びて胸毛を膨らませている姿
が眼に入った。油ののった雄鶏の羽は陽光に照らされ、緑や銀色に輝いてい
る。山脈から吹き降ろされる冷たい朝風を鶏冠に受け、街を見下ろすその姿
は、大胆不敵、怖いものなしといったふうで実に雄々しい。
 盗賊は、遥か頭上で見下ろしてくる雄鶏に気がつくと、石を拾い、体を弓
なりにそらして振りかぶった。石は塔の窓枠に当たり、かちんという音をた
てて地面に落ちた。雄鶏は、音のするほうを一瞥もせず、涼やかに太陽を
拝んでいる。盗賊はこぶしを振り上げて悪態をついた。
「精々拝んどくこった、てめぇは今日の晩飯だ!」
 盗賊の声に答えるように、見張り塔から笑いがあがった。寝ずの番人たち
が、白い息を吐き出しながら膨らんだ赤い鼻の上で手をひらひらさせてい
る。家禽相手に喧嘩を吹っかける仲間を後に、脇の下に手を差し込んだ彼
は再び歩き出した。普段の彼なら、腹を抱えながら冗談の一つでも言った
だろう。今はとても愉快に笑う気分にはなれなかった。笑いはとうに彼の表
情のレパートリーから抜け落ちていた。土気色の陰鬱な顔だけが、いま彼
ができる唯一の表情だった。

 * * *

 前日の雨のせいか、湿気を吸った酒場の扉は人が通るたびにぎしぎしと
音をたてていた。酒場はまだ冒険者の姿はまばらで、動くオブジェとなりは
てた男たちだけが、終日二日酔いの陰気な顔で、体がさめないように細々
と酒を流し込んでいた。
 いかにも歓迎していない不快な音にでむかえられた彼は、両の手で肘をさ
すりながら、なるべく彼らのほうを見ないようにして、コルクボードのほうを眺
めた。やはり時間が早すぎた。求人のラインナップは昨日と同じだ。『WE
NEED YOUR MAZE!!』と下手くそな字で書かれたチラシだけがいやに目につ
いた。
 コルクボードの下では、『ただいま割引期間中』という札を首からぶら下げた
鼻のないホビットが、ねじれた背骨をいっそう丸くして座っていた。元々鼻の
あった場所にあるいびつな窪みから粘液が垂れ、老婆のようにもごもご動く唇
のうえをつたって、歪んだ顎にまで届いている。ホビットと一瞬目が合いそうに
なり、彼は急いで目を逸らした。
 ふと、カウンターの端で大げさに腕を振り回している乞食が目に入った。
罵りあいでも始めるのかとほんの少し目をあてたが、どうやら一人のよう
だ。彼は最初、そのにたにた笑う矮小な髭面が自分を呼んでいることに気
がつかなかった。一向に振り向かないまま、再び視線をコルクボードに戻そ
うとした彼に、痺れを切らした乞食が急に甲高い声をあげた。
「こ、こっちだよ、ぼ、坊や、こっちだ、い、いぃ、一杯おどてやあからよ!」
 小人の乞食の声に彼は肝をつぶした。誰か人違いをしているのではない
かと辺りを見回した。ここ一ヶ月休まず酒場に通い続けたが、駆けつけ三杯
をあてにできる仲間などついぞ作った覚えはない。
「あ、あ、あんただよ、しょ、しょこのぼさっとつっ立ってる……くそっ、とと、と
っとときやがりな、この新米イカしゃマ師のにいちゃんよう!」
 人違いではない。乞食の目は戸口にいる彼のほうを向いている。戸口に
立っているのは彼一人だ。こすりあわせた手に息を吐きかけながら、彼は
できるだけゆっくりと乞食の席に近づいた。
 この街に馴染みはじめていた彼の目にも、乞食の見てくれは酷い有様に
映った。見える限りの肌は、すべて薄茶色の垢で覆われ、とくに顔の皮膚
は、空っぽの袋のようにしおれて畳まれ、皮膚の皺一つ一つに、異臭を放
つ垢が何年にもわたって蓄積され、今まさにこのときも、生きた皮膚のうえ
で腐食が進みつつあった。黄ばんだ白髭は、病気にかかった樫の葉のよう
に食べかすや垢で斑にそめられている。頭部の栄養をすべて髭に奪われ
てしまったのか、深い皺の刻まれた剥き出しの頭皮には輝きがない。目は眇
(すがめ)で、まともな方の目ですら蒸留酒に漬け込んだようにくすんだ灰色を
している。朝の寒さのせいか、“薬”が切れたせいか、矮小な体をいっそう縮
こまらせてぶるぶる震えている。
 彼のまだ正常に機能している知覚神経は、“気をつけろ! こいつはお前
をペテンにかけるつもりだぞ!” と警告していたが、別のところではこうも
言っていた。“それがどうした? こいつが何か言い出してもポケットをひっく
り返してみせてやりゃいいだけじゃないか” 結局、彼は後者の声にしたが
った。
 彼はこの一ヶ月の間に鼻がすっかり馬鹿になっていると思っていたが、小
男の席に近づくにつれ、思っていた以上に自分の嗅覚が鋭いことを発見し
た。身長三フィートの小男の周囲二ヤードの空気は、乞食風味ですっかり
味付けされいた。地下の連絡口でたむろしているあの連中と同じ、密室に
繋がれ、身動きできないまま糞を一ヶ月垂れ流し続けた家畜の小屋のよう
なあの臭いだ。
 最低限の空気だけで何とか呼吸し続けられるよう努力をしながら、すぐ隣
に座るかどうか迷っている彼に、小男が焼け焦げた杭のような前歯を見せ
て親しげに声をかけた。
「お、おつれしゃんは、まあだぁ、おねんねかい?」

 * * *

 むっとする薬味の香りが彼の鼻を刺した。彼は、普段ならむせかえるよう
なこの薬草の香りを胸いっぱいに吸いこんだ。アブサンの匂いは好きでは
ないが、この乞食臭漂う空間では、天界の芳香もかくやと感じられた。強烈
な薬の香りは二つのパイントジョッキといっしょに運ばれてきたグラスから漂
っている。日に照らされた教会の窓のような透きとおった緑色だ。金鏝にい
くつも穴をうがったようなスプーンが、グラスの縁につり橋にようにかけられ
ている。
「む、む、むむむっつ」
 乞食が舌の足りない声で砂糖壷から角砂糖を取り出す給仕に言った。
「あんがとしゃん」
 小男は懐から数枚の金貨を取り出し、震える手で、若い給仕に手渡した。
小男の声はあどけないが、片目は大振りすぎる給仕の胸元をせわしなく這
いまわっていた。
 相方の機転で乞食のすぐ隣に座らされた盗賊は、ものめずらしげに乞食
の挙動を眺めた。小間使いの娘はたしかに若く、同年代のほかのドワーフ
女と比べれば女として発育が良く見えたが、その笑窪と胸のふくらみは魅力
的というよりは、視野に入れずにすむのならばと願うような、悪い意味での
きわどさをかもし出している。ぬくもりというよりは生暖かい肉の塊といった
感じのほうが当てはまる。密室に閉じ込められた挙句、カシナート片手に
『あなたのために今日は髭を剃ってきたの』という脅しをかけられれば、髭
剃りたてでもざらつくごつい顎にキスしてやれないこともないが、それでも泥
酔もせずダークゾーンでもない場所では相当の勇気が必要だ。生物学上
メスであることはわかるが、女日照りが十年続いた程度では、並みの感性
を持つヒューマンが、このドワーフの給仕を女と見るかと言うと怪しいところ
だ。
 給仕は金貨をポケットに入れるまえに前掛けでぬぐうのを隠そうともしな
かったが、乞食は給仕の行儀よい微笑み(多分あれは笑顔だったのだと思
う)にため息を漏らしていた。ポケットに滑り込ませたときの鈍い金属音から
して、この日、この給仕が受け取ったチップの総額はなかなかのものらしい。
 先にジョッキに手を付けたものかどうかと思案中の盗賊だったが、乞食が
スプーンをひっくり返して、とろりとした酒の中に角砂糖を落としたところで、
ジョッキに手を伸ばし、乾杯の音頭の前に錫製のふちに口をつけた。一気
にやらず、舌と口蓋のあいだに隙間をつくるよう飲んでいるあたり、盗賊も
彼と同じことを考えているのだろう。この乞食の周囲で深呼吸をすることは
自殺行為だ。
 彼も相方に倣いジョッキの取手をにぎったが、乞食が準備を終えるまでじ
っと待った。乞食が不器用な手つきで水差しをグラスの上でひっくりかえし
た。澄んだ緑色だったグラスが瞬く間に白濁した。スプーンでガラガラ乱暴
にかき混ぜ、小男にとってはビアマグほどもあるグラスの酒をあっという間
に飲み干した。乞食の震えがぴたりと止まった。幸福そうに吐息をもらした
乞食は、神経にさわる甲高い声でおかわりを要求した。盗賊は咳き込みた
いのを我慢して、彼のほうに顔を背けた。どうやら乞食のブレスをまともに
喰らったらしい。
「やらんのかい?」
 次のグラスを待つ間、飲み干したグラスの底にこびりつくとけ残りの砂糖
を、スプーンですくってシャリシャリ噛みながら乞食は言った。
「ああ」
 彼は一瞬悩んだあと、ジョッキを相方のほうへ押しやった。
「めっぽう弱くてね。あんたが話をする前に居眠りこいちまうのは失礼だろ」
 いつもの彼なら、こういった社交辞令を断る度胸はなかったが、今日は違
った。彼の死にかけていた知的好奇心は数週間ぶりに活発な活動を見せ
ていた。当然だ。生まれて初めてこれほど間近に本物の“ノーム(醜鬼)”を
見たのだから。
 彼は、訓練場の教官の言葉を頭の中で復唱した。
『ヒューマンの知るあらゆる嗜好品を常用する“禁欲主義者”。常食は軽い
幻覚作用を催す茸類、そしてケシ粥。居住する地域の宗教に“寄生”する形
で“独自の宗教観”をもつ。奇形の比率が高く、男は乳飲み子のころから髭
が生え、身体的な成長は生後数年で止まる。他種族の者には幼子と成人との
見分けがつかない。音声学におけるノーム語の母音の数は十二だが、後舌を
使う発音の単語が全体のほぼ八割以上を占める。公用語圏に住する最も醜い
種族』
 リルガミンは多人種国家ではあるものの、ノームの姿を見かけることは稀
だ。大まかな五種族の枠に入れて考えれば、最も人口の少ない種族だ。よっ
て、彼も人類学の簡単な講義を受ける際に、壇上に引き出されて教官の鋭い
舌鋒の的にされる憐れなノームの生徒を見かけることはなかった――結果的
に、この教官の辛らつな種族評を生徒全てが笑って聞き流せたのは、その場
に一人も受講生がいなかったノーム族の時だけだ。
 本来なら、薄気味悪い生き物には近づかないことが冒険者として懸命な選
択だが、彼もメイジというジョブを選んだものの宿命に漏れず、好奇心を抑え
きれなかった。危険だとは知りながらも、目の前に現れた未知の生物を素面
のまま、もう少し観察しておきたくなったのだ。
 どこに隠し持っていたのか、いつの間にか乞食が石灰で団子を作ってい
た。彼はふと、まだ粒の粗い石灰の山にこの乞食を埋めたい衝動に駆られ
た。乞食の芳香は実に身にしみる。忙しなく口を動かしていた乞食は痰壺
に赤い唾を吐いて身を乗り出した。
「つめちゃいもんで頭をしゃんとしゃせたところで、本らいに入ろうか」
 口に物をほうりこんでいるのに最初の時よりも発音が明瞭になっている。
アブサンとビンロウ(実際はもう少し有害な薬物だろう)が効いているようだ。
盗賊は無遠慮に笑い声を上げた。彼は笑わなかった。
 “ノームはラリっているときが一番まともだからな”

 代わりのグラスを持って、給仕の一人がやってきた。彼らのところまでやっ
てきたホビットはなかなか可愛らしい顔だちをしていた――ヒューマンの目線
でみれば十代の入り口の手前にいる少女だが、お誘いがあれば、スイート
ルームで二人きりになるヒューマンはそれなりの数はいるはずだ――が、乞
食は露骨に嫌な顔をして、角砂糖の個数を訊いた給仕に、金貨を一枚よこし
て壷ごと置いていくように言った。
「おれたちは無一文だ」
 彼は口火を切った。
「あんしゃらのことは毎日見ちぇたよ」
 皺くちゃな顔には不釣合いなすべっこい手を組み合わせて乞食は答え
た。白く濁っていない方の目は薄くかかっていた霞が消え、輝きを取り戻し
ていた。店内の薄暗さで広がりきった瞳孔は真夜中の獣のようにぎらつい
た色をみせ、虹彩はほとんど見えない。
「ジョッキいっハいぶんの金が残っちぇいるのもしってる。だがホいつはおれ
のおごりだよ。なんならもういっハいどうらね?」
 彼がよこしたジョッキに手を伸ばしかけた盗賊が、指の先でジョッキを乞
食のほうへ寄せた。乞食は笑って椅子の上に立ちあがり、ジョッキを盗賊の
ほうへ押し返した。
「麦酒は苦手だ。おまえしゃんがた、この街は不案内らろう? ひよっ子か
ら毟るほど、おらぁげスじゃない」
 今度は彼が笑う番だった。
「見ず知らずの奴から施しを期待するほどおれたちは青くない。見たところ
あんたは、新入りに仏心が出せるほど生活に余裕があるようには思えない
し、おれたちより世渡りが下手なようにも見えないね」
 乞食は口の端から涎をこぼし、子供のように手を叩いてひっくりかえった。
再び彼の視界に現れた乞食は、痰壺に赤い塊を飛ばし、垢じみた袖口で口
を拭って椅子の上に立ち上がった。
「くいぶちがほヒいんだろ? おれがしぇわしてやろうじゃないか」
「てめぇのケツみて口開きなよ爺さん」
 盗賊は便所がせまってきたような顔で、手であおぐ仕草をした。
「おれらが欲しいのは食い扶持じゃあなくて、マンコ(カント)に突っ込まれた
ダチの保釈金だ」
 彼も盗賊の言葉に相槌を打った。
「食い扶持が欲しいなら故郷に帰って工場のナットでもしゃぶってるさ」
 乞食は赤い舌で唇を一舐めしてカウンターに手をつき、とっておきの内緒
話をするような低い声で話し始めた。
「あやひむのも無理ないら。ここんとこじゅっとふられどおしだったんだから。
だが不幸な日々も今日でおちまい。ちいと勇気がありゃあな。なぁに、きぇぁ
んと(寺院)のかんと(淫売)どもに身売りするようなたぐいの非情な仕事じゃ
あない」
 乞食は、茶色くなった歯茎の上下に生えた黒い杭を見せて笑顔をつくっ
た。盗賊は社交的に笑ったが彼は取り繕わなかった。仏頂面のまま乞食の
顔を見つめていた。乞食は薬物中毒患者特有のしまりのないにたにたした
笑顔のまま、右手の“聖職者の証”を二人に向けて肩ごしに後ろを指差し
た。指はもう震えていなかった。
「コーナーにいる坊やが見えるでィぁろう?」
 言いおわらないうちにげほげほという激しい咳きこみが乞食の語尾をあい
まいにした。盗賊は乞食の向こう側を見ようと首をのばした。彼のほうは尻
をぴったり椅子につけたまま動かなかった。何があるのか見なくてもわか
る。昨晩、彼が盗賊と飲んだくれている時に見たあの肺病みだ。
「こいつぁすげえ」
 乞食越しに目を向けたまま盗賊がつぶやいた。
「あいつ、もう先が長くないぜ。あんなに血反吐を吐き散らしてる」
 盗賊の言葉に彼も思わず首をつきだした。
 給仕が気を利かせたのか、男は桶を抱えて激しく咳きこんでいた。桶のせ
いで男の顔が見えない。やっと顔を上げた男をみて、彼はぎょっとした。男
の顔には見覚えがあった。彼と時を同じくして『メイジ』のスクールの門をくぐ
ったダークと言う名のヒューマンだ。
 ダークは名前に反して、明るく気さくな男で、女に好かれるような顔立ちでは
なかったが、自分の名前も書けない訓練生のなかにあって、高い教養を持ち
合わせていた。頭の回転も速いほうではあったが、メイジとして冒険者になる
より、ひなびた村の地主になったほうがお似合いな人のよい男で、その犠牲
的精神と気前のよさで多くの訓練生からたかられていた。彼もまたこの男の
親切にあずかった者の一人だ。
 ダークは彼と同い年で、新基準の新兵ほど幼くはないが、旧基準の年齢枠
に収まるほどの若さはあるはずだった。それがいまや、何年も炭鉱で働かさ
れた中年の荷担ぎのように、顔からは血の気がなく、目は落ち窪み、頬は黄
ばんだ土気色の下地に細い血管が浮かんでいた。汗で髪が張り付いているこ
とを差し引いても、一月前より目に見えて頭髪が少ない。ダークの分厚い唇
の真ん中からは赤いよだれが一直線に桶の中に垂れていた。細い筋が切れる
前に、どろっとした血の塊をげろりと吐いた。
「あわれな坊やだ、そうは思わんかね。悪いきんが肺にへイったんだよ。ほ
んの数日前に“かじェ”をこじらせたばっかりに」
「“風邪”をこじらせた?」
 思わず聞き返した彼に、乞食は下腹がこそばゆくなるような低い声で言い
聞かせた。
「お前しゃんの目はふし穴かい? おれがどんな種族で、どんなクラしゅな
のかわかっちぇるだろう?」
 乞食の言葉に彼はそれ以上反駁しなかった。盗賊は仲間のほうを振り向
いた。彼は乞食を睨んだまま唇を噛んだ。乞食の言いたいことはわかってい
る。魔術において最も秀でた種族はエルフだが、薬学と人体の仕組みについ
て最も深い理解をもっているのはノームだ。それもクラスがプリーストとなれ
ばなおさらだ。だが、彼は乞食の見解を頭から否定していた。ダークはたしか
に風邪をひいていたの“かも”しれない。しかし、“絶対”にたしかなことは、こ
の男の肺には、折れたあばらが最低でも一本は突き刺さっているということ
だ。乞食は子どものように身軽に椅子に腰をおろした。
「おれは旦那に言ってやったんだ」
「誰だって」
 彼は再び咳き込み始めたダークに目を向けて言った。乞食の目隠しがなく
なったのでコーナーの男の様子が嫌でも良く見えた。
「あの坊やのご主人様だよ」
 グラスに残った酒をあおり乞食は言った。彼は両肘を張ってカウンターテ
ーブルに引っ掛け、乞食に目線を移した。
「おれはこう言った。『あの坊やに一ヶ月暇を出して養生させてやれません
かね』、すると旦那は言った。『わたしに一ヶ月“下”に潜るなと指図する気
かね? あの“バンク”には目をかけてやっている。飲み代だってわたしの
ポケットマネーだ。だが――』」
 乞食は言葉を切ってグラスを高く掲げた。乞食の発音にもう不明瞭なとこ
ろはみられない。
「砂糖はいらない」
 三杯目のグラスを受け取った乞食は、エルフの給仕のほうをろくに見もせ
ず、追い払うつぶて代わりに銅貨を一枚だけ投げ(この街にきて以来彼が
初めてみた金貨以外の貨幣だ)、一口飲んでから再び話し始めた。
「『だがもし代わりの人員がみつかるのであれば、考えてやらなくもない』、
旦那はそう言ったんだ」
 乞食はグラスを半分までひと息に飲んで舌打ちをした。
「なぜあんたが自分でやらないんだ?」
 彼は肘をカウンターに乗せたまま言った。
「“なぜ”?」
 グラスを口から離した乞食は言った。
「そいつはおれの仕事じゃあない。おれの仕事は“見ちゃいられない”ことに
なっている奴に道を教えてやることだ。お節介だろうが、生まれもっての性
分ってやつだな」
「おれたちに“バンク”の代わりをしろと?」
 語勢を強めて彼は言った。
「その通り!」
 悪びれもせずに乞食は言った。
「あんたらが引き受けてくれれば三方が丸く収まる。いい話だろ?」
 彼はにやけた乞食の顔面に一発叩きつけて、未練たらしく歯茎に突き刺
さっている焦げた杭のような歯を残らず粉々にしてやりたい気持ちになっ
た。乞食のいう“旦那”から多少なりとも見返りが見込めないのなら、この乞
食だって世話を焼くつもりにはならなかったはずだ。こいつがゴブリンの変
異種ではなくノームなら、このバンクの男が転地療法で治る病気の類でない
こともわかっているはずだ。つまり、この乞食ノームは“仲介屋”だ。分別が
働かなくなるまで切羽詰った奴に、まともな人間なら決してしないような仕事
を押し付けることを生業としている薄汚い奴隷商だ。
 彼はこの街にきて日は浅いが、“バンク(銀行)”がどんな仕事なのかとい
うことぐらいは知っている。バンク――“生ける巾着袋”、まともな人間として
扱われない最底辺の屑ごみ。彼が一番頭にきたのは、自分が、この汚物
の塊のような矮小な乞食に「こいつなら大丈夫」と値踏みされたことだった。
唯一となったオツムの足りない彼の仲間も、バンクという言葉を聴いた途端、
引き攣った表情を見せた。盗賊も彼と同様の意見のようだ。二人は仲間内での
合図を交わし、この場から逃げるための算段をしはじめた。

 乞食が突然椅子の上から飛び降り深々と頭を下げた。彼と盗賊は戸口を
振返った。この日、彼はわずか二十四時間のあいだに、初対面のノーム二
人と会話をするという、ヒューマンとしては稀に見る快挙を成し遂げた。

 * * *
 
 乞食からジッドという名の化け物を紹介された彼は、ノームという種族はな
んとも嘘つきな輩であると心底思った。ジッドは北方地帯の保守的なコロニー
出身のノームだそうだが、彼の目の前に現れたデミヒューマンは、まったくノー
ムには見えなかった。
 ヒューマン十人にこの男の種族を言い当てさせると、四人は発育異常の
毛並みのいいオークの一種だと答え、三人は品種改良により小型化に成
功したハーフオーガだと言い、二人は呪術的実験の犠牲になったドワーフ
の成れの果てだと結論付けた。そして、酒場のカウンターで初めてジッドに
お目見えしたアミュレット氏は、この男を、どの種族とも異なる新種の生物
だと考えた。ジッドの身長は四フィートを優に超え、他のノームが苦労して蓄
えようとしている肉を六十ポンドは余分にもっていた。なで肩で、腹は出
張っていたが、体は筋肉質で、左腕が右腕よりも二周りは大きい。一応は
鼻の先のほうが前に突き出てはいるが、尋常でなく張り出した額をもち、そ
の下にある溝からは灰色の瞳が、乞食と同じように薄暗い店内の中で爛々
とした獣じみた光を放っていた。まだ二十代であることが信じられないほど、
脂ぎっているのに潤いという言葉が一切感じられないひび割れた皺だらけ
の皮膚が、びっしりと生えた毛並みの良い髭の間からも垣間見え、眉間と
頬髯との境界には、額に劣らず肥大化した色の悪いプラムのような鼻がぶら
下がっている。
 ヒューマンからすればとてもノームには見えない異常な体躯だが、同族の
ノームたちからすれば、ジッドは実に理想的な外見の持ち主らしい。乞食と
ジッドは、傍目から見ればどちらも化け物だが、どうもノームたちの美的感
覚はヒューマンが考えているよりも繊細なようだ。ジッドがまだ腰を下ろす前
から、乞食をよけて歩いていたノームの給仕が、小走りに注文をとりに来
た。短い注文を受ける小さな給仕の頭巾からは、業務用にしてはいささか
サービス過剰な高音域の声が聞こえ、ジッドがほとんど厄介払いするように
よこしたチップを大事そうに懐に入れた。
 乞食は、まず二人に雇い主に向かって頭を下げさせ、つぎに二人には理
解できない言語――おそらくノームの言葉だろう――を使って二人を紹介
する仕草をしてみせた。彼は何か言うべきかと迷ったが、彼らの雇い主とな
るジッド氏は目を細めて彼らを値踏みした後、彼らのことを空気のように無
視して乞食と話しはじめた。彼は奴隷商にプライスカードを取り付けられ、こ
れから売りに出される惨めな村娘の心境で、言葉の通じない二人の会話に
聞き入っていた。
 出鼻をくじかれた思いだった。もし彼らの雇い主が、乞食と同じように矮小
なノームだったのならば、彼は一言、冷静な罵声を浴びせたあと――たとえ
それが悪い結果を招くとわかりきっていても―― 盗賊と二人で乞食の顔面
に一発づつ食らわせて立ち去るつもりだった。相手はノームではあったが、
矮躯というにはあまりに剛健すぎる体躯だ。これがドワーフ相手だったのな
らば、走って逃げるという選択もあったのだが、標準的なノームが標準的な
ヒューマンに短距離で走り負けることはまずありえない。これだけ肥満してい
るにも関わらず、彼の目には、この男が七十マイル先の聖地まで休み無しに
早足で行進できたとしても不思議ではないように思われた。この自称ノームの
モンスターは、体型のわりに実に繊細な動きを見せていた。重い鎧を付けて
いるにもかかわらず、足音をほとんど立てずに、驚くほど素早く動く。身にまと
うブレストプレートに付けられた数々の傷や使い込まれたメイス、不恰好な
までにちぐはぐな腕(戦いながら呪文を操るスペルユーザー特有のものだ)
のいずれもが、この男が前衛もこなす優秀な僧侶であることを物語ってい
る。敏捷なホビットのスリ師でも、百フィートも進まないうちに呪文で絡めとら
れ、メイス用のダミー人形になるのが落ちだ。
 盗賊のほうは、早々に観念してしまったようで、空になったジョッキに爪の
垢を落としていた。脇を突ついた彼に、盗賊はジョッキを見つめたまま小声
で答えた。
「しょうがねえよ。一ヶ月の契約だろ、一生金貨のお守りしてろってんじゃな
い」
 楽天的過ぎる盗賊の言葉に、彼は大声を出しそうになった。ジッドが目の
前にいなかったら、彼は本当に叫んでいたところだった。
 “そうとも、お前は知らないからな、このバンクが、運試しにこの街に来た
中年じゃなく、おれやお前と同い年で、ほんの一月前までは人生の伸びし
ろがまだあると信じていた人間だなんてことをな。他人事じゃないんだぞ、
能無しめ、こいつはおれたちの未来そのものなんだぞ!”
 何か言いたげな彼に、盗賊は噛んで含めるように、自身の見解を披露し
た。
「今逃げて、ただでこのバケモンに殴られるのと、給料もらって殴られるのと
じゃ大違いだぜ? なあに、二人一組でやるんだろう。なら、どっちかが番
をしている間は、片方が自由に動き回れるってこった。その間にパーティを
探すこともできるし、やめる前にちょっと余計に給金を“貰う”ことだってでき
るかもしれねえよ」
 甲高いノーム語で早口に喋る乞食に対し、ジッドは、腹に響く低い声で答
えていた。ノーム語に関しては素人同然の彼には、この二人の会話してい
る言語が同じ言葉だとはとても思えなかった。ジッドの使う言語はまるで
オーク語(やつらに、そんな高度な言語があればの話だが)だ。理解できな
い言語だが、会話が終焉に向かいつつあるのが感じられた。
「もし、ジッドさん。いえ、サー・ジッド、少しお話が」
 何もかも手遅れになる前に、彼は無礼を承知で、主人に声をかけた。直
後、彼は古代のコロッセオで働かされている奴隷(もちろん、剣闘士ではな
く雑用の)が、断りなく自分の所有者に話しかけると、どんな目で見られるの
かを思い知らされた。ジッド氏は、家禽に突然人語で話しかけられたような
面食らった顔で彼に振り向いた。
「なにかね?」
 訛りが酷いせいで、ジッド氏の発音では“あにぃがね”と聞こえる。遠くで見
ていたのならば、彼は吹き出さずにはおれなかっただろう。見てくれは腐れ
鼻のオーガの頭を移植したドワーフだが、口調はやはりノームだ。だが彼
は笑わずにすんだ。ジッドの顔に浮かんだ表情が、吹き出したが最後どう
いうことになるのか(それどころかこれ以上彼が口をきいたらどうなるのか)
を雄弁に物語っていたからだ。
 知的なオーガ(I.Q.ポイントは7もあるだろう!)が憤怒をこらえる様相を目
前に彼も一瞬身を引いたが、彼は不幸にも食い下がらねばどういう運命が
待ち構えているのかを目の前で実演されてしまったのだ。弁護人も無しに
法廷で自分の無実を主張する囚人の心持で、必死に勇気を振り絞った。
「ご気分を害されたのならば申し訳ありません、ですが、こちらも準備もな
かったものですので。契約に際し私どもの意見も」
「契約?」
 彼とジッドの距離が狭まった。声の調子が先ほどと変わらなかったのは運
が良かったとしか言えない。椅子の上で後じさった彼の背後で、盗賊が肩
甲骨をノックした。彼の仲間は、声を使わずに“言葉を取り消せ! さもな
きゃお前のほうが消されるぞ!”と、警告をしていた。盗賊に注意されずと
も、事態が最悪の方向に向っていることぐらいわかっている。
 ジッドは何事か呟きながら乞食を振り向いた。乞食はすくみ上がって、しき
りに手を揉み、羽虫の滑空のような声で答えていた。『お前のところの巾着
袋は口をきくのか?』といったたぐいの会話なのは間違いない。
 ジッドは彼に静かに向き直った。カウンター席に座ったまま、彼は息を呑
んで首を反らした。
「わたしと目を合わせるな。じろじろと余計なものを見るな。たった今から、
お前の首の上にある“お飾り”は生命維持装置だ。言葉は忘れろ。経口は
物を詰め込むためだけの通路だ。“こいつ”は排泄以外能無しだ」
 言うなり、ジッドは獣のような素早い身のこなしで、彼の膝と膝の間に丸太
のような左腕を打ち下ろした。彼の目前で白い星が爆発した。一面灰色の
世界で、彼は『お買い上げ』を告げる低い声と、金貨の音を聞いた。

 * * *

 見かねたヒューマンのプリーストが癒しの手を差し伸べてくれなかったのな
らば、彼は丸一日酒場の床に転がっていなければならなかっただろう。もし
そうだったのならばその後の彼の運命も変わっていたのかもしれない。
 乞食がせせら笑う横で、アミュレット氏は情けない顔でたいして効き目のな
い痛み止めのブランデーを流し込んでいた。相棒の盗賊は馬鹿にしたよう
な薄ら笑いを浮かべただけで、彼にしては献身的な態度をとり、声をかける
のを控えていた。
「よかったよう、旦那のお眼鏡に適って」
 嗅覚の衰え(あるいは人間の適応能力の素晴らしさ)のおかげで、臭いこと
には変わりないが、どうにか乞食と一ヤード以内で会話ができるようになって
いた。酒瓶でしおれた袋のような乞食の頭を砕きたい衝動を抑え、彼は乞食
に詰め寄った。
「前払いだったとは聞いてなかったぞ」
「こいつぁ、まぁ、仲介料」
 袋を叩いた乞食が言った。歯をむき出しそうな彼に、乞食は慌てて弁解を
した。
「金のことなら心配いらない。あんちゃんたちの取り分は仕事のあときちんと
支払われる。ノームはとっても義理堅い。ぜっちゃいに約束を守る。あの方
は高貴な生まれのノームなんだ。そこいらのごろつきと違って飯を食うのは
仕事の後だとお考えなんだ。あのお方は、そのぉ……なんだ、まぁ、おれと
違って、気難しくって」
 “その通り、ヒューマンを食い物にしようとする腐ったキチガイじゃなく、ヒュ
ーマンなんぞと死んでも関わりあいたくないと考える(もちろん財布として使う
なら別)標準的なキチガイなんだろう”
 腹の中で愚痴をこぼす彼に、乞食が思いもよらないことを口にした。
「正式な“けえやく”は、エルフの旦那がやるのさ」
「おい、旦那が二人いるなんて聞いてないぞ」
 盗賊がげんなりした顔で答えた。無理もない。ノームに引き続き、ヒュー
マンを毛嫌いする、排他的で気障で嫌味な自己崇拝者の種族がお相手と
あっては、嫌な顔もするだろう。だが、彼はほっとした。ドワーフだろうとエル
フだろうと、こんな化け物どもよりはましだ。まだ会話が通じる。乞食が笑顔
で盗賊の背中を叩いた。
「安心しな、キースの旦那はとってもやさしいからなあ」

 * * *

 キースという男が、ジッドの親しい友人であることを聞いた彼は、ノームの
怪物に出くわした後で、エルフの化け物がでてくるのではないかと畏怖して
いたが、現れたのはヒューマンの女ならばまず好印象をもてるエルフのメイ
ジだった。面会当初、彼は一月ぶりに、まともに話の通じる相手に出会えた
と勘違いしてしまったほどだ。
「ジッドとは、この街にきて以来の付き合いでしてね」
 テーブル席で二人と握手を交わしたブロンドの男は腰をかけながら口を開
いた。
「同じ釜の飯を食った仲というやつです。身内自慢に聞こえるでしょうが、欲
目なしに、彼は腕のいいヒーラーなんです。ジッドほど動きの良いプリースト
を、わたしはいまだ知りませんね」
 彼はエルフの言葉に頷き、頭の中で答えた。
 “ええ、あんな機敏な肥満体を見たのは、わたしも初めてです”
 キースと名乗ったこの男は、いきなり本題に入らず、まず二人に簡単な身
の上話をさせた。
 彼はこの白い歯を見せて笑う若年のエルフが、ペン以上重いものを持っ
たことのない上級官吏や正式に寺院から叙任された司教ではなく、一介の
――それも、彼らと同じ“イービル”の戒律を持つ――冒険者であることに驚
嘆した。訓練場で数多く見てきた同門のエルフたちの影響で、彼はこの会談
に身構えながら臨んだのだが、キースの物腰からは排他的で高慢なエルフの
イメージが一切わいてこない。朝食は済んだかというキースの問いに、彼はた
めらいながらまだだと答えた。即座にキースは、手を打って給仕を呼んだ。
「ジッドがお二人に食事をおごらなかったのは手落ちでしたね。彼はいいや
つなんですが、人付き合いの苦手な男で――だからこそ、他所に引き抜かれ
ずに済んでいるのでしょうが――お二人とも、随分変わった印象を受けたで
しょう?」
 彼は今朝起こった出来事を素直に話さず、苦笑いでごまかした。この男の
前では、どうもそういった話は言いだしづらい。
 乞食が追い払ったあのエルフの給仕が、キースのもとにやってきた。二人は
顔見知りらしく、キースはエルフの言葉で給仕に話しかけた。彼は公用語圏に
暮らす簡単なエルフの言語ならば少し話せたが、彼らの会話は聞き取れな
かった。短い言葉を交わすと、ダークブロンドの可憐な給仕は、キースの肩に
しなだれかかり、耳を甘噛みできる距離まで唇を近づけた。キースは金貨の
束を渡してそれを制し、「なるべく早くたのむよ」と言って、給仕を遠ざけた。給
仕は軽く眉を上げて立ち去っていった。盗賊はその光景を、マントラをつぶき
ながら鳴子をならして歩く狂人を見かけたような目で眺めていた。
「失礼、知人がきたようなので」と、キースが席を立った隙に、盗賊は目を
キースの背中に合わせたまま、彼に言った。「あいつ、カマなんじゃないか?」
 彼は多くを語らずに肩をすくめるだけにした。たしかに、彼は訓練場にいた
ころ、見目形良き種族であるエルフには特殊な性的趣向を持つものが多いと
の噂を聞いていた(こともあろうに、彼はエルフの教官からその話を聞かされ
ていた)。そういった特殊な性癖をもつ者にとって、この街は非常に住みやす
い場所だ。様々な人間が立ち寄る人種のるつぼであるこの街には、他の場所
では大手を振って歩くことができない宗教戒律に違反した前科のある者(たと
えば邪教崇拝により教区から追い出された重犯罪者、もっと身近なところで貧
乏な同性愛者)や無神論者が数多く住み、引き取り手の無い死体や後天的
奇形がわんさといる。この街でも、他所と同様に小児相手の犯罪は重罪だ
が、わざわざ身の危険を冒してまで本物の子供を求めずとも、その代用品と
なるような、本物の子供そっくりの小人族が手軽に手に入る。法を犯さずして
願望を成就するには、まさに聖地といってもいい。こんな街にわざわざ出向い
てくるハイエルフを見れば、多少なりとも色眼鏡で見てしまうのはしょうのない
ことだ。
 キースの留守中に、あのエルフの給仕が素晴らしいバランス感覚で、二人
前のモーニングを運んできた。一瞬迷ったが、盗賊が素早くチップを渡したの
を見て、彼も金貨を一枚差し出した。酒場の給仕はサービス精神旺盛だ。
チップのお返しをする礼儀もちゃんと心得ている。絹のような手で頬を一撫で
された彼は、ここ五週間で自分がいかに聖者のような生活を営んでいたのか
を思い知らされた。去っていく給仕の腿の動きを観察し、簡素な批評を交わし
た二人は、届けられた朝食に手を付けた。

 二人が塩漬け肉をがつがつ詰め込んでいる最中に、ひとりの中年のホビッ
ト女が、気忙しい動きで彼らに近づいてきた。どうも今日は妙な生き物たちに
もてるな、と考えている彼らに、女は小声で話しかけた。
「悪いことはいわないよ、逃げな」
 ホビット女の体から漂う香りは上品なものとは言いがたかったが、乞食のそ
れに比べてはるかに清々しいものだった。それでも、彼は大げさに手で仰ぐ
仕草をした。少し見ただけで、このホビットが四十年来のヘビースモーカーで
あることはすぐにわかった。遠くから見れば、女の容姿は肥満気味の小児の
ようだが、近くで見ると、頬の色は赤いと言うよりは赤黒く、細かい皺の刻まれ
た目じりには紫色の細い血管が葉脈のように浮かんでいた。そしてなにより、
左手の指の先に火のついた紙巻をはさんでいた。
 彼は頭の中で、訓練場にいる間に聞かされたメイジの不文律を思い出していた。
『――スペルユーザーへの注意事項その二、もし諸兄が永らく冒険業者を続
けたいのならば火を使う薬には手を出さないこと。走れなくなったが最後、冒
険家業は廃業。幼い頃からパイプ中毒になっているチビどもは例外』
 女は横目で素早く入り口と奥のテーブルに目を走らせ、すぐに小声で繰り
返した。
「ほら、逃げなって! あたしの兄弟があの悪魔どもを足止めしてくれているう
ちに」
 彼は気にせず、すぐに塩漬け肉に注意を戻した。盗賊も右に習えとゆで
卵を剥きにかかったが、人のよさそうな中年のホビット女は火のついた紙巻
を盗賊のほうに突き出して鋭い声をだした。
「あんたがあたしの後輩だから忠告してやってんだよ。どの道シーフは苦労
するんだから。一人であんよしている時につまづくのはお前さんの勝手さ。で
も、今は取り返しのつかないことをしようとしてるんだよ。お前さんたち、バン
クってのがどんな仕事なのかわかっちゃいないだろう? 今からあんたたちが
契約しようとしている悪魔がどんな連中か」
「わかっているとも」
 余計なお世話だと言わんばかりの盗賊の声に、ホビットは頭を振ってみせ
た。気がつけば、酒場の隅で濛々と煙を立てているテーブル――麦酒とパ
イプがなければ込み入った会話ができない連中だ――から好奇な目線が
集まっている。
 女は紙巻を深く吸い、二回舌打ちをしてからゆっくり煙を吐き出した。 
「いいかい、あんたらがお旦那様として使えなきゃいけないキチガイノーム
と、いかれエルフが、並の精神をもってると思ったら大間違いさ。人を生き
たまま巾着袋にしようなんて輩を真人間だとは思っちゃいけないんだ。あた
しの息子がバンクになろうってんなら泣いて止めるよ。もし娘があの腐れエ
ルフの下で働きたいなんて言ったら、殺してでもやめさせるさ! あのバン
クの坊やをみてみな。あそこで飲んだくれている連中もだよ。みんな最初
は、面を上げて歩いていても恥ずかしいとは思わないまともな人間だったん
だよ。バンクを使おうなんて考えている連中は、人間一人の人生を台無しに
したって、屁とも思っちゃいないんだ。お節介だろうけど、あんたらみたいな
坊やが人生を駄目にするなんてみちゃいらんないんだよ、逃げるんなら今
のうちさね」
 ジッドを目の前にした時の彼ならば、このホビットの言葉に一にも二にもな
く賛同したところだ。だが、もう一人の旦那が彼と馬の合いそうな人種であ
り、初対面でありながらこれほど気前のいい待遇を受けた後では、もうすっ
かりこの仕事を引き受けるつもりでいた。女の警告は、イービルの信奉者
からすれば祝日に欠かさず教会に通いつめる狂信者の警句程度にしか聞
こえず、二人にはおよそよい効果をもたらさなかった。それどころか彼は余
計に、この場から逃げ出そうとすることが、いかに愚かなことだったかと考
えるようになっていた。ダークも、乞食の言うように、本当に肺炎にかかってや
つれていただけなのかもしれない。現に、あの化け物の旦那も、代役を立てる
ことに賛同してくれたじゃないか。あいつらはイービルだが、そう悪いやつら
じゃなさそうだ。そう、こいつは思ったよりも悪い仕事じゃないぞ。それどころ
か、最高の仕事になるかもしれない。期間は一ヶ月だ。二人で分担すれば、
なんとたったの二週間だ!
 女は、再三警告しながらちらちらと四方に目を走らせていたが、奥のテー
ブルにいる何かの信号を受け、首を振って舌打ちをした。
「もうおしまいだよ。誰もあんたらのことは助けちゃくれないさ」
 徹底的に無視する構えを見せた彼らに、中年女は訛りの強い捨て台詞を
吐いて、煙るテーブル席に引き返していった。厄介払いの済んだ彼らは、すぐ
に眼下のプレートに意識を集中させた。
 ギルガメッシュで出されるモーニングは、物量意外にとりえが無いが、ここ
のところ毎日、不味い麦酒とすっぱい豆ばかり口にいれてきた彼は、宴会
の即興師のようにせかせかつめこんでいた。アルコールの入っていないドリ
ンクを流しこむ段になって、彼は酒場の異様な空気に気がつき、顔を上げ
た。
 一人のホビットが、酒場に点在するバンクたちの席を駆けずり回り、小声
で何かを伝えていた。知らせを受けたバンクたちは、みな揃ってジョッキを
手放し、給仕に金貨をばら撒いてテーブルの上を片づけさせていた。ムクド
リの大群のような音を立てて朝のミーティングを行っていた集団も、いつの
間にか会議を中止して、待機中の正規軍のように沈鬱な面持ちで居並んで
いた。
 酒場の名物、バンクたちの朝の点呼の時間だ。
 最初の一団が酒場に入場した。屈強な冒険者が入店するや、すぐさま専
属のバンクが席を立ち、作り笑顔で旦那に挨拶をする。数分もしないうち
に、酒場はあわただしいピークに突入した。
 喧騒の中、赤毛のヒューマンと黒髪の女の二人連れが入場した。雑踏に
あっても、ひときわ喧しい音をたてているこのカップルを見た彼は、一流だと
嘯いていたシーフに、目の前でスプリンターをしくじられたような顔で二人連
れに目を向けた。図体ばかり無理やり膨らませた体の上に、十歳児のお頭
をのっけたような赤毛の悪がきは、連れの女――どんなに年増に見積もっ
ても、赤毛の悪がきと同じ、新制度の“Hight”ていどだろう。顔だちはまだあど
けなさが残るが、背は高く、ローブにくっきり浮かぶ体のラインは魅力的で、口
を噤いでいる間はちょっとした美人に見えた。が、これほど売春婦というあだ
名がぴったり当てはまる女はそういない――とふざけ合いながら、馬鹿でかい
声でわめいている。
 グッドの人間にはイービルの者は皆同じにみえるだろうが、善人にも色々い
るように悪人にも様々な人種がいる。アミュレット氏はイービルの人間だが、
秩序を好み、この国の大君主様の作った明確な階級制度には諸手を挙げて
賛同している。反面、表立って法を犯すことを公言するような知性の低い人種
や、短絡的な行動しか取れない無秩序な人間は嫌いだ。聞くだけで神経がす
り減らされるような不快な音を聞かされた彼は、そばかすの散った赤毛の鼻
面めがけて火球を投げつけてやりたい衝動に駆られた。が、赤毛の着込んで
いる豪奢な装飾の板金鎧と腰に差した獲物が目にはいり、音をたてずに舌打
ちをして睨むだけですませた。いくら年下とはいえ、やつらのほうが先に街に
来たのだ。ここでは先着順に身分が決まる。
 ところで、この脳みその足りない男の差している得物が、どうも刀のようで
あることに、彼は疑問を感じていた。どう贔屓目にみても、この赤毛のI.Q.ポ
イントは6を上回らないだろうという目測――憤怒のジッドよりも明らかに下
の数値をたたき出すこと請け合いだ――に完全に反した武器だった。
 ふいに、馬鹿騒ぎをしている赤毛と女の背後からキースが現れ、いきなり声
をかけた。
「やあ、ダン、今日は早起きじゃないか」
 キースの良く通る声は、彼らの席でも十分に聞き取ることができた。アホ
赤毛の声がぴたりと止まった。驚くべきことに、たったそれだけのことで、ア
ホ赤毛の知能指数が10ポイントは上昇したように見えた。連れの女にい
たっては、サブウェイの立ちんぼから、一足飛びに神託所の叙任祭司への
転職を果たしていた。震えこそしないが、赤毛はおびえた猫のように巨躯を
縮こまらせた。女は赤毛に絡ませていた腕をほどいて気恥ずかしそうに下を
向いた。
「こんな時間にいらっしゃるなんて思いもしなかったので」
「わたしがお前より遅く寝床を這い出したことが一度でもあったか?」
 アミュレット氏はこの光景を、胸のすく思いで見つめていた。改めてこの先
輩に敬意を表し、自分の判断に誤りが無かったと確信した。ものの数秒で、
その考えは急変した。
 ばつが悪そうに口を閉ざした赤毛に、キースは肩をそびやかせて、モーニン
グを貪りながら聞き耳を立てている二人を目で指した。赤毛が顎を持ち上げ
た。一瞬だけ目が合い、彼はすぐにプレートの肉に視線を戻した。彼は赤毛
の表情に、不快感を感じるよりも、寒気を覚えた。彼と目を合わせたそのほん
の一瞬で、急上昇した赤毛のI.Q.ポイントが、急落を始めたように見えた。赤
毛が口を開く前に、キースが二人に聞こえない小声で言葉を続けた。
 彼はそっと向こうの様子を伺った。赤毛の知能指数は再び回復の兆しを
見せていた。赤毛と女は、キースに一礼して、カウンター席の奥のほうに歩
き出した。赤毛と女が彼のテーブルを通過するのを見計らって、彼は二人
の進行方向を目で追った。
 彼は胃袋が糸で縛られたように縮むのを感じた。視線の先には、ダークの
姿があった。ダークは訓練場にいたころには決して見せなかったぞっとするほ
ど殺意のみなぎった目で、赤毛と女を睨んだが、すぐに痛みに顔をゆがめ、
水の中で喋るような聞き取りづらい声で挨拶をした。
「おはようございます、旦那様」
 彼の意識の中で、物分りのいい部分がホビット女の声で叫びだした。
 『ほおらみろ! だからあたしは忠告したろう!』
「ダンは友人の弟なんです」
 翻った彼の前に、いつの間にかキースが座っていた。赤毛を指して、キー
スは言葉を続けた。
「わたしが昔所属していたパーティのリーダーのね」
 カウンター席の奥から嗚咽が漏れた。彼と盗賊の二人は背後を振り向い
た。振り向いている最中、「げほ」とえずく音が耳に届いた。ダークは丸椅子
を抱えるようにしてうずくまっていた。あばらを片側全部折られたのかと冷や
りとしたが、胸をこぶしで軽く突かれただけのようだ。ダークは肺の中の空気
を全て締め出すような激しい咳をはじめた。
 ダークと赤毛のまわりには、いつの間にか人だかりができていた。皆興奮
で顔を上気させ、目を輝かせている。最前列に陣取った男が、後から来た野
次馬に押され後ろに野次を飛ばしていた。それでも男の目は目の前の二人を
見ていた。これから起ころうとする惨事の決定的瞬間を見逃すまいと、目を見
張っていた。
 群集の真ん中で、喉でヒューヒュー笛を鳴らすダークが息絶え絶えに哀願し
た。
「たのんます、今日は勘弁してください……具合が良くないんです……息
が……切れて」
「ほおう、そりゃ大変だな。どこが痛いのかな?」
 赤毛は喉笛を鳴らすダークのすぐ前に立った。ダークは背を丸めたまま、
顔を上げて左胸を指した。
 次の瞬間、重い具足が胸を指していたダークの丸い指の上にめり込んだ。
群がっていた野次馬から笑いがあがった。盗賊と彼の二人は揃って目をそ
むけ、前に向き直った。
 彼は横目で盗賊の様子を伺った。いつもなら、こんな愉快なことがあった時
には、野次馬根性丸出しで祭りのように最前列ではやしたてる男が、棺桶で
眠る死人のように青ざめていた。
 また背後から歓声が上がった。悲痛な喘ぎも聞こえたが、一瞬で歓声に飲
み込まれた。
「いいぞ、もう一本」
「やってくれよダニー、ぶち殺せ、なぶり殺しにしろ!」
 二人の前ではキースが、両手を組んで肘をつき、涼しい顔で背後の光景
を見ていた。彼の顔からは完全に血の気が失せていた。唾を飲もうとしたが、
うまくいかない。口の中の水分がからからに干上がって、舌がジャーキーのよ
うに縮んでしまったようだ。もはや目の前にいる男が、気のいい世間知らずの
青二才ではなく、人間の血肉でできた財布をもつことに躊躇しないイービルの
戒律をもつ者であることは疑いようのない事実だった。悲鳴と歓声に混じっ
て、穀物の袋を殴るような音が聞こえ続けた。
 忍び笑いが周囲から漏れた。焦点をキースに合わせたまま周囲を探ると、
カウンター席で五人ほどのノームたちが、椅子の上で団子状に折り重なっ
て、わき腹をつつき合いながら哀れな男を指差していた。マグを奪い合いな
がら固唾を呑んで見守る集団の真ん中では、あの乞食が、色の悪い歯茎と
黒い歯を見せて彼に手を振っていた。ちらりと目の端に映ったテーブル席で
は、尼僧と魔術師の二人連れが、鼻の先に掌をあてて歯を隠している。彼の
視線に気付いた尼僧は、彼に向かって人差し指と中指で魔除けの印を結ん
だ。憐れんでの行為ではなく、虎の檻の中に閉じ込められた哀れな犬に向
かって『楽しませてちょうだいね』とでもいうように。
 救いを求めるように、彼はカウンターにいる店主に目を向けた。
 店主は赤毛のいる人だかりにちらりと目を走らせただけで、次の伝票に目
線を戻した。どうやら店主にとって、店の備品を壊さずに拳闘できる赤毛の
ダニー君は悪い子ではないらしい。
「野蛮なやつだ」
 キースはつまらなそうな声をあげた。
『何を言ったんだ? あんたはあの赤毛になんて命令を下したんだ?』
 彼は危うく口を開きかけ、舌先で声をおしとどめた。キースは彼の声無き
問いに答えるように喋りだした。
「わたしは、ダンにバンクから朝食代を貰ってくるよう言っただけなんですが
ね」
 薄く笑ってキースは続けた。
「まだほんの子どもなんですよ。街にきて日も浅く礼儀もわきまえておりませ
ん。そのくせ、こういうくだらない遊びはすぐにおぼえる。ダンの兄も利口な
やつじゃなかったが、彼は気のいいやつでした」
 悲鳴と呻き声が交互に繰り返される中で、キースはくつくつと笑った。二人は
MANIFOの呪いをかけられたように身動きひとつとれなかった。もし動けたの
ならば、今すぐ酒場のドアへ突進し、死んだ仲間も、くだらない野心も何もかも
捨てて、この街と永遠におさらばしていただろう。
「四日ほど前に彼が肺炎を患いまして」
 言いながら、キースは首を反らせて顎でダークを指した。腕を前に倒した拍
子にぞろっとしたローブの袖がまくれて、七つの階位が刻まれた左腕がむき
出しになった。
 背後で女のささやき声が聞こえた。その途端、ダークの声が叫んだ。
「ぢぎじょおう! おでをごんなめにあわぜやがっで……ごの下賤売女……
ひどごろじ!」
 次の瞬間、ひときわ大きな歓声と割れた悲鳴とが彼の耳を貫いた。今度こ
そ、本当にあばらを残らず折られた、と彼は思った。
「ご存知のように、病は呪文では治せません。医者に見せようかとも思いま
したが、ご覧の通りもう手遅れで」
 もう手遅れ? たかだか四日で、棺桶に片足を突っ込んだ老人でも幼い
子どもでもなく、頑丈だけがとりえのような生気溢れる若者が肺を病んで助
からない?
 そんなことがあるはずないと彼は思った。しかし、このエルフの言葉が全く
の真実であることも信じた。ダークはもう先が長くない。ネズミ程度のちっぽけ
な脳みそしかない赤毛を本気にさせた時点で――いや、この恐ろしいエルフ
に乗せられた時点で、既にダークは手遅れだった。
「だずげで!」
 周囲の騒音を縫って、男の声が聞こえた。
「だ……げで、だでが、だでがだじげで……がみざま、どうか、どうかおじひ
を、なんでわだじがごおんなめに……がみざまああああ」
 誰も答えなかった。バンクたちは隣の独房で拷問が行われている囚人の
ように目を伏せていた。野次馬どもは、声を張り上げ、目を輝かせてこの
ショーに見入っていた。まばらにいたグッドの冒険者は必要以上に大きな声
で話し、男の嘆願をかき消した。他所の“仲間内”で起こったことは、聞かざ
る、見ざる、言わざる、それが冒険者の暗黙のルールだ。
 彼の頭の中では生存本能が、彼が完全に狂ってしまわないように気違い
じみた大声を張り上げていた。
『こいつは夢だよ。ただの悪い夢さ』
 しかし、彼の利口な部分はこの希望的観測とは反対に静かに、だがよく通っ
た声で言った。
“こいつは現実だ。目をそらすな”
『夢だよ。飲みすぎたんだ。ほんとうのお前は藁床の上でぐっすりおねんねし
ているんだ。いや、ひょっとしたらナイトテーブルに頭を押し付けて涎をたらし
ているのかもしれない。もしかしたら、この街に来たこと自体全部夢で』
“こいつは現実だ。「ボランティア(志願兵)でグリーンカードを貰おう!」とか言
う、マッドロードのあほスローガンに騙されて、故郷の安全で素敵な生活を捨
ててのこのこリルガミンにやってきた。馬鹿げた契約書にサインさせられた挙
句、最初の博打で大失敗をやらかした。こいつが現実なんだ。そしていま、自
分から棺桶の中に飛び込んだ”
『おれがドジを踏むなんてことがあるはずない、これは夢なんだ! 早く目を覚
ませ!』
“お前、まさかまだ自分だけは例外だなんて思ってないだろうな?”
 深いところから響いてくる声は、未練がましく希望を捨てない生存本能の声
を一蹴した。
“お前の未来は真っ暗闇、箱の中に閉じ込められているのとおんなじさ”

「お二人には感謝しております。おかげで、彼もようやく休めそうです。バン
クの代わりは、なかなか見つからないものですから」
 何かを吐く音が聞こえた。胃の中のものか、血か、内臓か。悲鳴はもう聞こ
えなくなっていた。耳に届くのは、興奮した野次馬の罵声と歓声だけだった。
エルフの前に座る二人には、振り向くだけの元気が残っていなかった。親指を
顎に引っかけ、涼やかに遠くを見るエルフの眼だけが、二人にとってダークの
様子を伝えてくれる唯一の視覚的情報源だった。
 大きく長いげっぷが背後から聞こえた。それっきり、ダークの声は聞こえな
くなった。
「片付けとけ」
 二人の背後にいるのだろう赤毛に、キースは命令した。
「さて、空きもできましたし、これから本格的に契約の内容についてご説明い
たしましょう」
「“空き”つったって、枠は一人分だけだろう」
 盗賊がうつむいたまま低い声で言った。
「おれたちゃ二人だぜ? 一人分しか空きがないんなら――」
 彼はぎょっとした。逃げ足は彼よりも盗賊のほうが断然速い。椅子から転
ばせておいて、一目散に逃げ出せば、彼ひとりがこの場に取り残されること
になる。尻を上げるか呪文を唱えるか迷っている間に、つづいた盗賊の言
葉に、彼は耳を疑った。
「おれだけ雇っちゃくれねえかな?」
 彼は面を上げて盗賊の顔を見た。あまりに意外な言葉に、驚きと喜びが
同時にわきあがった。彼はすぐに自分を制して、何か打算めいた裏がある
のではないかと懸命に頭を働かせようとしたが、思わず顔がほころぶのを
こらえるのに必死で先のことを考えられなかった。
 “お前のことを抜けているやつだ思っていたが、正真正銘の底抜けの馬鹿
 だったんだな!”
 “この期に及んで、お前にはこいつらが、契約期間を遵守するお人よしに
 見えるのか!”
 “あいつの最期の息が、お前には聞こえなかったのか?”
「ご心配には及びません。ちゃんと二口分の仕事を用意してあります」
 キースの返答に、舞い上がりかけた彼の心はどん底に叩き落された。
「都合よく前任の“キーパー”が逃げ出しましたから」
「逃げられたんですか?」
「ええ、逃げました」
 うわずった彼の声に不快な色を見せず、キースはにこやかに答えた。
「馬鹿な奴だった」
 キースは顔をほころばせて満面の笑みをつくった。
「さて、どうします、どちらの職をご希望ですか?」

 * * *

 目が覚めた。今ここで、彼はキースの声をはっきりと聞いた気がした。
『ごほっ……は、はい旦那様、御用は……』
 声を出そうとしたが、渇いた喉からはかすれた唸り声しか出てこない。そ
れでも彼は頭をふらふら振って、機嫌を損ねた旦那様の一撃に備えるため
に視野を取り戻そうとした。片目づつ順繰りに目を開け、周りを見回した。
 あたりに冒険者は一人もいなかった。彼のまわりは、人の形をした人間の
出来損ないでうずもれていた。彼は深呼吸をした。冷たくて清々しい空気
が、喉にひりひり滲みた。ぎゅっと目を閉じ、ゆっくりと開く。靴の上から布を巻
かれた不恰好な足、脇から突き出る薄汚い手、干からびた手足しかないのに
胴体だけ無様に太らせ、陸に上がった船乗りのように体を揺らす乞食の背中
が眼に入る。
『全部夢だった』
『ちくしょう、だがあれは現実だった』
『目の前にある薄らデブや汚いケツは夢じゃない』
 彼は元来、想像力の逞しい人間ではない(少なくとも正常なときには。そして
ここ五ヶ月の間、彼の精神は数年来の正常さを取り戻していた)。彼の見た夢
は、寸分たがわず実際に起こった出来事だった。彼の頭の中にいる録時が、
時々思い出したように上演する寸劇だ。幾度と無く見せられてきたせいで、感
傷的な気分に浸る時期はとうに過ぎ去っていた。今はこの夢を見てもひどく疲
れるだけだ。
 近くでうめき声が聞こえた。彼は急いで足を引っ込めた。膝下から伝わる
痺れに顔を歪めて、野鼠のようにあわただしく辺りを見回した。うめき声は
規則正しく聞こえてくる。かすんだ目に、髪を振り乱した女が、襤褸布を巻き
つけた芋虫のような物の上で跳ねあがる姿が映った。
 冒険者様の御一行でないことに安堵した彼は、頭の中で悪態をついた。
『ジュールのくそったれめ、朝っぱらからでかい声出しやがって』

 すっかり目が醒めた彼は、壁際に隙間なく居並ぶ隣人の肩の間で器用に伸
びをして、入り口の方に耳をそばだてた。生活雑音や話し声をかきわけ、ほど
なくして、階段のすぐ下でぶつぶつ唸り続ける声を探り当てた。
「――うじゅうきゅうにちめ、あめ、にせんひゃくきゅうじゅうきゅうにちめ、あ
め、にせんひゃくきゅうじゅうきゅうにちめ、あめぇえああああぁぁ……いまは
二時、にせんひゃくきゅうじゅうきゅうにちめ、あめ、にせんひゃくきゅうじゅう
きゅうにちめ……」
『三日たったのか』
 彼は頭の中で呟いた。

 * * *

 逃げ道など無かった。
 バンクには強力な見張り役がいた。自棄酒をくらう飲んだくれに混じって、
やはり半分酔いつぶれたようなビショップたちが、酒場のそこここのテーブ
ルに点在していた。注意してもらいたい、彼らは“アプライサー(鑑定士)”で
はなく、“ビショップ(司教)”だ。彼らはいずれも、現行の教則本に記載され
ている全ての呪文をマスターした危険なスペルユーザーだった。このビショ
ップたちは、冒険者からすれば小額の見返りで彼らのバンクを監視してくれ
る。彼らにとって番兵の真似事は副職だが、決して手抜きをするわけではな
い。酒場から宿屋にかけての道のりは、このビショップの同業者と、やはり
金で雇われた乞食どもが常に目を光らせていた。逃げ出すことは愚か、普
段と違った道を使ったというだけで、バンクたちには厳罰が下された。バン
クは、カウンターで酒をあおるときも、床に突っ伏して酔い潰れた振りをしな
がら泣くときも、外付けの公衆便所の便器に腰掛けているあいだも、絶えず
彼らの視線にさらされ続けなければならなかった。
 バンクと比べて、彼の選んだジョブが恵まれていたのかというと、答えは見
ての通りだ。今の彼ならば迷わずバンクを選んだだろう。バンクならば人語
の通じないデミヒューマンや骸骨や不気味な獣が闊歩しない人の住む場所
にいられる。単純な体罰や、自分ひとりで行う拷問なぞたかが知れている。
ここでは、周りにあるあらゆる環境がすべて拷問具になる。
 バンクと同じようにアミュレットキーパーたちの見張りも大勢いた。地下に
向かって逃げるのは論外だ。人の形をした者に殺されればまだいいほう
で、もっとユニークな奴らに捕まったが最後、自分の死体がどのように活用
されるのかわかったものではない。食料ならまだし、毒蟲の苗床やら、生き
たまま化け物の玩具に使用された実例もある。人は資源だ。資源は最後ま
で有効活用。わが国の大君主と同じく、ここのダンジョンマスターは無駄が
嫌いなのだ。
 かといって、外へ逃げるということは彼らがデーモンの群れに打ち勝つ以
上に困難だった。一歩でも迷宮の外に飛び出そうものならば、入り口に駐
屯する無数のガードたちに飛びかかられ、問答無用で城へと連行され、トレ
ボー閣下直々のお褒めのお言葉を頂戴するために数日間軟禁される。な
にせアミュレットを持ち帰った英雄様だ。簡単な接待で返されるわけがない。
たっぷりの金貨と身に余る名声、そして、地獄より恐ろしい戦場への招待状
を頂いた後にようやく開放される。長いセレモニーが終われば、広場で彼ら
のご主人たちがお迎えに来てくれるだろう。盛大な式典も、いよいよフィナー
レというわけだ。
 彼の前任者は、この任務の重圧に耐えかねて逃げ出した。前任者の任期
は二ヶ月だったという。その二ヶ月で、彼の先輩は消極的拷問にすっかりう
んざりしてしまい、仕事だけでなく現世からもおさらばしてしまった。前任者
は自分の死に場所に、暗い牢獄を選ばず、心から焦がれた明るい地上を
選んだ。アミュレットの力を使って大空へと飛び立ったのだ。
 彼は寺院で前任者と対面をしたときにこの話を聞かされた。彼は総毛だっ
た。死に様ではなく、その倉庫番が旦那方に発見されるまでに通った道のり
に彼は慄然とした。旦那方は倉庫番の死体を酒場で発見した。頭は潰れ、
体は半分挽肉になっていたが、肩に押された閣下公認の近衛兵の烙印は
読み取れた。前任者はこの姿のまま、数日間、宮殿に置かれ、近衛兵へ叙
任され、閣下からお褒めの言葉を授かり、酒場のカウンターに座らされてい
たそうだ。

 契約内容(彼らの取り分ではなく、おもに一方的な処罰の内容と、いかに
逃げ出すことが困難かということついて)を聞かされ、迷宮へ赴き、いよいよ
“設置”される段になったとき、彼は死に物狂いで抵抗した。この場で怪物
ノームと追いかけっこをしたり、エルフの火弾の的になる勇気は無かったが、
あらん限りの力で喚き、涙を流して――驚いたことに本当に涙が出た――
懇願し、それも無理だとわかると、しまいには彼らが地上へ出るのを見計ら
って階段を駆け上がり、上にいる護衛兵たちに彼らの仲間であることを宣言
するという脅しまでかけた。未練がましく泣き言を連ねる彼をみて、赤毛は手
を叩いて笑った。ジッドが睨んで赤毛を黙らせ、彼の前に進み出て静かに
言った。
「ああなりたいのか?」
 ジッドの指差した先には、一組の男女が折り重なって、階段下のすぐ脇に
眠っていた。女のほうは魔術師のようで、うつむいているせいで顔は見えな
かったが、襤褸の裾から見えた手の甲には、アミュレット氏と同じようにマー
クが焼きこまれていた。男のほうは前衛職の者らしく、がっしりした体格の
持ち主だったが、肩から先と膝から下が無かった。後からわかったことだ
が、彼らはここにきた当初は、夫婦ではなく赤の他人だったらしい。
「メイジの女のほうは親指が無い」
 ジッドは低い声で付け足した。
「現在いかなる回復呪文も蘇生呪文も、失われてしまった体の一部を復元
する力はない。だからやつらは安全だ」
 “安全”という意味はわからなかったが、どういう意味なのかを詳しく知りた
いとは思わなかった。ジッドは淡々と先を続けた。
「女は男を持ち上げて上に運ぶこと以外ならなんでもできる。身の回りの世
話を焼いたり、糞を外に捨てたり、連れを楽しませたりな。グッドの戒律をも
つキーパーなら、これだけで逃げだす心配はまずなくなる。お前もやってみ
るか? ただし、お前を思ってくれる連れはいないがね」
 後ろで腕を組んでいた赤毛が前に進み出た。身震いをした彼は、言葉を
取り消した。
「もっとも、お前は絶対にそんなことはしないだろうな。汚らわしいヒューマン
だが、イービルの人間だ。イービルは利口だからな」
 その通りだった。冒険をするには、彼は利口過ぎた。

 * * *

 手はまだ震えていた。恐れや寒さのせいもあったが、一番の理由は空腹
だ。ここ数日、ろくな食事を取っていなかった。
 蓄えが無いわけではない。彼の胃袋は空っぽだが、彼の食料袋は支えの無
い床の上においてもしゃんと立てるほど詰まっている。ハードチーズが八オン
ス、鉄板のようなビスケットが半ダース、二ポンドのパンひとかたまり、オリー
ブとキャベツの酢漬け一瓶、まだすっぱくなっていない麦酒の一クォート瓶四
本、ナイフを入れていない豚肉の燻製が一本。それとは別に、背の裏側に隠
している袋の中に葡萄酒の大瓶が一瓶ある(うんざりするほど不味い栄養剤
の瓶も二つあったが、これは食料としてカウントしていない)。この地では露天
商を開けるほど物持ちだ。しかし、彼は残りの食料を、蓄財好きのリスのよう
に後生大事に抱えていた。このところ、旦那方が地下に降りてくる頻度がぐん
と下がっている。ふとすると、一月絶食を迫られる、という事態もあるかもしれ
ない。実例は数多く見てきた。備えるに越したことはない。

 彼は首にぶら下がった黒いアミュレットに手を伸ばした。護符はメダルの
ような形をしていて、渦巻く文様の中央に大きな瞳がひとつ、埋め込まれてい
る。メダルの外周には、魔力のほとばしりを表す黒い太陽のような縁取りが
あった。初めて首にかけさせられたときのように、彼は手にとってまじまじと見
つめた。彼は手袋もつけていないまま、素手でアミュレットを弄っていた。
 いきなり、彼は力を込めてアミュレットをにぎりしめた。アミュレットから溢
れた魔力が電流のように全身を駆け巡った。彼は首からアミュレットを引き
ちぎろうと遮二無二引っ張った。アミュレットはチェーンではなく絹のような紐
につながれていただけだったが、びくともしなかった。尖った縁取りが彼の
手に傷を作った。そこで彼は引っ張るのをやめた。
 彼は血が滲み始めた手を広げて、もう一度アミュレットを凝視した。これこそ
が、霧深い太古の神々の寺院から、三人の騎士たちによって持ち去られた伝
承の護符、禁書でしかお目見えできない幻のアミュレット、ミスリルでなければ
触れることができないはずの魔力の塊だ。
 ふいに笑いがこみ上げてきた。声を出すまいとして、彼は顔を歪めた。
『ふはっ、おれが負け犬だって? 誰がいったんだ。この通りおれは伝説そ
のものを手にしているじゃないか。一世代前なら世界最高の賢者たちが絵
本を前に指を咥えていることしかできなかったアミュレットをな、それも七つ
もだぞ!』
 失われた神々の寺院と、そのご神体の首にかけられたアミュレットが、お
とぎ話の『一つの指輪』と同じだったのは昔の話だ。この街にやってくるだれ
もが、アミュレットの存在とその力を信じていた。しかし、その存在が決して
手に入れることができない幻であることは今も昔も変わらない。唯一であり、
触れることも叶わぬはずのアミュレットは無尽蔵に発見され、こうしてキー
パーたちの首にぶら下がっている。そのどれもが、凄まじい魔力を秘めて
はいたが、伝承にあるような世界を統べる力など持ち合わせていなかった。
 ホークウィンドが最初に持ち帰ったアミュレットは、たしかに本物だったの
だろう。その本物のアミュレットが、いまどこでどのように使われているのか
という憶測は方々で飛び交っている。魔よけの安置場所の有力候補は二つ
ある。ひとつはCant寺院の祭壇、もうひとつはここ、迷宮だ。Cantの僧正たち
は、彼らの寺院を神々のホップヤードにしたがっていたし、トレボーは、増兵
を正当化する理由を欲しがっていた。この二つの勢力の利害は一致してい
た。ワードナには、当分地下で殺され続けてもらわなくてはならない。
 彼は、掌のアミュレットを再びぎゅっと握った。黒い太陽から魔力が彼の
体に送り込まれてきた。秘められた力を解放せずとも、活力がみなぎってく
るように感じる。しかし彼はアミュレットの力をすぐには解放せず、思案をめ
ぐらせていた。
『こいつには、回復呪文のように一時的に空腹を忘れさせる力がある。だが、
忘れるな。アミュレットにはポットローストやミートロフのような力はない。禁断
の果実に、滋養なんてないんだ。こいつの中毒になるのはいただけない』
『こいつのために、おれはこの地下牢に閉じ込められている。鎖に縛られた
あげく、その鎖の中毒になるなんてごめんだ』
 “最初の我慢”が一番肝心だからな、という偉大な先人のフレーズが彼の頭
をよぎった。とうの昔に、この愉快な集落から姿を消していた男の言葉だった
が、深刻なアルコール中毒患者の父を持つ彼にはその先人の言葉が実にも
っともに思えた。最初の一回が肝心、それで無理ならあきらめろ。まさにその
とおり。現に最初の一回でやめられなかった自分は、順調に中毒者としての
階段を昇っていった。彼は自分が取り返しのつかない地点に向かって歩いて
いることを知っていたが、どれほどの速さで歩いているのかを理解してい――
正確には、理解したく――なかった。些細なことでのアミュレットの乱用は禁物
重々承知、わかっておりますとももちろんです。“だけれどもいまはこれをつか
わなければならない” “なぜならば”――
『傷口が化膿したら大変だ。昔、おれの近くに住んでいたクレッグもそれでお陀
仏になった。いまだいじなのはとにかく健康でいることだ。そうとも、これが最
後の一回だ』
 消毒用の薬瓶は持っていた。しかし、彼の体は不確実な薬よりも、より確か
なアミュレットの力を渇望していた。彼はアミュレットを離し、痛む手のひらを腿
にこすりつけた。切り傷から滲み出た血がズボンに小さな茶色の点をつくっ
た。再び首にぶら下がったアミュレットをつかみ、彼は目を閉じた。
 一瞬、雲の上に昇ったような浮遊感におそわれ、次に陶酔感がやってきた。
全身を、暖かな空気が包み込んだ。柔らかな日差しの中でまどろむような心
地の良さだ。全ての器官に活気がみなぎり、頭脳は静穏を取り戻しながらも、
頭蓋を開いたかのような開放感と活力に満ち溢れた。
 全身を覆う癒しの波動が、引き潮のように引いていった。彼はゆっくりと、現
実に戻されていった。われに返った途端、彼は自分のしでかしたことに、酷い
罪悪感を感じていた。
『これが最後だ。ああ、もちろんだとも』
 けだるさと惨めさを振り払うために、彼は数日振りの食事をすることにした。
 毛布代わりにしている羊毛の外套で指先を拭い、荷物袋からハードチーズ
の半切りと千切った白パンの塊を取り出して膝に並べた。その後も、袋の中
身を引っ掻き回していたが、目当てのものは見つからなかった。少しまごつい
たが、やっと思い出したように、二重に着込んだ上衣やズボンのポケットを
片っ端から調べ始めた。ほどなくして、ズボンのポケットから半分突き出てい
た折りたたみナイフを見つけ出した。彼は、岩石のごとくカチカチになったチー
ズにナイフを突き立てた。地下の共同宿舎は食欲をそそるような環境ではな
かったが、チーズの香りを嗅いだだけで冬眠中だった胃袋が目を覚ました。
アミュレットには空腹をごまかす力があるが、目の前に食べ物を置かれれば、
その効力は弱まるようだ。彼のナイフはなまくらで、切るというより氷を砕くピッ
クのようにナイフでチーズを砕く羽目になった。切れないナイフで三分間格闘
し、下唇が涎まみれになったころ、やっと一塊を切り出した。即座に、口に頬
張るには大きすぎるチーズにかぶりついた。ぐらついた歯が痛み顎が軋んだ
が、彼はさらに二口かじりとった。凝縮された濃厚な旨みが舌の上にひろがっ
た。胃袋の欲求の第一波が収まった彼は、引きちぎってでこぼこしているパン
の表面にチーズを削りだし、がつがつと貪った。

 ふと言い争う声が聞こえ、彼は食事を中断した。小柄なヒューマンの男が、
喘ぎ声を上げて絡まる男女に擦り寄っていた。
「ジュールぅ、マンディを貸してくれよぉ。こちとらもう十日も日照りがつづいて
んだぁ……ただじゃねえよぅ、たのむからぁ……なぁ……」
 マンディと呼ばれた女は、擦り寄ってくる小男を後足で蹴りかえし、それ以
上近づくと火の玉を投げつけるよと、物凄い剣幕で啖呵を切った。
『どぶの中でも操立てしようなんざ、アマンダもそうとうおめでたいオツムだ
よな』
 アマンダ――マンディと呼ばれた“芋虫ファイター”の小柄な女房――と
ジュールは、半年前にネヴィンズというメイジに雇われたキーパーの夫婦
だ。ノームのネヴィンズは『グッドのヒューマンの二人連れ』という、この
オーダーがお気に入りで、彼がここに拘留されてからネヴィンズが雇った
キーパーの夫妻は六組にも上った(実際この雇用形態は理にかなったも
のだ。ひとりだけキーパーを雇うときよりも、平均で倍以上“長持ち”なの
だ。最も任期の短かったトマス夫婦でさえ三ヶ月も持った)。アマンダはそ
の歴代の婦人の中でも特にきれいな女だった。行きずりで連れ添うことに
なったジュールにとてもよく仕え、献身的に夫に尽くし、求められればいか
なるときでも応じた。ジュールは自分の持ち物を見せびらかして快感を得
るような男ではなかったが、強靭な肉体をもつファイターらしく性欲は人一
倍強く、手足を奪われここに押し込められてからは、それが余計に歯止め
が掛からなくなっていた。といって、ジュールはわずかな食料と引き換えに
自分の女房に売春をやらせるような亭主でもない。運悪く彼らの隣人と
なってしまった者たちからすればたまったものではない。
 彼はいらだたしげに膝の上に手を落とした。彼の苛立ちはアマンダに向け
られたものではない。なまめかしい声のせいであることを思い出したのだ。
『三日……あの馬鹿が出かけてからもう三日もたった』
 水気の無い乾いた喉から、かすれた声が漏れた。
「なにしてやがる、あのボンクラめ」

 * * *

 彼には自由に動ける小間使いが一人いた。背中に隠している葡萄酒の瓶
も、その小間使いによってもたらされた物だ。彼の小間使いは、はっきり言っ
て利口ではない。白痴と言ってもいい。それがかえって彼には都合が良かっ
た。知恵をほんの少し与えてやるだけで、今までに多くの見返りを彼にもたら
してきた。その小間使いが、三日前仕事に出したきり帰ってこないのだ。
『逃げられたか……いや、あのアホのことだ、どこかでドジを踏んだにちが
いない。あのチビはまるっきりの能無しだが、おれの言いつけは忠実に守っ
てきた。“あれ”はグッドの連中がどれほど阿呆であるかを体現しているよう
な極めつけの馬鹿だ。ほんの少し情け心をみせれやれば、イービルのおれ
どころか、化け物にまで気を許すお人よしだ。おれは“あれ”の面倒を五ヶ月
間みてきたが、騙されることはあっても、騙せるような脳味噌をもっちゃいな
い』
 チーズのかかったパンの表面だけを全部齧りとった彼は、食べかけを袋に
戻した。壁際という一等地に居座って二日、その間、糞も出なかったし――彼
が数日ろくに食べなかったことと、彼の主人であるノームがくれた栄養剤の効
果のおかげだ――したがって歩く機会もなかった。五ヶ月前の彼なら差して問
題にはしなかったが、今の彼には大いなる問題に思えた。
 ためしに、膝を少し曲げ伸ばしてみた。内側の骨を伝ってぎしぎしと嫌な音
が聞こえてきたが、思っていたような激痛はなかった。
 食事のおかげで数日振りに胃腸が活動を始めることだろう。それに召使の
こともある。彼は二日ぶりに引越しをすることを決意した。
 尻の下に敷いていた荷物袋をそっと引き出し、中からずっしりとした一つの
麻袋を注意深く取り出した。彼は慎重に、その麻袋を下着の内側にたくし込
んだ。かすかにざらざらという音が袋から聞こえた。袋で膨らんだ下腹が目立
たないか、入念に身づくろいをして、それから彼は荷造りをはじめた。彼は物
持ちではないが、できあがった背嚢は小さくなかった。思ったより大きくなった
荷物を前に、彼は、手が勝手にアミュレットをいじくりまわしていることに気が
ついた。
『おいおい、こいつはもうやめたんだろ? 潔くないじゃないか』
 彼は膨れた脛をさすって腰を上げた。感覚の無くなっていた脚に血がいきわ
たり、じんわりと鈍い痛みが広がった。彼のような古参キーパー特有の職業
病だ。古参キーパーたちの大半は、長年の牢獄生活のために体も心も矯正
され、体力も精神力も弱まり、深刻なアミュレット中毒に陥っている。痛みも空
腹も恐怖さえも忘れさせてくれる魔法の護符は、数多くの冒険者たちを虜にし
てきた。その魅力の及ぶ範囲は、そのためにここに閉じ込められているキー
パーたちも例外なく及んでいる。アミュレットにアルコールや麻薬のような有害
性があることは未だ実証されていないが、キーパーたちは経験論でその恐ろ
しさを実感していた。
 目はまだアミュレットに熱いまなざしを送っていたが、無理やり背嚢に手を
伸ばした。両足の鈍痛はますます酷くなり、立ち上がるために、岩登りをす
るように石壁の溝に指をかけるはめになった。時間は掛かったが、なんとか
持ち上げることができた。
『おれも成長したもんだ』
 旦那方から頂く偏った食事と、靴とズボンの形に成型され、カビの生えか
かったランチョンミートのような色の足のおかげで、一時期は這って進むことし
かできなかった。数年にわたり、彼が歩くことを怠けていたのは事実だが、彼
がことさら酷いというわけではない。長期間ここに閉じ込められているキー
パーは二足歩行生物でいることをやめようとしている者が大半だ。旦那方か
ら体を拭くための水は与えられているのにも関わらず、古参キーパーのほと
んどが慢性的な皮膚病を抱え、壊血病で歯と髪の半分以上もしくは全部が抜
け落ち、白子のように色白で、常に病気でいるか、あるいは病気になりかかっ
ている。
 五ヶ月前に、彼は今までの半病人の生活を改めた(もちろん、アミュレットに
お世話になる頻度も増えた)。必死に足を鍛えた甲斐あって、今では荷物なし
ならば両足を踏ん張ったまま、尻を上げてフロアの外周で用を足すこともでき
る。隣人たちには変人扱いされているが、新たに始めた習慣をほぼ毎日かか
さず続けていた――二日前までは。

 “立ち上がる”という急激な運動のせいで、彼の体はショックを起こしていた。
頭は棒で殴られたようにふらつき、軽い眩暈がする。体は栄養過多の赤子の
ように不自然に肥えていたが、手足は砂糖細工でつくった操り人形のように脆
く、頼りない。踏み出せば、膝下のところでぽきりと折れてしまいそうだ。
 意を決して、彼は一歩を踏み出した。ずんという衝撃とともに、棒のように
なった足首から痺れるような鈍痛が腰を這い登った。
『ちくしょう、いてえ! 壁際にいたせいで二日もさぼってたからだ! くそっ、
なんでおれはこんな馬鹿げたことをしてるんだ!』
 彼の体のあちこちは、アミュレットを渇望していた。“禁断の果実に手を伸
ばせ!” と声高に叫んでいた。必死の思いで、彼は自分に言い聞かせた。
『くそったれ、絶対に、おれはここを出てやるんだ』
『おれは木偶じゃない。おれはこいつらとは違うんだ、断じてな』
 びりびりと痛む右足に重心を移し、左足を持ち上げた。ずん。こっちは右足
よりよっぽど酷い。
『振り向くなよ、絶対に、さもなきゃまた壁際の虜になるぞ』
 それでも彼は振り向いた。懐かしい故郷を見つめるように、名残惜しそうに
壁を見つめた。何秒間そうしていただろう。彼は故郷に別れをつげ、前に向き
直って、歩き始めた。彼の去った後に一人のホビットが素早く滑り込んだ。
『もし、アミュレットを首から外して、“完全に”魔力の影響を受けなくなったら、
おれはまだ歩くことができるのか?』
 一瞬よぎった恐ろしい考えを、彼は身震いして振り払った。
 彼は北を目指して歩き出した。

『四……五……六……七……八……』
 鈍痛を紛らわそうと、よろめく足で人ごみを掻き分けてながら、彼は歩数を
数えた。数えながら、彼は考えた。
『十四……あの能無しがとちったのだとしたらこれは事だな、十五……あん
なガキのヘマのせいでおれの人生をオシャカにされてたまるか、十六……
散々いらいらさせやがって、ようやく目途が立ったと思った矢先にこれだか
らな! 十七……何のためにおれが今までこんな苦労してきたと思ってるん
だ、あの阿呆め、ちくしょうノームが!』

 フロアの北端が見え始めた。それにつれ、あれほど密集していた人垣も
徐々にまばらになっていく。あと数歩と歩かないうちにフロアの外周までたどり
着ける。
 彼がフロアの北端に到達する前に、目の前のフロアが輝き始めた。石床の
上に、四つの白い影がうっすらと形を成しはじめていた。彼は慌てて、近くの
空き地に転がり込んだ。石床に屈んだ途端、足がこむら返りを起こした。彼は
喉を絞るように悲鳴をあげた。石床で額を打ち、右手がアミュレットを握り締
めた。膝を立ててうずくまり、塩気のある襤褸布を口に含んで悲鳴を押し殺し
た。激痛で完全に体を動かせなくなる前に、間一髪のところで彼はアミュレット
の力を解放した。
 彼が突っ伏したと同時に、北辺の見張り番から皆に警戒警報が発令され
た。周囲に緊張が走った。世間話をしていたものも、食事中のものも、用を足
していたものも、全てが動きを止めた。囀りのような囁きがとまり、衣擦れの
音だけが残った。彼らは皆一様に、首を低くして、目を伏せた。

 冒険者様のお通りだ。目を合わせてはいけない。声をかけてはいけない。
冒険者様は、自分らとはまったく別の、神聖な人種なのだから。