“財宝”という言葉がいかなる力を人に与えるのかを知りたければリルガミン
に行くべきだ。かの国家は、この言葉のもつ魔力で人民に自発的に無報酬の
徴兵に参加させるという、他の国家からすれば魔法のような離れ業をやってのけた。
 食料生産においては良い土壌に恵まれなかったリルガミンだが、立地の利
点を活かし王政下の時代より交易の要所として栄え、多くの商人、学者、文化
人の集う交易都市として他大陸にも名を知られていた。そこに“財宝”という言
葉のもつ魔力が加わったことで、希代稀に見る大規模多民族国家を形成する
に至った。痩せ枯れた土壌しかもたず、数多の天変地異に悩まされ続けたこ
の国において、『人』は唯一無二の財産なのだ。
 災厄の魔術師の一件でこの国のOverlord(大君主)が発した号令は、諸外
国の人民にも実に魅力的な条件だった。
『魔術師の首の証を示した者、国籍出生に関わらず近衛兵に取立て多額の
報奨金を与える』
 大君主の命令により各地に発布されたこの召集令は覿面に効果を表し、大
陸各地から国を超えて様々な人間がこの都市に押し寄せることとなった。これ
は近隣諸国からすれば非常に迷惑な話である。貴重な自国の労働力が、他
国に無償の“傭兵”として奪われてしまったのだ。近隣の王侯貴族たちが、こ
の頭の柔軟な軍人あがりの統領に憤慨したことは想像に難くない。
 王位継承争いという人民からすれば無益な内紛で国を潰しかけ(実際に
“城”は潰れてしまった)民からも神からも愛想をつかされた愚かな王族とは違
い、公平なる評議会の決議で統領として選出された大君主殿は聡明で、優れ
た人材ならばいかに卑しい血筋でも要職に就けるという柔軟な頭脳の持ち主
だった。その型破りな柔軟さゆえに敵を多く作ってしまったのも事実だが、前
政の王族から虐げられた者たち――軍人及び国民――から絶大な支持を受
けることができた。あまりの人気のために彼を選出した評議会ですら彼に恐
れを成してその機能を果たせなくなってしまった。また彼自身も独裁を許して
しまった環境と自らの才能のために狂気に取り付かれていった。王都を破壊
した内乱の後始末をするにあたり、正当な王位継承者がこの狂気の軍人統
領に頭をたれて兵の拝借を懇願したのは有名な話だ。彼の死後、リルガミン
は再び王政へと戻ったが、歴史から彼の名を抹殺することはできなかった。
 それでも公史書から、彼の成しえた功績の多くは削られた。史書に彼の名
を見るときは必ず“Mad”の冠が付き、また国権を司っていたのにもかかわら
ず決して“King”と表記されることはなかった。これは偏に彼の存命中に侮辱
を受けつづけた“正当な王家”からのささやかな仕返しなのだ。しかし、この偉
大なる大君主が存命中の間は、狂気が彼を蝕んだ後でさえ、彼が死ぬまでそ
の影響力が衰えることは無かった。
 多くの国家から――自国の貴族、果ては評議会にまで――妬みと恨みを買
い続けた“Mad Overlord”の末路は、史書によれば“狂い死に”。己が宿敵の
墓標が完成した矢先、その広大な“墓地”の中で自殺。それが後代の歴史学
者たちが世に伝える史実だ。しかし、史書に偽り無き事実が載った試しがあっ
ただろうか?
 この歴史に実際に携わった冒険者は笑って首を振るだろう。確かに史書に
あるとおり、トレボーは一年を費やし魔術師の地下迷宮の第四階層まで進行
し、そこに関所を築いた。それから四年の月日が流れ、リルガミンは多くの冒
険者たちが集う街となった。そしてエルフのニンジャ率いる一団が魔術師の首
の証を持って城へと帰還した――――
 事項に関して言えばこれはまぎれもない事実であり、史書には魔術師と大
君主の第一次戦線はここで一旦幕引きとなったと記されている。彼らの名前
は、後に再び年代記に登場することになるが、それはまだ先の話だ。

 だが、史書のわずか数行を占めるこの史実の行間を生きた数多の者たち
の自伝には、正史とは異なる物語が描かれていた。
 魔術師の首の証を持ち帰った冒険者はこのニンジャの一団だけではなかっ
た。魔術師は幾度となく討ち取られた。比類なき魔力を秘めた証も際限なく発
見された。迷宮に改修の手が入ると伝えられる日まで、魔術師討伐令は解か
れなかった。そして、これは重要なことだが、その事件の元凶ともいえる“マ
ジックアイテム”は、数多の冒険者が手に入れることができたのにもかかわら
ず――文字通り“ガントレット”も持たない冒険者の“裸の手”でだ――、一つ
たりとも国外へ持ち出されることはなかった。近衛兵となった者も、その大半
が戦争という名の片道旅行以外では――トレボーが狂死した後でさえ―― 一
歩もこの国を出ることができなかった。
 大君主の罠をかわし、名声と富を捨てて運良くこの国を離れることができた
冒険者は、うらぶれた酒場で酔漢相手の歴史講談の最後にこう付け加えるの
を忘れなかった。
『あの迷宮は、Mad Overlord(狂った大君主)のProving Grounds(実験場)
だったのだろうか』と、またこうも言った。
『いつの日か、狂君主と我々に嬲り者にされた魔術師が復讐に来るのではな
いだろうか』

 さて、時の流れを現在に戻そう。こうしてこの“龍と精霊の加護を受けた都
市”リルガミンは冒険者の街となったのだが、この街を訪れた者たちの動機
は様々だ。全ての冒険者がMad Overlordの歩哨になるために来たわけでは
ない。

ある者は、寝物語に聞いた英雄たちに憧れを抱いて。
ある者は、この地が生み出す大いなる富に惹かれて。
ある者は、純粋な好奇心によって。

中には、何のためにここに来たのか忘れてしまった者もいる。

 * * *

 闇を鋭い光が切り裂いた。静寂の支配する迷宮の回廊に、四人の男の騒
がしい足音が響いた。先頭を走る男の手には、トーチやランタンではなく、目
を射抜くような輝きを放つ光の塊が掲げられている。太陽を切り取ったような
光は炎よりも明瞭に色を撒き散らし、迷宮の壁にこびりついた血のしみまでも
鮮明に浮かび上がらせていた。
 魔術師の地下迷宮第二階層を走り回るこの四人の前では、皮製の服に身
を包み、バックパックを背負い髪をポニーテイルに結い上げたホビットの少女
と、荷物の入った包みを腰に巻きつけ、『足袋』と呼ばれる踝から下を覆う白
い布地のほか一糸纏わず白いしなやかな肢体を露にし、生糸のような長い銀
髪をなびかせたエルフの女が息せき切って駆けてゆく。
 ホビットよりも一足先を走っていた銀髪のエルフは、渦巻く長い回廊の終点
にある扉に突進し、重い木戸を粉々にするような勢いで蹴り開け戸口の向こう
側に飛び込んだ。後に続いたホビットは扉の敷居をまたぐや、素早く木戸の
裏側に隠れた。息つくまもなくホビットとエルフは、二人がかりで、開いたときと
同じように凄まじい勢いで扉を蹴飛ばした。扉が閉まるより早く顔を血で染め
たドワーフの戦士が、先を走っていた僧侶を追い越し全体重をかけて木戸に
体当たりをした。
 閉じかけていた扉は、小柄な戦士の強烈な一撃で派手な音をたてて押し返
された。木戸の裏側で山猫に踏みつぶされた野鼠のような悲鳴があがった。
「つかまえたぞ!」
 勝利の雄たけびを上げた戦士が、逃げ遅れて木戸と壁の間に押し潰された
ホビットの栗毛を引っつかんだ。左の目蓋の隙間からおびただしい血を流し、
猛り狂う戦士は、逞しい手でホビットの小さな顎骨を締め上げ、蹴り返して閉
じた扉に勢いよく叩きつけた。空中で足をバタつかせたホビットの少女の口か
ら苦しげな喘ぎが漏れた。
「このガキ、脳天にぶちこんでドブに放り込んでやる」
「あ、あたしは関係ないよお…… ぜ、全部あの馬鹿エルフが……」
「よう、連帯責任って言葉しってるか?」
 空いた左手の親指で血塗れの左目を指して、戦士が押し殺した声で言っ
た。兜を外したドワーフ戦士の顔は半身麻痺を患ったように左側だけ激しく歪
み、無様に歪んだ瞼の間からとめどない血の涙を流している。めくれあがった
唇の隙間から血の雫が入り込み、ドワーフが荒い息をするたびに泥水をすす
るような音が漏れた。生暖かい新鮮な血の匂いを吸い込んだ少女は、ドワー
フの手の上でできるかぎりその持ち主から身を離し、小さく喉を鳴らして憐
れっぽいかすれ声をあげた。
「そ、それなら、まずさきにあの馬鹿エルフを……」
「お前の相方のくノ一さんはお前をおっぽってどっかに行っちまったみたいた
ぜ」
 少女は顎を手の平に固定されたまま、頬を引き攣らせ目で周囲をうかがっ
た。すぐ横で扉を蹴り返していたエルフの姿がない。鋼のような手で顔を固定
されたまま、少女はほの暗い石の天井を仰いだ。
「あ……あの馬鹿……人を囮にしてはめやがっ……と、とにかく、やったのは
あの馬鹿エルフだったろ! か、勘弁してよお……」
「てめえも同罪だ。恨むんならあの能無しのケツ女を恨むんだな」
 歯をむき出しにした戦士が、肥えた腹でもがく細い腿をおさえつけ、血濡れ
の頬と少女の顎とが触れ合わんばかりにまで顔を近づけて、少女の顔に息を
吹きかけるようにせせら笑った。
「だれが“ケツ女”ですって?」
 戦士の耳元で澄んだ声が囁いた。通路に響く下衆笑いがぴたりと止んだ。
息を詰めて振り返った戦士の目に、腕を振りかぶった白い裸体が映りこん
だ。つぎの瞬間、開け放しになっていた血まみれの口に緑色のべとべとの塊
が叩きこまれた。不意打ちをくらった戦士は絶叫した。小さな顎を扉に固定し
ていた指が開き、ホビットは石の床に落とされた。ドワーフは背を丸め両手の
指を唇の隙間につっこみ、口の中に入り込んだクリーピングクラッドを掻き出
そうと滅茶苦茶に舌を引掻いた。
「ゲロの味はどう? あなたの“スパンク”よりずっと素晴らしい味だと思わな
い?」
 料理の味を訊くように、咳き込む戦士の後ろでエルフが言った。豊かに実っ
た乳房をゆらして胸をはり、腰に巻きつけた荷物袋のすぐ上に手をあてて佇
むその姿は、耳の聞こえないものの目には女神と映ったに違いない。が、花
の蕾のような唇からこぼれる言葉は下品極まりなく、目の見えないものからす
れば、声音の美しさにもかかわらず、一仕事終わらせた売女の恫喝に聞こえ
ただろう。
 間髪いれずにエルフは腰を落とし、うつむいた戦士の股ぐらめがけて強烈な
膝蹴りを食らわせた。仰け反った戦士が扉に体を押し付けて再び絶叫した。
戦士の体で仮施錠された扉の向こうで、締め出しを食らった追っ手たちが激
しく戸を叩いた。身もだえする戦士の脇をそろそろと潜り抜けようとしたホビッ
トを、エルフは捕まえた。
「私の耳のせいかしら、“馬鹿エルフ”って聞こえた気がしたけど」
 ホビットの少女の声音を真似して、甲高い声でわざとらしくエルフは言った。
「あは、はは、はあ……、冗談よ、冗談。言葉が足りなかったね、ごめんよ」
 首根っこをつかまれたホビットは微笑むエルフの方を振り向いた。
「とおおおっても素敵な、無鉄砲の“バカタレ”エルフさんの間違いでしたね!」
 首筋にかかった手を払いのけながら、膨れっ面をしてホビットは答えた。エ
ルフは冷ややかな笑みを崩さず頬を引きあげた。
 途端に頬を膨らませていたホビットがバランスを崩し、小さく悲鳴をあげなが
ら両手と両腕の腹を床についた。汚物と血で顔を染めあげた戦士が、膝立ち
の体勢のまま、片手で股間を押さえ、もう一方の手でホビットの脛を握り締め
ていた。
「こ、の、すべたども」
 語頭の子音に空気の塊をつけた火を噴くような荒々しい声で、戦士は言っ
た。
「逃げ、切れ、ると、思うなよ」
 皮手袋を被ったホビットの指はほんの一瞬だけ、フロアの境界線にある石
床の溝で鈎手の役割を果たしたが、シーフである彼女の繊細すぎる指には過
ぎた仕事だった。次の瞬間には重過ぎる荷物を引っ掛けてしまった針金のよ
うに指はまっすぐに伸ばされ、皮手袋が石の上を滑り出した。間一髪のところ
で、エルフの相方がホビットの手を捕まえた。手袋の上から小さな手をつかん
だエルフは膝立ちの状態から素早く飛び起き、弾みをつけてホビットの体を引
いた。細い脛をつかんでいた逞しい手が、汚物と血糊ですべり一気に足首に
まで移動した。小さな体が、睨み合うくノ一と戦士の間で、まるで綱引きの綱
のように空中にぶら下がった。
 吊るし落としの拷問にかけられた時のように、体の両端を恐ろしい力で引っ
張られ、ホビットの全身の筋が悲鳴あげた。ホビットの目にはさっきまで自分
がしがみついていた石床の境界線がどんどん“上のほうに”遠ざかっていく光
景が映っていた。自分の体が、左の眼孔から血を滴らせる憤怒の赤毛のド
ワーフに向かって進んでいくことを知ったホビットは、痛みと恐怖のあまり金切
り声をあげた。
「黙りなさい!」
 錯乱寸前のホビットを、エルフが鋭い声で叱責した。エルフの一喝は、ホ
ビットがどうしようもないパニックに陥るのをすんでのところでこらえさせた。だ
が依然ホビットにとって状況がよくなったとは到底言いがたい。さっき見たフロ
アの境界線(あれこそまさに生命線だ)は前よりもさらに遠ざかり、下方では
煉獄からたった今召喚されたばかりのような血の匂いをぷんぷんさせたド
ワーフが、唸り声をあげて自分の体を地獄へと引き込もうとしている。
 自分を勇気付けるために、ホビットは首が攣りそうなのを我慢して、頭を上
げて相方の顔を見た。レベル差からしても実力差からしてもどうにもならない
ことは理解していながら、ホビットは、このエルフの相方なら何とかしてくると盲
目的に信じていたからだ。
 半分失望、半分驚きの混ざった表情でホビットは相方の表情に見入った。
今まで見たことも無いような真剣なエルフの顔があった。長い銀髪を振り乱
し、額に溝を作り、なりふり構わず、彼女は懸命に小さなホビットの体を引っ
張っていた。ホビットは自分の命を繋ぎとめているこの白い華奢な二の腕にど
れほどの凄まじい力が宿っているのかを誰よりも知っていた。しかし、そのエ
ルフの満身の力をもってしても、痛みに悶えながら股間を握り締め、重度の深
手を負っているドワーフの片手の力に、わずかに及ばないようなのだ。
 恐怖が再びホビットを襲った。叫び声をあげることは何とかとめることができ
たが、汗はそうもいかなかった。ホビットの全身から――そして手の平からも
――くまなく汗がふき出した。皮手袋の内側が滑り、ホビットの体が大きく傾い
た。あわてたエルフが皮手袋の上から華奢な指が潰れそうなほど強い力でに
ぎりしめた。耐えきれずにホビットが、いままでで最も大きな金切り声をあげた。
「いたい、いたい、いたあああああい、ゆび、ゆびがああ、指が折れるう!」
「売女じゃないんだからぴいぴい泣かないでよ、死にたくなかったら我慢しなさ
い!」
 荒々しい声でエルフは叫んだ。涙目になったホビットの口から、「ふざけない
でよ、手がイカレたら死んだも同然なの、これはあたしの指なのよ!」の「ふ」
まででかかった時、エルフがガレー船の漕ぎ手のように体を前に倒し、渾身の
力を込めて勢いよく上体を仰け反らせた。
 小さな足首が浅黒い手を滑り、スリッパのように生えている栗毛に血糊を
べっとり塗られながらするりと抜け出した。反動で仰け反った戦士の剥き出し
の頭が鈍い音をたてて木戸に激しくぶつかった。
 勢い余って尻餅をついたエルフの胸にホビットの頭がぶつかり、二人重なり
合ったまま迷宮の床に倒れこんだ。豊かな弾力をもつ白い瘤の上でホビット
の頭が大きく揺れた。咄嗟にエルフは、胸でバウンドした相方の頭骨が自分
の顎を強打するのを防ぐために両腕で栗色の頭を押さえつけた。エルフは乳
房の敏感な部分に冷たく硬い金属のようなものが当たるのを感じた。やわら
かな乳房の間で、ホビットがくぐもった叫びをあげた。小さな悲鳴を無視して、
エルフは胸の上に栗色の頭をおさえつけたまま足元の敵に目を向けた。
 眼孔に加え頭と鼻からも血をふき出したドワーフが木戸に背をもたれて呻い
ている。血だらけのひね曲がった瞼の隙間から、くずれた煮凝りのようなどろ
どろした何かが流れ出していた。
 あらぬ方向を向いていたドワーフの右目が、自分の左目を見つめていた女
の視線を捕らえた。ぎょっとしたエルフは、尻餅をついたまま、腰の抜けた小
僧のように尻と足の裏だけを使い、器用に後じさりをした。フロアーの三分の
一を後退したところで、彼女はようやく胸に押し付けられた相方が窒息死寸前
になっていることに気がつき慌てて腕をほどいた。
「ぷはっ、はあっ、ああっ、いっ、たぁ」
「ご、ごめん、だいじょうぶ?」
 エルフが、顔を真っ赤にして息をつくホビットに声をかけた。
「はあっ、はっ、し、ぬかと、おもっ、た」
「けがはない?」
「はっ、ああ、ええぁっ……ん、すんばらしい、クッション、の、おかげで」
 頭をふらふらと振ってホビットが右目の上のほうに手をあてて顔をあげた。
 二人の足元から、獣の唸りのような低い声があがった。エルフは胸の上で
腹ばいになっている栗色の頭越しに彼女の足元を見やった。重い木戸の隙
間から筋肉質な指が二本這い出しているのが見えた。
 白い体がホビットを抱いたままくるりと丸まった。やわらかな乳房の上で、ホ
ビットは激痛に悶えながら状況を理解できぬまま再び息を詰まらせ、顔を埋
めたクッションがとびはねる衝撃に目を回した。
 つっかえ棒になっていた戦士の体を押しのけて扉が大きく開いた。エルフの
眼前に目も眩むようなLOMILWAの逆光に照らし出されたサムライが立ち塞
がった。刀の鯉口を切ったサムライが異国語で何かを叫んだ。
 僧侶が光の塊を握りしめた手に覆いをかけた。周囲を再び闇が包んだ。咄
嗟にエルフはホビットを抱いたままバックステップでサムライと距離を置いた。
鎧武者から十歩はあろう距離を置いた直後、くノ一の本能が“それ以上動く
な”と警告を出した。彼女は、自分の足が案山子の足のようになってしまった
ような錯覚をおぼえた。
 サムライは盾を持っていなかった。極東で“大脇差”と呼ばれる刀身の短い
片刃の剣を諸手に持ち、刃の切っ先を後方に引いた形、いわゆる“脇構え”と
いう型を取り、彼女の目を見据えたまま微動だにせず佇んでいた。
 エルフの背筋に悪寒が走った。乳房の尖端が硬くなり心臓の周囲から湧き
あがった痺れが背骨を伝い頭骨を貫いた。
 サムライの手に握られた刀は柄の部分が一般的なロングソードよりも長く、
刀身は2フィート余り、ソードとしては若干刀身が短く、刀としては明らかに彼
の身長に対して刃の尺が足りていない。しかしその刀こそ、ここリルガミンに
おいて最も恐れられる最強の武器であることを彼女は知っていた。
 極東の海に浮かぶ島国に伝わる伝説の妖刀、『村正』。湾刀だが一般的な
シミターなどよりも穏やかなカーブをもち、刀身にはとろりとした血糊で化粧を
施したような美しい刃文が波立っている。装飾も無しに人を惹きつけるその外
見とは裏腹に、獲物の骨まで断ちなお刃こぼれもしないほど頑丈で、髪の毛
を落とせば刃に触れぬうちに二つに裂けるという切れ味を誇る。その製法も、
職人も失せてしまった今となっては、ほぼ小太刀のみが現存する東の国にお
いてすら希少な武器だ。
 元来迷宮から“産出”する武器、防具の類は、持つ者の身の丈に合わせて
姿を変えるという奇妙な魔力が篭められている。ノームが身に着けたブレスト
プレートが、仕立て直しもしないまま偉丈夫のヒューマンやエルフの身にもぴ
たりと合うのだ。ところがこの村正だけはいかなる種族が身に帯びようと、尺
も、重さも、大きさも変わらない。
 エルフのくノ一が怯えたのはサムライが持つ刀が『村正』であることを知って
いたからではない。刀よりも、そのサムライ自身を彼女は畏怖していた。この
妖刀は、それを使う者の姿形に刀身を合わせるのではなく、その精神に力を
合わせる。刀に喰われたサムライを、彼女はこれまでに何人も見てきた。今、
彼女の目の前にいる男は刀に使われている者ではない、刀を使う者だ。
 彼女は隙があったことは自覚していたが油断はしていないつもりだった。し
かし、抜刀の瞬間から構えに至るまでの一連の動きを目で捉えていたにもか
かわらず頭で理解することができなかった。十歩の間合いなど、この武者は
ただの一踏みで詰めてしまうだろう。よしんば両手を塞いでいる手荷物を捨て
たところで、“刀を抜いた”この男から逃げ遂せるとは考え難い。彼女は久方
ぶりに、自分よりも遥かに格上の、本物の『侍』と対峙していた。
 ほぼ全神経を侍に集中させながらも、彼女の視覚は後方の二人の動きを
捉えていた。西の山岳地帯出身者特有の色の白さをもつドワーフ族の僧侶
と、背の高いヒューマンのブラックの司教、対照的な姿形だが彼らの行動は
まったく同じ、油断なく目を光らせながら、しかしこの場を侍にあずけ、両腕を
垂らし静観を決め込んでいる。彼らは仲間のことを知り尽くしている完成され
たパーティだった。二人の行動は彼らの侍に対する信頼の厚さを物語ってい
た。彼女が逃げる素振りを見せれば、彼らも容赦無く襲いかかるのだろうが、
勝負をするつもりならば二人は決して手出しをしないだろう。
 エルフは見てくれを怯えていないよう取り繕うのに精一杯だった。それでも彼
女の頭に後悔という言葉は思い浮かんではいない。
 彼女は確かに、沈着冷静、聡明英知の権化のようなエルフ族の一員であ
る。しかし同時に無鉄砲と好奇心の権化のような冒険者という人種でもあっ
た。だからこそ、この街を訪れた冒険者が揃って迷宮最大の関門と認める
“最初の戦闘”に小細工なしに正々堂々と挑み、その熾烈な試験を潜り抜け
見事及第することができたのだ。彼女にとって知恵は、困難を切り抜けるた道
具であり、困難から逃避するための道具ではないのだ。そういった負けん気
の強い性格のために、彼女は、今回のようなとんでもない災難を自ら招いてし
まうことがしばしばあった。
 (“おしも”の始末は人任せなくせに、動きだけはやたら良いじゃない)
 全身にくまなく染み入った恐怖を振り払うためにエルフは腹の中で軽口を叩
いた。
「手荷物を降ろしてはどうかね」
 構えを解かぬままの侍が口を開いた。エルフの上体が微かに揺れた。腕の
中の“手荷物”が苦しそうに呻いた。
「案ずるな。その間に手出しはせん」
 むずむずと動く手荷物を無視して、エルフは余計固く腕を結んだ。
「ふふ、あなた、紳士なのね」
 声が震えないよう一音、一音、注意をしながらエルフは発音した。
「あなたの相手は、あなたより遥かに格下よ。手荷物のハンデなんか、あって
も無くても結果は同じじゃない」
「お前もシノビならば“ブシドー”の精神は叩き込まれたであろう」
「私はモグリよ。それにやりたくてニンジャなんかやってるわけじゃないの」
 構えを崩さぬまま侍が声高に笑いだした。エルフは骨の髄が、侍の声にあ
わせてびりびりと振動するのを感じた。
 一頻笑い終わった侍が、静かに口を開いた。
「愚かだが、思っていたより身の程はわきまえているようだ。荷物を降ろせ、
全力でこい」
 エルフは侍を睨みつけた。侍に目を合わせたまま気配で後列の二人を探っ
た。数秒かけて周囲の状況を再確認した彼女は静かに口を開いた。
「手加減なんかしたら承知しないわよ」
 エルフは下唇の裏側を血が出るほど歯で噛み締め、相手を見据えたままゆ
るゆると腕の結びをほどきはじめた。
 誘い出した。高笑いこそしなかったが、侍は口の端を吊り上げた。彼は、試
合前のいつもの儀式を始めた。脇構えから上段、そして正眼へ、ゆらりと体重
を後ろへ移動させながら剣先を相手の喉笛へ据える。一瞬、完全に静止した
侍は目を細め、足を引き八相へと構え直した。
「何のつもり」
「露払い、のようなものだ」
「あなたの刀の間合いを私に教えてどうする気なのかしら」
 少し驚いたような顔をした後、侍は笑って言った。
「さてな」
 ふと、エルフは胸の上にいる荷物のむずむずが、大きくなったことに気がつ
いた。彼女の臍の上のあたりにあった小さな手が谷間を潜り、彼女の胸の真
ん中あたり(荷物からすれば頭のあたり)に伸びた。“荷物”の不審な動きに、
エルフは、完全に腕をほどく前に、ちらりと腕の中を覗き込んだ。
「ぢぎしょおおうぅ、まで! そのアマぁおれがぶっころしてやる!」
 隅で悶えていた戦士が、木戸を蹴飛ばしやにわに立ち上がった。一名を除
き、その場にいたほぼ全員――壇上の二人までも――が、融けだした蝋のよ
うなカラフルな染料を顔から滴らせ、手負いの獣のように吼える戦士に目を移
した。
 悪鬼の形相の戦士に皆が目を奪われた瞬間、くぐもった甲高い叫びが通路
に響いた。手荷物を抱えたエルフの輪郭が陽炎のように揺らぎ、白い肌と空
間の境が曖昧にぼやけた。叫びを聞いた司教は咄嗟に詠唱を始めた。司教
の詠唱より早く侍が跳躍した。侍の刀は空を切った。女二人の姿は、霞のよう
に忽然と消え失せた。

 * * *

 詠唱の最終節を唱えきったヒューマンの司教が、組み合わせた両手を頭に
置き、ブラック独特のリズムで呪文の節をつけたまま、聞こえよがしに、言葉
を継いだ。
「ああぁ、らぁ、らぁ、逃げられちゃった」
 ふざけた司教の声に、股ぐらを掴んだまま戦士が凄みを利かせた。一瞬身
を引いた司教は、手を頭の上に置いたままひらひらさせて目をそむけた。
「ちいいぃぃぎいぃしょおおおおう!」
 掌で股間を包んだまま、戦士は歯をむき出しにして呻いた。
「あのズベ公! あのくされまんこめ! ただじゃおかねえ!」
「動くなレスター、お前は今第一段階の門の前に……」
「あのアマあ、おれのタマをぶち割ろうとしやがったんだぞ!」
 なだめるように声をかけた僧侶に、戦士は噛み付いた。
「おおぉう、それもご丁寧に上下お揃いで」
 司教の茶々に、戦士はさらに険悪な形相で睨みつけた。いまにも誰か殺し
そうなその剣幕に押され、たじろいだ司教は首をすくめて、戦士のいる扉とは
反対の昇り階段へと続く通路をぶらぶら歩き出した。通路の先でやり取りを見
ていた侍は笑って刀を納めた。近づいてくる司教に苦笑いをした後、侍は目を
天井に向けて口を開いた。
「格下相手に煙に巻かれるとは俺も焼きが回った」
「まったくですねぇ、ブシドー振りかざしてあんな売女に骨抜きにされるなんて
アホじゃないの」
「お前も、俺とあの女の勝負を見たがったんじゃないのか?」
 司教は歯を覗かせて首を縦に振った。
「惜しいことをしたなあ。千金積んでもそう見れる試合じゃなかった」
 侍は司教の方を見ずに天井から床に目を移しその場にしゃがみこんだ。司
教が人懐っこい笑顔で侍の横に並んだ。
「格下……か、いつから俺は盲になったんだろうな。殺し合いにそんな基準は
なかろうに。いつのまにか性根が腐っていた」
 司教が座り終わるか終わらないかのうちに、侍は独り言のように喋りだした。
「きゃつら何処へ逃げたものか」
「さあねぇ。あのしっかりものの栗毛ちゃん、おれに“金冠”を持ってるなんて気
づかせなかったんだぜ。バックパックにもう一個くらいストックがあったかもし
れないし、“裏道”を回ってお外に出ちゃったのかもしれない」
 言いながら、司教は指で空中に渦を描いた。
「いい女だった」
「ああ。おれは剣士じゃないから君ほどは理解できなかったけど、ありゃあ相
当きた」
「残念だ。あの女、あの分では次に俺に逢うより前に命を落としているだろう
よ」
「栗毛のお譲ちゃんがついてる限りあのネエちゃんは大丈夫さ。いいコンビだ
よ、あの二人」
「また逢えると思うか?」
「あのお譲ちゃんがネエちゃんのお守りしている間は無理だな」
 通路の向こうでは、瀕死の重症患者に治療を施そうと努力を続ける僧侶と、
自分の命を救ってくれる医者に野次を飛ばす重症患者がまだ言い争いを続
けている。腹に響くドワーフの罵声を聞きながら、二人はしばしの間無言で床
を見つめていた。
「鼻くそ、MALORだ」
 MADIの詠唱が止んだと同時に、殺気立った戦士が叫んだ。司教の口の端
がひくひくと痙攣したが、尻で戦士のほうへ向き直った司教の口から、すぐに
明るい声が流れ出した。
「ぼかぁね、君の仲間としてご進言させていただくけれども、逃げたモンスター
を追っかけるなんて愚の骨頂だ。突発MALORで逃げた知的生命体に追いつ
けるなんて考えること自体、正気の沙汰じゃ……」
「行くのは『上』だ。そんなこともわかんねぇのか、この頭でっかちの糞製お祭
り人形野郎、酒場で待ち伏せするんだよ!」
「はっ、このリルガミンが、一日にどれだけの勢いで人口変遷しているのかわ
かってんのかな? まぁ、こんなこと、ファイターの君にいってもしょうがないか
けどさ。でもここから、連絡口までの距離ぐらいはわかっているよね? 横着
してると、今にキンタマどころかしゃぶってくれてるおねえちゃんの頭まで見れ
なくなっちゃうぜ? ウォーキングは体にいいんだ。大丈夫、逃げられやしない
よ」
「もし逃がしちまったときにゃ、あの売女どもの落とし前はお前がつけてくれん
のか、鼻くそ野郎?」
 司教の分厚い唇がめくれ上がり、白い歯が覗いた。
「バーグホーンね。おれの名前は鼻くそ(ブガー)じゃないの」
「かわりゃしねぇよ、この“真っ黒”のでっかい“鼻くそ野郎”が!」
 口を結んだ司教が石の床に手をついて立ち上がり、自分の胸までない小人
の戦士を見下ろした。
「いいかげん人の名前くらい覚えてくれないかなあ。故郷に忘れてきた脳みそ
取りに行ったらどう?」
「そのぺらぺらしたお喋りをやめろ! タマが脳天にめり込むまで蹴られてえ
のかあああ!」
 闘技場の野次顔負けの怒号が司教の耳をつんざいた。数秒間、頭を押さえ
て歯を食いしばっていた司教は人差し指をつきだし、何かを言いかけて、すぐ
に口を閉じた。彼は口の両端を引き下げて、すぐ横にいる侍に目で訴えかけ
た。侍は立ち上がりながら「諦めろ」と言わんばかりに首を振った。
「やってくれたよなあ、あのおっぱいエルフのネエちゃんは」
 ぼそりと呟いた司教は、そのまますとんと腰をおとし、あぐらをかいて拳骨を
膝の上に乗せた。
「座って」
 司教の言葉に侍と戦士は従った。

 * * *

 司教が地図で現在位置から迷宮の出口までの距離を正確に測っている間、
扉のすぐそばでは、皮製のシェードを左手に握り締め、LOMILWAの明かりを
高くかざした僧侶が、通路にいる仲間たちとは反対側の闇を睨んだまま考え
こんでいた。
 戦士の治療を終えたあと、彼がなんの気なしに通路の闇に注意を向けた瞬
間、二つの青い光が闇にぽっかりと浮かび上がりチカチカと明滅したのだ。お
どろいた彼が瞬きをした間に、その小さな光の粒は闇のカーテンの中に潜り
込んでしまった。手に被せた皮製のシェードを取った彼は、手を高く差し上
げ、光の消えたところを入念に照らし目を細めた。
「ヒュー」
「ああ」
 MALORの詠唱をはじめる段になってもこちらに来ようとしない僧侶に侍は声
をかけた。侍の言葉に僧侶は生返事をした。相変わらず彼が動く気配は無
い。
「ヒューバート、歩いて帰るつもりか?」
「いや」
 その後も、たっぷり三秒は闇と睨めっこをした僧侶は、ようやく右手を下ろ
し、司教を取り囲む輪の一員に加わった。既にトランス状態に入っていた司教
は、僧侶が腰を下ろした瞬間からすぐに儀式を開始した。滔々とつづく詠唱を
聞きながら、僧侶はふと思った。さっき見た光の粒は、先ほど転移の兜で逃
げおおせたあの二人のどちらかだったのではないのか?
 転移の呪文は魔術師のスペルの中で最も高度な呪文だ。戦闘などの緊急
を要する際には、どんなに鍛錬を積んだ使い手だろうと正確に思い通りの場
所へと転移するのはまず不可能だ。たとえアイテムの力を借りたとしても、素
人がそう容易く扱えるものではない。現に、あの二人の倍以上のレベルであ
るこの司教でさえ、これほど時間が掛かっているではないか。
 転移呪文の実体化先は、宝箱などに仕掛けられた微弱な罠の呪文などの
場合、同階層での水平移動のみしかしないが、術者が咄嗟に唱えた場合、ど
こに飛ばされるのか、皆目見当がつかない。現在位置から遥かかなたに飛ば
されることもあれば、わずか数歩移動するだけのときもある。長年の勘から彼
は、闇に潜んでいた気配がライカンスロープや獣の類ではなく、間違いなく
“人”の気配だと感じていた。
 あの二人は、運悪く、この場所から目と鼻の先のところへ転移してしまい、こ
ちらの様子を伺っていたのではないのだろうか?
 と、そこまで考えて彼は頭を振った。まさか、そんなことがあるわけがない。
あの光は、獣の瞳が月や星の微かな光を反射させるそれだった。野外ならば
まだし、ここは陽の光ですら力の及ばない深い迷宮だ。洞穴や巣穴を住処と
するドワーフ族やノーム族ではなく、氷雪の日でも戸外に出たがるエルフ族
や、ビアと日向と煙草が無ければ発狂してしまうホビット族に、獣並みに夜目
が利く種類がいるなどとは聞いたことがない。
 “それでは、『あれ』はいったい何だったのだ?”
 僧侶が答えを出す前に司教が呪文の最後の一節を唱え終えた。彼らの姿
は次第に迷宮の闇に溶けてゆき、詠唱の低い響きを残して掻き消えた。

 静寂が訪れた。半開きになっていた扉がゆっくりと閉じ始めた。蝶番の軋む
音に混じって、魔法仕掛けの動力が出す声が、感情の無い獣の咆哮のように
迷宮に響いた。扉がぴったり閉じきる前に、黒鼠が一匹、ちょろちょろと通路
に滑り込んだ。この小さな侵入者――生きているものにとっては無害な、死者
にとってはおそろしい迷宮の掃除夫――は、後足で立ち上がり、本日の遅め
のディナーが床に落ちていないか、くるくると通路を見回した。
 鼠が何かを感じとった。敏捷な掃除屋は、先ほど僧侶が目を止めた通路の
隅へと駆けだした。突然、闇の中から、あの青い二つの光が現れた。全速力
で闇に飛び掛った鼠は素晴らしい反射神経でくるりと回れ右をして、そのま
ま、昇り階段へと続く通路のほうへと逃げ出した。闇の中で、その青い光を
放った“何か”が、消え入りそうな溜息を漏らした。寒々とした迷宮のなかで、
その“何か”は、小さく身震いをした。

 * * *

 Mad Overlordが何年も前に地下迷宮の第四階層までを掌握したのは先述
したとおりだが、彼は、攻略した階層の魔物を根絶やしにせず、あえていくら
かは生かしておいた。それも深層になるにつれ徐々に強くなっていくように手
を加えて。つまり、彼は魔術師が創り出したこの迷宮を、彼のトレーニングセ
ンターへと作り変えてしまったのだ。もちろん、トレーニングセンターといえど訓
練生たちにとって命の保障などはない。なぜなら、彼は本当に狂っていたから
だ。
 ここ第二階層は、最初の洗礼に耐えうることができた冒険者に、この迷宮内
での一通りの危険について知ってもらうため整備された場所だ。
 ところで、この第二階層には、奇妙で無価値な――ある人間たちにとっては
非常に価値のある――アイテムがいくつか安置されている。学術的な価値は
ともかく、これらの品々は迷宮を探索する上で、“ほとんど”役に立たない。興
味本位でこれらのアイテムを所持する人間はいるが、無意味な品物で荷物袋
を圧迫するほど余裕のある冒険者は少なく、まかり間違って手に入ってしまっ
たところで、すぐに捨てられる。極々希少で、例外的な事故に巻き込まれない
限り、迷宮内でこのアイテムを欲しがる者はまずいない。
 四時間前に恐るべきパーティから逃げおおせたエルフのくノ一とホビットの
シーフの二人組みは、どうやらその希少な事故に見舞われてしまったようだ。
ところがどのような運命の示し合わせか、幸運にも彼女たちはこの事故に遭
遇したときの打開策を偶然“所持”していた。

 “KEY of GOLD(金の鍵)”の台座へと繋がる二つ続きの小部屋の扉が開い
た。栗色の頭が木戸の隙間から通路にちょこんととびだし、あたりを見回し
た。通路に誰もいないことを確認したシーフは、油の切れたランプをにぎりし
め、猛獣に怯えた小動物さながらに、小刻みに体を震わせ、油断無く目を光
らせながら扉に挟まれた小部屋――“無価値なアイテム”を所有していない限
り、入ることも、“出ることも”できない危険な関所――からそろそろと歩み出
た。夜中に急にもよおしてしまった子どもが、護身のためのガラクタやおも
ちゃで武装するように、彼女は両手に珍妙なアイテムを満載していた。片方の
手に動きまわる金属製の蛙を、もう片方の手にランプを、脇には彼女の頭ほ
どの周囲をもつ金冠をはさんでいる。布を巻きつけた足を引きずりながらよう
やく壁伝いに通路にでたシーフは、壁に左肩を押し付け崩れ落ちるようにへ
たりこんだ。小振りなシーフの尻の下敷きにされた置物が悲鳴をあげ、シーフ
の肘を蹴飛ばした。脇に抱えられていた金冠が床を滑り甲高い音をたてて壁
にぶつかった。シーフは、もう魔力を使い切ってしまったただの金輪には見向
きもしなかった。
「もっててよかったカエルちゃん」
 じたばた動く金属の置物をもう一つの置物で殴りつけ縄をかけながら、シー
フは魂の抜けたような声でぽつりと呟いた。口を縛られてもなお暴れまわる置
物をバックパックに押し込む彼女の背後から、腕を組んだくノ一が不機嫌そう
に現れた。
「あの洟たれの腐れチビ」
 鈴を転がすような声がくノ一の口から零れた。その一言を皮切りに、女神の
ような美しい見た目に似つかわしくない下品な悪態が、堰を切ったようにあふ
れ出した。あたりかまわずわめき散らすくノ一に、シーフの少女が大慌てで飛
びつき口に手をあて、子どもが内緒話の時に使うような無声音で叫んだ。
「あいつらに聞こえたらどうすんのよ!」
「聞こえるわけ無いじゃない。このランプは四時間はもつのよ。あいつら、もう
とっくにダンジョンの外よ」
 小さな手を口から外し、じろりと睨みつけたくノ一に、少女はたたみかけた。
「ほんっと、何考えてんのあんた、子どもじゃあるまいし、パパやママの悪口い
われたぐらいでむきになるなんてさあ」
「ええ、姉さんと違って、どうせ私は子どもよ。でもね、あの雑種ドワーフに私
の家族まで馬鹿にされるいわれなんかこれっぽっちも無いはずよ」
「それくらい我慢しろよなあ。あいつら、少なくともあんたの二倍はレベルが上
なんだよ?」
「格下相手にケンカふっかけるほど、私はゲスじゃないの」
 くノ一は腕を組み、誇らしげに言い放った。
「……あーあ、なんでこんな馬鹿と組んじゃったんだろ」
 肩を落とした少女は溜息をついた。少女にとって、この相方のために苦い思
いをしたのはこれが最初ではない。しかし、散々な目にあわされているにもか
かわらず相方を恨むことも無かったし(まぁ、これだけ酷い目に合わされてい
る割には、といった方がいいだろうが)、相方と手を切ろうと思ったことなど(今
のところは)一度たりともなかった(もちろん二人の間にいざこざが全くなかっ
たと言うわけではない。本気のつかみ合いこそしなかったが、口論より一歩踏
み込んだ“手”、もしくは“足”を使った喧嘩は何度か行われたし、口論にい
たってはそれこそ四六時中だ)。
 元来、リルガミンに冒険者としてやってくるホビットは、そのほとんどが、ホ
ビットの三氏族中もっとも人口の多いハーフット族だ。彼らは牧歌的で、変化
を好まない温厚な人々である。そんな彼らが、命の危険を伴う冒険を志すの
はよっぽど何か事情があるときだ。このシーフの少女も、そんな堅実で迷信
深いお人好しの一族の一員であり、この街を訪れた多くのホビット同様、月並
みな事情を抱えていた。
 傍目から見れば、“無鉄砲”と“臆病者”という、性格が正反対なこの二人
が、目まぐるしく仲間を変えることが珍しくないこの街で、一年もの長きにわ
たって行動をともにしていることは不思議に思われるかもしれない。が、性格
が正反対であるにもかかわらず、彼女たちは、互いに対して本気で怒ること
ができるほど仲の良い親友であった。これほど親しい友人を作ったのは、
様々なパーティを渡り歩いてきた二人にとって、最初のパーティの仲間たちと
出会って以来のことだ。
 このシーフと出会う前までは、エルフのくノ一は、ホビットが錠前破りと隠密
行動の天才であることは知っていたが、人の話を最後まで聞けるほど我慢強
い種族だとは知らなかった。またこのホビットのシーフも、このくノ一と出会うま
では、自尊心が高く、ヒューマンほどではないが種族的な選民思想の持ち主
で、極度の自己崇拝者ばかりだと思っていたエルフに、これほど能天気で話
しやすい人間がいるとは考えたことも無かった。
 この二人がこれほど仲が良くなれたのも、二人が互いに一つの認識を共有
していたからだ。シーフにとって、このくノ一は、『チェストの開錠に成功した時
の半分でもセックスで快楽が得られるならば、娼婦に転職する』という彼女の
考えに、全面的に賛同する数少ない彼女の理解者だった(実のところ、これこ
そが、身の安全を守ろうとする彼女の生存本能の最後の決断を鈍らせ、彼女
をくノ一のもとに引き止めさせ続ける強力な鎖となっていた)。
 しかしながら、今回の事件にはシーフも腹に据えかねたようだ。なにせ彼女
には一切落ち度がない。他職の人間でシーフの仕事を理解してくれる者がい
るのはうれしいことだが、そのことが命と等価交換できるものだと考えるほど
彼女は豪傑でも無謀な人種でもない。ましてそのために彼女が自分の首より
も大切にしている指が潰されかけたとなってはなおさらだ。なにより、人を巻き
込んでいるにもかかわらず当の本人に反省の色がまるで見えない。
「今度ばかりは」
 下品な言葉を撒き散らしているエルフに向かって、腕を組んだシーフは声を
張り上げた。
「二人の行く末について本気で考えなくっちゃいけないね」
 ホビットの少女の言葉に、いままで悪態をついていたくノ一は一流の手品師
に目の前で芸を披露された子どものようなきょとんとした顔になった。
「どうしたのお姉ちゃん?」
「その呼び方もやめて!」
 人差し指をつきだしたシーフがぴしゃりと言った。
「気にさわったのならあやまるわ。でもそんなに怒ることじゃ……」
「そんなことじゃないの。あたしが言いたいのは、さっきからのあんたの態度
よ」
 シーフはぐっと息を吸い込み小さな胸をそらして腕を組みなおした。大演説
がはじまる前のお決まりのポーズだ。不穏な空気を感じ取ったくノ一が先手を
打った。
「……ええ、そうね、ごめんなさい」
 くノ一は豊かな乳房を揺らして背筋を伸ばし、厳格な教師を目前にした生徒
のように両手を後ろ手に組んで、怒り心頭の十歳の子どものような相方の顔
をまっすぐ見つめた。
「あなたの言う通りよ、シャイアさん。あなたがいなかったら、私なんか今頃ど
うなっていたかわかったもんじゃないわ」
 シーフは眉をひそめたが、くノ一は構わず言葉を続けた。
「すこしなじられた程度であんな馬鹿げた行動に走るなんて、私、どうかしてた
のよ。ほんとに、あなたには感謝してるの」
 エルフの声は、涼やかで慎み深い響きだったが、シーフは胡散臭そうな目を
向けるのをやめなかった。くノ一は立て続けに手を打った。
「私が“冠”を売り払うのをあなたが止めてくれたから、あのサムライから逃げ
られたんだし、あなたが“スーパービショップ”から手に入れた置物をとってお
いたから、存在価値皆無のバカげた鍵を取りにくるパーティを待ちぼうけしな
がら真っ暗闇の中で干物にならずにすんだのよ」
「お世辞ってのは時と場合を考えなきゃ罵声と同じなんだよ」
「私は本気で言ってるの」
 イライラしたホビットの声に、くノ一は精一杯の真剣さをこめた顔で答えた。
「絶対に、きっと、つぎから注意します。だからお願い、物騒なことは考えない
で」
 まるで哀願するような声でエルフはホビットに擦り寄った。このエルフを知ら
ない人間からすれば芝居がかったものに見えただろうが、彼女をよく知るホ
ビットには、(今のところは)本気で彼女が誓いを立てていることが良くわかっ
ていた。ホビットのシーフは怒らせていた肩をすぼめ深く息を吸うと、胸の中に
たまっていたもやもやを吐き出すように大きく息を吐いた。
「ああ……ほんとに、なんでこんな奴にとっ捕まっちゃったんだよぅ……」
 天を仰いだシーフの真向かいにくノ一は膝をついて屈みこんだ。
「そんな風に言わないで、信用してちょうだい、お姉ちゃん。あなたに捨てられ
たら、私、生きていけないの」
「わあかった、わかったってば。ただし、もう今度はないからな。いいね?」
 気付け薬を口いっぱいに頬張ったような顔のシーフに、くノ一は子どものよう
に顔を輝かせて頷いた。

 * * *

 シーフの少女は、あと半日は迷宮で過ごすことを提案したが、くノ一は気乗
りしない返事をかえした。
「四時間も殺風景な部屋の中でじっとしていたのよ?」
 使い切ったランプを指先でこつこつ叩きながらくノ一は言った。もうさっき
言ったことを忘れたのかと顔をしかめるシーフに、くノ一は甘えた猫なで声で
すり寄った。
「ねぇ、お姉ちゃん、エルフにとって新鮮な空気はとても大切なものなの。ギル
ガメッシュにはいかないで、裏通りの店にでもこもればいいじゃない」
「ばあか言ってんじゃないよ! あいつら、きっといまごろは血眼になってあた
したちを捜してるんだよ」
「いまごろおねんねしているところだと思うけど。一晩眠れば、昨日のことなん
か忘れちゃう連中よ」
「あんた、あいつらに何したのか覚えてる?」
「お姉ちゃんは心配性なのよ」
 くノ一はそう言うと笑いながら栗色の頭を小突いた。シーフは皮手袋に顔を
うめ、溜息のかわりにうんざりした声をあげて上を向いた。
「ああ――――……神よ、我を憐れみたまえ」
「信心深いのねえ。ホビットなのに」
「だあ、れえ、のお、おかげだと思ってんだよっ。まったく」
 結局、その後のシーフのねばりで、別の階層に移動してあと二時間は迷宮
の中で過ごすことにくノ一はしぶしぶ合意した。

 * * *

 三階に降りるにせよ一階に昇るにせよ、階層を移動するには大捕り物を演
じたさっきの場所に戻らなくてはならない。オイルを足したランプを手に、シー
フは、これから千マイル先の聖地に向かう巡礼者のように厳しい面立ちで歩
き出した。僧侶の掲げる光の塊とは違い、ノームの手にも馴染む小型のラン
プ程度ではフロア一つ分先までしか見渡すことができないが、彼女は、炎がつ
くる短い光の枠の端に到達するまでに何十マイルも歩くような錯覚を覚えた。
二つの階段に挟まれた通路への扉に一ヤード近づくにつれ、シーフは、心臓
が一インチ膨れ上がるように感じた。扉に到着するころには、彼女の歩行速
度が、精根尽き果てた惨敗兵のような速度にまで落ち込んでいた。びっこを
引くシーフの後ろでは、くノ一がハミングを口ずさみ足取り軽やかに歩みを進
めている。まるで緊張感のないくノ一を忌々しく思いながら、シーフは扉の前に
立ち、微かに尖った耳を扉に押し付けた。
「なんにもいやしないわ」
 振り返った渋面のシーフに、くノ一は耳をくりくりと動かして笑顔を向けた。
「そうね」
 顎の下に手を添え、肘を抱えたくノ一は扉に近づいた。銀髪からのぞく尖っ
た長い耳はまだくりくりと動き続けている。
「人畜無害な小動物くらいならいるかもしれないわね。でも、危険な猛獣はい
ないわよ」
 そう言ってくノ一は仏頂面のシーフを見下ろし、重い扉に白い手のひらをあ
て、ゆっくりと押し開けた。蝶番が鈍い音をたてて軋んだ。シーフは、年齢制限
のついた見世物小屋に迷い込んだ子どものようにあわてて扉から飛びのい
た。おっかなびっくりのシーフをくノ一は小ばかにしたように笑い扉の中へと視
線を移した。
「ほうらね、通路には誰もいない――――」
 おどけていたくノ一の表情が突然険しく曇った。その瞬間から、ピクニック帰
りの仲の良い姉妹が厳戒態勢の小隊へとかわった。
 二人の視線の先にはウィル・オー・ウィスプをそのまま縮めたような青く淡い
光が二つ、空中に浮かんでいた。二人には、そのミニチュアサイズのウィル・
オー・ウィスプが本物の鬼火ではないとすぐにわかった。その小さな光は、ま
るでまっ黒なカンバスに描かれた星のようにゆらぎもせず、ただじっと、闇の
中で静止していたからだ。
 シーフは、記憶の保管庫の『化け物目録』にある『Animal,Lycanthrope(動
物、および獣人)』のページを素早くめくった。彼女は、その光の正体が、獣の
瞳が放つ光の反射だとみてとったからだ。該当ページを発見した彼女は、急
ぎ『地下二階に出没』の文言を探し、目を走らせた。
(“人畜無害”だって?)
 彼女は頭の中で呟いた。
(冗談じゃないよ! この迷宮に、“無害な小動物”なんていやしない)
 彼女の記憶の目録には、かわいらしい挿絵とともに一つの魔物――かつ
て、とある王と騎士たち一行を悩ませ、“聖なる武器”によって退治された伝説
の怪物――の名前が記されていた。
 シーフの頭が体に退避命令を出すより早く、くノ一が腕を振りあげ身をおど
らせた。白い影はただの四度の跳躍でフロアの向こう端にいる青い光の主の
目前につめよった。
 勢い腕を振りおろそうとしたくノ一は急に肩を引き攣らせ、腕の筋肉に停止
命令をだした。繰り出した腕をすんでのところで引っ込めたエルフは、訝しげ
な顔で、光る粒が張り付いている壁を向いて膝をついた。闇の中に屈みこん
だ彼女は、突拍子もない声をあげた。
「なに、“これ”?」

 * * *

 戸口から一ヤード離れたところでランプを手にしたまま棒のように突っ立っ
ていたシーフは、おそるおそるエルフの白い背中に近づいた。痛む足を引き
ずり、壁際のすぐ近くまできた彼女は、首をのばしてエルフの肩越しに壁を覗
きこんだ。はじめに彼女の目に映ったのは壁に張り付いている毛のかたま
り、つぎにその毛の中からのぞくあの青い奇妙な光の粒、おしまいにその毛
のかたまりがボロボロの布切れをまとっている全体の図が見えた。
 シーフにはそれが、人がボロをまとっているのではなくボロが人の形をして
いるように見えた。が、そろりとランプを持ち上げたあとですぐにその考えが間
違いであることに気がついた。
「“これ”、なんだとおもう?」
 自分の肩ごしに壁際を見つめるシーフに、くノ一は顔だけ振り向いて問いか
けた。シーフはくノ一とカチリと目を合わせ、片眉を上げ、首をかしげてすぐに
壁に張りついた『奇妙な動物』に視線を戻した。
「正直に言っていいかな」
 シーフは顎をのせていた白い肩から身を引いてくノ一の右隣に屈んだ。くノ
一は、横に並んだシーフの顔を見ながら『どうぞ』と言うように両の眉をあげて
首をかるくうしろに傾けた。シーフは、壁に目をうつしたまま口を開いた。
「生後四十ヶ月のヒューマンの赤ん坊」
「ああ、よかった。私の目がおかしくなったかと思っちゃった」
 くノ一は、目を壁に移してほっとしたような声で言った。
 彼女たちの目の前にあったものは、まさしく“生後四十ヶ月の赤ん坊”だっ
た。それもひどく人見知りの激しい子ども、親とはぐれて長い間森の中をさま
よっていた幼子だ。毛のかたまりだと思っていたのは、埃や汚れを吸い込ん
で重くなってはいたが、ベビー・ブロンド特有のやわらかさを持つもつれ髪だっ
た。正体不明のミニチュア・ウィル・オー・ウィスプだと思っていたのはガラス玉
のように澄んだ青い瞳だった。シーフが近づいた途端、子どもは短い悲鳴を
あげて、ランプの明かりから目を護るように両腕で光を遮った。
 シーフは立膝の姿勢のまま壁に近づきランプを床に置くと、左手で、右の手
袋に指をかけた。くノ一は、シーフの行動に息を呑んで手袋を取ろうとする腕
を押さえた。シーフは、“大丈夫、この子は噛みつきゃしないよ”とでも言うよう
にくノ一の手の甲に自分の手を重ねた。無言の押し問答の末、シーフの頑固
さに観念したくノ一が肩をすくめて身を引いた。くノ一の了解を得たシーフは、
子どもに素手を差し出し、できうる限りのやさしげな声で話しかけた。
「こんなところでどうしたのかな。何かあったの?」
 子どもは両腕の隙間から顔をあげると、シーフの手から逃げるように後じさ
りして頭を壁にぶつけた。怯えきったこの生後四十ヶ月の赤ん坊は、目の前
にいるシーフよりも、シーフの隣にいるくノ一の顔を見つめている。シーフは差
し出した手を引っ込めて膝を折り、指を組み合わせた。
「ああ、そうかあ……どっかの変質者にでもさらわれてイタズラされてたのか
な」
 シーフはすんと鼻をならし、膝を抱えて覗き込むくノ一に振り向いた。
「それ、どういう意味かしら」
 むっとした顔でくノ一は聞き返した。
「“そういうこと”する野郎がどんな種族かなんて相場は決まってるじゃないか」
 シーフは子どもに向きなおり「ねえ」と頷いて見せた。
「人種差別もいいところね」
「これはあたしの経験論さ」
「ああそう、それはご苦労様だったこと。ねえおチビさん、あなたに手を出した
馬の骨がどこのどいつかなんて知らないけど、ほら、御覧なさいよ。あなたを
いじめた長物なんか、私にはついていないでしょ?」
 シーフの横に並んだくノ一は足の裏を付けて石床に座り、膝と膝との間を空
けて布一枚まとわない剥き出しの恥部を見せた。子どもは、今にも泣きそうな
顔で頭をぐりぐりと壁に押し付けた。くノ一は、眉間にしわを寄せて悪態をつい
た。
「愛想のないガキね」
「何してんだよ……」
「何してるように見えて? 姉さんには、この無愛想なガキと仲良くしてあげよ
うっていう私の努力がわからないの?」
「あんたの里じゃどうだったか知らないけど、見知らぬ女が股を開いてずり寄
ってきたら普通の子どもは泣いて逃げるもんだよ。少なくともあたしの育った
ところじゃね」
「ええそうですかそうですか。なら、あなたなんかずっとそこにいればいいじゃ
ない」
 くノ一は、割った膝の間に顔をうめて子どもに向かって下唇を突き出してみ
せた。
「おまえ、ばか」
 目を潤ませて頭を壁に押し付けていた子どもが急にしゃべりだした。二人
は、豆鉄砲を食らった鳩のようにそろってポカンとした顔をした。子どもは舌の
足りない声で矢継ぎ早に叫んだ。
「おまえ、ばか! ここ、さむい、ここ、とちぇもあぶない。おまえふくきない。お
またもかくしゃない。おまえ、ばか! えるふなのに、とっちぇもばかあ!」
 数秒の間、あたりは静まりかえった。くノ一より先にショックから立ち直った
シーフがくつくつと笑いだした。お祈り一回分の間をおいて、くノ一は息を詰め
て笑い転げるシーフを睨みつけた。シーフはくノ一の目線にすぐ気がついた
が、笑うのをやめられなかった。
「無口だと思ったら、やけに喋るじゃないこのガキ」
 頬を膨らませたくノ一が指先で子どもの頭をはじいた。子どもが小さく悲鳴を
あげて額をおさえた。足の痛みを忘れるほどの笑いの発作がようやくおさまっ
たシーフが、涙をぬぐいながらぺたんと尻餅をついた。
「あははは……はあ、はあ、あー……苦しい。あなた、とってもいい子ね」
「とんだクソガキじゃない!」
「あはは、怒ってる怒ってる。ねえ、とこであなたいくつ?」
 額をおさえてくノ一を藪睨みしていた子どもが、きょとんとした顔でシーフを見
上げた。子どもはしばらく考えこんでいたが、おもむろに額から手を外し、おず
おずと指を三本たてた。
「三つ?」
「しゃんごーるど」
「しゃん……ごおるど?」
 シーフが、子どもよりも分別のなさそうな顔で鸚鵡返しに聞いた。
「しゃんごーるど。きんか、しゃんまい」
 愕然とするシーフを子どもは不思議そうに見つめた。
「たかい?」
 目一杯開いた口を半開きぐらいまで閉じて、シーフは眉をしかめた。子ども
の言葉の意味をシーフが完全に飲み込む前に、膝を抱えたくノ一がシーフの
代わりに子どもに答えた。
「あのね、このお姉さんは“おいくら”じゃなくて、“おいくつ”って聞いたの」 
 くノ一の言葉で、シーフは子どもの言っていた意味を一瞬で理解し、つぎの
瞬間にはそれを否定した。
 “『おいくら』だって? 『しゃんごーるど』だって?”
 “なに勘違いしてるんだい、人生の三分の二を揺り篭とママの腕の中で過ご
 しているこの子が、ベッド・ワーカーだなんてどんな悪い冗談だよ”
 一方、彼女の頭の別のところでは、それが冗談でもなんでもないと理解して
いた。子どもの体からベッド・ワーカー特有の匂いが漂っていたのだ。香水を
ふりかけた乞食のような臭みに、独特のあの匂いをブレンドした奇妙な香り。
鉄くずだの腐った残飯だのが放り込まれ、ヘドロのような黒々とした水を満々
と湛えた羊用の飼い葉桶のようなこの香り。シーフが街に来てから今まで
散々嗅がされ、味わわされてきたあの香り。
 当惑するシーフをよそに、子どものほうは「わかった」という顔になり、「じゅう
はっしゃい」という自身の年齢――ベッド・ワーカーがお客に告げるお決まりの
数字――を告げてきた。
「びっくりした。おんなのこがもるぐかうの、とっちぇもへん。へん、おもっちぇた。
えるふ、へんなやついっぱい。ほびっと、いいひといっぱい。ほびっとのおんな
のこ、もぐるかわない。かうわけない」
 子どもは、ようやく笑顔を見せて壁から離れた。
「冗談も大概にしなさい」
 くノ一は、舌打ちをして子どもの頬っぺたをつねった。子どもは今度は悲鳴
をあげずに、ボロをグローブのように巻きつけた両手でくノ一の手をぺちぺち
と叩いた。シーフはぽかんと開けていた口を閉じて、短い息を噴き出した。
シーフは、相方のエルフの女性がどういう人間なのかを心得ている。感情表
現が不器用なこの相方は、彼女なりにこの子どもをリラックスさせようと本気
で努力しているようだ。年の離れた姉妹のような二人の攻防を笑い声をかみ
殺して眺めていたシーフは、ふと妙な違和感を感じた。目の前にいる自分を
成人と言い張る子どもは、特別居住区で遊ぶ本物のヒューマンの子どもとは
――I.Q.ポイントこそ同じくらいなのだが――やはりなにか違っている。
 シーフは、エルフの悪口を言いながらくノ一と手遊びをする子どもの目を凝
視した。と、突然シーフの頭にひらめきが走った。シーフは防御の構えで両腕
を顎の手前に組んでいる子どもの額に手を置いた。
 “わゆもののばかえるふ”に投げつける悪態の種も尽きていた子どもは、
頬っぺたを真っ赤にして、口を開けっ放しのまま、突然現れた救世主の顔を
見返した。シーフは脇に置いていたランプをかざした。子どもは眩しそうに両
腕で目を覆うとしたが、シーフはそれを制した。最初に見たウィル・オー・ウィス
プのような小さな光は、見間違いや光の加減ではなかった。子どもの瞳は、ラ
ンプの光を受けて、まるで獣のように青白い光を照り返している。シーフは、
やっと合点がいったと大きく頷き、たしなめるようにくノ一に言った。
「あんまりいじめるなよ、大人げないなあ」
「いじめられているのはどっちに見えて? こんなしつけの悪いガキははじめ
てよ! 姉さんには、さっきのこいつの悪態が聞こえなかったの? 酷い偏見
だと思わないかしら?」
「いや、正鵠を射た意見だと思うね」
「姉さんはこの大嘘つきのガキの肩を持つ気なの? 揺り篭から一昨日逃げ
出したガキがどうして私と大差ない歳なのよ」
 そのままくノ一は、シーフの頭越しに子どもを見下ろすように立ち上がった。
「それで、職業は何かしら、クウォータリングのおねえさん。よちよちあんよの
分際でストリート・ウォーカー(街娼)なんて言い張るおつもりかしら」
「あんた、あたしに喧嘩売ってんの?」
 冷たい相方の声に、彼女は慌てて口に手を当て、息を呑んだ。くノ一は
“ハーフリング(半人前)”と呼ばれることがホビットにとってどれほど屈辱的な
ことかをたったいま思い出した。
「あの……ごめんなさいお姉ちゃん……私そんなつもりじゃ……」
「はあ、これだからジャイアントは。自分の尺度でしか物を見れないんだよな」
 シーフはけろりとした顔のまま「別に大したことない」とでも言うように頭を
振って見せた。怒っているのはたしかだが、シーフの声からは深く傷ついてい
る様子は見受けられない。くノ一は内心ほっと胸をなでおろした。

 シーフは子どもの額に手を置いたまま巻き舌を多用する不思議な言語で話
しかけた。子どもは頬をばら色に染めてシーフが使ったのと同じような言葉で
答え、その場で跳び上がってシーフの首に抱きついた。
「しゅごい、ほびっと、やっぱいしゅごい! のーむじゃないのに、もるぐのこと
のーむってわかるひと、はじめて!」
「あなた、モルグっていう名前なの?」
 よろめきながら答えたシーフの言葉に、首に飛びついた子どもは元気よく頷
いた。シーフは首にぶら下がった子どもの尻の下に手を回し立ち上がった。
子どもはくしゃみをする寸前のように驚いた顔で眉根を尖らせ、口を開いて、
もぞもぞと尻を動かしたが、ほんの一瞬だけですぐに子どもらしい屈託のない
笑顔になった。
「よっと、ああ軽いなあ。あなた、ちゃんとご飯食べてる?」
「なんですって?」
 一人取り残されたくノ一が、じりじりした声をあげた。
「この子の名前のこと?」
「違うわ。いま“これ”がなんだって――」
「あたしのつかった言葉わかんなかった? 言語学はお嫌い?」
「専門外よ、私は冒険者なの」
「嘘つけよぉ、あんたエルフでしょ?」
「先入観で物を語らないでくれるかしら」
 シーフの腕の中にいる子どもが何か呟いた。シーフは吹き出しそうな顔にな
り、頷くと、苛立ちを隠せないくノ一に向かって、子どもの顔と自分の顔が触れ
合うほどの高さまで持ち上げ、冷え切ってピンク色に染まった頬に顔をくっつ
けて、腕の中の子どもをゆすって見せた。
「この子、ノームだよ」
「“これ”が?」
 くノ一は、シーフの腕の中にいる子どもを見て目を丸くした。
「ノーム語もわからないで、どうやってお手々を治すお医者さんを探したんだか」
 くノ一の様子をみたシーフは、呆れた声をあげた。
 言語学は専門外と言うくノ一も、ガイドブックに書かれている一般的な知識ぐ
らいは持ち合わせている。ヒューマンによって書かれた字引の大半には、ゴブ
リンに髭を生やしたような醜悪な小人の挿絵とともにこんな説明書きが記され
ている。
 “Gnome――大陸北部ツンドラ地帯の一部、および西部の森林地帯から北
西沿岸部にかけて分布する小人族。容姿の醜さから西方森林地帯のHuman
の間ではTrollとしばしば混同される。洞穴に住み生涯その中で過ごすことも
少なくない。そのため瞳に輝板があり闇の中で光を反射する。
 Anti-cosmic dualismを信奉しているとされるが、在住する地域により多くの
亜流が存在する。詳しくはParacelsusの『Liber de nymphis, sylphis, pygmaeis
et salamandris et de caeteris spiritibus』を参照のこと”

 “醜鬼”の異名をもつ小人、人語を解する最も醜い種族――それが、ノーム
に対して多くの他人種が抱いている固定概念だ。が、目の前にいる“それ”
は、そんな説明とはあまりにかけ離れた容姿をしていた。これではまるで、
三、四歳の可愛らしいヒューマンかエルフの幼児だ。ボロ布からつきでた小さ
なぽちゃっぽちゃした手も、少しこけてはいるがつつきたくなるようなピンク色
の頬っぺたの肉のつき方も、舌足らずな声音も、丸まった小さな鼻の形も全
てが子どもの特徴以外の何ものでもない。
 くノ一は眉をしかめてシーフと、シーフの腕の中にいる小人をかわるがわる
見つめた。ホビット族は――主にその身長のせいで――実年齢より若く見ら
れてしまうことが多く、整った顔立ちの者ほどその傾向が強い。ことにここにい
るシーフは、その顔立ちのせいで、他種族からは実年齢より遥かに若く――
同族からは好色と嫉妬の目で――見られることが多々あった。それでも、こ
の生後四十ヶ月の赤ん坊と並んでいるところを見れば、シーフが、毛皮のス
リッパを履いた、風変わりな耳の形のヒューマンや、エルフの十歳児ではな
く、小人族の女であることは一目瞭然だ。シーフの腕の中にいるブロンドの小
娘は、仕草や目の使い方がまるで子どもなのだ。
「もるぐ、こどもじゃない!」
 疑いの目を向けるくノ一に、シーフの腕の中にいる子どもは右手に巻きつけ
たボロ布をとり、くノ一に突き出してみせた。丸みはあるが、あまりいい食生活
を営んでいないことが一目で分かる小さな手の甲に、紛れもない“聖職者の
証”が刻印されていた。正規の手順で冒険者としての登録を済ませた成人の
小人としての何よりの証拠だ。信じられないというようにくノ一は首を振った。
百歩譲ってこの人型の生き物が『子ども』ではなく『小人』だったとして、三歳児
並の片言の共通語しか話せないI.Qポイントの低い小人が、どうしてこの街ま
で来れたのか不思議でならない。
「ガイドブックを鵜呑みにしちゃだめだよ。ノームは“ドワーフ(成長する小人)”
じゃなくて“ミジェット(成長しない矮小な小人)”なんだから」
「ノームなんてレプラ患者の年寄りみたいなのばっかりじゃない。あなたの昔
のお仲間なんて――」
「髭が濃いから老けて見えるだけなの。あれでもあんたと同世代」
「これ、“剃毛”済みの発育不良のホビットじゃないの?」
「失礼だなあ、ホビットだってこんなに若作りはできないよ」
 シーフは眉間にしわをつくり口を尖らせた。
「あんたノームの女の子は見たこと無かったんだね」
「ノームの街娼なんか一人だって見たことないわよ。外で見かけるのは、みん
な顔を隠してるし」
「あちらの神様の都合で、普段、女は顔隠さなきゃいけないからね。それにお
天道さんが見える場所での売春行為はご法度なんだ。だからノームの街娼は
ほとんどいないんだよ。館勤めの娘ばっかりさ」
 シーフは片側の口の端を吊り上げた。
「宿屋の裏口近くの通りではね、明け方近くになるとフードを取った“お仕事帰
り”のノームさんがいっぱい見れるんだよ。ヒューマンやエルフ好みの可愛い
子がたくさんいるんだ」
 “あら、よく知ってるのね。どうしてかしら?”という言葉を飲み込んで、くノ一
はシーフの話を真剣に聞いているような振りをした。くノ一がにやにや笑いを
こらえていることに気がつかないまま、シーフは腕の中に抱いた小人の顔を
見つめて付け足した。
「まあ、これだけ“変わっている”のは初めてみたけど。これじゃジャイアント以
外にはもてないよなあ」
 出身地や種族によって美的感覚の違いはあるが、ノームほど“ジャイアント”
たちと美的感覚が異なる種族はいない。
 ヒューマンの基準で見れば、エルフは最も美しい種族だが、くノ一は街にき
たばかりのドワーフに骨董品を見るような目で見られた経験もあったし、ノー
ムと酒場で真向かいの席に相席したときに今にも吐きそうな顔をされたことも
ある。ヒューマンがエルフを美しいと思うように、ノーム族にとって最も美しい
種族はドワーフなのだ。ただし、これはあくまで美的感覚の話であって、ヒュー
マンの中にもエルフの高慢さを嫌う者がいるように、ノーム族の多くはドワーフ
の愚鈍さを卑下している。
 埃やら泥やらにまみれて薄汚れてはいたが、この小人は、ヒューマンと同じ
感性を持つ種族の母親(もしくは父親)ならば、自分の子どもに是非ともと、神
に願うような容姿の持ち主だ。ところが、“これ”を造った神様は何を思ったの
か、その容貌を最も不要とする――それどころかおぞましい姿だと心底毛嫌
いしている――種族に与えてしまった。
「神様って残酷ね」
 くノ一が小人の顔を覗き込みながらしみじみと言った。小人はくノ一から逃げ
るように首をすくめてシーフにしがみ付き、鼻の先をシーフの皮服にこすりつ
けた。
「それにしても、こんな“本物そっくり”のおチビちゃんがストリート・ウォーカー
かあ……まるでエルフの赤ん坊じゃないか」
 シーフは同情をこめた手つきで髪を撫で、ブロンドのもつれ髪に顔をうめ
た。幼子のようなやわらかな髪から発せられる香りは、この小人が今日始
めて春を売ったにしては年季が入りすぎていることを伝えていた。シーフの
鼻先に、巻き毛に隠れた肉の盛り上がりが当たった。シーフは、顔を上げて
巻き毛の中に目を凝らした。小さな頭のこめかみから頭頂部にかけて大きな
裂傷が走っていた。娼婦を生業にしている者ならば、この手の傷には事欠か
ない。指の先で小人の古傷を撫でたシーフは溜息を漏らした。
「ジャイアントだらけの街なのに、あなたにもお客さんがいるなんて、世も末だ
ね」
 “あなたがいう言葉じゃないでしょ”とくノ一は言いたかったが、こぶしを口に
あてただけで言葉を押さえた。シーフは真面目な顔を作り小人の目を見つめ
て小さな鼻をつついた。
「モルグちゃん、三ゴールドって値段は安すぎだよ。相場の九欠けじゃないの」
「相場の一割なら二ゴールドでしょ。このチビ、寝っ転がっても一ヤード(三
フィート)もないわよ」
 多民族国家において、全ての人種が平等であることは決してありえない。こ
こリルガミンでもそれは例外ではない。この国でも他の国家と同じく、あらゆる
規定が、『大多数』であるヒューマンの目線で作られている。たとえば街娼の
値段。基本的に、身長(フィート)の十倍が一晩の賃金と“国で”定められてお
り、これは人種別の人口比率と(最も身長の高いエルフを除き)ほぼ符合す
る。彼女たちの需要を考えれば至極妥当な値段と言えるだろう。ドワーフを除
外した小人族は絶対数が少ないうえ、病気にかかりやすく、美しさが長続きす
るエルフと違い病に冒された後の容姿の“劣化”が激しい。この制度ができた
のも、脆弱な小人族が、せめてこれだけは賃金を貰うことができるようにとの
国からの救済措置なのだ。もちろん、これは鑑札を持っている正規の街娼の
標準価格であり、鑑札を持たない違法就業者や不具者や娼館で従事する小
人に関してはこの限りではない。
 くノ一の言葉に憤然とした小人がシーフの腕を振り解き石床の上に飛び降
り、くノ一の前に立ちはだかると、背筋をぴんと伸ばして叫んだ。
「さんふぃーととよんぶんのいちいんち、くんれんじょうではかった! おっちゃ
んもいってた! もるぐ、さんふぃーと! ねだんおちぇえてくえた!」
「へぇええ、“おくちゅ”履いたまま測ったのかしら」
 くノ一の嘲笑に余計怒った小人は靴を履いているほうの足で――靴は片方
しか履いていなかった――くノ一の足を踏みつけようとした。靴が足袋に触れ
る瞬間、くノ一はすっと足を引いた。奇襲をかわしたくノ一は、膨れっ面で睨み
つける小人に、故郷の言葉で『こら!』と叫んだ。まだこの娘を『小人ごっこ』を
しているだけの本物の子どもかもしれないと疑っていた彼女は、里にいた頃
の癖でついうっかり声が出てしまったのだ。
 くノ一の声を聞いた途端、小人は口を半分開いたまま表情を強張らせた。
小人の表情に、くノ一は奇妙な既視感を覚えた。
 くノ一には、今この小人の目に、彼女の姿ではなく、何か違うものが見えて
いるのではないかという考えがよぎった。小人の顔は、母親に大声をだされた
子どもの顔というよりも、レイプされた翌日に検分のために現場に引き出され
た娘の顔に近かった。
 この冒険者の街に来て数年が経つくノ一にとって、心的外傷者は身近な存
在だ。この街ではちょっと裏路地に入るだけで、脳味噌と体に修復不可能な
傷を負った若者や、まともな顔貌を失った娘たちの私生活を間近に見ること
ができる。あわよくば冒険家業を続けられる者たちにも、何かしらの心の傷を
負ったものは少なくない。ちょっとしたことで、彼らの古傷を抉ることになる。
きっかけは無数にある。看板にぶら下がったロープを見たとき、指先からコイ
ンが滑り落ちたとき、水差しを倒したとき、あるいは、何か特別な言葉で呼び
かけられたとき。その些細なきっかけで、再び、恐ろしい出来事が起こったあ
のときに引き戻される。小人の顔には、心に傷のある人間がフラッシュバック
を起こしたときのような、ショック意外に入り込む余地の無い――何も知らな
いものにはとても間抜けに見える――表情が浮かんでいた。周りを気にしな
い者なら、その後は叫び出すか、泣き出すかするだろうし、もし世間体を気に
にするような人間なら、なんでもない風を取り繕う。小人は後者だった。顔色
は真っ青で、とても問題が無いようには見えなかったが、少なくとも、泣き出し
ていはいなかった。
 くノ一が生まれ育った村では、心に傷を負った不幸な三歳児が身近に一人
もいなかったが、もし仮にいたとしても、死ぬほど怖い目にあった後で泣き出
さない子どもは一人もいないだろうと思えた。一ダース近くの妹たちに囲まれ
て育ったくノ一には、それが確信できた。今彼女の目の前にいる小人の顔
は、三歳児並のオツムの小人がするには、あまりに卑屈で、あまりに老けて
いた。
「おっちゃん?」
 シーフの声にはっとした小人は、くノ一の顔から目をそらし、すぐに元気よく
その場で飛び跳ねみせた。
「うん、おっちゃん。いりぐちに、しゅんでるひと。とっちぇもものしい。もるぐ、
いろいろおちぇえてもらった!」
 小人はシーフのほうへ振り向いて答えた。唇はまだ少し震えているが、顔色
は大分良くなっていた。
「おっちゃん、しょおばもちぇえて……ちがう、そうば、も、おしえてくれた。おっ
ちゃんいってた。もるぐ、ちっちゃい、ふつうのねだん、うれない。“べんきょう”
しろ」
「規約違反よ、おチビさん。フリークスでもなしに相場から極端に離れた数字
で商売なんて、憲兵に捕まるわ。そもそも、手続きはしたの? ちゃんとイエロ
ウ・カード(娼婦の鑑札)は持っているのかしら?」
 この娘が本物の子どもでない(少なくとも九歳程度の頭脳はある)ことによう
やく納得したのか、小人に向けられたくノ一の言葉には、容赦のない響きが混
ざっていた。
 “憲兵”、という言葉が出た途端、元気の良かった小人の表情が曇った。娼
婦として働くためには国の機関に“娼婦”として登録する必要がある。これは
伝染病の防止と違法行為の取り締まりが目的であり、身体に疾患を持つもの
やキャリア(性病感染者)や前科のある者でない限り、審査基準は非常にゆる
く、申請さえすれば誰にでも許可はおりる。が、二人には、共通語の不自由な
この小人が三枚複写の申請書類を提出することができるだろうとはとても思
えなかった。小人は首をすくめて小さな声で答えた。
「だんじょん、けんぺい、こない。ここ、“うえ”とるーるちがう。ここ、ぼうけん
ちゃのくに」
「それもその“おっちゃん”から聞いたのかしら」
 小人は、くノ一と目を合わせないまま小さく首を横に振った。
「“おっぐ”、いってた。ここ、ぼうけんちゃのくに。るーる、ない」
「その人も、入り口にいた人かな?」
「ちがう、もるぐ、たしゅけてくれたひと。とっちぇもかっこいいひと!」
 シーフの問いに、暗い顔をしていた小人は、はじめて“じゅうはっしゃい”らし
い女の笑顔を見せた。
「おっぐ、おちぇえてくれた。ここでいきるの、ちょとむつかしい。ひとにきくの、
いちばんいい。だかやもるぐ、おっちゃんとなかなおりちた」
 小人の言った“なかなおり”という言葉に反応して、シーフは眉を上げた。くノ
一は顔を引き上げ、乳房をもちあげるように腕を組んで冷笑した。
「誰だか知らないけど、つまらない入れ知恵してくれたじゃない。でも、そこまで
安くしといて、踏み倒されたあげくに置き去りなんて、世話無いわね」
 二人はようやく、この小人がどうしてこんなところで立ち往生していたのか理
解した。日々の生計を街娼という仕事で賄っているこの小人は、どうも心根の
よろしくない客を引っ掛けてしまったらしく、仕事が終わった後にこの二階に置
き去りにされてしまったらしい。
「おっちゃんのわゆくち、よくない! おっぐのわゆくち、もっとよくない!」
 くノ一の言葉に、小人は首をのばして反論した。
「おきゃくしゃん、おかねないちぇいってた。とりにいく、ここでまっちぇろちぇい
われた。おきゃくしゃん、かえってくゆ。おきざりになんかされちぇない」
 最初こそ威勢が良かった小人の言葉も、しだいに尻すぼみになり、最後に
は消えいりそうな声で言葉を継いだ。
「ねえ、あたしたちが上まで送ってあげようか?」
 くノ一は突き刺さるような目線をシーフに投げたが、シーフは見えない振りを
した。ところが、喜んで飛びつくものとばかり思っていた小人は、うつむいたま
ま首を横に振った。
「おきゃくしゃん、かえってくゆ」
「本当に、かえってくると思ってるの?」
 優しいが、しかしきっぱりとした口調でシーフは問いただした。小人は、シー
フの声に、小さな体を余計縮こまらせた。
「もるぐ、いきちゃくないよ。おそと、とちぇもこわい。ここがいい」
「へえそう、なら私たちはここにいちゃ邪魔よね。いきましょうか姉さん」
「ちょ、ちょっと、なに言ってんの。この子をここに置いていく気?」
「本人がいいって言うならいいじゃない、ねえおチビさん」
 首を振ったシーフは膝をついて小人と目線を合わせた。
「あなた、何時間ここで待ってたの?」
 小人は答えずに下を向いたままだった。
「長かった?」
 シーフは、じっと小人の答えを待った。
 小人はうつむいたまま自分の足を見つめていた。靴を履いていないほうの
足には手と同じようにボロ布が巻きつけてあった。擦り切れた布から突き出た
凍傷になりかかった足の指は黒ずみ、甲はしもやけて赤く腫れ、やわらかな
はずのかかとに赤いひび割れの線が幾筋もできていた。
「とっちぇも、ながかった」
 長い沈黙の後、ようやく小さな声で答えが返ってきた。シーフは、小人の脇
の下に腕を滑り込ませて抱き上げた。小人はびくりと肩を引き攣らせたが、暴
れずになすがままにシーフの腕の中に納まった。くノ一はシーフの行動に目を
丸くしてわざと大きな声をあげた。
「なにしてるのよ姉さん」
「なにって、この子連れて外にいくの。悪い?」
 くノ一は呆れたように溜息をつき、腕を放り投げるような大げさな仕草をして
首を振った。
「ダンジョンにしばらく引きこもっていろって言ったの姉さんじゃない」
「だってほっとけないだろ」
「“ニュートラル”の悪い癖――」
「お好きに言いなさいな。どうせあたしは優柔不断ですよおだ」
「私はただ働きはごめんよ」
 言いながらくノ一は、シーフの手から小人をひったくった。シーフは唖然とし
てくノ一に抗議の目を向けた。ホビットの鳶色の眼には非難がましさを通り越
して怒りさえ見て取れた。それでも、くノ一の口ぶりには、シーフに口を閉じた
ままにさせるだけの力があった。
 歯が生えかけ人見知りがはじまった幼子のように、小人はくノ一の腕の中で
むずがった。くノ一は嫌がる小人を無視して目の高さまで持ち上げ、小人の体
をしげしげと眺めた。
 小人の腕は白かったが、着ている服は鼻をつくような酷い匂いを放ってい
た。家畜小屋に放置されつづけた腐敗した卵のような臭いだ。小人の服は、
油染みや食べかすで汚れた上着と胴の部分をバンドで縛った筒状のものだっ
た。首の周りには特に酷い臭いを放つ古い麻布の襟巻きを巻きつけている。
小人の身に付けていたものはどうやらこれだけだ。体臭のきつい巨人の着古
しを、仕立て直しもしないまま体に巻きつけたようなものだ。こけた体躯の割
に身に纏っているボロ服が妙に膨らんでいる。ポケットが無いのか、小人は
携帯品を、服の中に直接突っ込んでいるらしい。
 表情の無い顔のまま、くノ一は小さな体をおもちゃの人形のようにポンポン
と空中で抛った。小人は、突然揺すぶられた赤ん坊のように表情を凍りつか
せ、身を硬くした。ボロの中に詰め込まれた乞食の日用品が出す音に混じっ
て、微かにコインの触れ合う音が聞こえ、エルフの耳がそのつどくりくりと動い
た。くノ一はシーフに向き直って口を開いた。
「私たちはパーティを組んでいるはずでしょ、姉さん。あなたの一存だけで、全
て決めないでいただけないかしら」
 くノ一は、目線をシーフから再び小人へと移した。
「一文にもならない仕事なんか引き受ける気はないの。助かりたいなら誠意を
見せなさい」
 くノ一の目にも、声にも、小人をささえる手つきにも、同情や哀れみの念が
一切こもっていない。小人は機械のような温度のない手の中で震え、うつむい
た。
「ちっぽけなオツムじゃ理解できないのかしら。助かりたければ有り金全部出
しなさいって言ったのよ」
 くノ一は、抛るように小人を床に降ろした。小さな悲鳴が上がったが、彼女は
まるで聞こえないとばかりに吐き捨てるように言葉を継いだ。
「ねえ、おバカなおチビさん。これは商売なの。あなたみたいな阿呆は無視す
るのが一番だけど、仕事なら別よ」
 今にも泣きだしそうな顔で、小人はくノ一の顔を見返した。
「これで通じなきゃ、他に言いようが無いわね」
 くノ一と小人の会話を、シーフは肘を抱えて表情を曇らせながら聞いてい
た。怒り以上に、エルフの見せた態度に心の底からショックを受けていた。相
方のエルフが、この小人に対して向けた視線に強烈な悪意――シーフがこの
街に来て以来、多くのジャイアントたちに見つめられた“お前の正体はわかっ
てるんだよ、この化け物め”という意図――が篭められているように感じられ
たからだ。それが、無二の親友だと思っていたエルフの眼だとはシーフは信じ
られなかった。シーフの脳裏に、エルフがつい言ってしまった“クォータリング”
という言葉が蘇った。彼女は相方の女性に失望と、深い悲しみを感じた。どん
なに親しくなろうと、所詮、このくノ一はエルフだ。小人の気持ちなど、本当の
意味で理解してくれはしないのだ。
「じゅうにごーるど」
 絶望しきった震える声で小人が言った。
「そえでじぇんぶ」
 くノ一は鼻をならして冷たい眼で小さな頭を見下ろした。
「駄賃にもならないわ」
 小人はまっすぐくノ一の目を見つめていた。涙こそ見せないが、しゃくりあげ
る寸前にまで顔をくずした小人の顎を、白い手がくいと持ち上げた。小さな青
い目には、小品を見つめるような感情のないエルフの藍玉の瞳が映ってい
た。
「素直じゃないわね。商売するときは最初からはっきり言わなきゃダメよ、おチ
ビさん」