ブルースの剣が「亡霊」を切り裂いた。
 それが最後の一撃となったのだろう。「亡霊」の姿がゆっくりと透過して、曖昧になって
ゆき、そして霧消する。呆気ないものだった。
 地下に潜りたての頃にはこの「亡霊」にも苦戦させられたものだが、さすがにもうそんな
ことはない。前衛三人がかりであっという間にかたがつく。俺たち後衛は、後ろに下がって
大人しく見ているだけだ。

 消えてゆく「亡霊」に向けて、ハーレイが何か祈りのようなものを呟いていた。
「どうせすぐ復活するだろ?」
 冷やかすつもりはなかったが、ついそんな軽口を叩いてしまう。
 すると、老いたノームはいつものごとく、ひどく陰気な声音で答えた。
「滅びきれぬからこそ、いっそう憐れだと思わぬか」
「そういうものかね」
「……ナイトよ。お前さんにはわかるまい」
 俺はハーレイの言葉に小さく肩をすくめた。
 そうかもしれない。俺には祈りを捧げる心境や、魂についての教えを理解するのは難しい。
 ハーレイは異端の教えに従う僧侶だった。何か信念があるらしく、良く知られたカドルト教とは
異なる、太古の神秘的な教義を奉じている。
 そういう人間の信仰について、中立の俺があれこれ口を出すのは賢いやり方ではない。

 俺はハーレイとの会話を切り上げ、反対側に立つジョエルに目を移した。
 新入りの盗賊は、神妙な面持ちで前衛の働きに見入っていたようだった。「亡霊」との
戦いなど、見慣れた俺たちにとっては退屈なものでしかないが、こいつにとってはそうでは
ないだろう。しっかり観察していれば、身につくものもあるはずだ。
 魔術師のオスメントが口を開いた。
「戦いの呼吸はつかめましたか?」
 ジョエルは目を泳がせながらこれに答える。
「ええと、その、はい……少しは、ですけど」
 口ごもるホビットの様子に、俺は小さく苦笑した。正直なのはいいが、少し、では困る。
「早く慣れてくれよ? いつまでも足手まといのままじゃあ、命の保証はできないからな」
 俺は半分軽口、もう半分は脅しをかけるつもりで、そんな言葉を投げかける。ジョエルは
申し訳なさそうに、肩を縮こまらせていた。

 狂王の試練場の地下一階。
 俺たちは、「マーフィーの部屋」と呼ばれる小部屋に来ていた。
 目的は、新人ジョエルの育成。冒険者になりたて、パーティーに入りたてのジョエルと
俺たちの間には、大きな実力差がある。ここで「亡霊」との戦いを観戦させることで、安全に
地下での経験を積ませ、少しでもその差を埋めようという目論見だった。

 後衛の俺たちがそんなやりとりを交わしていると、前衛の三人が武器を納めて戻ってきた。
「ここでいったん休憩する。キャンプの用意を」
 開口一番そう言い放ったのは、ウィリスだった。
 その言い方がなんとなく居丈高で命令的だったことに、俺は少しばかり苛立ちを覚える。
 皮肉のひとつも返してやろうとしたが、それより早く、ジョエルが弾かれたように準備を
始めてしまったので、タイミングを逃してしまった。

 ウィリスは一応、このパーティーのリーダーということになっている。どこぞの貴族の
生まれだかで、職業も君主であるため、外面的に一番体裁がいいからである。ただ、何かと
鼻にかけた高圧的な言動をするため、少なくとも俺との相性は余り良くない。

 入りたてのジョエルを除くと、残りの面子はもう長いこと同じパーティーを組んでいた。
 俺とウィリスが衝突したことも、過去何度かはあったことだ。それでも、解散に至らずに
これまでやってこれたのは、実力が同程度の冒険者同士、打算もありつつ、最後にはお互い
引いてきたからだと思う。
 ただ、最近はこれまでに増して、鼻につく言動が増えてきた。以前は辛うじてあった自制の
ようなものが、今のウィリスからは感じられないのだ。そのせいか、俺の方もちょっとした
ことで苛立ちを隠せないようになっていた。

 やがてジョエルがキャンプの魔法陣を引き終えると、俺たちはその中で思い思いに座る。
 キャンプ・サークルは決して広いわけではないが、パーティー全員が肩を触れ合わせるほど
狭くもない。不思議なもので、申し合わせたわけではもないのに、それぞれの定位置みたいな
ものが決まっていた。
 扉の近くなど一番警戒を要する場所には、いつも戦士のブルースが陣取る。魔術師の
オスメントと僧侶のハーレイ、エルフとノームの凸凹コンビはだいたい並んで座り、侍の
シャマラはごくごく自然に俺の隣にくる。これで車座になると、意味もなく中央にウィリスが
座るというのが、常の形であった。

 今回もまた、いつも通りの並びになる。例外は定位置のないジョエルだが、オスメントの
隣に落ち着いたようだった。

 いち早く居場所を確保した俺の隣に、やはりいつものごとくシャマラがやってきて腰を
下ろした。
 シャマラは、物々しい脚鎧をつけたままで器用に胡座をかいてみせると、新鮮な空気を
味わうため、兜に両手をかけた。無骨なフルフェイスがゆっくりと持ち上がり、その下の
素顔があらわになってゆく。
 気の強さが滲み出たようなくっきりとした目鼻立ち。女でありながら前衛職の、それも
侍の道を選んだという経歴を、なるほどと思わせるような凛とした雰囲気があった。兜に
押し込めていた黒髪がはらりとこぼれ落ち、流麗なこめかみのラインを隠す。
 少し痩せただろうか。俺はシャマラの横顔をぼんやりと眺めながら、そんな感想を抱いた。
 指摘してやれば、喜ぶかもしれない。ただ、もともと鋭い印象の顔なので、やつれた風にも
見えてしまう。

 シャマラはガントレットを外し、その手で黒髪を無雑作にかき上げた。
 そうした一連の動作は、まったくいつもの通りだった。この後俺に何を言ってくるかまで
簡単に予想できる。
 俺の視線に気付いたシャマラは、「見慣れた顔だろう? そんなに見つめるな」とでも
言って、はにかんでくるに違いない。俺もそれに答えて小さく笑う。あとは何も言わず並んで
座り、体を休める。
 別に恋人同士だからといって、色気のある会話をしたりはしない。地下を探索中なのだから
当たり前だ。だが、それだけでいい。それで十分に互いの緊張が解れ、休憩の効果が上がる。

 しかし、今回に限ってその予想は裏切られた。
 シャマラが俺を見返して微笑みかけてくる前に、無粋な邪魔が入ったからだ。
「シャマラ」
 突然の呼び声に、俺もシャマラも声の主を見やる。
 そこには、こちらも兜を外していたウィリスの、にやけた面構えがあった。
「さっき『亡霊』に右手を噛まれていただろう? 見せてみろ」
 取り澄ました、嫌味な声音だ。妙に恩着せがましく感じるのは、俺の気のせいではない
だろう。言われた当人が迷惑そうに眉をしかめたことからも、それがわかる。
「必要ない。かすり傷だ」
 感情を押し殺したような、ひどく硬い声でシャマラは拒絶した。
 まったく、その通りだろう。シャマラが一度だけ「亡霊」の攻撃を受けていたのには、
俺も気付いていた。しかし、地下に潜りたての戦士ならいざ知らず、熟練の侍であるシャマラに
とってそんなものは負傷のうちにも入らない。いちいち気遣うのはかえって馬鹿にしている
ようなものだ。

 だが、ウィリスは食い下がった。
「一番軽い治癒の魔法をかけるだけだ。どうせ余る魔法だしな。治すなら、すぐのほうが
跡も残らない」
 そう言って大袈裟に肩を竦めてみせる。
 ウィリスという人間を良く知らなければ、何かの皮肉か、馬鹿にしてるのか判断に迷う
ところだろう。しかし、おそらく本人はそのどちらの意図も持ってはいない。信じ難いこと
だが、この申し出はむしろシャマラの歓心を買おうとしてのことだろう。
 これが貴族流の「善意の施し」というやつなのだ。

「そんなつまらぬ理由で、魔法を使うな」
 シャマラは不快感を隠しもせず、冷淡に答える。それは、同じようにウィリスの言動に腹を
立てていた俺でさえ、戸惑いを感じるほど冷ややかな口調だった。もともと無愛想な奴だが、
こうも刺々しい態度を示すのは珍しい。

 もちろん、言われた当人は俺以上に面食らったことだろう。
 一瞬、ウィリスの顔が醜悪に歪んだかと思うと、掴みかかるようにシャマラに手を伸ばして
きた。
 その強引な動きを目にした俺は、瞬間的に怒りを感じ、腰を浮かせていた。
「おい、いい加減にしろよ」
 シャマラをかばうようにして、二人の間に割って入る。
 火に油を注ぐだけなのはわかりきっていた。こいつは結局のところ、シャマラが俺を選んだ
こと自体が気に入らないのだ。だから何かと突っかかってくる。そこで俺が反応を見せれば、
余計揉めるだけだ。
 だが、わかっていても我慢できないことはある。目の前で恋人にちょっかいをかけられて
傍観できるほど、俺は腰抜けではない。 

「本人が、いらないと言っているだろう?」
 だが、ウィリスは俺の言葉を聞かなかった。それどころか、割って入った俺の存在自体を
無視し、背後のシャマラだけを見て、悪びれもせずにこう言い放ったのだ。
「女なら少しくらい傷跡の心配をしたらどうだ?」
 限界だった。無視されたことも腹立たしかったが、シャマラを侮辱するその一言が、俺の頭に
血をのぼらせた。
 我知らず握りしめていた拳に、ぐっと力がこもる。

「やめておけ」
 そこに、ブルースの声がかかった。
 俺の堪忍袋の緒が切れる寸前の絶妙のタイミングで、太い腕がにゅっと伸び、ウィリスの
肩をとらえる。
「治療は、出口まで戻ってからでいい」
 普段寡黙な戦士の言葉には、有無を言わせぬ重みがあった。
 たとえウィリスといえども、自分より腕の立つブルースのことは無視できない。
「別に無理強いしたいわけではない」
 忌々しげに吐き捨ててブルースの手を振り払う。しかし、すぐに取り澄ましたにやけ顔に
戻ると、あっさりと背を向けて引き下がった。

 同時に、俺も少しだけ頭が冷えた。
 さすがに軽率だったかもしれない。
 盗賊の俺に手をあげられていたら、気位の高いウィリスは決して引かなかっただろう。
 地下探索中に仲間割れ、挙句この場でパーティー解散などとなったら、目も当てられない。
もちろんここは地下一階だから、ジョエル以外の面子なら、一人でも町まで戻れるだろう。
だが、そういう慢心自体が、冒険者にはあってはならないことなのだ。
 共に地下に降りた相手は、親の仇だろうと街に戻るまで付き合う。具体的な危険の大小の
問題ではなく、冒険者としての絶対のルールのようなものだ。

 俺はブルースに目線で感謝を伝える。
 ブルースは一瞬だけ俺とシャマラの方に目を向けた後、軽く首を左右に振り、「気にするな」
というジェスチャーを返してきた。

 そうしてウィリスもブルースも定位置に戻っていったが、しばらくは気まずい沈黙が続いた。
 荒事には発展しないで済んだが、パーティー内にきわどい緊張が走ったのは明らかだったからだ。
まだこの中の人間関係に疎いジョエルでさえ、それは察したに違いない。
 誰かが上辺だけでも繕って、場の雰囲気を変えるべきなのははっきりしていた。

 とはいえ、この面子の中でそれをできる人間は限られている。
 シャマラやブルースにはそういう小器用な真似はできないし、元凶であるウィリスに何かが
期待できるはずもない。そして、オスメントもハーレイもこういう場合に率先して事態を
どうにかしようとするタイプではない。

「あのう……」
 息苦しい沈黙に耐えかねて声を発したのは、意外にもジョエルだった。
「さっきのその、『亡霊』のことで、ちょっと、聞きたいことがあるんですが」
 この場の外から傍観しているものがいたら、ふき出してしまうだろうと思えるほど、不器用で
とってつけたような話題の振り方だった。
 しかし、それでも、緊張に辟易していた者を引き付ける効果はあったらしい。
「なんでしょう?」
 我関せずを決め込んでいたオスメントが、これもあざといほどの白々しさでジョエルの話に
食いついた。
「『亡霊』、なんですよね? いったい誰の霊、なんでしょうか」
 おずおずと切り出したジョエルに、オスメントは大きく頷いてみせる。
「なるほど。もっともな疑問ですね。
 あれについては、以前はマーフィーという人物の霊だと言われていました。大変な恨みを
残して亡くなった人物で、この迷宮に地縛されているのだと」
「以前は?」
「ええ。今では、マーフィーとは無関係な、というか、そもそも『霊』ですらない、ああいう
魔物なのだとされていますね……」

 そうしてオスメントが語り出したのは、まあ冒険者の間では良く知られた話だ。
 マーフィーというのがいかなる人物であるか、かつては様々な推測がされていた。
 トレボー王の友人であるとも、そうではなくワードナの盟友なのだとも、あれこれの噂が
飛び交っていたのである。
 しかし、これらの噂の真偽はこの際まったく問題ではない。
 重要なのは、それを確かめようとして「亡霊」にKADOLT(還魂)を試みた物好きが
いたということだ。
 そして、その結果は成功でも失敗でもなかった。効果がなかったのである。

「ええと、ということは……どういうことです?」
 ジョエルは適度に愚鈍な、良き生徒役だった。こうした話題には饒舌なオスメントは、
嬉々として説明を加える。
「カドルト教の教えによれば、死には三つの段階があります。
 まずは通常の『死』。これは肉体と精神が切り離された状態で、DI(復活)によって
蘇生が可能です。そして、さらに肉体の損壊が著しい状態が『灰』とされ、KADOLT(還魂)
でなければ蘇生できない。最後が『ロスト』で……」
 そこまで口にしたところで、オスメントの顔に「しまった」という表情が浮かんだ。
 まるで何か微妙な話題に踏み込んでしまっことを気遣うかのように、急に口ごもる。

 しかし、ジョエルは無邪気に続きを促した。
「たしか『ロスト』すると、どんな術でも蘇生できないんですよね」
「そ、そうです。『ロスト』は……その、魂が失われた状態ですから。で、件の『亡霊』に
KADOLTが効かなかったということは、つまり霊魂が消失しているというわけで。
 その状態で存在しているあれは、マーフィーであれ誰であれ、何人かの霊ではあり得ないと、
そういう……ことになった、わけです。まあ、『亡霊』という呼び名は残りましたが……」
 オスメントが尻すぼみに説明を終えた頃には、場の空気は更に沈鬱なものになっていた。
 ジョエルだけは素朴に関心して見せている。だが、それ以外の人間は誰もが、苛立ちのような、
戸惑いのような、暗く苦い表情を浮かべていたのである。

 俺もまた、オスメントの話になんとも言えない違和感を感じていた。
 おしゃべりなエルフが口にした言葉のうち、何が、とは具体的に指摘できない。
 なぜ、と問われると更に困る。
 だが、この話題は良くない。良くないということだけは、はっきりと感じ取れる。
 奇妙な感覚だったが、おそらくジョエル以外の全員が――当のオスメントも含めて、俺と
同じことを感じているに違いなかった。

 すると、それまで無関心に俯いていたハーレイが口を開いた。
「『ロスト』をしても、霊魂は失われぬ」
 ノームの嗄れ声が、重く暗く響き渡る。
「カドルト教が説いておるのは……迷信じゃ。『ロスト』という呼び方自体、まやかしでしかない。
古い教えは、蘇生の術の及ばなくなった後にも霊魂が残ることを、はっきりと説いておる」
 ハーレイが言葉を紡ぎ出すごとに、皆の緊張が増していくようだった。
 シャマラは俯いたまま何も言わない。ブルースの方を見ると、こちらも無言で、しかし
眉間に深い皺を刻んでいた。オスメントは当惑した表情を浮かべている。

 理由はわからないが、止めるべきだという気がした。
 だが、俺が逡巡している間に、ウィリスが反応を見せた。
「KADOLTが効かないなら、消えて失せたのと変わるまいよ」
 鼻で笑うように言い放つ。だが、ハーレイは動じなかった。
「生死は本来、神の御手の中にある。蘇生の術という人為が及ばなくなったからといって、
どうしてそれが存在せぬなどと言えようか。死して後、魂がどうなるかは、人の知を離れた
ところにあるのじゃ。呼び戻すこともできず、常人には見ることも触れることもできぬ。
しかし、それは確かにいる」

 俺は口を挟む機会を逸しながらも、ハーレイの話に居心地の悪さのようなものを感じて
いた。
 この陰気なノームは、時折、こうして自己の宗教上の信念を語りだすことがある。
 それは「また始まった」という程度のものでしかないはずなのだが、今この時に、この話の
流れで聞きたくはなかった。なぜそう感じるのかは、やはりわからない。

 オスメントが言っていた「三つの死」の話は、確かにカドルト教の教えだが、その熱心な
信徒であるか否かを問わず、冒険者の間には浸透した、極々一般的な考え方だ。
 俺たちは望むと望まざると、死を身近に感じている。
 地下迷宮で仲間が死んだ場合、それが蘇生可能な状態であれば、俺たちは万策を尽くしてでも
生き返らせようとするだろう。しかし、蘇生の術が効果を表さない状態、つまり「ロスト」に
至ってしまった場合は、諦めるしかない。
 魂の不滅を信じて弔い続けることなど、できはしないのだ。
 無情なようだが、それで「失われた」ものと考えて、忘れてしまったほうが気が楽になる。
 屍を乗り越えて生きていくしかない冒険者にとって、「ロスト」という考え方は慰めでも
あるのだ。だから俺たちは、魂の消滅を信じている。
 まるでその俺の思考をなぞったかのように、ウィリスが吐き捨てるように言った。
「馬鹿馬鹿しい。『ロスト』は魂の死だ。完全な消滅だよ」

「やめてくれっ!」
 その瞬間、シャマラの絶叫がほとばしった。
 俺は、叫んだシャマラの顔を見、そして目が離せなくなった。
 青褪め、唇をわななかせ、鬼気を帯びて感じるほどに悲愴な表情を浮かべていたからだ。
「そんな話は、聞きたくない。くだらないお喋りは止めろ」
 震える声音に、ウィリスも、ハーレイさえも口を閉じる。
 先ほどにも増して、もはや取り繕うことができないほど暗鬱な沈黙が、俺たちの間に落ちた。

 *  *  *

 結局、その後俺たちは休憩を終えるとそのまま街へと帰還した。
 それぞれに思うところはあったろうが、とにかく、これ以上探索を続けるべきではない
という点では、意見が一致していた。
 歩き慣れた道を引き返すだけなのに、ひどく長く感じる帰路だった。いわく言い難い
気まずさを抱えたまま、誰も一言も口をきかなかった。

 俺はその間、ただ前を歩くシャマラのことだけを考え続けた。シャマラがあんなにも
感情をあらわにしたのはなぜなのか。いったいどんな理由で、あそこまで悲愴な表情を
浮かべたのか。
 普段どおりに振舞っていたのでつい見逃していたが、そういえば、ここのところ少し
様子がおかしかったかもしれない。ふとした瞬間に、塞ぎこむような表情を見せていた
ようにも思う。なぜ気付いてやれなかったのだろうか。

 街に辿り着き、あわただしく解散すると、俺はシャマラと共に宿に向かった。
 当然のごとく相部屋の、エコノミーの一室で、俺はシャマラと向き合う。
 シャマラは寝台の縁に腰を下ろし、ひどく儚げな様子だった。俺もシャマラも鎧を
外し、簡便な貫頭衣である部屋用のローブに着替えていた。
「なあ、シャマラ。今日はいったいどうしたんだ」
 問いかけてみても、俯いたまま答えない。俺は言葉を続けた。
「らしくなかったぜ。何か事情があるなら、俺に話してくれ」
 俺は、シャマラを追い詰めているものがなんなのか知りたかった。
 確かにあの時の俺たちの間には、言葉にできない異様な空気が漂っていた。だが、それに
してもシャマラの反応は激しすぎるものだったからだ。
 慎重に、真剣に言葉をかける。

 すると、シャマラがはじめて小さな反応を見せた。
「ナイト……」
 頭を上げずに、消え入りそうな声で俺の名を呼んだ。そして、力なくこう呟いたのだ。
「……私は、どうしたらいい?」
 そこで言葉が切れた。だが、俺は辛抱強く待った。俺を頼ろうとしていることが、その
少ない言葉からわかったからだ。黙って耳を傾け、シャマラが話し始めてくれるのを待つ。

 そこに、唐突にノックの音が響いた。
「誰だ」
 俺は邪魔されたことに苛立ちながら、誰何の声をあげる。しかし、返事はなかった。
 シャマラは俯いたまま、扉の方に意識を向けようとしない。
 俺はもう一度、大きな声でノックの主に問いかける。
「誰だ!」
 木扉が軋む。返事の代わりに、扉がゆっくりと開かれた。

 立っていたのはブルースだった。部屋着のローブに包まれた戦士らしい巨躯が、部屋の中に
一歩、ずいと踏み入ってくる。
 少し、意外に感じた。シャマラの様子がおかしいということは、皆が感じただろう。だが
同時に、そのことについて俺が今話をしているであろうことも、当然予想したはずだ。
 だから、まずは俺に任せ様子を見る。ブルースはそういう判断ができる人間だと思って
いたのだ。しかし、こうして二人になっているところにずけずけと押し入ってくる配慮のなさは、
まるでウィリスのようではないか。
 
「ブルース。今は、少し二人きりにしてくれないか」
 俺は多少の不快感を滲ませてそう口にした。
 だが、ブルースは俺を一顧だにせず、ただシャマラの方を見て口を開く。
「すまん。さっきの様子が、気になった」
 裏を感じさせない朴訥な声でそう告げると、後ろ手に扉を閉め、俺とシャマラのもとへと
ずかずかと歩いてきた。
 無視という、想像していなかった反応を返され、俺の思考が止まる。
 ブルースは、信頼できる相手だ。俺たちは親友だと言ってもいいはずだ。そのブルースが
なぜこんな行動に出たのか、まるで理解できない。

 そして、俺が事態を把握するより早く、更にあり得ないことが起こった。
 ブルースが寝台の縁、シャマラと膝が触れるほどの近くに、どかりと腰を下ろしたのである。
無骨な腕が、シャマラの肩に無雑作に回された。
 逡巡や躊躇が吹き飛び、突発的に怒りの感情が浮かぶ。
「な、にをしているんだ」
 だが、ブルースはまたしても俺の言葉を、俺の存在を無視した。
 鍛え抜かれた戦士の腕が、ぎゅっとシャマラの肩を抱き寄せる。
 シャマラは、ほんの少しだけ顔を背けた。それだけだ。抵抗、などというレベルの反応ではない。
嫌がってすらいないように見える。その証拠に、引き寄せられるままにブルースの胸板にしなだれ
かかり、身を引き剥がそうという素振りさえ見えない。

「な、おいっ、ブルー……!」
「あいつのことを、思い出していたんだろう」
 取り乱しかけた俺の叫びをよそに、ブルースは、シャマラの艶やかな黒髪に顔を埋めるようにして
囁く。馴れ馴れしく、無遠慮な、そして手馴れた動きだった。
「シャマラっ……!」
「……ブルースには、関係のないことだ」
 シャマラはかすれた、硬い声で呟く。だが、それは名を呼ぶ俺の声に呼応してではなく、純粋に、
ブルースの問いかけへの反応でしかないように見えた。
「関係がないことはない」
「……」
「わかっているだろう?」
「……言うな」
 怒りを通り越してパニックに陥っている俺をよそに、ブルースとシャマラのやり取りは続く。

「ブルースっ! シャマラっ!」
 俺は再び二人の名を呼んだ。叫んだ。
 だがそれでも二人はこちらを見ようともしない。まるで俺のいる場所からは隔絶された空間に、
二人きりでいるかのような態度をとり続ける。
 なぜだ。理解できない。なぜ俺を見ない。なぜ俺の声を聞かない。
 突然、俺と二人の間に不可視の壁が立ち塞がったかのようだった。
 突然? そうとも。ついさっきまで俺はシャマラとこの部屋で二人で向かい合って……。
 いや、向かい合ってはいなかった。シャマラが俯いてベッドに座り、その前に俺がいただけだ。
 会話さえ成り立っていなかった。いや、しかしそれはシャマラが話してくれるのを辛抱強く待って
いたからで……。

「あの時は、どうにかしていたんだ。あいつが『ロスト』して、それで」
「それで、その日のうちにか?」
「……言わないでくれ」
「責めてるんじゃない」
「……」
 俺は混乱した頭で、ただ呆然と二人のやり取りを眺める。
 依然として、自分の置かれている状況が理解できない。二人が何を話しているのかも、わからない。
ただ、目を離すことだけはできなかった。ブルースとシャマラが、互いの吐息がかかるような距離で
囁き交し合っている。俺の目の前で。

「俺は、正直になって欲しいんだ」
「や……めて、く、」
 ブルースの手がシャマラの細い顎をとらえた。
 俯いていたシャマラの顔を、ぐいと上げさせる。
 そして、そこにブルースの頭がかぶさり……。
「やめろっっ!!」
 真っ白になった頭で俺は二人の肩に手を伸ばす。
 わからない。何もわからないが、それだけは止めさせなければ。
 そして、二人の肩に手を置き、引き離そうとして。
 すり抜けた。
「んっ……む……あ……」
 体勢を崩した俺の眼前に、一寸の距離に、重なった唇がある。
 そこから、シャマラの吐息が洩れていた。
 
 *  *  *

「んんんっ……あ、ああ……んはあっ」
 目の前にブルースの背中がある。
 浅黒い肌。広い肩幅。太い胴。鍛え抜かれた戦士の背中だ。
 床に膝を突き、ベッドに向かって覆いかぶさっている。
 その両脇から、生白い二本の脚がにゅっと突き出ていた。
 すらりと長く、形の良い、美しい脚だ。
 それが、ブルースの腰の動きに合わせて上下に揺れる。
「うあ、あ……ブルース、ブルース、ブルースっ」
 ひときわ甲高い嬌声が響いた。同時に、突き出された脚が突っ張り、爪先が震える。
 そして、やがて力を失い、くたっとベッドの上に落ちた。

「あ」
 名残を惜しむような声が洩れた。
 ブルースの体がのそりと動き、ベッドの上へと移動する。
 遮るもののなくなり、俺の前に大股を開いた女の下半身が現れた。
 だらしなく両足を投げ出し、股の奥までがはっきりと見える。
 醜い有様だった。薄い陰毛がべっとりと濡れて、張り付いている。
 女が荒い呼吸を整えるのに合わせて、ゆっくりと膝が上下する。
 すると、ぬめり輝く肉の花弁がひくひくと、滑稽な様子で開閉した。

「……てみろ」
 ブルースが、低い声で何事かを呟いた。
 それに答えて、女がゆっくりと上体を起こす。
 女の顔が視界に入った。
 知らない女だった。
 乱れた黒髪。鼻筋の通った、キツめの美人といった顔のつくりには、確かに見覚えがある。
 だが、浮かんでいる表情が印象を一変させていた。
 潤んだ目元。形の良い唇は、だらしなく半開きになっている。男の味に溺れた、欲情しきった
女の顔だった。
 俺はこんな表情の女は知らない。こんなシャマラは知らない。

 女は緩慢な動きで四つんばいになった。
 そして、シーツの上を這い、ちょうどブルースに尻を向ける位置へと移動する。
 ベッドの横から見ている俺に、全身を見せつけるような格好になった。
 しなやかで、抜群に均整の取れた裸体が淫らにくねる様子が、ひどくそそる。
「……ああ、はやく、きて、くれ」
 女は媚びるようにねだり、尻を高く掲げた。
 その声があまりにもシャマラに似ていたので、俺は奇妙な気分になった。

 ブルースが女の尻に手を置いた。
「ああ……」
 荒々しく腰を引き寄せられただけで、女は期待に打ち震える。
 ブルースは女の尻肉をきつく鷲掴みにすると、股間にあてがったものをぐっと突き入れた。
「ん、お、お、」
 女は黒髪を振り乱し、獣のような咆哮を上げた。

 肉と肉がぶつかり合う、激しい音。そこに、にちゃにちゃという水音が混じる。
 女は吠え声を上げ続けていた。シーツを掻き毟り、びくびくと尻を震わせる。
 女はすらりとした長身の持ち主だったが、ブルースの巨体と対比すると小娘のように華奢に
見える。
 激しいまぐわいだった。ブルースは力の限り女を責め立て、白い裸体を振り回す。
 こんな野獣のような情交はとても真似できない。

「うあ、あ、おかしくっ、おかしくなるっ」
 女が切羽詰った声を発した。
 久しぶりの、意味の通る言葉だった。
 ブルースは女に覆いかぶさるようにして、低く囁いた。
「なっちまえよ」
 そして、腰の動きをそのままに、右手を女の股間へと潜り込ませる。
「ひっ、そこっ、ん、ぐ、あああああっ」
 女の肩が跳ねた。
 二つの弱点を同時に責められ、よりいっそうあられもない声を上げる。
「失われた人間のことは、忘れろ」
 ブルースが言った。
「俺が忘れさせてやる」
 その一言が引き金になったのか、女は喉を反らして鳴いた。
「お、あ、あ、ブルースっ! ブルースっ! ブルースっ!!」
 白い裸体が、がくがくと震え、そして、シーツに崩れ落ちる。

 その一部始終を、俺は食い入るように見つめていた。

 *  *  *

 背の高い雑草が生い茂り、聖印を模した木製の墓標が立ち並ぶ。
 ここは冒険者用の共同墓地だ。弔う者がいる場合は、無縁墓地ではなくこちらに埋葬される。
両者の違いは墓標があるかないか。見知らぬ他人と一緒に埋められるか、それとも個別に穴を
掘ってもらえるか。
 もっとも、ここも一、二年もすれば、どこに誰が埋葬されたかわからなくなる。大差ないという
意見もあるだろう。

 真新しい墓標の前に、シャマラがいた。
 地に両膝をつき、憐れなくらい肩を落としている。背後にはブルースとハーレイが、それぞれ
神妙な顔つきで立っていた。
 それを、俺は少し離れた場所から見ている。すぐ隣にはオスメントとウィリスがいた。
 いつの記憶だったか。つい最近の出来事のはずなのだが、どうにもそのあたりが曖昧で、
思い出せない。

 ウィリスが口を開いた。
「『ロスト』した人間に墓なんぞ必要なのか?」
 ぞんざいな口調で吐き捨てる。シャマラたちのところにまでは聞こえまいが、あまり感心しない
物言いだった。オスメントがたしなめる。
「その考え方だと、およそ墓地というものは不要になりますね」
「蘇生のアテがないまま肉体が朽ちてしまった人間には、必要だろう」
 ウィリスはすかさずそう反論し、つまらなそうに付け加えた。
「魂は残っているわけだから、弔われれば喜ぶだろうさ」
「なるほど。理屈ですねえ」
 オスメントもそれ以上突っ込む気はないらしく、そう言って言葉を濁す。

 俺は視線の先を墓標に戻した。
 シャマラがブルースの胸で泣いていた。
「いいんですか?」
 その様子を見たオスメントが、面白がるように尋ねた。
 ウィリスは不快げに鼻を鳴らすと、いつものように根拠のない自信に胸を張って答える。
「あいつも、いずれ誰を頼るべきか知ることになるさ」
 オスメントはそれについては何も反論しなかった。
 ただ、墓標の前のブルースたちと、隣のウィリスとの間に視線を往復させた後で、小さく肩を
すくめて呟いた。
「……やれやれ。ナイトも浮かばれない」
 俺はその言葉の意味がわからなかった。
 なぜ、そこで俺の名前が出てくるのだろうか。
 そもそも、これはいったい誰の弔いだったろうか。

 *  *  *

 唐突に浮かんだ記憶の断片を、俺は頭を振って、振り払った。
 地下迷宮。
 現在、俺たちはキャンプ中で、俺は相変わらずの定位置に座っている。
 少し離れてハーレイ、オスメント、ジョエルの順に腰を下ろしていた。中央に目を転ずると、
やはり意味もなくウィリスが胡坐をかいていた。その表情は硬く、苦々しげだ。ウィリスの
視線の先を追うと、ブルースがやはりいつもの位置にいた。
 その隣に、シャマラが寄り添っていた。
 シャマラはフルフェイスを外し、黒髪を掻き上げる。
 そして、隣のブルースの視線に気づくと、「恥ずかしいな。あまり見るな」と言って微笑を
浮かべた。
 そんな二人を見て、俺は昨晩の光景を思い出す。こみ上げてきた嘔吐感に胸を掻き毟った。

 あれから、わけもわからぬまま夜を明かし、わけもわからぬまま探索に同行している。
 シャマラかブルースが視界に入るたび、胃がきりきりと痛み、嫉妬と憎悪と卑屈な心情とで
気が狂いそうになる。探索どころではない。俺は明らかに平静を失っていた。
 だが、パーティーの誰一人として、そんな俺の様子に注意を払わなかった。
 ただ、少しばかり親密になったブルースとシャマラの様子には、気づいたようだった。
 ウィリスは歯噛みをし、オスメントは訳知り顔でうなずき、ハーレイは無表情を崩さず、
ジョエルはきょとんとしていた。

 俺は自分の定位置にうずくまり、胃を抑え、頭を掻き毟る。
 すると、そこに初めて、仲間から声がかかった。
「まだ、気づかぬか」
 ハーレイだった。
 顔中を覆う白髭で表情は読めないが、目には俺を憐れむような色が浮かんでいた。
「なにが、どうなっているんだ」
 俺は呆然と呟いた。
「俺が、なにをしたって言うんだ」
 わけがわからない。昨晩から、いや、ひょっとするともっとずっと前からか。
 何かがおかしい。なぜ、俺がこんな目にあわねばならないのか。

 俺の呟きを聞いたハーレイは、目に浮かぶ憐憫をいっそう強めて言った。
「こうなる前に成仏させてやりたかったのだがな……。おぬし自身が気づかぬ限りは、それも
かなわぬ。魂の行く末は、本来、人の手の及ぶところではない」
 ハーレイが何を言っているのか理解できない。
 また信仰の話だろうか。なんにせよ、今はそんな話を聞いている余裕はない。
 俺は力なく頭を振った。
 これ以上不可解なことを増やさないで欲しい。

 ハーレイは深い溜息を吐いて独り言のように呟いた。
「そうか。ならば、まだもう少し、『七人』で探索を続けることになるか」
 すると、隣のオスメントが訝しげにハーレイに問う。
「前から思ってたんですが……。
 ハーレイ。あなた、いったい誰と話をしているんです?」
 見ればジョエルも薄気味悪そうにハーレイを見ている。
 こいつらもか。
 誰も彼もが、俺には理解のできない話をしやがる。
 呪わしい気分で内心毒づいた俺をよそに、ハーレイは答えた。
「……失われた魂とじゃ」
「またまた。そういう冗談は感心しませんよ?」
 顔をしかめて見せるエルフに向けて、ハーレイはどこかで聞いたような言葉を繰り返した。
「呼び戻すこともできず、常人には見ることも触れることもできぬ。
 しかし、それは確かにいる」

 混乱しきった俺の耳に、そのノームの言葉だけが虚ろに響いた。

 ウィリス  G-LOR HUM
 ブルース  G-FIG HUM
 シャマラ  G-SAM HUM
 ハーレイ  G-PRI GNO
 オスメント N-MAG ELF
 ジョエル  N-THI HOB
 ナイト   N-THI HUM LOST

(END)