wooooooon.
それは、虫の羽音だった。
幾許の時が流れたのか、彼にはもうわからない。
 ただ、深い闇に閉ざされたその場所で、もう長いことその耳鳴りのような音を聞いていたように思う。
恐怖は、その場所にこうしていることではない。その場所にそうして横たわっていることにはもう慣れてしまった。
 躯を這っていた虫の感触さえ、今はそれほど不快ではない。
まだ、人間でいるのか、それとも、もう人でないもの、「生きている」屍、あるいは悪魔に完全に支配されてしまった魔物であるのか、
そのいずれにしろもはや神の祝福に値せず、太陽の下を歩くこともなく、唯一の解放の道である「死」すら与えられぬことが恐怖である。
この世界の外に在ったときは、意気盛んで少しばかり勇み足のすぎる若者であったようにも思うし、
経験を積んだ壮年であったようにも思われる。
あまりに長い間、闇の領域で動けずにいたせいで、その記憶が空想の中の出来事なのか、それとも現実の出来事なのか、
区別もつかない。現実であろうと推測できる記憶も時間が交錯して、考えれば考えるほど分からなくなる。
だが、ひとつだけ確かだろうと思われることはある。
まだ、正気が残っていることだ。そうでなければ、まだ救いはあるのだろう。その事が、彼にさらなる恐怖をあたえるのであるから。
ここに降りてきたのは、いつのことだったのか。
記憶に焼きつけられたその時間には、すでに彼はこの場所に横たわっていた。瀕死の重傷を負い、麻痺の呪いで動けぬ状態で。
その時に死んだ他の仲間たちはまだ幸福であっただろう。彼は、そうする事がさらなる悲劇になるとは知らず、
それでも生きて戻る手立てを模索していた。そこにグールの群れが通りかかったのが、まさか神の下された最後の幸運であったとは。
 仲間を喰い尽くすガリガリという骨を噛み砕く音を、息を殺して聞いていた。次は自分と、恐怖に打ち震えながら。
 今となっては、その時の死への恐怖など甘美な誘惑とも思えるものを。
 そのうちの少なくともひとりは生きたまま喰われたのか、麻痺した身からわずかに発せられた悲鳴とも呻きともつかぬ声が、
耳の奥で今でも繰り返される。羨みの感情とともに。
なぜ、自分だけグールの餌食とならずに済んだのか。
タネを開かせば簡単なことだが、少なくとも、それは幸運なことではなかったようだ。
何と、長い歳月が彼の魂の上を過ぎていったのだろう。
正気を保っているとはいえ、この暗闇の中では時間の経過を正確に知る術はないのだから。
遠くからかすかに、鎧の擦れる音と複数の足音、人の声がする。また何者かが、この黄泉の世界に足を踏み入れたようだ。
わたしの意識が騒ぐ。わたしを支配している者の意識がわたしの意思の領域まで広がってきた。そして腐り果て干乾びた身体は、
この地底の支配者の形象を纏いはじめる。血と恐怖の饗宴を渇望する者の意識がわたしの意識と混濁する。
 わたし自身の意識は恐怖と哀れみの闇に閉ざされ、そして「わたし」は、動かぬ身体をゆっくりと起こす。



 wooooooon.
 配下の羽虫の群れの中で、「わたし」は、背中の透明の羽根を鳴らし、饗宴への準備が整ったことを確認する。
 扉が開く。
 かつてわたしがしたように、彼らは「わたし」の名を口にした。
 フライプリミアー。
 それが、今の、この身体の呼び名である。
 その声が終わるか終わらぬかのうちに、饗宴の開始を告げる。「わたし」は咆吼とともに死の息を吹きつける。
 この死の息の前に、生命エネルギーの持ちこたえた者はいない。
 この息に耐えられるのは、冒険者といっても、もう普通の人間ではありえない。
 その両手を禍物たちの地で染めて、幾たりもの魔者の恨みを背負ってなおも生き延びられている者たちを、
普通の人間と呼べるものか。
 勇者の賛美の声に酔う化け者。魔に奪われた彼のほうがまだ人間に近かろう。
 しかし、彼はその化け者を待つしかない。
 たとえ、その化け者たちの剣がこの身を倒したとしても、それは憑衣されたこの身が倒されただけであり、
この「蝿の悪魔」の意識はこの場所に残留し、また別の傷つき倒れた者に憑衣して再びこの場所で冒険者の訪れを待つことであろう。
 それでも、少なくとも彼は「死」を迎えることができる。
 その冒険者たちは、あっけなく灰となって全滅した。強力な悪魔の呪いは、たとえ誰かが無事にこの階まで降りてきて、
彼らの「灰」を持ち帰ったとて、生き返らせることはできまい。
 かれらの全滅を確認したその瞬間、突然に「蝿の悪魔」の気配が消え、意識の支配から解放される。
 と同時に、肉体は再び麻痺によって呪縛される。
 そしてまた、斃された冒険者らの血の海のなかに横たわる。
 わたしは、また待ち続けねばらなぬ。
 魔に支配されたこの身を異世界へと消し去ってくれる者が現われるのを。
 その世界は「虚無」かもしれぬし、今より悪い世界かもしれぬが、それでも今のわたしは変化を望んでいるのだから。

おわり