ムックがパーティーに加わった翌日、僕らは新しい階層に挑戦した。
一階深く潜ると、それだけで危険度は格段に増す。
以前試みに階段の周囲をうろついてみたときは、敵の強さにとても歯が立たなかった。
まだ戦力が足りない。そう判断して、以来、やきもきしつつも一つ上の階に留まっていたのである。
僕は、正直、時期尚早なのではないかと思っていた。
サイオニック一人加わったところで、それほど劇的に戦力が上がるわけがない。
ところが、その予想は大きく外れることになった。
* * *
その日、最初に遭遇したのはゴブリンの一団だった。
暗闇から襲いかかってくる二十匹近い集団。
カエルのように飛び跳ねる緑色の肌の小人たちの中に、青い肌の、刺青を彫りこんだ数匹を見つけ、
僕らの間にさっと緊張が走った。
奴らはゴブリン・シャーマン。数に物を言わせて足止めしている間に魔法を使われたら厄介だ。
僕はカタナとワキザシを抜き放ち、やつらの前に立ちはだかる。
僕とキサナ、ヌビアが横並びになり、前衛でゴブリンの突撃を止めなければならない。
やつらは敏捷な上に時折その怪力で強烈な一撃を繰り出す。なりは小さいが侮れない相手だった。
キサナとヌビアはさすがで、巧みな剣さばき、槍さばきでやつらをあしらってゆく。
僕もこの程度の相手に遅れはとらないつもりだった。
しかし、いかんせんやつらは数が多い。
倒しても倒してもキリがなく、そうして手間取っているうちに後衛のシャーマンから魔法が飛ぶ。
何匹かを切り倒しスタミナが削られたところで、マジックミサイルを打ち込まれた僕は、
思わず大きく体勢を崩してしまった。
「キキィッ」
僕の前にいた一匹が、すかさず脇を通り抜けて後衛に向かう。
失態だった。もしこの一匹が、魔法を唱えるため無防備になっているアリーに襲いかかったら……!
恐怖とともに咄嗟に振り返り、そこで、僕は見た。
ゴブリンの目当ては、後衛でもひときわ目立つ巨体の持ち主――ムックだった。
それを確認してつい心の中に安堵がわく。
たとえいけ好かない相手でも、その危険を願うほど下劣な人間ではないつもりだ。
それでも、ゴブリンの標的がアリーでなかったことには、ほっとせざるを得なかった。
とはいえ、自分の失態で「仲間」に手傷を負わせるわけにはいかない。
僕は振り返ったその勢いのまま、ゴブリンを背中から切り捨てようとカタナを振りかぶる。
だが、カタナが届く前に、ゴブリンが突き出した鉤爪はムックをとらえていた。
凶悪に尖った爪が、ローブを裂き、ムックの腕をわずかにかすめる。
そこで驚くべきことが起こった。
ムックの、ひ弱な後衛職であるはずのサイオニックの腕が、ぶうんと風鳴りを上げて振り回された。
そして体勢を崩した瞬間のゴブリンの側頭を薙ぎ払ったのである。
ゴブリンの顔面はひしゃげ、哀れなほど勢いよく迷宮の壁に叩きつけられる。
おそるべき怪力、おそるべき豪腕だった。
そしてムックは腕のかすり傷をものともせず、ブモオオッ、という唸り声をあげた。
それはムークの言語による呪文の詠唱だったに違いないのだが、
カタナの振り下ろし先を失って固まっていた僕には、野獣の雄叫びのように聞こえた。
大気を振るわせるようなその雄叫びは、
途中で、頭の中を引っ掻き回す不快な金属音のようなものに変わる。
僕は耐え切れず顔をしかめた。けれど、魔法の対象に選ばれたゴブリンたちはもっと悲惨だった。
十数匹ものゴブリンが一斉に断末魔の叫びをあげはじめる。
ある者は泡を吹いて失神し、ある者は血を吐きながら金切り声を張り上げる。
そして全員がその場に崩れ落ち、のたうちまわる。
凄惨な光景だった。
まるで「心」そのものを手づかみにして無茶苦茶に振り回されたみたいに。
ムックの雄叫びが止んだ頃には、もはや動くゴブリンは一匹もいなかったのである。
「実力はあるようだな」
側に立っていたヌビアが、そう僕に耳打ちした。
僕は小さくうなずく。
確かに、大戦果だ。前衛三人がてこずっていた相手を、魔法の一撃で全滅させてしまったのだから。
にもかかわらず、僕はムックによりいっそう、受け入れがたい思いを抱いた。
怪力を見せ付けられ、あの巨体への畏怖を新たにした、というのもある。
もし押さえつけられて、単純な力勝負になったら、
サムライの自分でもろくに抵抗できないのではないだろうか?
そういう恐れは感じた。だけど、それだけじゃない。
あの魔法。アリーや、そしてもちろんザジのそれとは比べ物にならないほど強力だった。
僕は精神学についてはまったく無知なので、実際どの程度の熟練で使える魔法なのかはわからないけれど。
でも、それにしても、
「ちょっと、強過ぎるんじゃないのか」
誰に向けて、というわけでもなく、僕の口から小さな呟きが漏れた。
僕らの仲間になるには、不釣合いに強力なサイオニック。「なぜ?」という疑問がわかざるをえない。
すると、キサナがムックの前に進み出た。
かすり傷を負ったムックの手をとり、「ヒール・ウーンズ」の呪文を唱え始めたのである。
僕は目を見開く。
怪我を負った仲間を治療する。それはおかしなことじゃないのかもしれない。
でも、あれは本当に浅い傷だった。
前衛の僕やヌビア、そして何よりもキサナ自身、あれよりももっとひどい負傷をしていた。
そのすべてを差し置いて癒すような怪我では、断じてない。
更に言えば、ムック自身、サイオニックなのだから、自分の呪文で傷を癒せるはず。
それなのに、キサナはまるで当然の優先順位であるかのように、
いの一番にムックの治療に向かったのである。
しかも彼女の手つきは、なんだかうやうやしく、まるで主君にかしずく騎士のようにさえ見えた。
考えすぎだろうか? それでも、僕は二人から目を離せなかった。
ふと、治療をしてもらい終えて顔を上げたムックと僕の目が合う。
気まずい。
これまではなるべく口を利かないようにしていたけど、
今回はこちらのミスで手傷を負わせたのだから、何か声をかけなくては。
そう考えていたところである。
ムックが、嗤った。
表情の読めないムークなのに、それが嗤いであることだけははっきりとわかった。
目が細まり、口元とおぼしきあたりの体毛がくいと持ち上がる。
そして、顔の中央に大きな空洞が開いた。
いや、口を開いたのはわかる。だけど、そうとしか形容のしようがなかった。
人間では考えられないところまで巨大な裂け目が広がり、そのままぱかりと上下に開く。
空洞の上下にびっしりと並んだ小さな石臼のようなもの。ああ、あれは歯なのだ。
なんでも飲み込みそうな巨大な空洞に、なんでもすり潰しそうな巨大な歯が並ぶ。
食われる。
そんな荒唐無稽な恐怖を感じた。気がつけば、僕の背筋は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
* * *
戦力に申し分ないことがわかったので、僕らは階段周りから本格的な探索をはじめた。
といっても、探索はもっぱらザジの役割だ。
他の面子も油断なく周囲を観察するが、壁の隙間に擬装されたボタンなど、
おいそれと素人目に見破れるものではない。
ザジは新しいフロアの探索が嬉しいらしい。
不用意にも鼻歌を歌いながら、回廊を進む僕らの周りを飛びまわり、壁面のあちこちいじりまわす。
その手つきは大胆で、なんの気なしに壁を蹴りつけたりしている。
「おい、ザジ。もう少し真面目にやらんか」
「ちぇっ、せっかく気分良くやってるのに水差すなよう」
「気分良くやらなくていいから、慎重にやれ」
「べー。つまんないヤツー」
注意を促すヌビアに、ザジは舌を出して答える。
いつものやり取りだった。
確かにザジは不真面目で危なっかしい探索の仕方をするけど、実際罠に引っかかるようなヘマはしない。
ヌビアもそれはわかっている。それでも言わずにいられないのが彼女なりの気遣いなのだ。
そしてザジもヌビアの心配はわかった上で、自分のやり方を変えるつもりは毛頭ない。
だからこのやりとりは毎回繰り返されることになる。
二人の掛け合いを聞いたアリーが、くすくすと忍び笑いを漏らすのが聞こえる。
いつもなら、僕もここで軽くふき出して探索の緊張を和らげるところだ。
でも、今日はそういう気分になれなかった。
……背後にヤツがいるから。
これまでの僕のムックに対する感情は、
図体ばかりでかくて、無表情でろくに喋りもしない、
そんないかにも鈍そうなムークに対する、苛立ちや嫌悪といったものが主だった。
ところが、先の戦闘でそれが変わった。
こいつは強い。戦力としても、単純に膂力という意味でも。
それは一言でいうなら恐怖に近い感情だ。
強くて不気味な生き物が自分の背後にいる。それだけで、落ち着かない。
それに、においだ。
地下に潜ったはじめから、ずっと気になっていた。
男の汗の臭いを数倍に濃縮したような、きつい獣臭いにおい。くさい。鼻が曲がりそうだ。
こんな異臭の充満した空間なのに、いつもの光景が繰り返されているというのは、なんだか異様だ。
みんなは何も感じていないのだろうか?
そりゃあ、感じていても面と向かっていえることではないだろうけれど。
そんなこんなですっかり注意力が失せていたところに、先頭を歩くキサナの声が響いた。
「ダークゾーンね」
はっと集中力を取り戻して前方に目をこらす。確かに、周囲よりも濃い闇がそこにわだかまっていた。
「いい? はぐれないように、仲間をつかんだ手を放しては駄目よ」
前衛は自然に並びが決まる。
先頭にキサナ。その剣帯をヌビアがつかみ、ヌビアのベルトの端を僕がつかむ。
そこで僕ははっとなった。
あいつに触れられたくないという思いと、アリーをかばうつもりで、咄嗟に後ろ手にアリーの手を引く。
「僕につかまってて」
だけどこれは失敗だった。
ダークゾーンの中でも探索をしたいザジは、誰にも体をつかまれない、比較的自由の利く最後尾を選ぶ。
するとあまったムックはそのザジとアリーの間に入るしかないのだ。
毛むくじゃらの手がぬっとアリーに伸ばされる。
恋人を汚されるようで、虫唾が走った。
だけどアリーはもちろんそんなことは考えない。
「ちゃんとつかまっててくださいね」
そう言ってムックの手をとって自分のローブの帯の端を握らせたのだった。
ダークゾーンにいる間中、僕は早く外に出られないかと、それだけを念じていた。
剣帯を通して、たしかにアリーがつかまっているという感触は伝わってくる。
それでも不安だった。なにしろそのアリーの帯をつかんでいるのはあのムックなのだ。
何も見通せない真闇の中で、何かおかしなことをされているんじゃないかと、そんな妄想ばかりが浮かぶ。
だから思いのほか早くダークゾーンを抜けたときには、思わず胸を撫で下ろした。
「抜けたな」
前をいくヌビアの声に、僕はアリーの安全をこの目で確かめようと背後を振り向いた。
そこにはちゃんとアリーがいた。……しかし、アリーしかいなかった。
アリーは僕と同じように背後を振り向き、青ざめた声で呟いた。
「いない……ムックと、ザジと、はぐれちゃった……」
* * *
ザジは少しだけ迷ったが、素直に最後尾にまわりムックのローブの袖を握った。
体臭のきついムークの後ろを歩くのは嫌だったが、
結局、ダークゾーンの中を自由に調べまわりたいという好奇心が勝ったのである。
視界の利かない暗闇の中でも、手触りで確かめられることはある。
隠し扉の入り口などは、案外ダークゾーンの中にあることが多いのだ。
仮に探りあてることができなくても、どちら側の壁がどこで途切れて分岐しているか、
そういったことを確認しておくだけで、随分のちの探索は楽になる。
何しろ自分が頑張らなくては。ザジは気を引き締めた。
このパーティーのほかの面子は、そういう方面にてんで鼻が利かないときている。
無論、ザジもダークゾーンではぐれる危険は重々承知している。
だから左手で握り締めたローブの袖だけは、絶対に離さない。
たとえそれが、あのちょっとぞっとする生き物の持ち物だったとしても、だ。
暗闇の中、ザジは最大限の注意を払ってあたりを探る。
それでも相変わらず鼻歌を歌っているのは、見上げたものというべきだろうか。
ふと、わき道の方へ伸ばされたザジの足が空を切った。
もちろん、それしきのことでは彼女はバランスを崩したりしない。
すっと片足を引っ込めると、上機嫌で呟いた。
「ははーん、ここにピットだかシュートだかがあるわけね」
重要な情報だった。これでまたヌビアを見返してやれると、ホビットの娘はにやりとほくそ笑む。
だが、次の瞬間、その笑みは凍りついた。
何者かの手によって突然、穴のほうへとどんと突き出されたのである。
ホビットの軽い体は、凄まじい怪力によってほとんど吹き飛ぶように中空を舞う。
これではバランスをとるどころの話ではない。
唯一の頼みは、左手に握ったローブの端。
しかし、命綱のつもりで握っていたわけではない。
いやいやながら、緩く掴んでいただけのそれは、呆気なくザジの手から抜け落ちた。
もっとも、仮に固く握り締めていたとしても、彼女の細腕で先程の衝撃を耐えられたかどうか。
ザジは悲鳴を上げる間さえなく、シュートの中に飲み込まれていった。
* * *
「いてて……」
ザジは強かに尻を打ちつけた痛みでしばらく身動きがとれなかった。
もともとシュートはピットとは異なり、落下者の殺傷を目的とはしていないから、
真下に落ちるのではなく、斜になった側壁を滑り落ちるようにして下層に突き抜ける。
しかし、不意に突き落とされたザジが滑りながら体勢を整えることは容易でなく、
不自然な格好で放り出された結果がこの有様であった。
身体の隅々まで意識を巡らせ、腰を少しだけ浮かせて見る。
ザジは激痛に顔をしかめた。尻が痛い。だが、幸いにしてそれだけだった。
大丈夫。どこも折れてはいない。彼女の最大の武器である体のバネは、まだ生きている。
咄嗟にそんなことに意識が向かったのは、ザジが「突き落とされた」からだ。
あのとき、魔物が現れたような気配はなかった。
なんらかの機械仕掛けの罠だろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし、少なくともザジはこれまでそんな罠に遭遇したことはなかった。
だとすると、魔物でも罠でもなく、誰かがザジを突き落としたことになる。
誰が? 仲間が? ……そんな馬鹿な。
聡明なロード、朴念仁のバルキリー、純情なサムライ、やや天然の入ったメイジ。
四人をよく知るザジはこの可能性を一笑に付すことができる。
すると、残される可能性はたった一つしかない。シンプル極まりない消去法だった。
どすん。
ザジの後から、地鳴りを響かせて落下してきたものがあった。
不恰好にローブを纏った毛むくじゃらのそれは、埃を舞い上げながらも、ザジよりは安定した姿勢で着地する。
まるで、不意に「落ちた」のではなく、わかっていて「降りた」ような危うげない動作だった。
ザジの中の疑惑が膨らむ。
表面には出さなかったが、もともと、ザジはムックに対してある種の警戒心を抱いていた。
仲間のサムライのように毛嫌いしていたわけではないが、
パーティーに男が入ってくれば、女冒険者としては少なからず警戒せずにはおれないものだ。
それに加えて、危機を察知するザジの天性が、このムークに対する警告を発していたのである。
「あ、あんたも落ちてきたの?」
喉まででかかった悲鳴を押し殺し、常と変わらぬ様子で問いかける。
だが、ムックはザジの問いに答えようともせず、無言でのそりと起き上がった。
「はは……は、あんた、無口だよねえ。何考えてるかわかりゃしない」
軽口を振るが、やはりムックは応じない。ただずさり、ずさりとザジににじり寄る。
ザジは右手を後ろ腰に吊り下げたスティレットに伸ばした。
彼我の距離が徐々に縮まってゆく。頭の中では警告音が鳴り響き、ザジの心臓は早鐘を打つ。
手を伸ばせば届きそうな距離にきたところで、ムックはぴたりと静止した。
そして、悠然とザジを、自分から見れば余りに小さく無力な存在を見下ろして、
――ファッ、ファッ、ファッ
哄笑したのである。
袋小路まで獲物を追い詰めた肉食獣が漏らすような、不快で邪悪な嗤い。
不信は確信に変わり、ザジの背中が凍りつく。
瞬間、ザジの右手が閃いた。抜き放ったスティレットをムックに向けて投擲する。
何も窮鼠の抵抗を見せようというのではない。
ザジは、自分がムックに敵わないであろうことを本能的に悟っていた。
となれば、逃げの一手である。スティレットは逃げる隙を生み出すためのめくらましであった。
ザジの柔軟な身体のバネが撓み、部屋の出口に向けて駆け出そうとする。
……しかし、ザジの脚はそこで固まってしまった。いや、足だけではない。手も、腰も、首の動きすらも、
全てがザジの意に反して、麻痺したように凍りつく。
いったいどこに誤算があったのだろう。スティレットは的を誤ったのだろうか?
そうではなかった。鋭利な短刀は間違いなくムックの肥えた腹に突き刺さっていた。
ただ、ムックはそれをまったく意に介さず、「パラライズ」の呪文を完成させてしまったのである。
ムックは、スティレットを苛立たしげに引き抜く。
それは刃の半ばまで埋まっていたにもかかわらず、
厚い毛皮と皮下脂肪を貫通することはできなかったようだった。
ほんの僅か血がローブに滲み出ただけ。ムックは治療の呪文すら唱えようとしなかった。
抜き取った短刀を地面に叩きつける。
ザジの報いた一矢は、なんの役にも立たなかったばかりか、ひどくこのムークの機嫌を損ねたらしい。
ムックは憤りに呼気を荒げながら思案する。
抵抗は奪った。当初の思惑通り、チャームで虜にし、犯し尽くすのは容易い。
だが、最もくみし易そうに思えた相手に傷つけられた怒りは、そんなものでは治まりそうになかった。
何か相応しい罰を与えねば。
ムックの中に、あるグロテスク極まりない案が思い浮かぶ。
名案だ。ムックはにやりと笑った。
そして、彼は再び集中に入る。異次元への「門」を開くために。
その様子を、ザジは絶望的な思いで見つめていた。
ムックがもごもごと詠唱を始めると、中空に裂け目が現れた。
空間そのものを引き千切ってできたようなその裂け目から、極彩色の光が漏れ出す。
その光が、収縮を繰り返しながら、何かを形作り始めた。
まず出来上がったのは頭部だ。
凝縮した輝きが、ぶくぶくと泡立ち、幼児の全長ほどはあろうかという巨大な灰色の脳味噌をかたどる。
そして、そこから長細い無数の触手が垂れ、ゆらゆらと揺らめきだしたのである。
異界より呼び出されたそれは、まるで海底に住まう大クラゲのようだった。
ただ異なっていたのは、それが水中でもないのに当たり前のように宙に浮いていたことである。
――ウィアード。
見ようによっては滑稽なその生き物は、精神学の奥義によって生み出された半実体の魔物であった。
「ひっ」
ザジは喉の奥でくぐもった悲鳴を上げた。
その異形の物体が、宙を泳いでこちらに近づいてきたからである。
夥しい数の触手の先端が持ち上がり、ザジへと突き出される。
しかし、麻痺した体に逃れる術はない。ザジは固く目をつぶった。
何が起こるかはわからない。ただ、何か恐ろしいことが始まるという予感はあった。
ぬらり。
「え?」
予想外の感触がした。
ウィアードの触手が目指したのは、襟元、袖口、そしてズボンの裾だった。
それらの開口部から、ザジの服の中へと入り込もうとしているのだ。
ザジのダブレットもズボンも、動き易さ優先で体にぴったりと合うよう仕立てられたものだったが、
細く、長く、そしてぬめりを帯びた触手は、そのほんの僅かな隙間に苦もなく入り込んでゆく。
「うあ、あ、あ」
スエードのズボンの内側を、粘液を纏った何かがするすると這い登ってくる感覚。
ザジは身の毛もよだつ嫌悪感に打ち震えた。
襟元から進入した数本が、ザジの胸の突端に辿り着いたところで移動を止める。
探り当てるように小さな膨らみの上を這い回り、
怖気のあまり硬くしこっていた先端を弄び始めた。
そこにきてようやく、ザジはウィアードのおぞましい意図を察した。
「じょ、う……だん……でしょ?」
麻痺で呂律の回らない口から驚愕の呟きが漏れる。
触手の先端が乳首を嬲った。快感などあるわけもない。ただおぞましい。
だが、もっとおぞましいのはズボンの裾から進入した触手の行く手だ。
ザジは反射的にそこを守ろうと内股に力を込めた。
しかし弛緩しきった腿の筋肉はザジの意図を裏切り、乙女の秘所への触手の侵入を許してしまう。
「うう……う……う」
全身が総毛立ち、どっと嫌な汗が吹き出る。
わけのわからない生き物の触手で秘所を蹂躙される。その嫌悪感で気が狂いそうだった。
突然、触手が責め立てる胸と股間の突起に、鋭い痛みが走った。
なにか針のようなもので刺された感触。
ザジには知る術もないことだが、それはウィアードが触手の先端から麻痺毒を注入した痛みだった。
もちろん、既に呪文で体の自由を失っているザジに、さらに麻痺を与えようというのではない。
この不可思議な生物が体内で生成する毒素は、ごく微量に抑えることで玄妙な効果を発揮するのだ。
どくん。
ザジの心臓が跳ね上がった。
「う……そ……?」
毒素を注入された部分――乳首と陰核から、じんじんと痺れるような感覚が広がる。
脈拍が上がり、呼吸は浅く、早く、そして全身が火照ったように熱くなる。
今の状況で起こるはずがない反応を自分の身体が示している。ザジは混乱した。
ありえない。しかし、間違いなかった。腰が砕けるような興奮。それは確かに性感だった。
その感覚に戸惑っている間にも、触手は性感帯へのぬちゃぬちゃと、嬲るような刺激を止めない。
熱い。ザジの、辛うじて自由になる口が、冷たい外気を求めてだらしなく開く。
腰骨の奥から、せつないような感覚がきゅうと込み上げてくる。
一度火が点いてしまえば、男を知るザジの身体は止まることができない。
生理的な反応から膝ががくがくと震え、もはや触手に支えられて立っているような有様だった。
「いっ、」
ずぷり。何の前触れもなく、股間を這い回っていた触手の一本が膣内に侵入する。
ずぷり、ずぷり。嫌悪に震える間こそあれ、二本目、三本目が容赦なく後に続いた。
もはや隠しようのないほど潤ったザジの内部を、出鱈目に蠢きながら出入りする。
「あ、あ、うそ、いや、あ……っ!」
十分に高められていたザジの身体は、それだけで呆気なく絶頂を迎えてしまった。
いかされた……こんなわけのわからない生き物にいかされた。
嫌悪と屈辱と情けなさで目尻に涙が浮かぶ。自分の淫蕩な身体が恨めしかった。
だが、そんな葛藤に浸れたのは、ほんの僅かの間だけだった。
再び、出し抜けに触手が蠢きだす。
ザジが絶頂を迎えたかどうかなど、ウィアードには露ほども関係ない。
この下等な生き物は、ただ、主の命令を遂行するだけなのである。
「あ、や、まだ、いっ、うっ、やあっ」
複数の触手がまるでそれぞれの意思を持って、ねじれ、のたくり、縦横に這い回る。
それはホビットや人間の男では感じることのできない禁断の快楽をもたらす。
絶頂の余韻冷めやらぬまま、ザジは快楽の奔流に飲み込まれた。
ザジは何度でも達した。
まるで途切れることのない永遠の絶頂に押し上げられたように、何度でも。
「は……」
細い腰が大きく、びくっ、びくっと跳ねる。
その都度、ザジの中からあられもない汁が潮となって噴出した。
スエードのズボンに卑猥な染みが広がってゆく。
行き場をなくした液体がだらだらと太股を伝った。
そこで、それまで沈黙を続けていたムックが一声唸りを上げた。
ウィアードはまるで機械仕掛けのように、ぴたりと動きを止める。
ムックはがくりと垂れたザジの頭をつかみ、無理矢理引き上げて上を向かせた。
ザジは嗚咽をしゃくり上げながら、ムックを見上げる。
その幼い顔立ちは涎と涙に塗れ、頬は上気し、眉は切なげに寄せられていた。
「や……めて、よう」
ザジはか細い声で哀願する。もう快楽で責められるのは嫌だった。
これ以上絶頂を味わわされたら、気が触れてしまうかもしれない。
「や、め、させて……くだ……さい」
すがるようなその言葉を聞き、ムックは深い満足の溜息を吐いた。
このひ弱で小さな娘に、十分な悔恨を抱かせたと判断したからである。
しかし、一方で、ムックはウィアードを用いた「遊び」に大変な感興を覚えてもいた。
もう少し続けたらどうなるか。彼の中に好奇心が芽生え始める。
逡巡は長くはなかった。ムックは邪悪な笑みを浮かべる。
仮にこの娘の心が壊れてしまったとしても、サイオニックである彼には如何様にでも治すことができるのだ。
ムックは手を離し、ウィアードに向けて唸り声を発した。
「え……? う、うそ、や、」
哀れなホビットの娘に巻きついた触手たちが、再び蠕動を開始する。
ザジは悲鳴を上げた。しかし、ムックはその様子を興味深そうに眺めるだけだった。
「や、いや、いや、あ、あ、あっ、いやああっ!」
* * *
もちろんあのあと直ぐにダークゾーンに引き返した。
だけど、来た道を戻ろうとした僕らが見つけたのは、何のへんてつもない一枚の壁だけだった。
こんなもの、最初に通った時にはなかった。
ザジたちとはぐれたのはこの向こう側で間違いないのに、一方通行の壁が僕らを隔てる。
結局、別方向から迂回してこざるをえなかったのだ。
六人パーティーで二人も抜けては、この階層の魔物とは勝負にならない。
ひたすら逃げて、逃げて、それでも時折休息を挟まねばならぬほど損耗した。
……僕らが、ザジが落ちたと思われるシュートのところへたどり着いたのは、
ぞっとするくらい時間が経ってからだった。
ザジは無謀な人間ではない。落ちたところでじっと救助を待っているはず。
そう、自分たちに言い聞かせながら、僕らはシュートを滑り降りた。
異臭が充満していた。
例えるなら、そう、男女の交わったあとのあの匂い。
あれを何十倍にも濃くしたような、頭がくらくらするほど濃密な匂い。
その得体の知れない異臭にぼうっとしているところに、アリーの悲鳴が響いた。
「いやあああああっ!!」
僕は反射的にアリーに駆け寄り、失神して崩れ落ちようとしていたアリーを抱きとめた。
そして、アリーが目にしたものを見た。
「い……やあ、……や、……あは、あははは」
何か得体の知れない粘液に塗れて、
あられもない姿で、
ぶつぶつと意味のない言葉をつぶやき続ける、
虚ろな目をしたザジを見つけたのだ。
(つづく)