昼下がり。ギルガメッシュの酒場の片隅、薄暗い一角で。
 僕は困り果てていた。

 ユスノー。それが僕の名前だ。今はくたびれた平服を着ているけど、身に帯びる
称号は魔法剣士。いわゆるサムライ。
 未だ齢十五の小柄な体躯ながらも、王都リルガミンで中堅どころのパーティーに
属していた。いや、もちろん現在進行形で属している。ただ、今は一時的に僕以外の
メンバーが存在しない。
 先日、深い階層を探索していた際、僕だけが生き延びる形でパーティーは全滅して
しまったから。
 しかも、怪物の群れに追われて仲間の遺体を回収できずに、こうして帰還せざるを
得なかった。初めて経験する事で、僕は動揺し焦燥し混乱している。困り果てて
いる。小才に恵まれ、神童と煽てられていきなりサムライになったはいいけど、
実際はただの世間知らずに過ぎないわけだ、などと自責を繰り返している。
 酒場の喧騒を呆然と見つめつつ、僕は噴き出し続けるほろ苦い気持ちに苛まれて
いた。時折り吐き気が込み上げもする。酒場の匂いはまだ慣れない。この意味でも
子供だった。

 大柄な戦士。胡散臭い盗賊。いけ好かないエルフ。無愛想なドワーフ。様々な
人影が、次から次へと僕の視界をよぎって行く。
 よぎっていくだけで、彼らの存在は僕にとって何の意味もない。
 僕は、一刻も早く「仲間」を救出しなければならなかった。しかし、そのためには
「仲間」がいる。矛盾を弄する言葉遊びのような、この袋小路の状態だ。後者の
意味での仲間に心当たりがない。
 唯一つの望みとして、以前から僕に友好的だった女戦士を筆頭とするパーティーに
頼ってはみた。昨晩の話だ。
 けれど、反応は素っ気ないものだった。「ユスノーくんは可愛いから可哀相だと
思うし、助けてあげたいんだけどね、しばらく都合が合わないんだ」と、なんと
言うか、実に巧く断られた。
 ただし僕自身は、女顔だとか華奢で可愛いなどと言われる事に劣等感があるため、
その点で逆効果ではある。食い下がると「こっちのパーティーにユスノーくんが
入ってくれるなら、無理しなくもないよ」と引き抜きの意図を見せられた。
 僕は、仲間を裏切る事はできない。かと言って、引き抜きに乗ったと見せかけて
裏切る事もできない。サムライとして叩き込まれた精神修養とは関係ない、<善>と
<悪>の戒律とも関係ない、僕の性格の問題だ。
 丁重に断らざるを得なかった。しかし、それならそれでどうすればいいのか。

 僕一人であの階層まで潜る事は紛れもなく無茶だ。それなりに腕はあるから、呪文
連発の力押しで無理やり到達できない事もないだろうけど。そんな消耗をすれば、
全滅直後の危機的状況に逆戻りするだけ。何より、やはり回復役がいないと不味い。
麻痺毒一発で全てが終わりとなる。
 せめて一人、僧侶呪文を使える仲間が欲しい。
 なのに、その仲間をここで見出せずにいた。
 そもそもギルガメッシュの酒場に出入りする冒険者は、分け隔てなくくっ付いたり
離れたりを繰り返しているようでいて、実際はしたたかな計算が確かにある。関係の
ない、または薄い者と無条件で協力し合うような空気はない。
 その点は、<善>の戒律者にしても<悪>の戒律者にしても共通している。<善>に
属する誰もがお人よしではなく、形だけ戒律を守りながら狡猾で残酷な者などいくら
でもいる。極論を言えば、競合相手は適度に潰れてくれた方がいいわけだ。
 事実、「仲間が全滅したんだ、誰か手助けしてほしい」と僕が声を上げた昨晩、
無視して続く喧騒の中から辛うじて返ってきたのは「報酬は?」の一言だけだった。

 金はなかった。宝石などの持ち運びやすい形に変えていた分は、大多数が仲間の
全滅した場所に眠っている。
 しかも間の悪い事が重なっていた。時として、高位の冒険者による迷宮奥深くから
の掘り出し物がボルタック商店に横流しされるけど、こうした業物数点を入手した後
で大幅に所持金が目減りしていたので――ゆえに武装が上がって未踏破の域まで深く
潜って全滅を招いてしまったわけだが――、僕の手元に残っていた分け前も極端に
少ない。
 装備を売って金貨へ戻すわけにもいかない。仲間の遺体を回収するためには、その
場所に到達せねばならない。到達するためには、装備が必要なのだから。かてて
加えて、成功報酬として後払いの条件を飲ませるほど、僕は世慣れてはいなかった。
 あの時、目の前の景色が少し縮んでいる感覚に囚われたのは、僕の勝手な思い込み
が裏切られ、ここに対して自分の居場所という意識が縮んだからだろう。

 それは、今も続いているような気がする。
 僕は、いつしか居たたまれなくなって、酒場を出ていた。

  ◆

 以前、カント寺院の生臭坊主どもが、求めよさらば与えられん、などとしたり顔で
説諭しているのを聞いた時、砂を蹴り掛けてやりたかった。それなら、泣いて救いを
求めてくる貧者に高額の寄付を強要するのを止めろよ、と。
 だから、僕は別に救いを求めてカント寺院に来たわけじゃない。ただ足が向いた
だけの偶然だ。
 そこで巡りあわせた「彼女」との出会いは偶然だったけれど、まさしく僕にとって
は見えざる救いの御手の与えた必然だった。今、この王都で彼女と出会う事を最も
求めていたのは、誰よりも僕だったはず。

「あなたは確か……、全滅した仲間を救出したいから同行者を求むと、昨晩のギルガ
メッシュの酒場で言われていたかた?」
 カント寺院の正面前広場は昼下がりの日差しに満ちて、まばらな雑踏があった。
そうした中でその綺麗な声は、力なくのろのろと歩いていた僕の耳に珠が転がり込む
ように届いた。
 声の主――彼女は、寺院正門の前で、あたかも途方にくれた様子で佇んでいた。
そして、通りすがった僕の姿に気付くなりそっと近寄ってきて、そう話しかけて
きた。
 対して、
「……そう、だけど……?」
 と、少し上ずった情けない声で応じる僕だった。面食らってしまったのだ。

 まず彼女の外見に驚いた。とんでもない美人の女性だった。大人びて柔和な造りの
顔立ちで、なのにその繊細な小顔は、長く真っ直ぐ伸ばした光るような黒髪と
相まって、少女じみた印象を伝えてくる。
 大きな黒い瞳が優しげに僕を見つめていて、一方、形よい鼻梁の下の唇は淫靡に
赤く厚い。どきりとさせられた。少女性と成熟性、聖女と娼婦の二項対立の内包、
という類いの表現を物の本で見る事があるけど、まさにあれだ。
 分かりづらいものの、僕より少なくとも五つは年上の二十歳以上で、そして、
二十代半ばは過ぎていないだろう。
 背丈は、平均的な成人男性より低めな僕とほぼ同じで、女性としては高め。かつ
顔も小さいために、頭身があって華奢に見えながら、同時に肉感的という理想の身体
つきだった。
 その身体を、修道女や教徒の着る貫頭衣を洗練したような長袖の白いワンピースで
覆い、腰にはベルトポーチを巻いている。裾から覗く細い足首の下は、踊り子が履く
ような編み上げ靴。
 特に、豊かな上向きの胸が目立った。しかも下着で押さえつけている様子もなく、
ワンピースの清楚な刺繍模様が先端の露骨な突起を隠しているものの、全体の形自体
はそのまま薄い布地に出ている。彼女本人の目線で下を向いて足元が見えるのだろう
かと、どうでもいい心配をしてしまうほど。

「ああ、良かった、間違っていたらどうしようかと」
 背筋を伸ばした綺麗な姿勢で直立したまま、胸元を上品な仕草の手で抑え、ほっと
安堵して微笑む彼女。掛け値なしに清楚で美しいのだけれど――、
「えっと、そちらは一体……?」
 やはり上ずったままの僕の声。
 僕が驚いたのはもう一点あって。彼女の落ち着いた雰囲気と、ともすればふわふわ
と浮世離れした雰囲気の同居に加えて、高位の冒険者の持つ達人的な鋭さが紛れて
いるのに気付いたからだ。まるで隙がない。
 それなりに腕に覚えのある僕だけど、彼女の方が数段上だろうなと察しは付いた。
数段どころではないかも知れない。
「失礼しました、名乗らせてくださいね。私の名前はフェレーラ。先日、辺境都市
から王都に上ってきたばかりです。属するパーティーのない一人身で……、地下迷宮
に潜るための仲間を探しています。あなたと組みたいと思い立って、声を掛けさせて
いただきました。ここで出会ったのは偶然なのですけれど」
 大人びて理知的な女性の声の、耳に心地よく優しい喋り方で、彼女――フェレーラ
さんは言う。
「……僕と、組みたい……?」
 その言葉は何の抵抗もなしに耳によく届く。なのに、振って沸いた話に対し、まだ
頭が回ってない僕だった。
「はい。あなたは、昨晩のギルガメッシュの酒場で同行者を求めていたのに、
見つからず困ってましたよね。私も、あなたに先んじて同様の場で方々に声を掛けて
みたのですけど、同じく同行者が見つからなくて。……あぶれた同士、都合がよい
でしょう? あなたの戒律は<善>だと酒場で聞き及びました。私も同じです」
 そして、小首を傾げるように改めて微笑みを向けてくる。

「えっと……フェレーラ、さんは……」
 転がり込んだ幸運に、僕は努めて落ち着いて対処しようとした。
「フェレーラさんは一人なんでしょ? 僕も、今は一人だよ? それでいいの?」
 言った後で、まるで「年上のお姉さん」に話しかけるような口調になってしまった
のに気付く。いや、現実的にそういう年齢差なのだろうけど、もう少しどうにか
ならなかったか、僕は。割と知性派で通っているというのに。
「私は、二人だけのパーティーを組みたいので」
「二人だけ?」
「とある事情があるので……。私が仲間を見つけられなかったのも、この二人という
条件のせいなのですね。前衛三人と後衛三人で六人が基本だと素っ気なく断られ
ました。私、腕に覚えがないわけではないのですが、こういう事にはあまり明るく
ないもので……」
 冒険者の道理に疎い事について、素直にはにかむフェレーラさん。一瞬、美しいと
言うより妙に可愛い顔だった。大人びていながら、ところどころ子供っぽい人だ。
 逆に言えば、ところどころで油断ならない感じもする。
 聖女と娼婦という二面性を感じた事、達人的な鋭さを持つ事からそうした印象が
あるのだろうか? 彼女に対して失礼だし、過敏かも知れないけど、やはり気に
かかる。
 騙し騙され、利用し利用され、という駆け引きは冒険者の世界でよくある話だ。
綺麗な女性に浮かれて全てを鵜呑みにするほど、僕は童貞くさくはない。はず。
 とにかく、僕という最後の一線が崩壊したら、死んだ仲間はもう蘇生できない。
責任は重大だ。慎重であるに越した事はない。

「……ちょっとこっちへ」
 僕は頭の中を整理しながら、彼女を雑踏の端、寺院建物の側に連れて行った。
そして向き直りながら、
「いくつか聞きたいんだけど」
「はい」
「まず、二人だけのパーティーを組みたい事情というのは?」
「私、迷宮探索の経験があるにはあるのですが、ここの迷宮の事は知りませんし、
先にも言った通り冒険者としての道理にも明るくないので、案内してくれるかたが
いないと危険かなあ、と。ただ……、同行者の数はなるべく少ない方がいいの
ですね。どうして少ない方がいいかは、今はちょっと言えませんけれど……」
 フェレーラさんは少し困った顔をして、そう言うだけだった。
「ふぅん……?」
「迷宮に入ればすぐに説明します。説明せざるを得なくなりますので……」
「じゃあ、迷宮に潜る目的は? 布告に乗って迷宮の主を倒すのを目指すには、
二人組なんて不利なだけでしょ? と言って、ただの腕試しや宝探しという感じも
しないけど」
「あなたと同じ。迷宮の中で消息を断ったと思われる知り合いを探しています。私の
場合、定期的にあるはずの便りがなくなったので、心配になって王都に来たのです」
「そうなのか……、それは大変だね」
 溜め息混じりに同情的な表情を浮かべてしまう僕。
 だけれど、すぐさま続けて、
「でも、だったら……僕が声を上げた昨晩の時点で接触してくれても良かったのに、
どうしてここ……カント寺院前で?」
「亡くなったとは言え、あなたには仲間がいらっしゃるとの事で……、先にあなたの
側で救出が果たされた場合を考えて留保したからです。カント寺院に来ていたのは、
私、僧侶呪文を修めていまして、見知っていて頼れる顔でもいないかと期待があった
もので。……まぁ、駄目だったわけですけど。ちょうどその後にあなたを見かけた
ので、思し召しと解して決断しました」
「なるほど」
 彼女は僧侶かビショップだろうか? 確かに、雰囲気に通じるものはある。
「修めている呪文はどこまで?」
「はい。僧侶呪文はイハロンまで、魔術師呪文はマハマンまで全て修めております」
 思わず息を呑む僕だった。
「イハロン、マハマン――奇跡と変異の呪文? 最高階梯の? 僧魔両系統を?」
「ええ。でも、全階梯を九回詠唱できるわけではありませんよ?」 
 僕の驚いた声に、フェレーラさんはやや慌てて謙遜してみせる。
「それでもすごいっ……、僕は魔術師呪文を扱うサムライだけど、使える中で最高
なのはまだラダルトで……。冒険者の道理に疎いとか、ここの迷宮の中を見知らない
と言われた事を差っ引いても、こっちからすれば実力的に申し分ないよ」

 何となく感づいて、僕は彼女の素性に見当を付けた。
 過去に英雄を輩出した血統、特に王国に仕えて門閥化した貴族の出身であったり
する冒険者には、彼女のような人物がまま見受けられる。
 泥にまみれる自然淘汰から生き残り、生き残る事と鍛錬が結果論的に等しいという
普通の冒険者とは全く異なり、祖先より引き継いだ才と秘伝を同門内で鍛錬し合う
らしい。
 競争に敗れて脱落する者を身内から極力出さないようにするためとは言え、決して
侮れない事はよく知られている。実戦さながらの過酷さを持つ修練には、時として
本末転倒な殺し合いすら伴うとか。
 彼女が、実力を秘めながら何処か浮世離れしているのは、そういう事だろう。

 ただ、僕からすれば実力的に申し分ないという事は、逆にフェレーラさんから
すれば僕は実力的に欠いているという事だ。それでいいのかと確認するのも、彼女に
気遣いさせるだけだから止めておく。組む事を前提で持ちかけてきたのだから。
「……分かった、組もう。遅れたけど、僕の名前はユスノー。よろしく、フェレーラ
さん」
「はい。快諾くださってありがとうございます、ユスノーさん」
 気品さえある微笑みを浮かべつつフェレーラさんは、手を差し出してくる。僕は、
思わず照れ臭い気持ちになりながら手を衣服で拭った。別に汚れていたわけじゃない
にせよ、なぜかそのまま触れるのは失礼な気がしたから。
 そっと握手に応じながら、
「僕の方にさん付けは止めてよ、15歳だよ。かなり年下だろうし」
「それじゃあ、ユスノーくん。でもそんなに離れていませんよ、私は21歳ですもの。
ちょっとお姉さんですね。よろしくね」
 ちょっとかなぁ、とも思わなくもないけど――それよりも。僕は、彼女の手の
華奢さ、深窓の令嬢さながらに柔らかい肌に驚いて、胸の鼓動を早めて顔を熱くして
しまう。
 ……結局のところ、「綺麗な女性に浮かれて」いる自分がいるのは、否定しがたい
ようだった。

  ◆

 善は急げ。どうせ地下に潜ったら時間帯は関係ない。というわけで。
 僕らはそれぞれに準備をして、王都の防壁の外にある迷宮の入り口で、夕方前に
改めて落ち合う事となった。怪物が迷い出てこないよう周囲を柵と兵舎で囲み、
守備隊が常駐しているという物々しい場所だ。
 彼女と別れてから、僕はまず浴場に赴いて身を清めた。迷宮内に入れば衣服と
装備は着たきりになるから、時間経過に伴って不快感が高まっていくのを少しでも
遅らせるため。まぁ、そんな事を気にしない連中の方が多いのだけど。
 入浴の後、宿屋に預けていた業物の鎧一式をまとい、鞘入りの名刀を佩き、いくつ
かの携帯装備品を入れた革袋を腰にくくり付けた姿になった。それだけで自然に気が
みなぎってくるから不思議だ。

 ちなみに携帯品には、迷宮内で野営するためのキャンプ用具も含む。ただし、
キャンプと呼ばれてはいてもそれは、布張り天幕のような大掛かりな形ではない。
魔術的な聖別を施された蝋石で線を描き、その線で囲った内側にいる限り、肉持つ
種族にも霊的な魔物にも気付かれず、無意識に避けさせる効果のある代物だ。
 水や食料についても、僧侶の回復呪文によって乾きと飢えをかなりの長期に渡り
無視できるので、ごちゃごちゃとかさ張るものは持ち込まないのがリルガミンの
冒険者の流儀になっている。魔力回復できる場所の事を知っていれば、呪文依存で
押し切れるからだ。
 つまり、フェレーラさんと組めなければ、そもそも戦力以前に面倒な問題があった
という事。
 何より、僕にも彼女にも、一刻も早く仲間を発見し救出したいという事情がある。
 それらの事から、数日間はぶっ通しで潜り続ける展開になるだろう。それは既に
打ち合わせ済みで、彼女も覚悟をしていた。

 僕が迷宮の入り口にやって来た時、フェレーラさんは先んじて待っていたが、
姿格好がさっきと変わっていなかった。白いワンピース一枚に、足元は布製の
編み上げ靴。腰に着けたポーチのベルトにも、武器一つ寸鉄一つすら下げていない。
 僕はちょっと呆れてしまった。やっぱりこの人、冒険者としては疎いと言うよりも
天然で抜けているところがないか。
「フェレーラさん、着の身着のままで来たの?」
「いえ、ちゃんと言われた通り、浴場で身を清めて衣服も着替えました。同じに
見えますけど」
 確かに、真っ直ぐ落ちる黒い長髪は雨の日のようにしっとりしていて、肌も
ほんのりと血色を増しているが。軽く脱力して僕は、
「そうじゃなくって……武器は? 鎧は?」
「要りませんから」
「……いや、ないよりはあった方がいいよ。どうせ後衛だからとか、呪文で事足りる
とか思っているんだとしたら、いくらなんでも過信してるでしょ?」
「そういう事ではないのですけど……」
「って、どういう事? ……何にしても、安い装備でも購入した方がいいよ。ボル
タック商店に行こう? お金ないなら出すよ。僕も今は手持ちが殆どないんだけど、
皮鎧や安物の盾でもないよりはいいし……」
 フェレーラさんは頬に指先を当てて、困ったように小首を傾げた。ちらり、と周囲
を見回しもする。衆目や他人の傍耳を気にするような事情でもあるのか?
 僕ら二人の間に、しばらく沈黙が流れる。何やら妙な空気になってしまった。

「……おぉい、兄ちゃん、姉ちゃん?」
「どうするんだ、入らないのか?」
 と、そこへ、迷宮入り口の門扉の前で歩哨に務めている兵士たちが、面倒そうに
声を掛けて来る。
「ああ、えっと……」
 ひとまずボルタック商店に向かおう、と思って僕は言いよどんだ。ところが、
「もちろん、入りますから。行きましょう、ユスノーくん」
 フェレーラさんは強引に僕の手を取って、意外に強い力で引っ張っていく。
「ちょっ……、あの、でも」
 僕の異議申し立ては無視されてしまった。

  ◆

 かくして二人は地下迷宮に降り立ったのだが。
「――光あれ、我が暗闇をさまよう限り」
 背後の門扉はすぐに閉じられ、視界は真っ暗闇だ。その中に響くフェレーラさんの
綺麗な声。ロミルワ(明かり)の呪文が発動し、彼女を中心とした一定空間が光に
満ちる。空気自体が光っているような、均一的な照明。
 その光の中に、僕も佇んでいた。辺りは、だだっ広い玄室風の場所。重々しく
整然と組まれた石壁と天井と床が、ロミルワの届かない先まで続いている。
「まったく……困る事になると思うけどな、そんな装備とも言えない装備だと。杖が
ない分、駆け出しの魔術師よりも無防備じゃないか」
 言いながら僕は、いささか大仰に片腕を振り下ろし、二・三歩先に立つ彼女の
非武装ワンピース姿を指し示す。忠告を軽んずられて、少し感情的になったかも
知れない。
 そんな僕をフェレーラさんは申し訳なさそうに見つめていたが、やがて顔を
逸らした。僕に対してやや左半身を向け、斜めに佇む。そして脈絡なく唐突に、
「あの……、驚かないで下さいね」
「……何が?」
 問いかけに応じず彼女は、腰のベルトポーチを外してそっと地面に落とした。
訝しがる僕から伏し目がちに視線を反らしたまま、胸元に両手をやってするすると
紐を緩め、ワンピースをおもむろに脱ぎだす。まさに、おもむろに、だ。
 僕は麻痺攻撃でも打ち込まれたように固まって、無言でそれを見守る。口を半開き
にして。
 フェレーラさんから発する、しゅるしゅるとした衣擦れの音以外は、迷宮という
場もまた無言。

 貫頭式のワンピースの裾が持ち上がり、彼女の細い足首、そこより上も露出して
いく。脚の全体は驚くほど長く、白くて綺麗でなまめかしい。
 肉付きのいい太腿の上に、股間を隠す小さな下着が現れる。ほんのささやかな布と
紐から成る下着は、腰も尻の肉も殆ど覆っていない。
 尻は豊かに幅広かつ厚く、その上の腹は細く薄い。すごい対比があった。豊か
である事により女性的となる尻と、くびれている事により女性的となる腹との
落差が、互いの女性的特質を強調し合っていた。
 続いて、胸も解放される。ワンピース下に肌着はなく、剥き出しの肌。両の乳房
は、たゆんと派手に揺れてその大きさを主張する。なのに、乳頭を強調するように
つんと尖って上を向き、あくまで瑞々しく弾む。白い肌が薄皮一枚下の血色で
うっすらと彩られていて、乳輪と乳首は周りの肌よりなお鮮やかに色分かれていた。
 ワンピースから抜き去った頭を左右に振られると、彼女の黒髪からたちまち一際
いい匂いが香って、僕の鼻腔を刺激してくる。

 どうして着衣を脱いだのか──そんな事より、彼女の裸体が美しい。その事しか
考えられない。
 最初、彼女の身体の事を、頭身があって華奢に見えながら同時に肉感的という理想
の身体つきであり、目のやり場に困るほどだと思った。事実、その通りで――いや、
むしろより魅力的である事を突き付けられたのだけれど、視線が吸い寄せられたまま
離す事ができない。
 左側にいる僕の目を意識しているのか彼女は、脱いだワンピースを左肩に掛け
ながら、ちらりと一瞬だけ横目で見返してくる。その頬と耳が艶やかに赤くなって
いた。
 更に、フェレーラさんは股間の下着を脱ぐ。小さな三角巾に紐が付いているだけの
それは、すぅ、と結び目を引っ張っただけで呆気なく取れてしまう。と、彼女の恥丘
に濃く茂った黒い草叢が、解放されてふわりと立った。
 ロミルワの光の中で、風呂上りから間もない彼女のほんのりと染まる肌全体が、
頬と同じように血色を増していく。

 フェレーラさんは下着も肩に置いた上で、しゃがみ込んで足元に両手をやり、
編み上げ靴を左右それぞれ脱いだ。細長く色形よい足指に、手入れされた綺麗な爪の
並ぶ、少女的なほどに華奢な素足が剥き出される。
 そして姿勢を変え、つま先立てた両足のかかとに尻を乗せて座り、太ももを揃えて
ひざまづく。
 脱いだ靴を持って底同士を打ち合わせると、彼女はそれを器用に折り畳む。靴底に
張られた皮以外は布製で、小さくまとめる事のできる造りだ。床に落としていた
ベルトポーチを拾い上げ、内側のポケットにこの靴をしまい込む。
 同様に、肩に掛けていたワンピースと下着を手に取り、完全に一糸まとわぬ姿を
隠す事なく曝しつつ、それらの衣服も折り畳んでいく。何か工夫でもあるのかやたら
小さくまとめた上で、ベルトポーチに入れる。
 入れ替わりに白レースの細いリボンを取り出してから、ポーチ部分を背後側にして
ベルトを腰に強く巻く。ポーチの底部に隠されていた変形的な小さめのダガーを抜き
出し、一目だけ確認してから収納し直す。
 リボンは背中まである黒髪を束ねてくくるのに使い、後ろ頭で一つの団子状に
まとめ上げていく。両腕を上げてつるんとした綺麗な腋の下を露わにし、なめらかな
背中を見せながら。
 うなじのほつれ毛が妙に色っぽく映る。ひざまづいた姿勢と相まり、入浴直前の
女性を覗き見ている錯覚があった。

 フェレーラさんは黙々とそうした作業を済ました後、ゆっくりと立ち上がり――、
僕に真正面から向き直った。
 言うまでもなくその身体は、腰のベルトポーチと髪留めリボン以外は頭の頂きから
つま先まで完全に裸だ。一糸まとわぬの手前、一糸程度しかまとわぬ、という姿。
全身傷一つなく、無駄毛も見えない、剥きたてのゆで卵みたいな肌の。
 半神あるいはそれに連なるものとして、山野や河川には美しい女精が宿るという。
そんな神秘的な裸ですらこうまで美しくはないんじゃないかと、僕は半ば陶然として
見つめてしまった。
「お待たせしました」
 ほのかに恥ずかしがりながらも、彼女は落ち着いて何気なく振舞っている。股間に
さり気なく片手をやって陰毛を隠してはいるけれど、つんと上へ向く双丘に色づいた
乳首はそのまま剥き出しだ。
 むしろ、こっちが慌てだした。恥ずかしく、頭が熱い。多分、顔も真っ赤だ。
「なななななななにがどう」
 僕の声が間抜けに響く。
「はい、武装の準備が終わりました」
「ぶ、武装?」
「ええ。ニンジャの武装の理想は、全裸ですから」
「にん……ニンジャ!? ……誰が!? あなたが!!?」

 ニンジャ――異質なる武芸者。己の肉体のみを武器として、竜すら屠る攻撃力を
繰り出せる者。影と一体化して忍んで潜み、肉体的かつ霊的な死角からの暗殺を
仕掛ける事すらできるという。
 また、達人の域に於いては、身のこなしと素手だけで業物の真剣すら捌ききり、
ゆえに防具を必要としない。むしろ逆に、防具をまとう事で「空気と殺気を肌で
感じる」という特質的な能力を抑えられてしまうとされる。
 この事が、「達人のニンジャは必然的に全裸となる」という観念を生んだ。
そして、それは好色の異聞じみていながらも、確かな事実だった。

 僕は素っ頓狂な声でフェレーラさんに、あなたがニンジャかと聞いた。
 対して彼女は、息を漏らしてはにかんでから、割り切った感じでにっこりと
微笑んで答える。
「はい。……ええ、実はそうなんです」
 あどけない少女性を宿しながらも大人びて柔らかな顔立ちは、長髪を後ろで
まとめ上げているため、がらりと印象を変えていた。活動するためにそうした
のだろうけど、逆にことさら大人っぽく、落ち着いて見える。
 こんな人がニンジャ?――僕は、どうしてもまだ頭の中でつながらない。認識が
乖離したままだ。
「えっ、僧魔両系統の呪文を最高階梯までの極めているというのは? 戒律が<善>
だと言うのは? ニンジャになるには戒律が<悪>しか許されないはずじゃ?」
「もちろん、イハロン、マハマンまで使えますよ。以前、<善>のビショップとして、
全階梯の呪文を極めましたから。ニンジャになった以上、詠唱可能な回数は限定
されていますが、修得した呪文そのものは変わっていません。戒律については、
ニンジャになるために必要上<悪>に変えた事はありますが、その後に再び<善>へ
戻しているわけです」
 まぁ……確かに。そう言えば、現在もビショップかとは聞いていないし。転向の
過程も普通に可能ではある。別段、何を騙されたわけでもない。
 僕は、しぱらく何を言葉にすればいいのか分からなかった。
 口の中が張り付いて、喉の奥から乾ききるほど緊張している事を今さら自覚する。
美人だな、清楚だな、と思っていた年上の女性がいきなりこんな。

 僕を慮ったような間合いで、彼女から沈黙を破ってくる。
「武器、鎧が不要というのは分かっていただけましたよね」
「そそそれは……、はい、もちろん良かった、でもなんて言うか……手はあんなに
柔らかい肌だったのに」
 彼女と握手した時の事を思い出す。また、目の前にした綺麗な柔肌の実物からも、
女性の艶っぽさしか見て取れない。
 筋肉質でもない。適度に引き締まっている体つきではあるけど、あくまでも不要な
贅肉を持たないという意味で、女性的なぷよぷよした肉感に富む。達人的な鋭さが
彼女の内側から滲み出ているのは雰囲気として分かるけど、あくまでも外形的な
身体の線は丸みがあり、ふくよかな印象が先に立つ。
「やだ、実際に手足を刃物同然に研ぎ澄ましたり、肌を鎧同然に鍛えるわけじゃない
ですよ。そういう流派もあるでしょうけど……、要は体術と質的な筋力、内圧的な
気力と外装的な気力の問題ですから。サムライだって同様でしょう?」
「そ、そうだね……」
「見た目を『普通』に保ち、武人に見えなくするのもまた『隠業』の一環……という
事らしいですね。それにまぁ、私は箱入り娘でしたから、丁重に扱われましたし」
「……な…るほど……」
 どうでもいいけど、あなたの見た目は別の意味で普通じゃない。美人すぎる。

「迷宮に入ったら説明すると言いましたが、仲間は二人がいいというのもこういう事
です。私、ニンジャとしては未熟で、羞恥心を捨てきれてなくて……あまり大勢に
見られたくないので」
「あっ……」
 そう言われると、慌てて目線を反らせざるを得ない。今まで不躾に見つめ続けて
いた事を自覚して、僕の中に別種の羞恥、礼節に欠いた事への羞恥が込み上げて
くる。
「あっ、いえっ、大丈夫ですよ、ユスノーくんは気になさらなくても。私の方に視線
をやれないという制限があると、探索にしても戦闘にしても色々と困るでしょう? 
一切構いませんから、何を見られても」
 フェレーラさん、こっちが構います。
 しかも、何を見られても、って。
 言いながら、したしたと近づいてくる彼女の白い裸が、僕の視界の端に再び入って
くる。いい香りが官能的に鼻腔をくすぐり、気持ちは揺さぶられて激しく波打つ。
「では、マポーフィック(保護)とラツマピック(識別)の呪文を……私には既に
掛かっていますが、ユスノーくんを含めて掛け直しますから、私に触れてください。
……そうそう、マポーフィックの呪文のお陰もありますね、裸でも平気なのは。足も
汚れないし」
 言葉は殆ど右から左だ。僕は熱くなった顔を反らして、うつむいたまま。
「……あの、ユスノーくん? こっちを向いて、手を差し出してくださいません? 
呪文、掛けますから」
 僕の顔に、彼女の端正な美貌が近づいて、甘ったるい息も掛かる。手を取られ、
柔らかい両手で包み込まれる。
 頭が茹だったようにくらくらする。――当然、とうの昔に僕の股間は熱い血で
滾り、痛いぐらいだった。

 だめだ、僕はもうこの人を性的な対象として見てしまっている。童貞くささ丸出し
だ。いや、童貞でなくても平静を保てるものか。この人の女の匂いは強すぎる。
 こんな事でやっていけるのか……?