彼女がこの迷宮をさまよって、もうどれほどの時間がたっただろうか。
 テレポートで現在位置を見失い、モンスターの群れに取り囲まれ、パーティーは壊滅。
 かろうじて生き残ったのは、君主である彼女自身と、もう一人だけ。
 彼女をかばうつもりか、二歩ほど前に出て堂々と歩を進める、男らしく、頼もしい仲間――。
 の、剥き出しの尻が、嫌でも目にはいる。
 彼は、忍者だった。
 不幸中の幸いにして、彼は良くいる全裸主義者ではない。
 ちゃんと真っ赤な下帯を締め、頭巾を被っている。
 確かに忍者は身軽であるべきだ。急所を保護するのも理解できる。だが、それならなぜ顔も隠すのか。
「忍者は正体不明であるからして」というのが彼の主張だが、正体以前にどこからどう見ても立派な変質者だ。
 戦闘力も、探索能力も、信頼に値する男だが、この趣味にだけは付いていけなかった。
 だがしかし、今はまず生還を考えなければ。呪文の大半が尽きた今、頼れるのは互いの刃だけなのだ。
 そう思えば、引き締まった尻でリンゴが割れそうなほどにマッチョな体型も、頼りがいが……ありそうななさそうな。
 思わず大きなため息を付いたら、不意に、彼が足を止めた。
「どうしたの?」
「T字路でござる」
 この時代錯誤な言動も、時にげんなりする。
 左右を見渡してみると、右側はわずかに進んだ先に扉があり、左方は闇の中に長く通路が続いている。
「さて、どちらに行ったもんでござろうか」
「部屋に踏み込むのは避けましょう。それより早く、自分たちの位置が分かるところに出ないと」
「しかし、何か手がかりとか、お宝があるかもしれんでござるよ」
 主に後者への未練があるのだろう。彼はいかにも名残惜しそうに扉を見つめる。
「だめよ。まずは生きて帰ること。そして仲間を生き返らせて。探索はそれからでもできるわ」
「それはそうでござるが」
 少しばかり苛ついて、さっさと左へと歩き出す。――途端、床が消失した。
 落とし穴!? と、自覚する間もなく、体が落下する。真下に輝く無数の刃が、やけにはっきりと見えた。
 時間の流れがなぜか緩やかに感じられながらも、押し寄せる絶望感と落下は止まらない。
 その凍った時間を引き裂いて、
「これを!」
 叫びと共に顔の横を通過した、苦無を先端に結びつけた、紅の命綱。
 反射的にそれを両手で握り、壁に足を掛けて踏ん張った。
 数十センチ、さらに死神の手に引きずられるが、かろうじて踏みとどまる。
「むうっ……」
 姿は見えないが、苦悶の呻きが聞こえた。彼女よりも、上で支えもなく踏ん張る彼の方がきついだろう。
 彼女自身は細身とはいえ、金属鎧をつけたフル装備だ。
「だ、大丈夫?」
「いやぁ……こうもきつく締め付けられると、なにかに目覚めてしまいそうでござるな」
 どんな深刻なときでも、いつも明るい口調を絶やさない彼に、安堵と信頼と感謝がよぎる。
 加えて疑問も一緒によぎる。締め付けとか、目覚めるとかは、さて一体――?
 そこで気づいた。
 今、握りしめている赤い布。彼女の命を繋ぎ止めたそれは紛れもなく、彼の股間を覆っていた下帯であることを。
「……なっ、なっなっなっなっなーーーーーっ!?」
「ちょ、暴れられると、あっ、ちょっと気持ちいいでござるっ!」
「やかましいっ! なんでこれなのっ!」
「とっさに投げるものがなかったんでござるよ。命には替えられないでござる。ささ、しっかりと拙者の褌を握りしめて」
「褌ってはっきり言うなっ!」
「いやしかし、これがブリーフとかトランクスとかだったら、貴殿の命はなかったでござるよ。褌万歳」
「……なんかもう、いっそ死にたくなってきたわ」
「あまりお薦めは出来ないが、手を離せばかなりの確率で死ねるでござるぞ」
「いいから早く上げてっ! ……いや、私が上がるから、しっかり支えていて」
「バッチオーライでござる」
 主よ、申し訳ございません。私は汚れてしまいました。
 そんな悲しい懺悔をしながら、褌をたぐり寄せていく。
 確かに股間に巻かれていたとはいえ、解かれた先だから、直接触れてはいないだろうと思えるのが、せめてもの慰めだ。
 それにしても長い。見上げてみれば、床上までは3メートル以上ある。
 なんでこんなに長いのかと、現実逃避に考えていたら、それを読んだかのように、彼が呟いた。
「この褌とも長いつきあいがござってな」
 無視無視。
「忍者は幼少の頃から様々な特訓をするのでござるが、その内の一つに脚力を鍛えるものがござる。
 首に十メートルほどの長い布を巻いて、地面につけずに走るというもので……」
 そんな思い出の品を、褌に仕立てるな。そうツッコミかけて、いやちょっと待て。
「あんた盗賊の短刀で転職したじゃない」
「魂は生まれながらの忍者でござる」
 わけわからん。
 いいからはやく、この悪夢のような状況から逃れよう。
 前門の褌、後門の槍。まさに肛門に槍が刺さりそうだ、などと考えて思わず自己嫌悪。主よ略。
「どうかしたでござるか?」
「なんでもないわよっ!」
「早く上がってきた方がいいでござる」
「……え?」
 口調に真剣な響きが混ざっていた。
「先ほどの扉から、恐るべき強敵が姿を現したようでござってな」
「強敵って……」
 悪魔か、竜か、はたまたこの動けない状況では、大いに脅威となりうる呪文使いか。
「一体、何が!?」
「……デュラハンでござる」
「デュラハン?」
 強敵は強敵だが、恐るべきとまで言うほどではない。ましてや君主である自分が上がれば、ディスペルの一発で……。
「すでに首が飛んでるんでござるっ! これではクリティカルが」
「いいから早く引っ張り上げろっ!」
「っと、それどころではなくなってござってな」
途端、自分を支えている布が揺れた。布。これはあくまで布。ただの赤い布だと自分に言い聞かせる。
 そんな心の余裕が吹っ飛ぶ、剣戟の音と、乱れた呼吸。時にはさまる「アイヤー」の声。お前は一体何人だ。
 そうツッコミをする暇もないほど、左右に振られ、時には一メートルほども下落する。
「ちょ、ちょっとっ!」
「いや、すまんでござる。ちょっとじっとしていてくだされ」
 と、謝る声にも余裕がない。こんな状況では忍者の特性は完全に殺され、不利な戦いを強いられているだろう。
 自分にもなにかできることはないか、なにか……。せめて姿が見えるところまで上がれれば、ディスペルもできるのに。
「ぬぐっ!」
「っ! 大丈夫っ!?」
「ちょーっと回復していただけると、ありがたいでござる、みたいなー」
「でも、回復って……」
 かけたいのは山々だが、ディスペル同様、姿の見えない相手にはかけられない。
「装備越しなら大丈夫でござろう?」
 装備? ああ、そうか。すっかり忘れていたつもりだったけど、これは彼と繋がっていた。
 どこに繋がってるのかは知らない。知らないんだってば。
 できる限り頭を真っ白にして、神との交信を開始。ぴぴぴ。
「DIAL!」
 残していたわずかな回復呪文。彼女の信仰が奇跡の技となって、彼の褌を伝わっていく。
「おおぅ、股間から癒しの波動がっ。いつもの回復より気持ちEでござるっ」
「黙って戦えっ!」
「おまけに副産物として、持病だったインキンも癒されたようでござるよ」
「んっ……んなもんついたの握らせてたのか、ぶっ殺すぞっ!」
「……やだな、冗談でござるよ?」
「その間はなんだーーーっ!」
「なんでもないようなことが、幸せだったでござーるー」
「歌ってごまかすなーっ!」
 などと、喧々囂々と会話しながらも。
 褌越しに呪文をかけることが可能と判明したため、回復呪文にMATUなどの援護を加え、直に戦いは終結した。

「お待たせしたでござる」
 いろんな意味で、悪夢のような時間が終わった。
 ようやく床まで引き上げられ、輝く笑顔を見せる彼に、まず一番にしたことは――、
 全力のストレートを右の頬と左の頬に叩き込むことだった。
 なんでか幸せそうに倒れる彼に、小さくため息を付いて。主よ略。ぴぴぴ。
「DIOS」