<地下11階>

魔女は、漆黒の水の中に浸っていた。
ぼんやりとした魔法光を反射する暗い水面の果ては何処にあるのか、わからない。
海と言っていいほどの広大さを持つそれは、しかし海水ではなく、
泉から汲んだばかりの清らかさを持つ真水──しかも適度な温度を保つお湯である。
──ここは、魔女の「浴室」であった。
地下4階の「魔女の住処」、その粗末な入り口から入ってすぐのドアを潜り抜けたところにある「ここ」が、
本当はどの空間に存在しているのかは、魔女本人にしかわからないだろう。
闇を溶かし込んだような水面に、魔女の××色の髪が長く伸びて、ゆらゆらとたゆたう。
──愛する夫に抱かれるために、肌を磨く妻。
魔女は、今の自分にすっかり満足していた。
先ほどまで彼女は、神に捧げものをする巫女もかくや、という真摯さで自分の身体を清めていた。
あながち、まちがっていないかもしれない。
彼女の夫はすでに、地上に君臨するカドルト神を凌駕する力を備えている。
この女司教の姿を取る美女にとっては、ワードナはある意味「仕えるべき神」そのものとも言えるだろう。
そして、この「巫女」がこれから神に捧げるものは、彼女自身の心と身体だった。
魔女の唇に、微笑みが浮かぶ。
自分の神へ、最高の供物を捧げることができる巫女の、誇りと喜びに満ちた微笑。
──だが、この「巫女」は──彼女が崇め敬う「神」そのものよりもはるかに古く、強力な女神だ。
この「浴室」ひとつとっても、どれほどの魔力によって生み出されたものか。
──しかし、「巫女」は、自分が「巫女」でいられることに至上の喜びを抱く女だった。
彼女が唯一望み、欲したにもかかわらず、今まで得られなかった存在──「夫」。
魔女は、尊敬でき、愛することができる男に全てを捧げたがっていた。
そして今、その願いは完璧にかなえられた。
魔女にとってワードナは、仕えるべき神であり、敬意に値するパートナーであり、そして何よりも愛しい男だった。

ちゃぷ。
魔女がわずかに身をひねると、湯の水面に足場が現れた。
足を乗せて立ち上がると、闇に満ちた「浴室」はふいに白光に満ちた。
柔らかな光と同時に、魔女の前に姿見の大鏡があらわれていた。
姿見に己の全裸を映した魔女がにっこりと微笑む。
魔女の身体には、若さと成熟が絶妙のバランスで溶け込んでいた。
夫は、こういう女体がもっとも好みだ。
うっすらと青く静脈が透ける熟れきった乳房に吸い付き、水を弾くような若々しい臀にかじりつく。
若い女の弾力に満ちた乳の間に男根を挟み、女の脂肪がたっぷりとのった臀を抱え込んで射精する。
どちらの欲望も、この身体は完璧に満たす。
夫が快楽にあえぎながら自分の中に精を放つ姿を想像して、魔女の微笑が深くなった。
思わず前を押さえる。
膣の内部は、自分の配偶者の男根と射精の感触の記憶を鮮明に思い起こしていた。
身体が、夫を求めている。──当然、心も。
「んんっ──」
魔女は柳のように形のいい眉根を僅かに寄せた。
恐ろしく官能的な表情は、身の内からこみ上げる欲情をこらえるものだった。
白くなめらかな太ももを伝っていくものがある。
透明だが、あきらかにお湯とはちがう感触のそれは──蜜液だ。
夫の事を考えるとき、魔女はひどく濡れやすい女になる。
濡れやすいということは、感じやすいということと同義だ。
愛液は、男性器を迎え入れ、精液を子宮に運びやすくする役割を持つ。
豊潤であることは、すなわち豊饒であることだった。
魔女は、うっとりとしながらも、白く繊細な指先が自分の性器の内側へもぐりこもうとするのを静かに押さえた。
──既婚者は、自慰をしてはいけない。
する時は、配偶者に求められ、その欲情を煽るために相手に見せる時だけ。
抑えた欲情は、つがいとの交わりの悦びの味わいをさらに濃くする。
それが魔女の結婚哲学だった。
小さなため息をついた魔女が髪をかき上げながら姿勢を戻した。
湧き上がった情熱は消えてはいない。体中に溶け込み、熟れきった肢体のあちこちに散じて潜んだままだ。
それは夫に触れられた瞬間に全てが一気に燃え上がるように慎重に準備されている。
これでいい。魔女はもう一度湯の中に裸身を沈め、太ももと性器を清めた。
──再び水面に立った魔女が、振り返った。
誰かがこちらにやってくる。



いつのまにか、湯の上を、白大理石の「道」が一筋、通っていた。
どこから来て、何処へ続くのか。魔女と、いまこちらにやってくる者しか知るまい。
魔女は、片手を振った。
彼女の立つ足場が広がり、「道」につながる。
宙空から取り出した布で身体を拭きながら、魔女はやってくる人物を待った。
──相手の足取りは軽やかだった。
はるか彼方から歩いてきたとは思えぬスキップと、唇から漏れ聞こえる上機嫌なハミングに、魔女はにっこりと笑った。
「──こんにちは、<私>」
「──こんにちは、<私>」
魔女の挨拶にまったく同じ言葉を返した女は、やはり魔女。
だが、こちらは──年端も行かぬ少女の姿だった。
見習いの簡素な法衣姿だが、それは身だしなみに無頓着と言うことではなかった。
綺麗にくしけずられた髪。
きちんと折り目をつけたブラウス。
ポケットに差し込んだ小さな花。
大切そうに抱え込んだ籐のバスケットには何が入っているのだろうか。
化粧の必要のない年齢の少女が、誰かのための目いっぱいのおしゃれに、つい先刻まで心を砕いていた様子が手に取るようにわかる。
大人のほうの魔女が問うた。
「どこかへお出かけかしら?」
「ええ、これからデートなの」
輝くような笑顔で、少女のほうの魔女が答えた。
「あら、いいわね。<私>も、これからわが殿とデートよ」
「素敵。あなたも大好きな男の子とデートなの?」
「ふふ、もちろん。──この宇宙で一番好きな旦那様との逢引」
「わあ、いいなあ。<私>もワードナのことが一番大好き!
 ……でも、<私>はまだワードナのお嫁さんにしてもらってないの」
少女はちょっと目を伏せた。
「あら、まだまだ焦ることはないわ。きっとその男の子も、大きくなったらあなたと結婚したいと思ってるわよ」
「本当!?」
「本当ですとも。きっと、わが殿が<私>に抱いてくださる想いと同じくらい、その子もあなたのことが好きよ」
少女に笑顔が戻った。春の日差しのような笑顔だった。
「──あ、もう行かなくちゃ」
「そうね。レディの特権として、男の子は少し待たせてもいいけども、あんまり待たせてもいけないわ。
 お行きなさいな、──小さな<私>」
「うん。あなたも、大切な旦那様をあまり待たせないでね。──大きな<私>」
美少女と美女は顔を合わせて笑いあった。
少女が前にもまして軽やかに駆け去っていくのを見送りながら、魔女は手早く、しかし抜かりなく身支度を整えた。
沐浴中、悩みに悩んで決めた今日の装い。
最終的に選ばれたものは、下着も、ブラウスも、法衣も、みな見慣れたものだった。
しかし、その実、魔女がこれほどまでに自信を持って身につけるものはない。
どんな服も美しく着こなしてしまう絶世の美女にとって、決め手はひとつ──夫の好みか、否か。
普段着ていない豪奢なドレスを着るという選択もあったが、結局、夫の一番のお気に入りは普段の格好だ。
しかし──。
魔女は大鏡に映った完璧な自分の姿を見て、ちょっと不満そうに眉をしかめた。
──これでは、あまりにも、いつもと同じすぎる。
今日のデートには、何かいつもと同じだけではない自分が欲しかった。
「──あら?」
魔女は、姿見の前にあるものに気がついた。先ほどまでは確かになかったものだ。
視線を向けた美しい顔が、見る見るほころぶ。
ちょこんと置かれたそれは、一輪の花だった。小さな魔女が、ポケットに挿していたものの一本だ。
どこかの野原で手折ったものだろう、小さな花は、ふうわりと優しい香りがする。
大人の魔女の懸念を見越して少女の魔女が置いていった、ささやかな、だが何よりも嬉しい贈り物。
魔女は、それを拾い上げ、つややかな髪に挿した。
──この宇宙には、「完璧」と「完璧以上」とが存在する。
──花を挿す前の魔女と、花を挿したあとの魔女のことだ。
鏡に向かって、魔女は一点の曇りのない笑顔で微笑んだ。
「ありがとう、<私>」
いつもと同じ、そしていつも以上の美しさの魔女は、そのまま鏡のほうに歩み始めた。
鏡の中に入り込む──それは、<待ち合わせ場所>につながっていた。



悪の大魔道士は焦燥の極みだった。
<思い出のあの場所>とは、一体どこのことだろうか。あそこであるような気がするし、違うような気もする。
魔女と歩んだ道のりを思い返したワードナは、それが驚くほど長い距離で、また驚くほど短い時間ということ気付いて愕然とした。
あの女は、常に自分の隣にいたような気がするが、始めて会ったのはついこの間のことだった。
──なんとなく落ち着かない。
迷宮の中を歩きながら、何度も後ろを振り返る自分に、ワードナは苦い表情になった。
あの女は、常に彼の後ろをついてきた。あの微笑とともに。
今それがないことに物足りなさを感じる自分に対して、<魔道王>はますます不機嫌になった。
不意に、足が止まった。目的地に着いたのだ。
──否、ワードナは当てがあって歩いていたわけではないから、ここには無意識にたどり着いたことになる。
これ以上はないというくらいに口を「への字」に曲げたワードナは、きびすを返して戻ろうとした。
だが、どういうことか、足は動かなかった。
いかなる魔力も、物理的な力も、そこにはかかっていない。ワードナ自身の本能が止めているのだ。
ここに留まれ。──「ここ」こそが、<待ち合わせ場所>だ。
悪の大魔術師はぎりぎりと歯軋りをし、やがて肩の力を抜いた。
手を振って護衛の魔物たちを魔法陣の彼方へ追い払う。
ワードナは腰を下ろした。──そこには腰をかけられるものがあったからだ。
忌々しいほどに硬い、粗末な寝台。
──ワードナは、彼が復活前に横たわっていた玄室に戻っていた。
地下4階の魔女ではなく、彼の妻であるあの魔女と最初に出会った場所。
「ここでよいのであろうな?」
思わず呟いたが、答える者は誰もいなかった。
だが、不安にはならない。
なんとなく、自分が正しい選択をしている確信がある。
胸のうちがざわめくのは、不正解を恐れる気持ちではなく──どきどきとした高鳴りのせいだ。
ぼんやりといらいらが適度に心臓の鼓動を緩め、あるいは締め付ける時間はどれくらいのものだっただろうか。
長かったようにも感じるし、短かったようにも感じる。おそらくは、ちょうどいい時間だったのだろう。
「──お待たせしてしまったでしょうか?」
その声が、一番心地よく聞こえたのだから。
「……いいや。今来たところじゃ」
<魔道王>は自分の声がいかにも不機嫌そうに聞こえるように祈った。
その効果はあっただろうか?
とりあえず、その声を聞いた女は、これ以上はないと言うくらいに嬉しそうな笑顔を浮かべているから、たぶん失敗だったろう。
もっとも、今日の魔女はワードナのどんな罵詈雑言にも笑顔で耳を傾けるだろうが。
「さて、今日はどちらに参りましょうか、わが殿?」
妻の微笑みに、悪の大魔道士はどきまぎとした。
「むむむ──。行く場所はもう決めてある」
「まあ。それは素敵でございます」
「じゃが──」
ワードナは咳払いをした。視線をそらす。
「──じゃが、そう急ぐこともあるまい。まあ、座れ」
自分が腰掛けている寝台の隣のスペースを叩きながら、ワードナは提案してみた。
「はい、わが殿」
魔女は夫の隣に腰掛けた。ふうわりと、優しいにおいがする。
「む。──花か」
髪に挿された小さな一輪に気付いた夫に、妻は満面の笑みを浮かべた。
魔女にとって今日のデートは、これだけでもう、世界の全てをあわせた以上の価値があった。
しかし、嬉しいことに、デートはまだまだ始まったばかりだ。
「──」
ワードナは言葉を失った。次に何を言えばいいのかわからない。
──魔女は無言でぴったりと寄り添った。私たち二人に言葉は要らない、と無言で告げる。
妻の肯定表現に、夫は元気付けられた。次の行動に自信を持って望める。
「ああ、うむ。──そろそろ行くか。この下に、おあつらえ向きの場所があるはずなのじゃ」
──地下11階。ワードナの玄室の真下にある迷宮最深層。
魔女がにっこりと笑って頷いた。
「きっと、そこは素敵なデートコースですわ」
そして、マラーの呪文の詠唱が玄室の中に満ちた。