冷たい石床は、乙女のしみ一つない白磁のような臀部が接触しているところから、容赦なく体温を奪っていった。 
しかし、荒い息をつく処女は、その冷たさを感じぬように、熱い息を吐いてあえいでいる。 
──もっとも、この乙女は、黄泉還った女だ。本当に体温があるかは怪しかったが。 
魔女は、うつむいているライバルを、冷ややかな微笑を浮かべたまま見つめていた。 
「……いい感じね。それじゃ、女の子のお勉強を続けましょうか」 
その声にトレボーは顔を上げた。目に、怯えがある。 
「も、もう、やめ……やめて」 
「ふふ、<やめろ!>ではないのね。──でも、まだまだレディらしくないわよ。<やめてください>でしょ?」 
「──やめて……ください」 
「<お願いします>、は?」 
「……お、お願い…します」 
「よく言えました。──でも、駄目よ。あなた可愛いんですもの。まだまだ虐め足りないわ」 
「──そ、そんな……」 
かつては驕慢な誇りに輝いていた金髪と蒼い瞳が弱弱しく震える。 
その桜色の唇には、自ら放った精液の名残がこびりつき、魔法光の下でてらてらと艶めいている。 
加虐趣味のない人間でさえ、この処女を思う存分になぶってみたいという願望を呼び起こされる表情だった。 
魔女でさえ、その欲望に逆らえなかった。──あるいは、逆らわなかった。 
容赦のない白い繊手が、座り込んだ乙女の秘所に伸びる。 
「ひっ!」 
処女の処女たる証の部分、もっとも守るべき部分への愛撫を許した身体は、乙女の意思に反して激しく反応した。 
「あら、貴女、もう濡れているわよ。──ふふ、自分の精液を飲んでそんなに興奮したの?」 
「そ、そんなことは……」 
トレボーの頬が、火のように熱くなる。 
女はともかく、まだ男との性交体験のない娘には、あまりにも酷な質問だ。 
「ふふ。恥ずかしがることはないわよ。女は、好きな殿方の男根を愛撫すれば、それだけで感じてしまうものよ。 
私だって、わが殿の男根を口に含んだら濡れてきちゃうし、──精液なんか飲んだら、もう大変」 
魔女は、手に持った<魔女の杖>の男根を再度舐め上げた。 
薄桃色の舌は、たっぷりと唾液を含んでいた。自らの言葉に、想像を呼び起こされたらしい。 
「ああ、とても素敵よ。──わが殿が、私のお口に愛されて大きく、堅く、熱くなるの。 
 考えただけで、とっても幸せ──あなたにもちょっとだけ、おすそ分けしてあげるわね」 
魔女はトレボーの肩に手をかけた。 
そっと押しやるだけで、最強の女君主はあっけなくひっくり返った。 
「あ……」 
呆然としたまま、気付けば床の上に横臥させられていること気付いて、乙女は絶句した。 
全裸──、しかも、倒されたままの姿勢。 
太腿を割って伸びる魔女の手に、乙女の動揺が激しくなる。 
「や、やめ……」 
「ふふふ、やめない」 
魔女はトレボーの白い腿を大きく広げた。 
乙女の秘唇に若妻が唇を寄せる。 
「──ひっ……あああっ!」 
薄桃色の二つの粘膜が重なり合ったとき、トレボーは小さな悲鳴を上げた。 
凶悪な<サックス>の真下のそれは、乱暴な弟の影に隠れた慎ましい姉の如く、 
あらゆるものから隠れ、守られ、ひっそりと息づいていた。 
その花園に、いま、何者よりもふさわしい美しさの女が舞い降りた。 
──否。 
こうした花園は、常に男に捧げられるものだ。 
差し出したものが蹂躙されるのか、あるいは命に代えても守られるのかはともかくとして、 
女の生命は女に捧げられるものではない。 
然り、魔女の舌はあくまで柔らかく、優しかったが、同時に無慈悲で残酷で意地悪だった。 
ぴちゃぴちゃ。 
湿り気に満ちた小さな音が自分の股間で聞こえるのを、<狂王>は立てた膝をがくがくとさせながら聞いた。 
「……ふふ、私の唾液は、猛毒にも神薬にも、もちろん媚薬にもなるわよ。 
 ──でも今は必要なさそうね。だって、貴女、こんなに感じているんですもの」 
唇を離した魔女は、乙女の秘唇をそっと指先でぬぐった。 
その愛撫だけで、のけぞって悶えるトレボーに、その白い指をつきつける。 
「……あ…」 
魔女の整った指先に、あきらかに唾液ではない粘液の存在を認めて、乙女は羞恥に震えた。 
「ふふふ、処女の癖に、感じやすいこと」 
「…そ、そんな、こと……ない」 
金髪の女君主は消え入りそうな声で反論したが、当然のごとく魔女は無視した。 
「いやらしい娘。──そんなに良いのかしら?」 
「──」 
乙女としては答えられない質問に、トレボーはうつむいて視線をそらす。 
しかし、意地悪な宿敵は、追い討ちの機会を逃さない。 
「あら、良くないの? ──じゃあ、もうお仕舞いにしましょうね」 
「──!!」 
苦痛に耐える精神力を持つ者も、快楽の消失には耐えられない。 
金髪の乙女は大きく動揺した。 
「……あ…」 
「良くないんでしょ?」 
「……い、いいえ。……ぃぃ…です」 
「聞こえないわ」 
「──い、良いですっ……」 
「──続けて欲しい?」 
「つ……、続けてくださいっ!」 
泣き出しそうな表情で、乙女が告白した。 
魔女の笑みが濃くなった。 
再び処女の性器に唇を寄せる。 
再度の口付けは、最初のものよりも強烈な刺激を伴っていた。 
トレボーのすすり泣く声が、迷宮に甘く溶けた。 
「ほら、もう、こんなにとろとろ。──そろそろ止めを刺してあげるわ。こちらの穴でね」 
魔女は処女の蜜液を、女性器の下にある小さなつぼみになすり付けた。 
「ひっ! ──そ、そこは、ちがっ……!」 
「いいのよ、こっちで。私は優しいから、貴方の処女は守ってあげるわよ」 
魔女の精神が本当に自分の言う通りのものかどうかは、分からない。 
しかし、その美貌に浮かぶ微笑を見た者は全て、慈愛の女神よりも、この女のほうが優しいと断言するだろう。 
若妻は、自分の唾液でたっぷりと潤った<魔女の杖>の男根を、乙女の背後の門に押し付けた。 
「い、いやっ、嫌ぁっ!」 
首をぶんぶんと振るトレボーに、しかし魔女は容赦しなかった。 
一気に貫く。乙女のかたくななつぼみは、抵抗もむなしく侵略された。 
「あ、あ、あああっ!」 
トレボーは悲鳴を上げてのけぞった。 
乙女が白い裸身をがくがくと奮わせる様は、虫の断末魔にも似ていた。だが、それはなんと美しい虫であったろうか。 
「ふふふ、ほんと可愛いわよ、トレボー」 
宿敵の肛門に差し入れた<魔女の杖>をゆっくりと前後にゆすりながら魔女がささやいた。 
白い手の動きはだんだんと激しさと淫らさを増した。 
金髪の乙女は、嵐の夜に外洋に漕ぎ出た小船のように翻弄された。 
「ほうら。そのまま、いっちゃいなさい。……そして黄泉の国にお帰り──」 
魔女が、<魔女の杖>を強く、乙女の一番奥まで突き入れた。 
「いやっ──助けて、ワードナ!!」 
トレボーが叫んだ。 
その瞬間──。 
「──!?」 
魔女は、愕然として自分の手元を見つめた。 
木製の男根が、びくびくと脈打っている。 
「そ、そんな。今のこれは、わが殿とつながっていないはず! 何故──!?」 
<魔女の杖>は、その男根のモデルとなった男の協力がなければ生命を吹き込めぬはずだった。 
魔女が蒼白になった顔を上げる前に、迷宮に闇の粒子が渦巻いた。 
トレボーの背後に人の形を取りつつ実体化した影は、この女がよく知る人物の姿を取っていた。 
「そ、そんな、そんな!──わが殿っ!?」 
妻たる自分ではなく、恋敵の側に立つ夫の姿に、魔女が悲鳴を上げた。 
その胸元に、一条の光が刺さる。 
影が突き出した<ドラゴンの爪>──トレボーの巻き毛と同じ黄金色の剣は、 
最強の魔女の心臓を、豊かな胸乳ごと正確に貫いた。 
「ワ、ワードナ……」 
あっけなく斃れた宿敵を背後の男とを交互に見つめ、トレボーが呆然とつぶやいた。 
「──」 
闇より生じた男は、声をあげなかった。 
暗緑色のローブと長い灰色の髭との間にある闇色の瞳。その視線がトレボーの心と身体を貫いた。 
<魔道王>──異形の女王が恋した、悪の大魔道士。 
その名を改めて思い出すよりもはやく、<狂王>は荒々しく蹴倒された。 
「ああっ──」 
悲鳴は、魔女の手で嬲られ、天上の快楽を与えられている時にあげたものよりも甘やかだった。 
四つん這いになった全裸の乙女を、<魔道王>は手荒く扱った。 
召喚した魔物を使い潰すがごとく、無慈悲に、冷酷に。 
腰を両手で掴み、都合のよい高さまで引き上げる。その強引さに、乙女は抗う術もなかった。 
「ひあっ!」 
いきなりねじ込まれた──しかも肛門だ。 
一切の抵抗を許さぬ陵辱に、金髪の乙女は狂乱した。 
犯される──背後から。 
再会の名乗りも、過去の言及も、愛の言葉も、何もなく。 
この男が、ただ精を吐き出す行為のはけ口、あるいは何かの魔道の儀式の一部として。 
──それが望みだった。 
<魔道王>、自分以上の異形の王の玩具となる。 
それが、史上最強の君主として生まれてしまった乙女のひそやかな、そして何よりも大きな望みだった。 
「はぁふ」 
熱くこわばった男根に貫かれて、かつての驕慢な女王、いまは<魔道王>の慰み者となった女があえいだ。 
形は寸分たがわぬものといえ、熱と脈動──生命を持った本物の男根は、まったくの別物だった。 
悪の大魔道士が前後に運動を開始した。 
金髪の乙女が声をかみ殺してその陵辱を受け入れる。 
痛みが先行してさえいる交わりなのに、 
トレボーの性器は、先ほど魔女に愛撫を受けたときと比べ物にならぬほどに熱く潤ってきていた。 
乙女の桜色の粘膜が透明な蜜液を分泌する。 
すぐにそれは、まるで成熟した女のそれのように、たっぷりと潤いを増し、石床に滴るほどになった。 
「ああ……」 
白磁の肌を羞恥の色に染めて、乙女が悶えた。 
「もう、もう──達する。きさ…あなたも、いっしょに……」 
自分の中で傲慢に暴れる男根の脈動を感じながら、半陰陽の女君主が叫んだ。 
悪の大魔道士が荒々しい腰の動きをさらに激しくする。 
登り詰める──さらに登り詰める。さらに、さらに、さらに。 
──しかし、頂に達する瞬間は来ない。 
背後の男は、乙女を責め続け、容易に天上へ連れ去ろうとはしなかった。 
「はぁあっ……そう、これで、これでいいっ──。 
 貴様とともに、永遠に続くのならば、──我はこのまま……」 
すでに快楽を通り越し、拷問のような責めとなった交わりの中で、 
苦痛に歪んでいるはずのトレボーの表情は恍惚と隣りあわせだった。 
トレボー。
驕慢な女君主、間違って地上に生まれてしまった異形の女神は、 
至福の想いの中で天に還ることよりも、永遠の地獄を選ぶ。 
その選択肢をとがめられる者は、この宇宙のどこにもいなかった。 
──ただ一人を除いて。 
「──そのまま偽りの時間をすごすか、トレボーよ」 
不意に聞きなれた、憎らしい、そして懐かしい声がかけられ、トレボーは愕然として顔を上げた。 
「……地獄から黄泉還った偽りの生を生きるうちに、偽りに慰めを求めるようになったか。 
──お前は、生前、最高の本物だけを求めた女だったはずだが」 
闇の中から今まさに現れた男は、確かに本物中の本物、最高の中の最高の魔道士だった。 
「ワ、ワードナっ……?!」 
目いっぱいに見開いた蒼い瞳が、かつて恋焦がれた男の姿を映して同様に揺らいだ。 
背後で彼女を犯している方のワードナの姿も、同じように揺らいだ。 
「然り。──ご紹介いたしますわ。このお方こそ<魔道王>、<悪の大魔道士>──すなわち、私の夫。わが殿、ワードナ様!」 
いつの間にか、新たに現れたほうのワードナの傍らに、美しく妖艶な女が立っていた。 
微笑を浮かべる魔女と、しかめ面の老魔術師を前に、トレボーはわなわなと唇を震わせた。 
「──しかし、偽者とはいえ、本当によくできていましたこと。 
私でさえ、あの剣で刺されるまで本物かと錯覚してしまったほどですもの──」 
呆然とする<狂王>の前で、魔女は豊かな乳房を押さえた。 
トレボーの白さとはまた別の色合い白さを持つ艶やかな肌は、うっすらと青い静脈が透けて見える。 
その左胸──心臓の真上には傷一つなかった。 
「──本物のわが殿の一撃なら、私とて容易に滅ぼされておりましょう。 
──戯れならばともかく、本気になった夫に敵う妻などおりませんもの」 
本当か、と言わんばかりにじろりと横目で睨むワードナの視線を、すました顔で受け流しながら、魔女は続けた。 
「でも、突き立てられた剣を見てわかりましたわ。わが殿は、この剣をお使いになっておられませんもの」 
最初に現れたワードナが魔女を突き刺した剣は、<ドラゴンの爪>。 
それはトレボーの巻き毛と同じ、美しい金色の剣だった。 
しかし、新たに現れたワードナが佩く剣は、それと別の色を持っていた。 
ロミルワの光を暗く反射するそれを見つめるトレボーが、不意に叫んだ。 
「──嘘だっ!」 
乙女の、血を吐くような甲高い声は、何度も続いた。 
「──嘘だっ! 嘘だっ!!」 
金色の巻毛が、風もないのにたなびく。 
「嘘だっ! ワードナが、ワードナが、我以外の女の側に立つなど、嘘に決まっているっ!! 
 こやつ、こやつこそが、本物のワードナだっ!!」 
白い裸体のまわりに、黒い炎のような殺気をゆらめかせてトレボーは立ち上がった。 
その後ろで、彼女を守るように立っていた男──最初のワードナが呼応するように両手を広げた。 
闇が一瞬、乙女を包み込み、すぐに晴れた。 
<狂王>は完全武装をしていた。 
漆黒の剣、漆黒の鎧、漆黒の盾。 
闇を切り取って作られたような武具は、<ダイヤモンドの騎士の装備>さえもしのぐ魔力の重圧を孕んでいた。 
「ほう──やるな。さすが儂の姿を持つだけある」 
「だまれ、偽者!!」 
トレボーが叫んで走った。漆黒の剣を掲げて。 
その横を、闇を渦巻かせながら最初に現れたほうのワードナが飛ぶ。 
魔人二人の疾駆を、後から現れたワードナは、無言で見つめていた。 
「わが殿──」 
胸元に手を当てたまま、魔女が気遣わしげに声をかける。 
トレボーと戯れたときのまま全裸の妻のほうを振り返ることなく、老人は短く答えた。 
「下がっておれ」 
「──はい」 
自分を一瞥もしない夫のつれなさに、むしろ満足気に魔女は微笑んだ。 
──いつものわが殿。 
──ならば、どんな敵にも遅れを取ることは、ない。 
自分と同じ姿を取る敵が、自分しか唱えられぬはずの呪文──魔道の粋を集めた禁呪を唱え始めるのを、 
魔女の側に立つワードナは悠然と見据えた。 
ゆっくりと、同じ呪文を唱え始める。 
術の完成は同時だった。 
闇と閃光が二手にあがり、一手があっけなく砕け散る。 
敗れたのは──最初に現れトレボーの側に立ったワードナだった。 
「ほう──。儂の術を受けても一撃では滅びぬとは」 
本物──後から現れ魔女の側に立ったワードナが感嘆の声を上げた。 
ずたずたに裂けたローブを翻した偽者が、石床を蹴って飛び掛るのを、本物のワードナは見なかった。 
その視線の先にあるのは、漆黒の武具に身を包んだ乙女。 
微動だにせぬ悪の大魔道士に、今や渦巻く闇がかろうじて人型を取っているだけの偽ワードナが襲い掛かる。 
──何も起こらなかった。 
魔法の障壁さえも張らず、傲然と立つ<魔道王>の前に立つだけで、その僭称者は一矢も報いることなく消え去った。 
──からん。 
偽ワードナが消滅した後に、乾いた音を立てて床に転がったものがある。 
<魔女の杖>でつくった男根だった。 
「──あれを媒体に、地獄の亡霊たちを集めてわが殿の人形(ひとかた)を作ったのね」 
魔女が口元を手で覆いながら声を上げた。 
この女が驚くということは、それは恐るべき魔術だったのだろう。 
それを、魔術師でない女君主が一瞬にして成し遂げたことは、執念の呼んだ一つの奇跡だった。 
しかし、その奇跡も潰える時が来る。  
最後までそれを認めぬ女が、地を蹴ってワードナに襲い掛かったのは次の瞬間だった。 
「死ね!──偽者っ!!」 
「──断る」 
<裏オーディンソード>をはるかにしのぐ魔界の剣の一撃が、むなしく空を切る。 
剣には剣を。 
ワードナが腰の剣を振るったのは、あるいはかつての宿敵への餞だったのかもしれない。 
あるいは、かつての恋人への──? 
<狂王>と<魔道王>がすれちがった。 
永遠の、一瞬の邂逅。 
湿った音をたてて地に落ちたものを、トレボーの瞳も、ワードナの眼も追わなかった。 
ワードナの剣──<西風の剣>で断ち切られたトレボーの<サックス>を。 
半陰陽の──いや、今その呼び名を失い完全な<女君主>となった<狂王>は、 
ふらふらと二、三歩歩き、その先の石床の上にぺたん、と座り込んだ。 
「……」 
三人の男女は、しばらくの間、まったく動かなかった。 
宇宙は、その間優しく時を凍りつかせていたが、やがて沈黙とともにそれを破られた。 
啜り泣きが、うつむき、座り込んだ金の髪の乙女の唇から漏れた。 
それはだんだんと大きくなり、嗚咽となった。 
背後の泣き声を聞いて、ワードナは振り向いて何かを言おうとしたが、結局何も言えなかった。 
魔界の神々をもしのぐ魔術師の王は今、ただ立っている以上のことが何もできなかった。 
──やがて 
「……我は、振られたのだな?」 
ひとしきり泣いた乙女が、うつむいたまま呟いた。 
それは質問と言うよりも、確認のことばだったが、答えは与えられなければならない。 
「……そう…だ」 
老魔術師の声がしわがれているのは、年齢のせいではないだろう。 
「……最初から、わかっていた。あるいは、黄泉還る前から」 
トレボーの声は、淡々としていた。 
「──だが、認めたくなかった。あの女の前で──」 
トレボーは、ゆっくりと視線を上げて、魔女を見つめた。 
その瞳に、狂気も怒りも、何もないことを見て取って、魔女は自分がどういう表情を浮かべるべきか判断が付きかねた。 
全知全能とすら呼べるかもしれないこの女には、珍しいことだった。 
複雑そうな表情の恋敵に、乙女の唇に、わずかな微笑が浮かぶ。 
「恋に恋する女の子──魔女よ、貴様は我の事をそう呼んだな?」 
「──ええ」 
「その通りだ。我はワードナに恋し、貴様はワードナを愛した」 
「──然り」 
「我は、我の理想とする男をワードナに見出して恋をした。あの偽の影のように、な。 
 しかし、貴様は、ワードナの丸ごとを、そのままに愛した」 
「──その通り」 
魔女は、宿敵の的確すぎる指摘に、とまどったように視線をさまよわせた。 
そして、小さく咳払いをして、ことばを付け足した。 
「恋人は、相手が何が好きなのかわかるし、それを行いたいと心を向けることができる素敵な関係。 
でも夫婦は、それに加えて相手が何が嫌いなのかわかるし、それを避けることに心を向けることができるもっと素敵な関係」 
「──ふ、わかっている。貴様が、我と対峙したときに、<ソフトーク・オールスターズ>を退散させた理由も、な」 
「……」 
「貴様、我との対決がこういう形になると予測し──他の男に自分の裸を見せまい、としたのだろう。 
──そういうことを、ワードナが嫌がると知っていたから、我らの戦いの場から引き離した」 
最強の冒険者たちは五人中四人が男だった。 
そして、どうやら、ワードナもかなり嫉妬深い性格であるようだった。 
慌てて何か言おうとした<魔道王>をじろりと睨んで黙らせ、トレボーは魔女に向かい直した。 
「我からすれば、男がそういう細かく女々しい部分を持つことは好みではない。だが、貴様にとっては──」 
「もちろん、わが殿の愛すべきところですわ。私を独占したいとのお考え──何よりも嬉しく思います」 
「我は、我の好まぬ部分のないワードナを追い求めてここまできたが、どうやらそれは間違いであったようだ」 
「まったく意に沿わぬところのない相手など、この世にいない──レディのお勉強の第二章、最初のポイントですわ」 
「そして、意に沿わぬところさえも好ましく思うのが夫婦なのだな。──貴様に言わせると」 
「──然り」 
魔女は、にっこりと笑って頷いた。 
「さすが天才を超えた天才。理解が早いですわ」 
「……ならば、我に最初から勝ち目はなかった。恋に恋するだけの娘が、真に成熟した女に勝てる道理はないからな」 
「乙女は、いつか女になります。この恋は、そこに行き着くまでの思い出のひとつ」 
「……我にも、いつか貴様が持っているような愛が手に入るのだろうか?」 
「世の中に素敵な殿方はたくさんおりますわ。素敵なレディのお勉強がだいぶ進んだ今の貴女なら、 
どの殿方も、きっとより取り見取り。──もちろん、わが殿を除いて、の話ですが」 
「──ふん」 
トレボーは鼻を鳴らした。あるいはすすりあげたのをごまかしたのかもしれない。 
「……還る」 
乙女は立ち上がった。さばさばとした表情で鎧の埃を払う。 
その背後に、いずこにか通じる暗黒の穴──魔法のゲートが現れた。 
この女を他者が強制的に成仏させるのは魔女とても至難の業だったが、 
本人がその気になれば、いつでも「還る」ことができたらしい。 
どこへ? と問おうとして、ワードナはやはり声を掛けられなかった。どうやらモンティノの魔法がかかっているらしい。 
「む。──それは……。返せ」 
沈黙するワードナが手慰みにいじくっている物──<聖なるトレボーのケツ>を見つけて、トレボーがちょっと怒った声を上げた。 
処女の亡霊としては、自分の尾てい骨をさらされるのは恥ずかしいらしい。 
乙女の紅潮した頬と、冷たい視線は、ワードナがすでに「過去の恋人」となったことを如実にあらわしていた。 
それはそれで残念、と思う気持ちが──いや、今何か背中で猛烈な殺気を感じたぞ。 
「──わが殿、お返しになられたらどうです?」 
背後でにこやかに進言する妻を振り返ることは、恐くてできなかった。何故儂の心の中を読める? 
トレボーがくすり、と笑った。 
ワードナの手から、聖遺物が本来の持ち主に渡る。 
その時、トレボーが動いた。 
最強最速の女君主の完全に不意を打った動きは、ワードナや魔女でさえも対処できなかった。 
──トレボーの唇が、ワードナのそれに重なって、離れた。 
「──!!」 
二人の、最初で最後のキス。 
あっけにとられたワードナの硬直が解ける前に、怒り狂った魔女が何か行動を起こす前に、 
トレボーは身を翻して魔法のゲートに飛び込んだ。 
「あはは、あはははは」 
かつてエセルナート全土を恐怖と不安に陥れたという哄笑は、今回に限り、とても明るかった。 
──そして、リルガミン史上最も美しい女王の初恋は完全に終わった。 
「……」 
「……」 
夫婦二人きりが残された迷宮の一角で、悪の大魔道士はここがマラーの使えぬ場所である事を、心の中で神々に対して猛烈に抗議していた。 
「……わが殿?」 
しばらくして、魔女が先に声を掛けた。 
返事をしなければならんのか? どう運んだら穏便にことが済む? 
別に儂はあのキスを受け入れたわけではなくて、完全な不意打ちだ。 
大体あの状態でどうやって、あやつの動きを察知して防ぐことが……。 
「……わが殿?」 
「……な、な、なんじゃ」 
「こっちを向いてください」 
嫌だ。振り向いたら、この宇宙で最も恐ろしいものが目に入る。 
しかし、魔法にかかったように、ゆっくりとワードナは妻のほうを向き直った。 
「……むぐぅ?」 
──<この宇宙で最も恐ろしいもの>は視界に入らなかった。 
魔女の美貌は、ワードナの老眼がはっきり認識する範囲よりもっと近くに飛び込んできたからだ。 
そして、焦点をあわせるよりも早く、ワードナは自分の唇に暖かく柔らかいものが重なったのに気付き、 
そっちに夢中になってしまったので、結局、振り向いた瞬間、魔女がどんな表情をしていたのかはわからなかった。 
魔女のキスは、情熱的で長く続いた。 
恋人とのキスと違って、唇だけでなく、舌も、歯も、吐息も、唾液も、音も、総動員の口付けだ。 
迷宮のこの一角が二人っきりであるのをいいことに、夫婦のディープキスは長々と続いた。 
やがて、ワードナの脳髄を蕩かし終え、唾液の糸をたっぷりと引きながら唇を離した魔女は、にっこりと笑った。 
「色々言いたいことはありますが、ひとまずは、これでなし、といたしましょう」 
「う、うむ」 
ワードナは心底からほっとしたが、──災難はまだ終わったわけではなかった。 
キスを終えた魔女は、愛の女神もかくや、というにこやかさを取り戻していたが、ワードナはびくびくしていた。 
妻がこういう表情を浮かべているときは、きっと何かがある。 
「──わが殿」 
ほら来た。 
「……何かおっしゃいまして?」 
「い、いや、何も言っておらん。──な、なんじゃ」 
「お願いがございます」 
「む、むう。言ってみろ」 
魔界の階層の一つや二つ征服しろ、と言われても了承せねばなるまい。というよりもそれくらいで済めば儲け物だ。 
しかし魔女は、もっと無理難題を押し付けてきた。 
「──デートいたしましょう。わが殿」 
「な、何?」 
「デート、でございますわ。最近色々ありすぎて、わが殿といちゃつく時間が少なかったような気がします。 
 ここはぜひとも、デートをいたさねば! ああ、夫婦で逢引、すばらしいことです!」 
「な、な、なな……」 
「デートは恋人だけがするものではありません。ましてや、夫婦はあらゆる男女関係の最上位にあるもの。 
 恋人同士のものよりも、もっと甘やかに、もっと濃密に。もちろん最後はたっぷりと愛し合って……」 
脳裏のどんな姿が浮かんでいるのか、魔女がぽっと頬を赤らめる。 
「な、な、なん…」 
抗議の声はまたしても上げられなかった。 
ワードナが目を白黒させているうちに、魔女はどこからか取り出した法衣を手早く身にまとった。 
もう一度にっこりと笑いかけると、そっと耳元でささやく。 
「やっぱり、デートは、待ち合わせして落ち合うところからはじめるのが王道ですわ。 
 ──私、身支度をしてから参ります。……思い出のあの場所で、お会いいたしましょう」 
一方的に言い終えた魔女は、身を翻した。 
上機嫌で駆け去っていく妻を呆然と見送ったワードナは、美しい後姿がすっかり消えてから重大なことを思い出した。 
「──あやつの言う<思い出のあの場所>……とは、一体どこのことだ?」 
魔女との約束をすっぽかしでもしたら──何が起こる? 
問いかける相手もなく、悪の大魔道士は一人闇の中で途方にくれた。