9 夜の訪れ

『ハルギスは死してまた蘇らん。去りてまた来らん、人の身に
 自ら生くる者のハルギスをおいてあらんや。
 幾たびか死して幾たびか生くる。なれこそ神のごとき者――いなや、神を否む者』

 ***

再臨のときは来たれり。乙女は訪いをよろこぶ。
「だれ」
静止した部屋の空気に染み取られるように、声は消えた。
マナヤは問いを次いだ。
「お父さま?」
違うと分かっていた。父は決して館には帰って来ない。
息が途切れた。

跪礼する騎士のように、影が少女の前にひざまづく。

「だれ」
同じ言葉を繰り返すしかなかった。なめらかに優雅に立ち上がり、
影はマナヤを抱くようにかいなを広げた。
あとずさる足がすくんで、背が壁に当たる。

冷たい手が、手首を捉えた。
間近に見上げる顔には、顔がなかった。それはただ黒い塊だった。



 10 奪う口づけ

溢れる悲鳴を塞き止めて、影が少女の唇を塞ぐ。
引きむしる指は砂を掻くように手応えなく、すり抜けて宙に迷った。
持ち上げた首と腰を取られて、少女の身体は抱き寄せられる。

舌をからめて伸びる冷たい塊が、ずるりと喉の奥へ侵し入った。

少女を抱き捕えた全身が脈うつ。ずるずると、とめどなく流れ込む。
舌の根を圧し撫でられ、喉奥が激しく痙攣した。
涙が溢れ、口の端から胃液が零れる。
その揺り返す身体の反応に乗って、塊はさらに深く奥へと飲み込まれた。

いまや黒い影の姿は萎んで、ほとんど少女の口中に消えていた。
捕え支えるもののなくなった体が、よろめいて壁に押し当たる。
蛇のような異物の尾が胸元から喉へ這い上がり、
ぴちゃりと音を立てて歯の間に潜り込んだ。



 11 喪失

それで終わりだった。あとに何も残らなかった。
差し込む月の光に映され、マナヤは呆然と壁にすがっていた。
膝が崩れて、すとんと床に座り込む。
静かだった。自分の荒い息だけを聞いていた。

あれは幻だったのか。
しかし、異質の塊が胃にわだかまり、冷たい感覚が全身に散っていくのを感じていた。
奥底から激しく込み上げてくるもの、
恐怖。
マナヤは床に伏して何度も嘔吐く。
その悲鳴は声にならぬ。少女の声は失われていた。



 12 語る悪意

崩落箇所の瓦礫撤去はまだまだだ。本格的な発掘再開など、いつになるかも分からない。
しかし地上の遺体は、半数がすでに運び出された。埋葬が始まっているだろう。
一両日中には、残る負傷者たちもアルマール市へ運ばれる。
その看護者の中に、娘の姿がないことに領主は気づいた。

すべてが急速に消耗していく。侍女たちの慌しい動きを、ぼんやりマナヤは眺めている。
身体の異変を父ウディーンに知らせることだけは、何とかおし止めた。
父に知らせてはならない。いや、誰にも知られてはならない。
ただの気疲れにすぎない。あれはただの幻、だから。
(だから…?)

言葉は死んだ。


館の一部を開放され、収容された負傷者たちもまた、奇妙に騒然とした空気に包まれていた。
いままた一人の男が立ち上がり、周囲に語りかけている。
「この災害も元をただせば、ひとりウディーンの酔狂のためだ。
 われら族民が辛酸を舐めるのは、いつも領主一族のためではないか。
 娘の高慢な顔つきを、諸君らは見たか」