5 歴史の闇
『ハルギスよ汝の辿りし道を、かつて行く者は多し、しかして帰る者はなし。
七つの門に閉ざされた、光なき道を汝はゆく。
黒き術もて死界の秘密を盗み取り、速き知恵もて冥府の主を欺きたり。
かくて賢者は永生を得たり。おそるべきハルギスよ』
***
「でも、ハルギスという王は実在したのでしょう」
少女が問い返す。学者は首を捻り、席を立って、文献の広がるテーブルの前を行き来した。
姫君に講義をしているようで、彼はどうにも落ち着かなかった。
「ハルギスは王ではありません。碑文には皇帝、と記されています。
皇帝は東洋の絶対君主の称号で、王に王たる神君の意、
この名がみだりに用いられることはありえません。
皇帝を名乗るほど強大な国家が、この荒漠なアルマール領にあったとは誰も知りませんし、
その記録もない。ハルギスなる名も知られていない。
ここアルマールのみならず、周辺地域の文献にも見当たらない。それが謎です」
「実在はしなかった?」
「それにしてはあの遺跡の規模は異常です。あれが本当に廟だとすると。
確かにかつて、絶大な権力を持った何者かがいた、それはハルギスという名だった、
彼は何者だったのか…それが分からない」
「誰も知らない皇帝。遠い時代の?」
夢をみる少女の口調に、学者はかすかに笑う。
6 生者の埋葬
「精密な年代測定が必要ですが、建築様式や文字の形態を見るに、
さほど古いものとも見えません。せいぜいが二、三千年前。
その程度の時隔で、まして文字があるのに、
皇帝と帝国の記憶が現代に全くない、というのは不自然です」
不自然という学者の表現に、少女はすこし不安になった。
崩壊の日からずっと続いている、不快な違和感。
「考えられるのは、わざと記録されなかった、あるいは記録が抹消されたということです。
意図的に、そして大規模に隠蔽されたのだ…と思います」
「隠された? なぜ?」
眼鏡を置いて見つめる。少女の美しい瞳に、学者は胸をつかれる。
「それは。その理由こそ分かりません。しかし…。
王統の廃滅や思想の弾圧なら、史上にいくらでもありうる。
しかし、これほど徹底的に一国の存在が葬られた例はありません。
そうさせるだけの感情を、私は他に知らない」
学者は、少女の感情を言い当てた。
「恐怖です」
7 自動死体
領主ウディーンは、案内に従って天幕に入った。
案内の男は医師だといった。領主に示す。
「ご覧ください」
「…なんだ?」
それは動いていた。肉色の塊から、腕が突き出していた。
それが人間の体だと気づくのに間があった。それほど損壊した肉体だった。
「こんな状態で、生きているのか?」
「いいえ。この男は死んでいます」
領主は医師の顔を見返した。
虚空に指を掻き、男は半分の身を起こそうともがいている。
「身体の半分以上が失われていますし、心臓もありません。
目は開いていますが、眼球の反応もありません。脳も機能していないのです」
「それでも、動いている」
生きているように、見える。
筋肉の痙攣などには見えない。戦士ウディーンは、数え切れない死者を見てきた。
肉体がどれだけ損傷すれば人間が死ぬかは分かる。この男は、死んでいるべきだった。
動く死体は、破れた肺から唸りをあげて息を吐いた。
このような異常な現象は経験がない。しかし思い当たる節は、なくはなかった。
「妖異の術か」
「ご領主、ウディーン様、この場所は一体なんなのです?」
答えず、首を振って、領主は天幕を出ていった。悄然と医師が後を追った。
喉から空気を吐きながら、死体が呟き続ける。
「…る…ぎ…す…」
8 来臨
マナヤは目覚めた。
なにか夢を見ていたよう。不安な鼓動が胸に残って、胸元に汗を感じた。
体を起こし、笑顔を作ってみる。
紗のカーテンをのけ、少女は素足のままベッドを降りた。
薄い夜着に肌が透ける。窓から差す、月の光が恋しかった。
両手を広げて、つまさきで歩く。
子供のころ、こんな遊びがあった。今だって子供じゃない?
まっすぐの線を外れないよう、危ういバランスを取って、それが崩れて、
マナヤはふっと息をつく。
どうして時間は過ぎてしまうのだろう。
砂漠は変わらないのに。
変わらない砂の下に埋もれて、何も思わず、いつまでも眠っていたい。
月光の下に、黒い影が落ちた。
マナヤは凍りついた。
影はするすると伸びて人のかたちとなり、ゆらりと立ち上がった。
窓の月を背に、影は少女に手を伸べる。夢と現実が繋がって、少女を絶望させた。
再臨のときは来たれり。