<TO MAKE THE LAST BATTLE3〜地下2階・前編>

「くっ、こいつ──」
何度も渾身の一撃を与えているのに一向に倒れる気配がない敵に、戦士が苛立ちの声を上げる。
「ジンス、一度下がれ!」
雷電の指令に、大男がステップバックをする。
その空間を、強烈な一撃が薙いだ。一瞬の判断を誤れば致命的な一撃を食らっていたところだ。
「マイティオーク、これほど手ごわいとは……!」
パーティーの人数が足りないため、前列の三人目を受け持っているスティルガーが驚嘆の声を上げる。
司教の彼は、直接戦闘に参加せず、魔法の援護と防御に専念している。
この樫の木の化物と打撃戦になったら、一瞬で殺されることは目に見えていた。
白兵戦のプロである二人でさえ、この巨大な怪物相手では、攻撃を食らわないことで精一杯だ。
たまのチャンスに攻撃を入れても、人間の数百倍の生命力を持つマイティオークには痛くもかゆくもないだろう。
<災厄の中心>の迷宮で、単純な体力だけならば地獄の魔神よりも強い、といわれた化物だ。
「下がって! ──策がある!」
意を決したようにスティルガーが叫んだ。大きさ1フィート半もある古びた本がその手にあった。
「マバディ!」
司教の声と同時に、薄暗い影がマイティオークを包み込む。──樫の木の巨体が急に萎れたようになった。
「効いた! 今なら斃せる!」
スティルガーの指示が飛ぶより早く、雷電が飛び込んだ。細身の曲刀の一閃で、巨大な木の怪物は音を立てて崩れ落ちた。
「……すごいな、その法術」
ジンスが驚きの表情でスティルガーを見る。
「マバディ、相手の生命力のほとんどを吸い取ってしまう呪文だよ。僕はまだ習得していないけど、
 この<死者の書>……、あ、違う、<死の本>にはその魔力がこめられている……いや、いた……」
過去形で言い直した司教は、悲しげに手に持った本──の残骸を見つめた。
使用すると三分の一の確率で魔力を失う<死の本>は、今の使用でまさにガラクタに変わってしまったのだ。
金貨五万枚で取引されるという高価な品も、資産数百万ゴールドのスティルガーにとっては本来惜しいものではない。
だが、それは地上での場合だ。迷宮の中で強力な魔品を失うことほど、大きな痛手はない。
特に、こんな強敵がうろつく迷宮では。

「これほどの魔物がいるとは、正直予想外だった」
スティルガーは唇を噛んだ。
世界の破滅の日でも取引をとめることはないというボルタック商店は市内の混乱とも無縁だった。
迷宮に入る前にそこに立ちより、運べる限界まで魔品を買い込んできたという、裕福で賢明な司教のおかげで、
先ほどの戦闘のように、本来のパーティーの実力以上の敵を撃破してきた四人だが、そうした魔品も尽きてきた。
そして──。
「いい知らせと、悪い知らせとがあるよ」
憂鬱そうな表情で偵察から戻ってきたダジャが報告した。
「いい知らせは?」
「この先の小部屋ゾーンに、トレボー軍の拠点があるわ。そこに誘拐された人が全員囚われているようね」
「おお!」雷電とジンスが声を上げた。
「悪い知らせは?」
「<バラの貴婦人>はそこに全員終結しているわ。トレボー王は出陣したらしくて<ソフトーク・オールスターズ>も不在。
 他の連中はろくなのが残っていないわ。でも、逆にそのせいで<貴婦人>が残っているようね」
「本拠地の防御司令官というわけか」
スティルガーは腕を組んだ。
ちらりと雷電を伺う。
女忍者をさらわれた侍の決意は揺るがない。──女魔術師をさらわれた戦士の決意も、だ。
「やってみる──しかないな。ダジャ、配置は分かるかい?」
「スティルガー……」
女盗賊は相棒──今は夫に抗議が入り混じった声を上げた。
危険すぎる。四人がかりでも<貴婦人>にはまったく歯が立たないのははじめから分かっていたことだ。
司教の立てた戦略も、<貴婦人>とは戦わずに、アイリアンとオーレリアスを奪還するというものだったはずだ。
「まずは考えて見なければ、始まらないだろう。それに……」
司教は腕を組んだ。言うべきか、言わざるべきか、迷っている風だ。
「それに?」
「何かが、僕たちを後押ししてくれている感じがする。──君らは感じないか?」
「ああ、お前もそれに気がついていたか」
雷電が即答した。ジンスとダジャは顔を見合わせた。この二人は鈍いらしい。
「背後で何度か戦闘の気配があった。巧妙に隠してあったが、トレボーの召喚した魔物の死体をみた。
──おそらくは、先ほどのマイティオークと同じか、もっと手ごわい奴だ」
「まさか──誰が?」
「きっとトレボーとその配下が気に食わない奴らだろうね。連中にも色々あるんだろう。
 反逆した<ソフトーク・オールスターズ>に先んじて市立博物館からハースニールを盗んだ奴もいる。
 そもそも、トレボーは、<魔道王ワードナ>という敵がいる」
「ワ、ワードナまでもここに来ているのか!?」
ジンスが「御伽噺の中の大魔術師」の名に、息を飲み込んで聞き返した。
「それはわからないが、ワードナか、それに近い存在がこのあたりをうろついているのは確かだ」
夫の返答に、ダジャは片眉をあげて夫を睨んだ。
「……でも、そいつらが私たちの味方とは限らないじゃないの」
「──だね。そいつらの目的か何かは分からない。案外面白がってやっているだけかもしれない。あてにはできない」
「……でも少なくともトレボーの敵と言うことにはちがいない。不利にはならない不確定要素というところ?」
ダジャは考え考え言った。ためらいがちに見つめてくる妻の視線に、スティルガーが頷く。
「まあ、どちらにせよ、僕たちは引けない──いや、引かない」
女盗賊が一瞬息を呑み、にっこり笑って頷いた。
「あなたも? ──私もそう思っていたわ」
「気が合うね、さすが夫婦だ」
太っちょの司教は笑顔を浮かべた。
「戦略は、結局一つだ。<貴婦人>たちをおびき寄せ、隙を突いて二人を奪還する」
「見えない<敵の敵>が都合よく動いてくれるといいんだけど」
背後の闇を見つめながらダジャが呟く。
雷電とジンスは、無言で正面の闇を見つめている。
しばらくして、司教が立ち上がった。
「作戦が決まったよ──運を天に任せよう」



「侵入者……?」
カディジャール婦人は視線を机から上げた。
「そのようですね」
ワンダ公爵婦人が頷いて立ち上がった。他の四人も同様だ。
部屋に駆け込んできた伝令は、すでに<貴婦人>が戦闘準備を整えているのにびっくりしたが、すぐに悲鳴のような声で報告した。
「しゅ、襲撃です。倉庫から火の手が!」
「取り乱すな、馬鹿者。──敵は何者か?」
クネグナンダが叱咤し、若い戦士ははっとしたように我に還った。
「──人数は不明です。しかし、戦士と侍が一人ずつ斬り込んできています。それと──」
遠くで大きな音がした。何かの魔法だろう。
「しょ、正体不明の魔物が二匹!!」
「魔物!?」
<バラの貴婦人>たちは顔を見合わせた。
トレボー王が地獄からの帰還の際に呼び出した魔物たちは、当然、彼女たちの味方だ。
その多くはこの拠点の周りをうろつかせているが、それ以外のものが現れたとは。
「あの化物たちを突破してきたのか。その戦士と侍、それに新手の魔物。あなどれんな」
「もしや、ワードナが……」
貴婦人たちは、彼らの主君が唯一警戒する<魔道王>の名を口にした。
たしかにあの悪の大魔術師ならば、地獄から呼び出した最強レベルの魔物にも対抗する存在を召喚できるだろう。
「──相手が何者かはわからぬが、これは陽動だ。目的は、……人質の奪還」
カディジャール婦人が断言した。
他の五人がはっとしたように顔を見合わせる。たしかに<狂王>不在のこの拠点への強襲の目的は、それしか考えられない。
敵の脅威や正体に目を奪われず、その目的を察知して防ぐのが現在の使命だ。
「ダイアナ、クネグナンダ、アンバーは応戦に出なさい。他の二人は私とともに、牢屋へ!」
カディジャール婦人の采配は完璧だった。
──ぱっと散った女ロードたちの最後の一人は、部屋から出る前に立ちすくむ伝令ににっこりと笑いかけた。
「緊張した? ──すぐに慣れるわよ。あなたなら大丈夫、見所あるもの。
──もし良かったら、戦闘が終わった後で私の部屋に来なさい。色々仕込んであげる」
マーラ伯爵婦人は情夫に優しいことで知られているが、六人の中で実は最も手が早いことは、あまり知られていない。



「素直に飛び込んできたな! ──おかげで助かるが」
暴れまわる魔物を横目に、雷電が苦笑混じりの声を上げた。
彼らの突撃と同時に出現した二匹の魔物は、まるでパーティーの一員のようにぴったりとタイミングを合わせて戦っていた。
「スフィンクス──ピラミッドの守護者だ」
スティルガーが驚嘆の声を上げる。
賢者も及ばぬ知性と、強力な魔力、そして圧倒的な体力。人面と翼を持つ獅子。迷宮最下層級の魔物だ。
閃光を伴う爆風と、古代の神の激怒が、荒れ狂う奔流となってトレボー軍の兵士と魔物たちをなぎ払う。
ティルトウェイトとマリクト──魔術師と僧侶の最高攻撃呪文。
「スフィンクスの雄は最高級の魔術師、雌は最高級の僧侶だと言われるけど、本当だったんだ!」
司教は興奮した声を上げた。
「──だが、ここまでよ!」
爆風の中から声がした。
スフィンクスの片割れが飛び下がる。その肩口が斜めに切り裂かれて、大量の血が飛び散った。
「不意を打った私の一撃を、避けるか」
深手を与えた事を誇るよりも、一撃で切り殺せなかった事を悔いるのは、最強のロードならではのセリフだった。
ダイアナ公爵婦人は、焔と煙が晴れた中でその美しいたたずまいを崩さずに剣を構えなおした。
その左右に立つ二人の女も同様に、おそろいの<オーディンソード>を抜き放つ。
「<バラの貴婦人>──」
雷電が低い声で敵の名を呟いた。
「……三人か。陽動作戦は読まれていたな」
スティルガーが悔しそうな声を上げた。
「みたいね。──冷静ならば、それしか考えられないけど、こいつらの襲撃を前にしてその判断ができるとはさすがね」
いつの間にか戻ってきたダジャが司教の横に並びながら緊張した声を上げた。
当初の予定では、前衛の二人が切り込む間に彼女が牢屋を破る予定だったが、鉄壁の陣形を敷きなおした
<バラの貴婦人>のフォーメーションに、アタックを仕掛けることができず戻ってきたのだ。
「正面衝突か、……分が悪いな」
二体のスフィンクスを味方に付けてさえ、三人の女ロードは手に余る強敵だった。

古代語の声があがった。
スフィンクスの片方が、傷を負った相方にマディを掛けたのだ。
治癒の術をかけたほうが、ふさがった傷跡をなぞるように舐め上げる。
──寄り添う二匹の魔物の姿は、単に仲間と言う間柄とは思えない。
スフィンクスは雌雄一対で行動する。この二匹はつがいなのだ。
「ごめん。──巻き込んでしまった」
スティルガーは慙愧の思いがこもった声を上げた。その顔は、うつむいている。
ダジャがその様子を見つめる。司教は、意を決したように顔を上げた。そして、女盗賊も。
「……雷電、ジンス。──行け! こいつらは、僕たちが食い止める」
「……そう、ここはあたしらに任せて行きなよ!」
「──なっ!?」
大男の戦士が呆然とした声を上げた。
全員でかかっても危ない相手に、どうして司教と盗賊の二人だけで持ちこたえられるだろうか。
しかし、スティルガーは行動を始めていた。
複雑な印を結び、手を振りかざす。見たこともない術だ。
「結界を張った! 少しだけなら、この呪文で持ちこたえられる!」
不可視の壁が、絶妙のタイミングで場を分割した。
一瞬、<バラの貴婦人>たちは奥への通路から遮断され、雷電とジンスの位置が奥への通路と繋がる。
──雷電は小さく頷いた。
「……感謝する。──見知らぬ人よ」
ジンスがあっけに取られた。
「雷電、何を言っているんだ?」
侍は、背中越しに戦士の疑問に答えた。
「本物のダジャは妊娠中だ。スティルガーは、身重の妻を戦いに連れてくるような男ではない」
「……ありゃ、最初からばればれだったようですね。あなた方の記憶からうまく再現してみたつもりでしたが」
偽ダジャが頭をかいた。声は女盗賊のままだが、口調がまるで別人だ。
「いや、確信したのは、突撃前のやりとりからだ。蘇生の術を掛けてもらった時に、なんとなく違和感はあったがな」
雷電は微笑した。
「ならば、ここは任せてもらいましょうか。こちらの心配は不要なことは分かりますね?」
「ああ、貴公らがスフィンクスを操っていたのも、な。ならば、俺たちが心配するのもおこがましい」
「どういたしまして」女盗賊はにっこり笑った。
「──ばれたついでにお土産です。これを持ってお行きなさい。そちらも──勝ち目は十分あります」
偽ダジャが腕を振った。どこから取り出したのか、細身の曲刀がその手から飛び、雷電の手に移った。
「これは! 重ね重ね、かたじけない!」
「──そなたはこれを持って行くが良い」
偽スティルガーがジンスに言った。こちらは―途中から声さえも変わっている。なまめかしい女の声だ。
投げつけたのは、両手持ちの大剣だ。どういう投げ方をしたのか、柄がすっぽりとジンスの手に収まる。
「こ、こいつは……!?」
「結界が切れる、早く行きや!」
侍と戦士は頷いた。全速で走るために今まで使っていた剣を外して、駆け出す。
<貴婦人>たちは追おうとしたが、消える寸前の結界に阻まれてたたらを踏むうちに、追撃のタイミングを逸した。
二人の男が走り去った戦場に残ったのは、三人の女ロードと、女盗賊と司教──の偽者。

「……結果的には妊娠云々でばれましたが、──それ以前に、男と女が逆では、やはり無理がありましたよ」
偽ダジャが若い男の声で言った。
「──むう。かと言って、わらわが盗賊役で、そなたが司教役ではごまかしも利くまい」
偽スティルガーは女の声で答えた。
「姉上が魔法と法術を使うのはともかく、私が盗賊と言うのも無理がありますねえ」
「どちらにせよ、あの侍の目をごまかすことはできなかっただろう。だったら好きなほうに化けるのが得という物だ」
「姉上はその、「ふくふくした衣装」に興味があったようで」
「それに、そなたの女装も久々に見たかったものでな」
「……姉上は、よくそうやって私をいじめたものです」
「あれは、姉弟の仲良い遊びと言うものじゃ。それに、そなたもまんざらでもなかったはず。特に私の下着の着用を許したときなどは」
「そ、それは……その…」
ダジャとスティルガー、いやそれに「化けて」いる者たちは、最強クラスのロードたちに取り囲まれても平然と無駄話に興じていた。
「……お前たち──何者だ?」
公爵夫人が苛立ちの声を上げた。
「さて? 正義の味方とでも言っておくかの」
偽スティルガーはこともなげに言い放った。
「なっ……!」
人を食った回答に、クネグナンダ公爵婦人が顔をゆがめる。
「──トレボー陛下の敵が、正義を名乗るか」
ダイアナ公爵婦人が冷静な声で問うた。返事は──嘲笑だった。
「そんなことはどうでもよい。あの魔女の敵と言うことは、そなたたちが悪者ということじゃ。
わらわの可愛いスフィンクスにも傷を負わせてくれたことだしな。許せん奴ばらじゃ」
単純明快、かつ傲慢極まりない決め付けに、一瞬、女ロードたちは顔を見合わせた。
「まあ、それはそれとして、仮装もそろそろ終わりにするか」
偽スティルガーは司教衣の袖を振るった。白い布が<貴婦人>たちの視界をさえぎり、闇に溶けた。
「──!!」
今まで偽司教と偽女盗賊の立っていた位置に、高貴な男女が並んでいた。
黒髪と小麦色の肌を異国の装束に包んだその姿は、<バラの貴婦人>が気圧されるほどの威厳と美しさに満ちている。
麻でできた純白の衣は、袖の縁取り以外の飾り気が無いシンプルなものであったが、豪奢なドレスよりも眼を引く。
たとえ、頭や首にきらめく黄金の装身具がなくとも、この二人が貴族──あるいはそれ以上の存在であることは疑いなかった。
「何者だ!?」
「そなた達ごときに名乗る名は、ない」
女──ネフェル王妃は驕慢に言い切った。
「さきほどの勇敢な戦士二人にならば、敬意を表して名乗ってもよかったが、な」
男──ラムセス大帝が静かに言葉を続けた。
二人の美しい貴人が、自分たち三人を見下していることに気づき、<貴婦人>たちは美貌に怒気をのぼらせた。
「われらを愚弄するか!」
三人の中で最も気が短いクネグナンダ公爵婦人が叫んだが、異国の女王とその夫は、地を這う虫を見るような視線を返しただけだった。
貴族は、自分に対して向けられる視線──尊敬と軽蔑に対する感覚が鋭い。
女ロードたちは卒倒せんばかりに怒り狂った。
柳眉を逆立てる、とは美女の怒りの様を言う。
美しい女は、怒ってさえも人目を奪うほどに美しいのだ。
しかし、三人の貴婦人が眉を吊り上げ、肩を震わせる姿を見ても、今それに注目するものは居ないだろう。
ネフェル王妃が眉をしかめたからだ。
古来、憂い顔の美女はさらに魅力を増し、醜女すらそれを真似たという。
美しさに眼を惹かれる者の瞳は、より美しいものに吸い寄せられる。
この場に百万人の観客がいたとしたら、その全てが古代の女王のほうに目を向けただろう。
「嫌な匂いがする──」
場の中心を独占するその美女がつぶやいた。
「そなた達は、三人とも複数のおのこの精汁の匂いで満ち溢れておる。脂の乗り具合からして、三人とも既婚者と見た。
 ──わらわの大嫌いな不倫の汚臭がぷんぷんするわえ、──汚らわしい」
数千年を閲してなお、夫への愛情のみに生きる女王にとって、背徳の快楽は唾棄の対象に他ならないのだろう。
「私たちの夫はとっくに死んでいるわ──私たちが殺した」
「ますます汚らわしい、──この下衆めが」
貴婦人の反論に、ネフェル王妃は心底軽蔑しきった表情になった。
「……下衆、下衆と言うか、我ら<バラの貴婦人>を……! こ、この下賎の女がっ!!」
クネグナンダが激情に肩を震わせた。
その震えが止まった。
空気がぴぃん、と張り詰め、凍り付いていた。
「──下賎と言ったか、我が妻を?」
その声は、むしろ水のように静かだった。
「──下賎と言ったか、我が姉上を?」
再度の声は、さらに静かだった。
今まで太陽のような王妃の陰に、月のごとく寄り添っていた男が、ゆっくりと歩を進めていた。
ネフェル王妃が、ごく自然な動作で夫に場所を譲る。太陽が月に、月が太陽になった。
古代のどんな王よりも偉大で無慈悲で強力だった征服者──ラムセス大帝は、仮面のように無表情な美貌を三人の無礼者に向けた。
「その一言、償わせなければなるまいな」
<貴婦人>たちは自分たちの死刑宣告を遠いところで聞いたような気がした。
「何を、寝ぼけた事を……」
クネグナンダ公爵婦人は嘲笑を浮かべようとしたが、しかし、それは失敗した。
身体が震えている。先刻までの怒りの震えではなかった。
──恐怖だ。リルガミン屈指の女ロード三人が、この男一人の存在におびえている。
しかし三人は、<バラの貴婦人>だった。剣を構えなおすと、震えはぴたりと止まった。
三本のオーディンソードから研ぎ澄まされた殺気が放たれる。
常人ならば、それだけで立っていられぬほどの濃密な気の中心にあって、古代の王は平然と歩き出した。
「良いものがあった」
今にも飛び掛らんとする剣客三人を全く気にすることなく、その間合いの中で若者は身をかがめた。
カタナとブロードソード──自分達の贈った剣の代わりに雷電とジンスが置いていったものだ。
拾い上げて両手に持つ。
笑顔がこぼれた。<貴婦人>でさえも一瞬心を奪われるほどに美しく、爽やかで、男の魅力に満ち溢れた笑顔だった。
「いい剣だ。──久々に良き戦士たちの魂に触れた」
女ロードたちが頭を振った。動揺した自分を叱咤するように、挑発の言葉を投げかける。
「そんな汚い剣、魔力もこめられていないものを──!」
「しかも、持ち主がやすやすと捨てて行ったものを乞食のごとく拾うとは!」
「まさか、その剣でわれらと斬り結ぼうというのではなかろうな!?」
闇を照らすロミルワの光の中で、オーディンソードの汚れなき刀身が誇らしげに煌いた。
──その光が翳った。
若者が手にした剣を振ったのだ。右手に持った刀と、左手に持った剣を一回ずつ。
それだけで、北風すさぶ地の最高神の名を冠した聖剣が、輝きを失った。
「汚いと言ったか、この剣を。確かにお前たちの剣は綺麗なものだな。
オーディンソード、……我はその最初の一振りを知っている。
後の世に魔道士と剣匠たちがヴァルキリー達のために数打ったものではないぞ。
八本足の戦馬に乗った片目の老人が腰に佩いていたものだ。
……その最後の一振りも知っている。
<災厄の中心>で魔女ソーンを討った剣士が愛用していたものだ。
──そのどちらも、柄は汚れて、刀身は刃こぼれしていた。
一日も欠けることなき修練と戦いと手入れを繰り返せば、そうなる。──この刀と剣のように」
若者の声が続いた。
「……やすやすと捨てて行った、と笑ったな。
これほどまでに使い込んだ愛剣を置いていくことに、心を痛めぬ剣士が居ようか?
──居るならば、それはお前達のごとき似非剣士だけだ。
彼らがこれを置いていったのは、われらが贈り物を受けたから、不要になったから、ではないぞ。
命を捨ててまで取り戻さねばならぬもののために、自分の半身をも置いていったのだ」
妖々とつむがれる言葉は、高く、あるいは低く迷宮に木霊した。
<貴婦人>たちは呆然とそれを耳にした。桁違いの実力と経験を持つ師の教えに聞き入る未熟な生徒の如く。

「──そして、この剣でお前たちと斬り結ぶか、と問うたな?」
異国の王は、両手の剣を持ち上げた。
それに呼応して、というより、魅入られたように三人がオーディンソードを構える。
「斬り結びはせん……一合たりとも、な」
その瞬間、女ロードたちは若者に飛び掛った。
刃を交える金属音は──鳴らなかった。風のような、光のような斬り込みは、全てむなしく空を切った。

──クネグナンダ公爵婦人は、自分の胸元を見た。
銀の鎧が裂かれている。斬られた感触も、音もなかったのに。
鎧がずれ、鎖帷子が落ち、肌着が下がるのを公爵婦人は呆然と見つめていた。
白い、大きな、熟れきった乳房が血を吹いて滑り落ちていくさまも。
どのような斬り方をしたのか、その奥にある心臓も見事に両断されていることを悟る前に、クネグナンダは絶命した。

──アンバー伯爵婦人は、衝撃を受けた次の瞬間に奇妙なものを目にした。
見慣れた肢体が、よろめくように歩いている。
首なしのそれが、鏡でよく見る自分のものだと気付く前に、伯爵婦人は、床の上に転がる生首として息絶えた。

──ダイアナ公爵婦人は、目の前の全てが若者の手によって切り裂かれたのを見た。
この男は世界すら切り裂くのか。急速に左右がずれていく視界に婦人は戦慄したが、
それが、自分が額から股間まで一瞬にして両断されているためであった、と知る前に、彼女は床に崩れ落ちた。

「一合たりとも切り結ばぬ、と言ったろう。……お前たちの剣は、この剣と刃を合わせる価値を持たぬ」
ラムセス大帝、史上最強の戦士は、斬り捨てた相手を見下ろして冷たく言い放った。

「──無礼者にはふさわしい罰を与えましたぞ、姉上」
ラムセスは振り向きながら最愛の人に声を掛けた。
駆け込むようにして、その首っ玉にかじりついた者がいる。
「うわわっ!?」
リルガミン屈指の剣客を虫けらのように斬り伏せた魔人は、同一人物とは思えぬ声を上げて反射的に抱きとめた。
その唇に、柔らかく熱いものが重ねられた。──ネフェル王妃の唇だった。
「……か……か……」
「か?」
「か、格好良かったぞえ! さすがわらわのラムセスじゃ、惚れ直したわ!!」
がくがくと肩をゆすぶるのと、首に手を回して抱擁するのとを交互に繰り返しながら、王妃は夫に熱烈なキスを与え続けた。
不意打ちに目を白黒とさせていたラムセス王も、唇を重ねるたびに、情熱的に応じはじめる。
「そなたの啖呵に胸がすっとしたわ。わらわの言いたいことを、よくぞわらわ以上に申してくれた。
 やはり戦士のことは、戦士に、ということじゃな。──それに、やはり、そなたはいい男じゃ」
傍若無人な<貴婦人>には心底腹が立っていたらしい。
ラムセスの言葉と、その後の神業は、たしかに賞賛に値するものだった。
「──照れますね」
王妃の年下の夫は、頬を染めながら頭をかいた。すっかり気弱な若者の雰囲気に戻っている。
「なんの、夫婦で照れることもあるまい。──妻を何千万回も惚れ直させる夫は、もっと大威張りでよいのじゃ」
姉が、弟の下半身に手を伸ばす。
「ほれ、ここも大威張りでよいのだぞ」
王妃に触れられて、ラムセスの男性器はたちまち硬度を増した。
地面に対して垂直、下腹に張り付くような角度は若者の特権だった。
「おお、逞しいこと──」
ネフェル王妃は、夫の反応に心底嬉しそうな表情になった。
「わらわも、蕩けておるぞえ」
弟の手を取って、自分の秘所に導く。
王妃のそこは、すでにたっぷりと潤っていた。


「姉上──」
「来や──」
いきり立ったラムセスはネフェル王妃を抱き寄せた。
細身だが戦車も片腕で止めてみせた古代の王は、楽々と妻の身体を持ち上げた。
立ったままで交わり始める。湿った音と女のあえぎ声が重なった。
「ああ──硬い、大きい、それに熱いぞえ、ラムセス」
王妃はあからさまな表現で夫を褒め称えた。
古代の王は、何度も妻を突き上げ、王妃は嬌声を上げた。
ラムセス王が果てるのは早かったが、それは王妃の絶頂とぴったりとタイミングが合っていた。
「おお、たっぷりと出したこと。わらわの中に収めきれなんだわ」
弟が男根を抜いた際に、秘所からどろりとした精液が流れ落ちるのを見て、姉は艶っぽい笑いを浮かべた。
「姉上が、あまりに良すぎるからです」
ラムセスが妻を褒め称える。
「そんな事を申しても何も出ぬぞ。──出すのはそなたのほうじゃ。まだできるであろう?」
「もちろん──喜んで」
王妃は床に這った。獣の姿勢で臀を高く上げ、夫に征服されるのを待った。
三人の<貴婦人>の死体で血臭に満ちているはずの通路は、王妃のその姿を取っただけで淫靡な匂いでむせ返るようだった。

「──」
主人たちを守るように立っていたスフィンクスが、声にならないうめき声を上げた。
「おお、すっかり忘れておったわ。──お前たちもつがいで楽しむかえ?」
お気に入りの魔獣があげた返事のうなり声を聞いて、ネフェル王妃はやさしく笑った。
「よいぞ。そなたらも、まぐわえ──」
許可の言葉を聞くやいなや、雄のスフィンクスが雌に飛び掛った。
主人夫婦の性交を目の当たりにして、魔獣のつがいも、興奮しきっていた。
まさしく獣の体位で交わり始めた護衛の痴態に、主人たちも情欲を新たにした。
「ラムセスや、わらわたちもあのように──」
「心得ました」
迷宮に、男女雄雌四体の嬌声が満ちた。