<地下5階>

そこは光と闇が交互に続く世界だった。
地下にこれほどのものが、と思うほどの広大な空間が、無数の暗闇地帯で区切られている。
(ダークゾーン、か)―ワードナは髭をしごいた。感慨深いものがある。
はるか昔、彼の名を冠したこの迷宮で、暗闇のトラップは多くの冒険者たちを迷わせ、死に導いたものだった。
「いかがいたしまして?」
魔女が小首をかしげて声をかけた。
「何でもないわい。―暗闇は、魔の源。心地よい」
「然り。―わたしも大好きですわ。ダークゾーンには良い習慣がありますから」
魔女はにっこり笑って白い手を差し伸べた。
「…何じゃ、この手は?」
「暗闇の中で迷子にならないように、恋人同士は手をつなぐ―<ダークゾーンのルール>ですわ」
次の瞬間、悪の大魔術師は支離滅裂な罵声を猛然と浴びせたが、彼の妻はちっともひるまなかった。

―数分後ワードナは、この世の全てを呪いながら、片方の手に柔らかくて暖かいものを握って闇の中を歩いていた。
―<ダークゾーンのルール>には百歩譲ってやっても、「夫婦は恋人の最上位職」という魔女の主張はあまりにも理不尽だ。
しかし、魔女の手はすべすべしていて気持ちがいい。肌理細やかな肌がしっとりとこちらの手の平に吸い付いてくるようだ。
視覚が働かない状況では他の知覚が鋭敏となる。ワードナは今まで見落としていたことに幾つか気づいた。
―魔女は、柔らかくてさわり心地がいいだけでなく、いい匂いがするし、声も良い。
新しい、しかも素晴らしい発見だ―いや、そんなことはどうでもいい。
ワードナは狼狽した。ダークゾーンでお互いの顔が見えないのが不幸中の幸いだった。
「どうかいたしまして?」
「なんでもない。―そうだ、暗闇といえば貴様、<暗黒城>のことは知っておるか?」
悪の大魔術師は、突然思い出した古い伝説を持ち出して話題を変えた。
「……<暗黒城>」
魔女が暗闇の中でわずかに目を細めた。

暗黒城は、エセルナートに伝わる最古の伝承の一つだ。
世界の果て、暗闇に閉ざされた場所に、世界で最も巨きく最も強固な魔法の城があるという。
多くの王や魔術師がそれを追い求めた。
城を手に入れれば、莫大な魔宝が手に入るだけでなく、世界の王になることも可能だ。
いや、城そのものがどんな魔術よりも強力な力を持つ生きた魔宝だともいう。
「おとぎ話だ」自分で話を振ったものの、ワードナは苦笑した。
暗黒城―魔道を志す者、誰もが知ってはいるが、誰もがもはや探そうとはしない伝説の城。
「おとぎ話―。たしかにそうですね」
闇の中で魔女は答えた。
「でも、わが殿。―もし、それがこの世にあったとして、手に入れたいとお思いですか?」
「ふん、手にしても良いが、それより先にやることがある。全ては地上に出てからだ」
「そう…ですか」
魔女の返答は僅かに遅れたことにワードナは気がつかない。妻の手の感触に心を奪われていたからだ。
ほんの数瞬、魔女は何か考えていたようだが、やがて微笑し、夫に声をかけた。
「―そろそろ休憩にいたしませんこと? この先に、小さいけど居心地のいい小屋がありますの。
 ―暗黒城にはとても及びませんが、二人で泊まる分にはちょうどいい小屋ですわ」
魔女の言ったとおり、ダークゾーンを抜けた場所にぽつんと立っている小屋は、清潔で過ごしやすい場所だった。
「…よくこんな場所を知っていたな」
「私の住処はこの上の階層でしたもの。この辺りのことはとてもよく知っていますわ」魔女は小さく笑った。
生活のための設備一式……驚いたことに小さな風呂場まで備わっている小屋の中で、若妻はてきぱきと働き、
あっと言う間にすべての雑用をこなしてしまった。
一時間もしないうちに、ワードナは風呂上りのこざっぱりした格好で簡素なソファに腰掛け、夕食後のお茶をすすっていた。

魔女の家事の腕前は、掛け値なしにみごとなものだった。
今日の疲れを癒すための仕事だけでなく、すでに明日の用意までもがすべて終わり、朝一番にでも出かける準備が整っている。
魔女特製の暖かいシチューをたっぷりとかきこみ終えると、ワードナは特にやることがなくなっていた。
お茶をすすりながら、ワードナは、ぼんやりと魔女を眺める。
ロミルワの光の下で、針仕事をせっせとすすめている妻は、はじめて見る女のように興味深い。
軽やかに動く白い指が、肌着のほころびを瞬く間につくろっていく。
リルガミンのどんな針子もこの女の前では顔色を失うだろう。
―あの指は、しなやかで、しっとりしていて、なめらかだ。
闇の中で手をつないだときの感触が鮮やかに思い出される。
魔女が、法衣を脱いで袖の短い部屋着姿になっているのも、ワードナの関心を誘った。
白いうなじ、柔らかそうな二の腕、風呂上りの乾ききらない髪、ふくらはぎ、ほっそりとしたウエスト。
―今まで魔女の乳や尻、あるいはその美貌だけにしか目が行っていなかったのは、あまりにももったいない間違いだった。
視線を動かすたび、目をひきつけてやまない物が見えるので、ワードナは何秒かおきに目玉をぐるぐる動かす眼球の運動を続ける羽目になった。
「―?」
挙動不審の夫に気づいて、魔女がありえない失敗を犯した。
手元から注意がそれた瞬間、持っていた針を指に刺してしまったのだ。
確立から言えばウォーターエレメンタルが川で溺れるくらいのミス。
「あ、痛っ…」
―その小さな声が引き金になってワードナの中で均衡が破れた。
ワードナは突然立ち上がって妻に近づいた。手を伸ばして魔女の手首をつかむ。有無を言わせず白い手を引き寄せ、指先を口に入れた。
「―あ」
一滴分だけ、わずかに血の味がしたが、すぐにそれは消えた。
魔女の指先を熱心に吸いながら、悪の大魔術師はもう片方の腕ものばした。妻の腰にまわして引き寄せる。
次の瞬間、魔女はワードナの腕の中にあった。
―なんだ、簡単なことではないか、夫が主導権を握ることなど。
まるで予定調和の世界のできごとのように、難しいことなど何もない。



「―ダークゾーンでは恋人同士は手をつなぐこと…迷子になるから?」
「迷子の他にも、そうしないと不運が近づくから、という伝承もあるよ」
司教スティルガーは、大真面目な顔でメモを確認した。
昨日一日姿が見えないと思ったら、リルガミンの図書館で古い伝承を調べていたらしい。
ダジャはため息をついた。
この太っちょ司教の悪いところは、そういう知識を蓄えるだけ蓄えてちっとも実行しないことだ。
現に「ダークゾーンのルール」を詳細に語りながら、ダジャの手を握る素振りもみせない。
…あるいは、スティルガーにとって自分は恋人ではないのだろうか。コンビを組んで随分となるのに。
「子供のおとぎ話のようでも、馬鹿には出来ないよ。多くの伝承の真髄は、何でもないところに伝わっている」
相方のため息に、スティルガーはむっとしたように反論した。ダジャがイラついている意味がてんで分かっていない。
「はん、お次は<暗黒城>のお話でもしてくれるの?」
ダジャは思わず挑発的な声音で返事をした。言ってから後悔する。
女がてらに盗賊稼業などしているから、言葉使いがつい荒っぽくなってしまう。
「……<魔道王ワードナ>だって、ついこないだまでは、子供のおとぎ話だったさ」
ダジャは沈黙した。
ワードナ! たしかにおとぎ話だった。
<悪の大魔術師>は、リルガミンに生まれた子供たちにとって「怖いもの」の代表格だった。
それが地下迷宮の深くから黄泉返り、地上に復讐の手を伸ばしてきたとは!
リルガミンの議会がワードナとその配下の魔物退治に報奨金を出したときは苦笑したものだが、いざ迷宮にもぐってみるとわかる。
この迷宮は、以前とはまったく別物だ。徘徊する魔物がケタ違いに多く、また強くなってきている。
<魔道王>は本当に復活したらしい。―ダジャはもう一度ため息をついた。
(そろそろ司教と盗賊の二人だけでうろつくのが危険になってきたわね)
今度のため息にはスティルガーは追求してこなかった。微妙に察するところがあったのだろう。
こんなに鋭い男なのに、色事については不具者かと思うくらいに鈍い。いつかあのふくよかな頬っぺたを引っかいてやろうと思う。
「まあまあ、随分とウブな話じゃないのさ、お二人さん」
突然、物陰から女の声がかかり、二人はぎょっとした。

「くっくっくっ、<ダークゾーンのルール>に<暗黒城>。迷宮の中階層で語るにはのんびりしたお話だねえ」
岩の陰から出てきたのは、忍者の装束に身を包んだ女だった。―ただし、下半身だけが裸だ。
黒々とした陰毛とその下が汗と別の粘液で濡れ、ゆらめく松明の光に妖しく映えている。
あきらかに、今の今まで男との性交に励んでいたという格好だ。ダンジョンの中で大胆な、というより異常な性癖だ。
「アイリアン―」
ダジャは眉をしかめた。
冒険者パーティー<雷電攻撃隊>の前衛の忍者・アイリアンと、ダジャは仲が悪い。
悪の忍者と中立の盗賊という微妙な職業関係もあるが、本質的に水と油だ。
勝気なところだけが似ているのも不和の原因になる。
女忍者がこんな格好で人前に出てくること自体、ダジャに嫌悪感を抱かせる。ここは迷宮なんだぞ。
「ちっ、垂れてきちまった。―あの馬鹿、出しすぎだよ」
アイリアンは舌打ちをし、懐を探った。薄紙を何枚か取り出して自分の下肢にあてがう。
立ったまま腿を広げ、薄紙を自分の性器にあてがう。
ぬぐう、というより中から掻き出すようにして荒々しく何かをふき取る。
数メートル離れていても鼻の利くダジャにはそれが精液だということがわかった。
「ちょっと、こんなとこで何やってるのよ。―変態!」
「はん? <雷電攻撃隊>は現在休憩中さ、何をやってようが、お前に文句つけられる筋合いはないさね」
アイリアンはぎろりとダジャをにらみつけた。
「―姐さん、もめ事ですかい?」
暗がりから他の声がした。ひげを生やした赤毛の盗賊・マーリンがにやつきながら出てくる。
その股間で哀れな悲鳴が上がった。―フェアリー、小妖精の雌が盗賊に押さえつけられてもがいている。
マーリンの下腹部に下肢をぴったりとあてがわれた格好と、フェアリーの流す血の涙で何をされているのかが分かる。
マーリンはこの階層に住み着く小妖精を捕らえて背後から犯しているのだ。
魔物とはいえ、小さく華奢な少女の姿の小妖精を性欲処理の道具に使う姿は鬼畜そのものだ。
万事荒っぽく、また倫理観も外れやすい冒険者たちの中には、女の姿をした魔物に好んで襲い掛かる連中が多いし、
実際性行為に及ぶ者も少なくない。だが、<雷電攻撃隊>はその中でも飛びっきり不道徳な一団だ。
「なんでもないさ。うぶな寝んねぇをからかっているだけさね。―そろそろ出発するよ」
「あいよ、いま終わらせまさあ!」
マーリンは片手でつかんだフェアリーの腰をいっそう激しく動かした。
しばらくそうした後に、うめき声を立てて小妖精の中に放出する。
フェアリーは悲鳴を上げてぐったりした。マーリンはずるりと音を立ててそれを自分の男根から引き抜いた。
30センチほどの小妖精は、性器も小さい。そこから大量の精液が血とともに逆流する。痛々しい眺めだ。
マーリンはにやにや笑いながらそれを見ていたが、突然フェアリーをつかんだ手に力をこめた。
このモヒカン刈りの大男は、盗賊のくせに一流の戦士並の膂力がある。
ぐしゃり、という嫌な音がして、フェアリーは握りつぶされた。
「―あんたねえ!」
さすがにダジャは抗議の声を上げた。
「お、やるか?」
マーリンが好戦的に挑発した。ダジャはこの男とも仲が悪い。
「―やめておけ。ダジャはともかく、スティルガーは手ごわいぞ」
背後から落ち着いた声がかけられる。3人目の人影だ。
「雷電―」
<攻撃隊>のリーダーは穏やかな風貌だ。愛用の鬼面の兜とは好対照である。
性格も、いかにも中立の侍らしく常識的なこの剣士が、冒険者屈指の変態集団の領袖とはおかしな話ではある。
「そうさね、そこのでぶっちょは戦闘になるとやたらと知恵が回る。六対二で戦っても、こちらもまず二人は殺られるね。
あたしと雷電は死なないけど、あとの四人のうち二人のうちにお前が入らないとは限らないよ」
アイリアンがしれっと同意する。パーティーの実力者二人の指摘にマーリンはたじろいだ。
「いや、別に、本気でやりあおうとは―。俺もうぶな寝んねをからかっただけでさあ―」
「ま、そんなことはどうでもいいさね。他の連中は?」
一触即発の雰囲気を見事に収めた女忍者は、さりげなく他の話題を振った。
「オーレリアスはジンスとお楽しみ中でさあ。テレコンタールはセラフを虐めて遊んでました」
悪の女魔術師は中立の戦士と肉体関係にあり、悪の僧侶は低級な天使を淫虐のえじきにすることを好んでいる。
アイリアンは片方の眉をあげてマーリンに顎をしゃくった。
「そろそろ出発するよ。5分で終わらせるように3人にお言い」
「了解でっさ!」
この場を離れたがっていた大男の盗賊はさっと消えた。
もめ事は好きだが、自分が死ぬ可能性があれば話は別ということだ。
「すまんな。荒っぽい連中でな」
侍が軽く頭を下げる。
「そう、あんたが悪い。迷宮の中なのに、こんなにあたしの中に射精するから」
アイリアンは、ようやく精液をふき取り終えた薄紙を雷電に突きつけた。会話しながら今までその作業を継続していたらしい。
数枚の薄紙は、どろどろの粘液を吸い込んで、手の平大の塊になっていた。
「それが、どうしてもめ事の発端になるのかな?」
侍は心外だ、と言わんばかりに顎に手を当てた。
「簡単なことさ。こんなにいっぱい―しかも奥のほうまで出されたのをふき取るのには時間がかかる。
その間の暇つぶしにそこの子猫ちゃんに声をかけてたら、このざまさ」
アイリアンの論理はむちゃくちゃだが、雷電はなるほど、というようにうなずいた。
この辺の関係はよく分からない。傍から見るほどに雷電が尻に引かれているというわけではないようだが。
「まあ、いずれにせよ、この場は別れたほうがよさそうだな。今のはなかった事にしてくれるとありがたい」
雷電は鬼面の兜をつけながら言った。
「そちらが構わなければ、それでいいよ」
スティルガーが答えた。
「じゃあ、そういうことにしようか」
ダジャも頷いた。アイリアンとは口げんかくらいがちょうどいい。
「そうさね、見たところそっちは北へ、こっちは南へ、だ。お互いダークゾーンへ消えるとしよう」
真新しいふんどしを締めながら女忍者は言った。
「―ま、そっちは善の戒律らしく<ルール>にのっとってお行儀よくおやり」
情夫とともに物陰に消えるアイリアンの言葉に、ダジャは一瞬首をかしげた。
「―こっちは手なんかつながないよ。お前たちは仲良くお手々つないで仲良くお行き、ってことさ、寝んねちゃん!」
ダジャは真っ赤になって突進しようとしたが、悪のパーティーはすでに姿も形もなかった。
「―もうっ!」
きびすを返して戻ってくると、ダジャは怒りと勢いにまかせて行動した。
「そんなに言うならやってやるわよ。―<ダークゾーンのルール>!」
女盗賊は司教の手をつかんだ。スティンガーが目を丸くしたが、ダジャは構わず相方の手を引っ張り、闇の中へ突進した。

「―あの…」
「何よ、文句あるの!?」
ダークゾーンの中でスティンガーは何度かダジャに声をかけたが、女盗賊は質問その他を一切拒否した。
手はつないだままだ。かれこれ二時間は、こんな風にして歩いている。
「いや、…何かおかしくない?」
でぶっちょ司教は、何度目かにようやく決心がついたというように言った。
「だから、何が?」
たしかに今日の自分はおかしい、とダジャは思った。でもそろそろ決断のときだ。
結果的に、いけすかない女忍者が背中を押してくれたことになる。良くも悪くも今日結果を出そう。
振られるかもしれないが。
「いや―ここはどこ?」
その指摘に、ダジャは凍りついた。
―この辺に抜けきるのに二時間以上かかるダークゾーンはないはずだ。

スティルガーはデュマピックの呪文を唱えたが、結果は不明だった。
「とにかく歩くしかないね」
眉をしかめて司教は立ち上がった。軽くパニック状態に陥っていたダジャはその一言で少し落ち着く。
スティルガーは普段ぼんやりしているが、いざとなるとものすごく頼りになる男だ。
幸い、キャンプ後すぐにダークゾーンは途切れた。
しかし、闇を抜け出た先は、見たこともない風景だった。
―巨大な城塞の中。黒い大理石で作られたどこまでも続く回廊に二人はいた。
「な、何、これ―」
ダジャは後ろを振り返った。今の今まで歩いてきたダークゾーンが―なかった。
あわてて見回す視界に、幾重にもそびえ立つ奇怪な尖塔と城壁、宮殿が飛び込んでくる。
すべてが黒大理石か、もっと魔力を持つ黒色の材質で建造されている。
「<暗黒城>―こいつも、おとぎ話じゃなかったんだ」スティルガーが絶望の声を上げた。

「―きっと幻覚よ。子供だましの目くらまし」
回廊の端に座り込んで、ダジャは小さく呟いた。
小さな家に幻の魔術をかけ、御殿のようにみせかける幻術師の話を懸命に思い出す。
「たしかに幻術を含めて、いくつもの強力な魔法がかかっている。でも―幻術が隠しているのはそういう姿じゃない」
スティルガーは探査の魔法を何度も試した末に結論付けた。
この賢者がそういうのならば、それは本当のことだろう。
「じゃあ、本物の<暗黒城>―」
ダジャは泣きそうになった。
「だろうね。とにかく全体を見極めなければ脱出の可能性はゼロだ。あそこに登ってみよう」
司教は、ひときわ大きな宮殿を指差した。



魔女の唇は、柔らかくて甘かった。
なにか特殊な口紅か香料でも使っているのかと思っていたが、どうやらそうした様子はない。
もっとも唾液がマディの魔力を持つような女だ。唇や吐息そのものが媚薬でもおかしくはない。
口づけしたとき、ちらりとそうした考えが脳裏をよぎったが、悪の大魔術師は自らの欲望に忠実に動いた。
ここは断固としてキスする。―何が起こっても、だ。
おとがいに手をかけ唇を寄せると、魔女は目をまん丸に見開いたが、すぐにうっとりと目を閉じた。
「―んんっ」
キスをしたが、おかしなことは何も起こらなかった。
治癒の効果も起こらなかったし、内臓を焼くような猛毒も生まれなかった。理性を失わせる媚薬の効き目も。
魔女は軽い吐息と小さな喘ぎ声を交互にあげて、ワードナの唇の動きに合わせて応えるだけだった。
―恋人のキスを受け入れる女の、ごくまっとうな反応。
すっかり調子に乗ったワードナは、舌を伸ばして魔女の唇に差し入れてみた。初めての試みだ。
いつもは魔女のほうから情熱的に舌をからめ、求めてくる。
最高級の象牙よりも滑らかな歯の間をすり抜け、魔女の口腔に侵入すると、そこはあっさりと陥落した。
魔女の舌はおずおずと侵略者に近づき、ちろちろと触れることで恭順の意を示した。
傲慢な占領者は、乱暴な動きでそれをからめとる。
それを数度繰り返してから唇を離すと、魔女とワードナの唇の間を唾液が銀の糸となって繋いだ。
それが途切れるより前に、ワードナは次の行動に入った。
魔女の肩をつかんで、すぐ前にある寝台に押し倒す。
強風に倒される花のように、魔女の体が崩れ落ちた。
「…んっ」
押し倒した魔女の上に乗り、部屋着をはだけに掛かる。
標的を唇から白い首筋に変え、唇を吸い付かせると、魔女の髪のかぐわしい香りが鼻腔いっぱいに広がった。
強く吸うと、簡単にキスマークがつく。
夜な夜な徘徊し、美女に牙の刻印を残す吸血鬼の嗜好が今こそ理解できる。
ワードナは魔女の首筋にいくつも所有印をつけた後で、少し手間取りながら部屋着を脱がすことに成功した。

「あ…」
服を脱がされて魔女は頬を桜色に染めた。
同じ裸になるにしても自分から脱ぐのと、求められて相手に脱がされるのでは、羞恥と満足がまったく別物と言うことがよく理解できた。
配偶者いる者の喜び、と言うものをしみじみと噛み締める。
だが、ワードナは魔女の幸福に構っていられなかった。
魔女の体のパーツをひとつひとつ確かめ、探求することに夢中になっていたからだ。
首筋から離れると、今度は鎖骨のくぼみに触れる。
これはいつも法衣の襟からちらちらのぞいているので気になっていたところだ。
わきの下。ここも気になる。
白いなめらかな腹。へその形がいい。
腰のくびれ。あまりにも理想的な曲線。
一通り冒険を続けてから、ワードナはいよいよ核心にせまった。荒い鼻息をついて、魔女の下着を剥ぎ取る。
魔女の秘所があらわになった。
「むう」
悪の大魔道師は思わずうなり声を上げた。
若草の茂る場所とその下の複雑な地形。まじまじと観察する。
「……」
魔女はもじもじと腰を動かした。下は脱がされたが胸乳を覆う下着のほうは着けたままだ。
下半身だけを脱がされた、全裸よりいやらしい格好でされていることについて何か言いかけようとする。
しかし、夫があまりにも真剣な表情で自分の性器を覗き込んでいるので言葉を飲み込んだ。
魔女の夫は、何かに熱中すると他に目が行かないタイプの典型だ。―胸のほうは日を改めてたっぷりと再探求してもらおう。
実際、ワードナは近年まれに見る熱烈な探究心に燃え上がっていた。
この女の秘所は何度も見ているはずなのだが、どうにもあいまいだ。一度徹底的な学術調査を行う必要がある。―それも今すぐに!
ワードナは、魔女の白い太ももをつかんで左右に割った。
下肢を大きく広げられて、魔女は顔を真っ赤にした。両手で自分の顔を覆う。
妻がまったく無防備・無抵抗なのをよいことに、ワードナは探究心を露骨な手段で満たしに掛かった。
ぐいっと顔を近づける。あからさまな光景に視線が釘付けになる。
「おお…」
ひろげられた魔女の女性器は、薄桃色の肉襞が複雑に重なり合い、その一枚一枚が柔らかそうだった。
女の粘膜を目の前にしたとき、男は本能に忠実に行動するようになる。
悪の大魔術師は、理由は知らないが、もっとこれを調べてみたくなった。
検査の道具は指でもかまわないが、一番いいのは舌だ。当然それを使うことにする。
「…んんっ!?」
突然性器を湿ったもので嬲られ、魔女は自分の手指の隙間から様子を伺った。
―夫が、自分の太ももの間に顔をうずめて、なにかに熱中している。
その姿勢と、子犬が皿のミルクを舐めるような音、それに下腹部に広がる感覚で何をされているのかがわかった。
「……あ…」
背筋を駆け抜けるぞくぞくとした快感と、暖かな満足感に、魔女は、自分が身体を小さく震わせていることに気づいた。
快感に声を上げそうになり、あわてて顔を覆う指の一本を折り曲げて口に含む。小指を噛んで声を殺した。
はしたない嬌声を上げたら、熱心に秘所を舐めている夫が我に返ってしまうのではないか、と恐れたからだ。
彼女の配偶者は、ひどい照れ屋なのだ。
だが、魔女の懸念はまったくの無駄だった。
ワードナは耳元でティルトウェイトをぶっ放しても気づかないほどに熱中していたし、
しかも、さらに大胆な行為をとったので、魔女は結局声を上げてしまった。
悪の大魔術師の舌は、魔女の口腔内でもそうであったように、傲慢に侵入を試みた。
魔女の性器は、たやすく占領された。

―ワードナ軍は、森を抜けた谷間に荘園を発見した。
放浪の末、飢え切り、疲れきった略奪者は歓声をあげて突撃した。
きちんと整備された様子にはげしい抵抗を覚悟していたが、城門は押し問答だけであっさりと開いた。
中に入り込んで、略奪者は驚愕した。そこは別天地だった。
―豊かな水量を誇る綺麗な小川は、汲めど尽きぬ清らかな泉が水源だ。
―種を蒔けば豊かな収穫が約束されている豊穣の大地が果てしなく続く。
―荘園の一番奥には、みたこともないような美しい宮殿が建ち並んでいる。
何より驚いたのは、そこの住人たちが、優しげに侵略者たちを迎え入れたことだ。
「おかえりなさいませ。―あなたの本拠地に」
城門を中から開いた女たちが、占領軍を取り囲んだ。
綺麗に着飾った美女が、笑いさざめきながら一人ひとり手を引いて荘園の中に招き入れる。
あっという間に占領軍は平和的に解体された。
(りゃ、略奪を―)
一人残された隊長は、おろおろとあたりを見渡したが、何も奪う必要はなかった。
ひときわ美しい女が、取れたてのリンゴが詰まった籠を持って擦り寄ってきたからだ。
「ご自分の物を、改めて奪う必要がありまして?」
略奪者たちの姿を認めると、すぐに城門を開くように指示を出した女は、荘園の管理者で、今は隊長の相手だ。
長い髪をたなびかせて微笑む美女は、薄汚れた隊長に抱きついてキスをした。
豊かな胸を押し付けられながら、隊長は促されるままにリンゴを手に取った。
かぶりつくと、甘酸っぱい果汁が口いっぱいにひろがった。女はにっこりと笑った。

魔女はシーツをぎゅっと掴み、声を上げてのけぞった。夫の舌で達したのだ。
妻を絶頂に導いたワードナは、蜜液を唇から滴らせた。まるで上等の果物の果汁のようにかぐわしい。



「なんてこった…」
スティンガーは絶望の声を上げた。眼下に広がる光景を見れば、どんな冒険者もそうなるだろう。
宮殿には、巨大な広間があった。リルガミンがすっぽり入りそうな大広間には、魔物で満ち溢れている。
大きい順に壁際から、魔人や竜や得体の知れない化物どもがきちんと並び、身じろぎもしない。
最も中央に近いのは、最も体の小さい魔物―そろいのお仕着せに身を包んだ女どもだ。
サッキュバスやビューティ、スライニンフたちが、裸ではなく小間使いの格好で整列しているのは冗談のようだが、
司教は、まったく笑うどころではなかった。
あの壁際の魔人一匹で、大陸一つを楽々と壊滅させる。いわんや、自分たちなど!
絶望しきって目を向けた広間の中央に、もっとも恐ろしい存在がいた。
長い髭をもつ、老魔術師―<魔道王ワードナ>。
「ほんとうに、ほんとうにいたんだ…」
ダジャが震えながらしがみついてきた。

ワードナは奇怪な行為を行っていた。
一片が数十メートルもある巨大なテーブルの上に、裸の女を乗せ、その太ももの奥に顔をうずめている。
魔術師の王が頭を動かすたび、女は身をくねらせた。
「女妖魔が集めた精をすすっているのよ。ああして邪悪な力を蓄えてるの―」
ダジャは、昔読んだ魔族の本に書かれていたことを思い出して言った。
髪を乱して悶える女妖魔は、サキュバスたちに囲まれても桁違いに美しく、淫らだ。淫魔たちの支配者にちがいない。
<魔道王>は淫魔の女王を愛人にしているのだ。
「―ひっ!」
ダジャが声を上げた。―いつの間にか、二人はサッキュバスたちに囲まれていた。
「何よう!―近づかないで!」
ダジャは涙声で言った。
お仕着せの小間使い服に身を包んだサッキュバスたちは、美しい顔に淫らな笑みを浮かべている。
取り囲んだだけで一向に手出ししてこない理由を考え、ダジャははっとした。
サッキュバスたちは、スティルガーを狙っているのだ。
実際、サッキュバスたちは、怪しげに乳や尻を揺らめかして静かに司教を誘っていた。
抱きついているダジャは、スティルガーの股間が盛り上がってきたことを感じた。
「―この、馬鹿!」
不意に怒りとともにファイトが沸いた。太っちょ司教の顔を引っかく。
「な、何を―?!」
サッキュバスたちに魅入られかけたスティルガーが我に返る。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿! ―あたしの気持ちに気づかないくせに、淫魔どもには色目使って!」
男に対してむちゃくちゃな論理を展開するのは、アイリアンだけのお家芸ではない。
ダジャはスティルガーの唇に口付けした。淫魔どもが目を丸くするほど情熱的なキス。
周りをとりかこむ強力な敵たちにかまわず、女盗賊は司教に飛び掛った。勢いよく司教の服を剥ぎ取る。
スティルガーの先端を取り出したとき、ダジャは後ろを振り向いて大声で叫んだ。
「―これは私のだからね! あんたたちなんかに渡すものか!」
宣言して正面を向き直ると、広間の中央では、<魔道王>が女妖魔の上にのしかかるところだった。
女妖魔は声をあげて魔術師を迎え入れている。
その悩ましい淫声を聞きながら、ダジャは、自分の中に愛しい男を迎え入れた。
―破瓜の小さな痛みは、すぐに宮殿に満ちる淫気にまぎれた。
声を殺しながらスティルガーの上で弾むダジャは、いつの間にか淫魔たちが波が引くように消えていったことに気づかなかった。



―翌朝、魔女は目覚めるとベッドの上で大きく伸びをした。
たっぷりと愛された次の日は、世界のすべてが素晴らしいものに思える。
隣で眠る夫を大地の母よりも優しい目でみつめ、ベッドから降りる。
―昨日はうんとがんばってもらったのだから、朝食は栄養いっぱいのものにしなきゃ。
水を汲んでこようと小屋のドアを開ける。
「あら…?」
―そこに、抱き合って眠っている若い冒険者の男女を見つけて、魔女は眉をひそめた。

気配に気がついて飛び起きたダジャは、黒大理石の回廊に立つ美女をみて悲鳴を上げた。
「―女妖魔! …<魔道王>の愛人!」
女盗賊のことばに、魔女はよろめいた。少なからぬショックを受けたようだ。
―まるで<ダイヤモンドの騎士>の装備をすべて身に付けたロードが、無知な者から「村一番の戦士様」と呼ばれたかのように。
「あ、……愛人? …私が」
魔女はこめかみを押さえた。眼を閉じて大きく深呼吸を繰り返す。
その不本意そのものの表情に、冒険者たちは、悪の実力者たちに関して流布している噂を思い出した。
(…悪魔や妖術師は、高位になればなるほど、その関係は謀略と淫蕩にまみれていると言う…)
(―たぶん、この女妖魔は、本当はワードナの隙を狙っている敵対者で、その愛人と呼ばれて怒っているのだ)
自分の不用意な一言が相手に与えた屈辱感を想像して、ダジャは真っ青になった。
―たしかに屈辱は屈辱だ。魔女は深呼吸を七回くりかえし、口の中でぶつぶつと呟く。
「……愛人、情婦、セックスフレンド。―これも考えようによっては、正妻の下位職業と言えなくはないわね。
まあ、愛人と見紛うくらいに情熱的なのは悪いことではないわ。―特にベッドの中では」
失礼な一言ではあるが、すぐさま報いを受けさせるほどの無礼ではない、という判断をつけた。
―ものすごく気分のいい朝に、大虐殺には向いていない。
目を開けた魔女に、冒険者たちがすくみ上がる。
「それで、こんなところで一体何をしていたのかしら? ……って、あら?」
魔女はすんすんと上品に鼻を鳴らした。この女はおそろしく鼻が利く。
「殿方の精汁と、女の蜜液。それに―破瓜の血の匂い。…そういうことをしていたのね」
恐怖も忘れてダジャは真っ赤になった。
「―あなたたち、夫婦?」
女妖魔はとんでもない質問をした。
「―そうよ! ずっと恋人だったけど、昨日から夫婦」
司教が何か言う前に、女盗賊は言い切った。ここで死ぬのなら、言っておかなければ地獄で後悔するだろう。
魔女はくすくすと笑った。相手は無礼な侵入者から、隣の若奥様に変わった。だったら出歯亀くらいは許してやろう。
「そう。じゃ、お祝いしてあげる」
魔女は指を軽く振った。
「その角を曲がって、ダークゾーンにお入りなさい。元の場所に戻れるわ」
「―?!」
「それと、もう一つ。安産と多産の魔法をかけてあげたわ。
 もちろん、今、貴女のおなかの中にある子種も無事着床したわよ」
ぎょっとするスティルガーを、魔女はじろりと睨んだ。
「何か不満でも?」
「い、いや」
「この娘、貴方のいい奥さんになるわよ。大事になさい―いろんな意味でお腹を膨らませてあげてね」
スティルガーはすばやく頭の中で考えをまとめた。
現実家の司教が冒険中に集めた蓄えは、すでに金貨で何百万枚にものぼる。
引退して農場でも買えば、今すぐにでもダジャと子供の2−30人も養っていけるだろう。
「―う、うん。」
「―よろしい、ではお行きなさいな」

脱兎のごとく逃げさった冒険者たちを見送り、魔女はにっこりと笑った。
ダークゾーンに入るとき、男は女の手をしっかり掴んでいた。
<ルール>をちゃんと守っている。なかなか前途有望な夫婦だ。



あっと言う間に朝食を用意し、ようやく起きあがってきた寝ぼすけさんと一緒に食べる。
照れ隠しでむっつりと黙っている夫に、いろいろと話しかけ、出発の準備をして小屋を出る。
ダークゾーンの手前の曲がり角まできて、悪の大魔術師は立ち止まった。
何かを決めかねているようにうろうろと歩き回る夫を優しく横目で眺めてから、魔女は不意に後ろを振り返った。
…素敵な一晩を過ごした小さな小屋が見える。
魔女が口の中で呪を唱えると、それはたちまち途方もなく巨大な黒い城に戻った。
(ごめんなさいね。窮屈な思いをさせて。―わが殿が、まだいらないと言うから、ちょっと姿を変えてもらったわ。
 それに新婚旅行中の夫婦には、大きなお城より、指が触れ合うほどに狭くて二人しかいないお部屋が必要なの。
 そのうち新居に使わせてもらうから、少し待っててね。―子供が出来たらすぐに広いお家が必要になるもの)
<暗黒城>は、主人の言葉にうなだれたように沈黙した。
魔女が作ってからこの方、ずっと住み手が不在のまま幾星霜が過ぎた。
だが、今は希望がある。魔女の新婚旅行が終われば、<暗黒城>は住み手を得るのだ。
その日まで気長に待つ。
暗闇を吐き出して姿を消しながら、世界最強の魔宝は約束の時のことを想像して打ち震えた。

―ワードナはようやく決心を固めた。
決然として魔女に突進し、憤然として手を伸ばし、轟然として魔女の手を取った。
魔女は当然と言うように夫の手を握り返した。
<ダークゾーンのルール>を忠実に守りながら、二人は暗闇に入っていった。
たぶん、二人には今日も何かいいことが起こるだろう。